煙突掃除のフリック 第十一話
尾行して来るサリエルを反対方向の列車に乗せる、母の奇襲を見破ってサリエルを地下室に隠すなど、エレーヌは想定出来る状況に対しては有能な策略家で、自分でも自信を持っていた。
しかし。エレーヌは想定出来ない急な状況変化には弱かった。
今のエレーヌが思いけたのは、とにかく一刻も早くいたずら小僧を見つけ出し、自分の重大な秘密の一つである変装用のつけ髭とかつらを回収し、小僧に口封じをするという事だけだった。
背後から追るアンドレイの気配を気にしつつ、エレーヌは一階の隠し通路へと繋がる、狭い通風孔の梯子を登る。
エレーヌは考える。あの小僧は何故これ程驚かせても追い回しても、屋敷の中を這い回り続けるのか。そして何故、ナッシュのかつらと付け髭を盗んで行ったのか。
その頃フリックは隠し通路で道に迷っていた。早くもう一方の煙突を掃除してしまいたいのだが、暗く狭い通路を何度も曲がるうち、どちらがどちらだったか解らなくなってしまった。
この屋敷には中央のダイニングにも暖炉があった。先程は化け物みたいな奴に追われ、それとは知らず転がり出てしまったが。
食事の途中だったようだし、多分あの暖炉は今は掃除をさせてもらえないだろう。
この屋敷には明日も来る事になるのだろうか? それとも食事が終わるまでどこかで待って、何とか今日のうちにやってしまおうか。
「ああ、また隠し扉がある……ちょっと表に出られないかな、ここがどこだか全然解らなくなっちゃったよ」
フリックは三十センチメートル四方程の小さな隠し扉に気付き、そこから這い出る。
その先は押入れのような天井の低い狭い空間であると同時に、酷い臭いのする場所だった。
「うわっ……何の臭いだよ、これ……」
腐敗した酢のような臭いが、フリックの鼻を刺す。まあフリック自身は全身から酷い煤の臭いを発しているのだが、誰でも異種の臭いには弱いものである。
フリックは勿論、現像液などという言葉すら知らなかった。
「こりゃ間違った所に出たみたいだ、貴族の屋敷の主人が、こんな臭いのする所に居る訳が無いよな……」
フリックはそう呟きながら、小さなろうそくランプで辺りを照らす。
辺りには薬品のビンや大きな四角い皿などが置かれている……そしてここはやはり物入れのようで、一方に扉がある。
「うう、臭い。一度外に出たいなあ」
フリックは引き戸を開け、まずはこの押入れから出る……しかし出た先の部屋も、二メートル四方程の狭い部屋だった。そして。
「ヒッ……何だこれ……」
その狭い部屋の壁は、扉のある一面を残して、写真で埋め尽くされていた。
フリックは写真を知らない訳ではなかったが、狭い部屋の中でこれ程多くの写真に取り囲まれたのは、勿論初めてだった。
そして写真は全て人物写真で、写真の人物は全てがカメラ目線だった。すなわち、それに取り囲まれたフリックは、壁じゅうの写真から睨まれているような心地がした。
写真は無数にあったが、殆どの写真は同じ、金髪の女性を写した物のようだった。同じ人物なのだが……一枚ごとに何か少しずつ違う。フリックは子供なので、それが少しずつメイクが違うのだという事には思い至らなかった。
その他には数枚、黒髪の男性の写真がある……フリックは子供なので、それが本当は女性の写真なのだという事にも思い至らない。
フリックは何気なく、その写真の一枚を手に取る。この金髪の女性はどこかて見た事がある……あれは確か……
少年が、そう考えた瞬間だった。
――ドサッ!!
少年が気づかぬ間に、そっと開いた天井板の隙間から。
何者かが飛び降りて来て、そのまま少年を背中から床に押し倒した。
「ぎゃ……」
フリックは悲鳴を上げようとしたが、その口はたちまちのうちに塞がれていた。
少年の額に冷や汗が吹き出す。少年は体中の力を振り絞り抵抗するが、捕食者は完全に少年をその腕で背後から羽交い絞めにし、その脚で少年の胴を締め上げていた。
「むむ、むー! むーむー!」
「捕まえましたわ……この悪戯小僧! どのように料理して差し上げようかしら? ごほっ、ごほ……まずは……その煤臭い服を剥ぎ取って差し上げようかしら?」
少年は目を見開き、必死で抵抗するが、捕食者の力は強く、その腕は外れなかった。
「むむー! むーむー!」
「うるさいわね。いい? 私はエレーヌ・エリーゼ・ストーンハート、この屋敷の主人よ」
どうにか振り向いたフリックがちらりと見たその捕食者は、緑色の頬被りをした、とても屋敷の主人には見えない人物だった。
「むむっ! むうむう!」
「いいわよ、手を放してあげても。だけど、騒ぐんじゃないわよ? 騒いだら……私、何をするか解らなくてよ?」
フリックは何度も頷く。それでエレーヌはようやくフリックから手を離す。
「まず、そのバケツを寄越しなさい」
それはフリックの大事な商売道具だったが、背に腹は代えられない。目の前に居るこの人物は、逆らったら何をして来るか解らない。そしてこの状況では、いくらすばしっこいフリックでもどこにも逃げられはしない。
フリックは震える手で煤だらけのバケツを差し出す。しかしエレーヌはバケツそのものは取らず、中に放り込んであったかつらと付け髭だけを取る。
「何故、このかつらと付け髭を盗みましたの?」
「ヒッ……え……あ……だって……暗い通風孔に放り出してあるから、誰かが捨てた物だと思って……」
エレーヌは頬被りを解く。風呂敷の中にまとめてあった長い金髪が毀れ、その狼犬のような青灰色の瞳も露わになる。
フリックもそれを見た。これが屋敷の主、伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハート……
「あっ!」
フリックは思わず叫んでしまった。
エレーヌはたちまちフリックを睨み付け、その肩を掴み顔を引き寄せる。
「騒ぐなと申し上げたはずですわ」
「あ……貴女は先月、風船に乗って戦勝記念通りのロータリーを飛んでいた……」
フリックは声を落とす。そうだ。この狭い部屋の壁に所狭しと貼ってある写真のほとんどを占める金髪女性もこの人だ。
「すごいや、そんな有名な人に会えるなんて。でもなんでこんなにたくさん写真があるの? それもこんな狭い所に。おいら写真なんか撮ってもらった事無いよ」
エレーヌはまだフリックの肩を掴んでいた。フリックも、いつその手を離してくれるのだろうと気を揉んでいたが。
「あ、あの……おいら煙突を掃除したいんだけど……だめなの?」
「大事なお客様が来ている時に……廊下や絨毯を煤だらけにしたのは……どなたかしら?」
「あ……おいら煙突掃除だから、その、散らかっちゃうのは仕方なくて……」
「鎧立てを倒したり、かつらを盗んで行ったりして、大騒ぎして私を追跡に駆り出したのは……どなたかしら?」
「鎧はとにかくびっくりして……あんな立派な鎧なら、表に飾ればいいのに。かつらはだからその、要らないなら煙突掃除に使わせてもらおうかと……」
「そして煙突掃除をすると言いながら……煙突とは無関係のこんな所にまで入り込んで、私の秘密を見てしまったのは……どなたかしら……」
暗闇の中。エレーヌの狼犬の瞳が、歪めた口元からのぞく白い歯が、光る……
「え……あ……あの……むぐ! むーむー!」
エレーヌは再びフリックを後ろから抱え込み、その口元を上着の袖で塞ぐ。そして消極的な抵抗を試みるフリックを小脇に抱えるようにして、この狭い部屋の扉から出て行く。




