煙突掃除のフリック 第一話
この小説は「伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートには血も涙も汗もない」の続きとなります。
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未読の方はどうか是非、前作からお読みください。m(_ _)m
十一月が迫っていた。日に日に夜が早くなり、落葉樹の葉が黄色く染まって行く。
カトラスブルグ郊外にある、オーギュスト・ストーンハート伯爵の屋敷の正門では、筆頭庭師のエドモンが、新聞を広げつつ、正門の番をしていた。
そこへ、道の向こうから……服も顔も真っ黒な、十歳ぐらいの少年がやって来る。
それに気づいたエドモンは新聞から目を上げ……眉間を顰める。
「大将! 煙突掃除の用事は無いかね!」
少年は歳よりもかなりませたような口ぶりでエドモンに声を掛けて来る。少年は真っ黒なバケツに真っ黒な雑巾を突っ込んだ物を持ち、真っ黒なデッキブラシを担いでいた。
「最初からそんな格好で来る奴があるか。どこかで一仕事した帰りじゃないのか」
「仕事着が一着しか無いんだ」
「それじゃあ仕事を貰えないだろう、誰だってそんなに真っ黒な奴を家に上げたくないもんだ……第一お前さん、ワイヤーブラシは持ってないのか?」
「おいらはちゃんと潜り込んで磨くのさ、他所のやつよりきれいが長持ちするよ! おいらが汚いのは、煙突を綺麗にしてる証拠さ」
幼い煙突掃除人だが、営業の腕は悪くない。そう思いエドモンは苦笑いをする。
「去年までやってた奴が、今年はまだ来ないんだよな……よし、試しに俺の長屋の煙突をやってもらおうか、それで上手いようだったら屋敷の煙突も任せよう」
◇◇◇◇◇
「お嬢様ー!」
伯爵屋敷のメイドの一人、サリエル・サルヴェールは女主人を探し回っていた。
サリエルは女主人の一つ年上で十八歳。黒の短いボブヘアで、170cmの長身だ。
サリエルは女主人の側仕えを担当しており、なるべくその近くに居て用事を聞くのが仕事なのだが、気まぐれな彼女の女主人は、時々サリエルを置き去りにして姿を消す事がある。
彼女の女主人は、伯爵令嬢エレーヌ・エリーゼ・ストーンハート。オーギュスト伯爵の一人娘で、留守の多い父に代わりこの屋敷を預かっている。
エレーヌの居住区は屋敷の二階の一角にあった。広い廊下から、両開きの扉を開けばまずホールがあり、左に曲がって扉を開けば、明るくがらんとした控えの間が。そこを右に進んで扉を開くと、広々とした華麗なリビングルームが現れる。寝室や書斎、浴室などはそこからまた奥にある。
サリエルは納戸の中まで確認する。寝室や書斎などはとっくに見た。美しい伯爵令嬢には若干の奇行癖があり、サリエルなどはそれを特によく知っていた。
悪戯用のウシガエルを探しに行ったかの? 地下室で段平刀を振り回しているのか?
「お嬢様、そちらですか?」
サリエルは半ば冗談のつもりで、納戸の中にあるクロゼットの扉を開ける。
「ぎゃあああああああ!!」
「きゃあああああああ!?」
伯爵令嬢。エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートは、窓の無い納戸の中の、さらに扉の奥のクロゼットの中に居た。
「申し訳ありません! お嬢様! お許し下さい!」
メイド姿のサリエルは頭を抑えて納戸から飛び出す。
その後ろから。狼犬のような薄い青灰色の瞳の、サリエルと同じくらい背の高い少女が、長いストレートのプラチナブロンドを靡かせながら飛び出して来る。
この乗馬鞭を振りかざし、メイドを追い回しているのが伯爵令嬢、エレーヌ・エリーゼ・ストーンハートである。
「そこへ直りなさいこのすかぽんたん! 私が見えない時にそこらへんの扉を勝手に開けるなと、申し上げたはずですわ!」
エレーヌが振り回した乗馬鞭の先が、屋敷の階段の樫の手すりに触れる。その鞭には木片が飛ぶ程の威力があった。
「お許し下さい! お嬢様! お許しを!」
「そこへ直れと申し上げてるでしょう! 待ちなさい!」
騒ぎを聞きつけ、執事長のディミトリ、ベテランメイドのヘルダなども集まって来る。
「お嬢様、お許し下さい、それに暴力はいけません」
「お嬢様、サリエルが何をしたのですか」
二階のエレーヌの部屋の納戸のクロゼットから、一階廊下の行き止まりの隅まで追い詰められ、これ以上後ずさり出来ず、涙ぐむサリエル。
エレーヌは振り上げた乗馬鞭を持つ腕を、ヘルダに押し留められていた。
「ふん。貴方達に写真術の何たるかを説明をしても仕方ありませんわ」
エレーヌは鼻を鳴らし、鞭を下ろしてそう言った。
「本当に私、世界一可哀想な伯爵令嬢ですのね。ゼラチン乾板とかロールフィルムとか申し上げても、世相に疎い田舎者の貴方達には何の事かも解らないのでしょう……とにかく、そこのあんぽんたんが現像室の扉を開けたせいで、私の芸術写真がすべて台無しですのよ」
そう続けると、エレーヌは肩を落としながら背中を向ける。
「お嬢様……」
サリエルは小声で呼びかけるが、エレーヌは無言で二階に戻って行った。
エレーヌが最近、写真を撮り始めた。最新のロールフィルムを使うカメラと、乾板を使う大型カメラを買って来て、屋敷の中やら庭やらを撮って回っている。
それだけなら良いのだが、室内で写真を撮る時に「フラッシュ」だと言ってマグネシウムか何かの化合物を派手に燃やす。これがまた小火を出しそうで怖い。
そして今度は、納戸やクロゼットを現像室だと言い出す。これではうっかり下手な扉を開けられない。
◇◇◇◇◇
「何故急に、写真術などに傾倒されるようになったのかしら。ついこの前まで窓辺で詩集ばかり読んでらしたのに」
ヘルダが廊下にモップをかけながら愚痴る。
サリエルはすっかり落ち込んだ様子で、ヘルダがモップを掛けた後を乾拭きしていた。
「私にもよく解りませんの……お父様の趣味という訳でもありませんのに」
「以前は写真術も知識人の趣味でしたそうですけど、近頃では一職業でしかないのではないかしら。変な臭いはするし……淑女に相応しい趣味とは思えませんわ」
そんな事件のせいもあり、メイド達は掃除などでエレーヌの区画に入る時は、なるべく余計な所を開けたり覗いたりしないようになった。
◇◇◇◇◇
二日後の、夕方。
休日に当たるこの日、エレーヌは日中馬車で出掛けていた。普段であれば外出には側仕えのサリエルを伴うのだが、この日サリエルは置き去りにされた。
そうして、帰って来るなり。
「今夜アンドレイ・アンセルム・ローゼンバーク男爵がお越しになられますわ。正餐の準備をして下さるかしら?」
エレーヌは、伯爵屋敷のロータリーまで馬車を迎えに来たサリエルに平然とそう言い放ち、何事も無かったかのように屋敷の自分の区画へ向かう。