君の為にできること
ひび割れたタイルに水をぶっかけデッキブラシ乱暴に磨く。
古びて黄ばんだ便器に洗剤をぶち込み、トイレブラシで掻き回す。
深夜12時過ぎのトイレ掃除は、眠いやら馬鹿らしいやらでついつい作業が雑になる。ナムは掃除道具をロッカーに投げ込むと、八つ当たり気味に扉を閉めた。
「あの野蛮女!1,2回掃除サボったくらいで大騒ぎしやがって、なんでこんな夜中に便所掃除しなきゃなんねーんだっつの!」
ブツブツこぼしながら火星基地のレトロなトイレを後にする。
掃除が済めばすぐにでもベットに潜り込むつもりだったので、上着は何も羽織ってない。刺すような寒さが身にしみた。
自室へ向かう途中、上の階へ向かう階段前でナムはふと足を止めた。
何か白いモノが暗闇の中ぼんやりと佇んでいる。
一瞬、ユーレイかと疑った。こんな古くてボロい基地では、この世に在らざる者がいたっておかしくない。
正体にはすぐにわかった。白い物体はナムに気付いてこっちを向いた。
白いカーディガンを羽織った部屋着姿のフェイが、緊張していた表情を幾分和らげた。
「何してんだお前?」
「トイレに行きたくなって、目が覚めたんだ・・・。」
「あぁ、トイレだったら掃除済んだから使っていいぞ?」
「う、うん・・・。そのつもり、だったんだけど・・・。」
フェイは怯えた目を階段上に向けた。
「この上から、変な声が聞こえるんだ。なんだか呪文みたいなもの、唱えてる感じで・・・。」
言い終わらない内に、ナムは走り出していた。
階段を2,3段飛ばしで一気に駆け上がる。
3階のテラスへ出る扉前の、ガラクタだらけの最期の踊り場。やっぱりそこに、モカがいた。
「・・・大丈夫、もういない、あいつはいない、大丈夫、きっと死んだ、もういない・・・!」
悲しい「呪文」が延々と聞こえてくる。
ガラクタの隅で縮こまり、たった1人で怯えている。
震える体を指が白くなるほど強く抱きしめ、薄い部屋着はもう汗でびっしょり濡れている。
吸い込めば胸が凍るような空気の中で、荒く浅い息づかいが痛ましい。
「ナムさ・・・。!?」
後を追ってきたフェイが絶句して固まった。
ナムは黙って人差し指を口に当て、黙ってるように指示をした。
「・・・もういない、大丈夫、きっと死んだ、いない、あいつはいない、もう死んだ・・・!」
駆けつけた2人に気付いてないようだ。呪文が途絶えることは、無かった。
ナムはそっと歩み寄り、傍らに跪いた。
強く抱きしめたい衝動に駆られた。
力一杯抱きしめて、過去の記憶から開放してやりたい。両手を震えるモカに差し伸べた。
しかし両手は宙で止まり、強く握りしめられた。
今、彼女を抱きしめたら壊れてしまう。そんな気がして怖かった。
(俺に何が出来る?苦しむこの人のために、俺はどうすればいい・・・?)
モカの為に出来ることを探すと決めたのに、まだ何をすればいいのか見つけていない。
こんなに近くに、側に居る自分に気付かない。それほどモカは苦しんでる。
なのにこうして見ているだけ。それが辛く、悲しく、悔しかった。
「ナムさん・・・。」
近づいてくるフェイを、片手で制して止めた。
フェイが困惑している。無理もない。初めてモカのこんな姿を見た時は、自分もひどく混乱した。
ナムは無理に笑って見せた。
「心配ない。俺が付いてるから、お前はもう寝ろ。」
「でも・・・。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の発作なんでしょ?介抱、とか・・・。」
「そっとしておいてやってくれ。誰にも見られたくないから、こんな所で1人でがんばってるんだ。
だからお前、このこと他の奴には言わないでやってな・・・。」
「・・・。」
フェイは頷き、ノロノロと階段を降りかけたが、何かに気が付いてナムの方へ戻ってきた。
自分のカーディガンを脱いで、オズオズと差し出してくる。精一杯の心遣いだった。
「サンキュー。お休み。」
「うん・・・。」
フェイは階下へ降りていった。
ナムはカーディガンを、震えるモカの肩に掛けた。
ビクッと小さく震えたが、モカは顔を上げようとはしなかった。
「・・・きっと死んだ、もういない、大丈夫、あいつはいない、大丈夫・・・!」
モカの呪文は続いている。
呪文を唱えながら、モカは必死で過去の記憶と戦っている。
誰にも知られずに、今までずっと、1人きりで・・・。
「・・・ここに、いるから・・・!」
ナムは思わずつぶやいた。
握りしめた拳により一層力を込めた。
(俺、どうすればいいんだろう?)
1階まで降りてきたフェイは、悲しい気持ちで考えた。
フェイにとって、モカは大切な「姉」だ。
カルメンやビオラも優しいし、サマンサやベアトリーチェも親切にしてくれる。(時々怖いけど。)しかしモカは、フェイが一番欲しい形の優しさをくれる人だった。
火星基地にきて間もない頃、フェイはモカに救われた。
エメルヒがフェイを親族に売り渡そうと企んだ罠に気付いて、護ってくれた。本気で心配してくれて、残酷だけど大切な真実を教えてくれた。
『フェイ君は頭いいよ? 取り柄がないなんて、そんな事ないよ。』
あの日モカが言ってくれた言葉がまだ心に温かい。父に見捨てられ、親族に殺されかけ、時として実の母にも疎まれた自分を認めてくれた。
そのモカが苦しんでいる。
あんなに震えて、あんなに汗だくになって、怯えて、狂ったように「呪文」を唱えながら。
助けてあげたい、何とかしてあげたい。強くそう思うのに、どうしていいのかさっぱりわからなかった。
(俺がモカさんのために出来る事なんて、あるのかな・・・?)
フェイは小さくタメ息付いた。
吐息は白く凍り付き、冷たい空気の中に散っていった。
ふと、物音が聞こえた。古い扉が開く時の、軋むような微かな音だ。
反射的にそっちへ目が向いた。
暗闇の中でパタン、と静かに扉が閉まる音がした。
廊下の最奥にあるのは、局長室。
フェイはしばらく、闇を見つめて立ち尽くした。




