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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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残像

作者: 野原秋人

梅雨の時期の物語

僕は何もない空っぽな部屋を眺めていた。

家具一つないその部屋には、深夜の公園のような静けさが漂っていた。

開けっ放しにしていた窓から入り込んだ独特な匂いが、梅雨の時期の到来を告げた。

外に出よう。と僕は思った。

玄関を開け部屋の外に出て、腕時計を確認すると時刻は深夜三時を指していた。

外はじめじめしていて蒸し暑かった。

ふと空を見上げると、分厚い灰色の雨雲が、月の光を遮るように空を覆っていた。

僕は空を眺めながら、掃き溜めのようなニ十ニ年間の記憶の中から、幼い頃の記憶の一部を取り出した。







おばさんの家は特別新しくはなかったが、掃除が行き届いているおかげか、清潔感のある立派な家だった。

僕はリビングでソファーに座り、お茶を飲みながら丸いテーブルに置かれたクッキーを食べた。

おばさんは微笑ましく僕を眺めていた。


ユウスケは良い子。とおばさんはよく言っていた。

おばさんと言っても血の繋がりはなく、このおばさんは乳児院にいた僕を養子として引き取ってくれたのだった。

そしてそれを隠さず、僕に色んなことを教えてくれた。


自分が本当の親ではないこと。

僕が病院に捨てられていたこと。

ユウスケという名前は乳児院の職員がつけたのだということ。


それだけでなく、おばさん自身のことも僕に教えてくれた。


四年前に夫が交通事故で亡くなったこと。

自分には遠くで暮らしてる息子夫婦がいること。


おばさんは僕に愛情を持って接してくれていた。

おばさんはよく僕にクッキーを作ってくれた。

噛むたびに口の中に甘みが広がる。

とても優しい味がした。

僕はおばさんのクッキーが大好きだった。


それから晴れの日は僕はおばさんと買い物に出掛けた。

ユウスケは来年から小学生だね、友達いっぱい作るんだよ。と買い物をしながらおばさんは言っていた。


僕は幸せだった。

けれど、僕が小学校に上がる三ヶ月前、おばさんが倒れた。




おばさんが倒れてから、僕は一時的におばさんの知り合いの山内さんに引き取られた。

山内さんの部屋にはビールの空き缶やカップラーメンのゴミがたくさん転がっており、ひどく居心地が悪かった。

僕は山内さんの家では基本的にカップラーメンしか食べず、床に隙間を作って眠った。

僕はおばさんのクッキーが無性に食べたくなった。


それから僕は毎日おばさんのお見舞いに行った。

僕はおばさんが入院している病院に着くと、駆け足で階段を上がり、おばさんがいる二階の病室に駆け込んだ。

おばさんは点滴をしていたが、僕がお見舞いに行くたびに、笑顔で僕と他愛のない話をした。

「早くおばさんのクッキーが食べたい!あとね、買い物にも行きたい!それから映画も見たい!だから早く治して!」

僕がそう言うと、

すぐ治るよ。とおばさんは笑顔で言った。


僕はいつも通りお見舞いに行こうと思い、山内さんに病院に連れていくように頼んだら、山内さんは深刻な顔をして、今日はだめだ、と言った。

それから山内さんはテーブルに置かれたタバコの箱からタバコを一本取り出し、ライターでタバコに火をつけた。

その匂いは山内さんの強い匂いと同じものだった。

僕は初めてそれがタバコの匂いだと知った。

「どうして今日はだめなの?」

「おばさん今日は忙しいんだよ。だからだめだ」

「いそがしいってなんで?」

「なんでもだ」

僕は納得がいかず何度も訊き返したが、結局詳しくは教えてもらえなかった。


次の日僕が病院に行き、おばさんのいる病室に入ると、呼吸を助ける医療道具を付けたおばさんがベッドで仰向けになっていた。

僕は驚いて駆け寄り大丈夫か尋ねたら、すぐ治るよ。とおばさんは言った。

けれど、そこにはもう笑顔はなかった。

おばさんは辛うじて聞きとれるくらいの小さな声で、僕と二人になりたいと言った。

山内さんは深く頷いて病室を出ていった。

「ユウスケ。聞いて」

おばさんは真剣な表情でそう言った。

「今の時代ね、誰だってその人なりの苦しみを抱えて生きているけれど、それでも幸せな人がたくさんいるわ。でもね、人生の暗い部分を直視しなきゃならない人もいるの。そういう人の人生ははっきり言って悲惨よ。ユウスケも、もしかしたらこれから人生の暗い部分を見ることになるかもしれない。

でも、絶対に負けないで。

自殺だけは絶対にしちゃいけないからね」

それがおばさんの最後の言葉だった。


僕は山内さんに連れられて、おばさんのお葬式に来ていた。

僕はおばさんが死んだことを受け入れられなかった。

また美味しいクッキーを焼いてもらい、一緒に買い物に行くのだと信じていた。

けれど、棺に入って動かないおばさんを見て、僕の願いは打ち砕かれた。

そこには残酷な現実が横たわっていた。

おばさんは、もういない。

お坊さんが長いお経を唱えている間、僕はまるで赤子のように泣きじゃくっていた。

けれど、どんな悲しみに飲み込まれても、時は止まってはくれない。

山内さんは次の現実を口にした。

「横山さんの息子夫婦がお前を引き取ることになったよ。20代前半の若い夫婦だ」

その時、おばさんの苗字が横山であることを僕はすぐに思い出せなかった。







「ただでさえ狭いアパートなのに、余計なガキのせいでもっと狭くなっちまった」

おばさんの実の息子であるタケルは、そう言って僕を蹴飛ばした。

「あんたの母さん、こんなガキを引き取る余裕があるならアタシらに金よこせっての」

とケイコはおばさんの悪口を言った。

「まったくだ。こいつどうする?殺して山にでも埋めちまえばいいんだろうが、バレたら面倒だしなぁ」

「言えてる。自殺でもしてくれないかしら」

「おいガキ、あんま面倒かけるんなら本当に殺すぞ」

どうやら僕はあまり歓迎されてはいないらしかった。

「それからよ、飯は自分でカップラーメンでも作って食えよ。寝床は押入れだ。文句ねえな?」

家賃の安そうな汚いこの部屋のキッチンの窓から見た空は、今まで見てきた空が幻だと思えるほど醜く感じられた。

こうして僕は、八神タケルと八神ケイコとの八神ユウスケとしての生活をスタートさせた。



四月になると僕は第六小学校に入学した。

入学式の日、僕はランドセルを買ってもらっておらず、どうするのかケイコに質問すると、ケイコは、あんた学校に行かせてもらおうなんて何様のつもり?と言って、僕の頬を殴った。

僕が殴られた痛みで泣いていると、ケイコは泣き声がうるさいと言って、今度は僕の腹を殴った。

僕は一時的に息ができなくなった。

その直後、僕が今朝食べたカップラーメンを吐き出すと、ケイコは鬼の形相で早く片付けろと怒鳴った。

「あと、ウチに住まわせてやってるんだから家事くらい全部やりなさいよね」

僕は吐き出したカップラーメンの後始末をした後、口をゆすいでから風呂掃除を始めた。

ケイコはつまらなさそうなテレビを見ながらスナック菓子を口に運んでいた。

僕が風呂掃除を終え洗濯ものをたたみ、部屋の掃除を終えた頃、タケルが食卓でカップラーメンを食べていた。

タケルは昼頃まで寝ていて、目が覚めるとカップラーメンを食べ、億劫そうにアルバイトに向かった。

僕がふとキッチンの窓から外を眺めると、僕と同じ年頃の男の子が母親と手を繋いで歩いていた。

どうして僕はあの光景を手に入れられないのだろうと、僕は思った。

タケルは夜の8時頃に家に帰り、それからすぐケイコと僕に強く当たった。

ケイコはタケルに反発し、喧嘩を始め、タケルがケイコの髪を引っ張って倒して馬乗りになり、その状態から顔を殴ったかと思えば、今度はケイコがタケルの顔に胡椒をかけ椅子でタケルの頭を殴りつけた。

するとタケルはテーブルに置かれていた熱いコーヒーをケイコの顔にかけた。

男女の差でタケルが優勢だったが二人とも気が強く、喧嘩は過熱した。

幼かった僕にとって、身近な大人の喧嘩はとても怖かった。

僕は自分の寝床になっている押入れの中に入り耳をふさいで目を瞑った。

けれど、ふさいだ耳からは怒鳴り合う声が聞こえ、閉じた瞼の裏には先ほどの光景が鮮明に残っていた。

怒号が止んだかと思えば、押入れの扉が開き、鬼の形相をしたタケルが僕の腕を掴み、押入れの外に引っ張り出した。

「イライラすんなぁ。テメエちょっとサンドバッグになれよ」

そう言うとタケルは僕の腹を蹴り、倒れてうずくまった僕の顔を踏みつけた。

僕の顔は血まみれになり、僕は激しい痛みで、顔を抑えていた。

タケルは僕に馬乗りになり、僕の首を絞めた。意識が遠のき、気を失いそうになったとき、タケルは僕の首から手を離し、僕の顔を殴った。

殴り終えるとタケルは満足したのかテーブルに置かれたタバコを持って玄関から外に出て行った。

すれ違うようにケイコが僕の方へ歩いてくる。

鼻血を出して床に倒れている僕の体をケイコが起こし、僕の顔を殴った。

そしてケイコは急に涙ぐみ、自分に言い聞かせるように話し始めた。

「タケルはね、昔はあんな人じゃなかったのよ。仕事もできたし人望も厚かったのに、人のミスを押し付けられてクビになったのよ。それからおかしくなって。変なクスリを使っているのも見たわ」

その話が済むと、ケイコの表情は急に怒りに満ち、ケイコはポケットからライターを取り出し僕の右手を炙った。

ほんの数秒間炙られただけで悲鳴をあげるほど熱さとヒリヒリとした痛みを感じた。

しばらくするとタケルは部屋に戻り、タケルとケイコは笑顔の一つもないまま、それぞれ眠った。



長い拷問でも受けているかのような日々が一ヶ月ほど続いた頃、僕の心身はボロボロになり、季節は梅雨の時期に入った。

いつも通りアルバイトからタケルが帰ると、玄関から知らない男の声が聞こえた。

キッチンから顔を出して覗いてみると、怒りの表情を浮かべた、黒いスーツを着た三人の男がタケルと会話していた。

話はほとんど聞こえなかったが、「借金」という単語が聞こえ、この家は上手くやりくりできていないのだと知った。

ケイコはタケルのいる玄関に向かい、タケルとともに何度も頭を下げていた。

三人の男が玄関から立ち去り、アパートの階段を降りる音が聞こえてきた時、ケイコが玄関にあった花瓶でタケルの頭を殴った。

花瓶は割れて飛び散り、タケルの頭からは血が吹き出していた。

「いい加減クスリなんかやめてちゃんと働いてよ!あたしもあんたも死んじゃうよ!」

「うるせえ」

タケルはケイコに飛び掛かり馬乗りになると、ケイコの顔に何度も拳を振り下ろした。

最初は必死に抵抗していたケイコは、徐々に動きが鈍くなり、顔は血まみれになった。

ケイコが気を失い、動かなくなったとき、僕はタケルと目が合った。

タケルの目は、とても人間の目には見えないほど、狂気に満ちていた。

頭から血を流したタケルは目を逸らさずに、ゆっくりと僕の方に歩いてくる。

僕はガクガク震える足で、タケルから目を逸らさずに、ゆっくりと後ずさりをした。

僕の体が壁にぶつかり、これ以上後ろに下がらないと知り、僕は恐怖のあまり、その場に座り込んで頭を抱え俯いた。

タケルが僕のすぐ前に立ち、僕は全身が震えていた。

だが、タケルは僕の前に立ったまま動こうとはしなかった。僕は恐る恐る顔をあげ、タケルの顔を覗き込むと、タケルと目が合った。

ニイィ

とタケルは笑った。

次の瞬間、僕は目の前が見えなくなり、頭を後ろの壁に打ちつけた。

それを僕が、タケルが僕の顔を蹴った、と認識するより早くタケルは僕の腹を蹴った。

タケルはうずくまって動けない僕を一瞥してから、タンスの中を漁り始めた。

僕が何とか腹の痛みを抑え、顔をあげたとき、既に悪魔の表情を浮かべたタケルが僕の目の前に座っていた。

爪剥がし機のようなものを僕の前に置き、僕の手を掴んだ。

恐ろしい笑みを浮かべたタケルは、僕の指と爪の間にその器具を入れ、こう言った。

「一本目」

全身に電気が走ったような痛みに、僕は悲鳴をあげた。

「二本目」

「うわぁああああ」

「三本目」

「うわぁああああああ」

「四本目」

……僕は力の入らない震える手の爪が剥がされるのを、ただ痛みに耐えて見ていることしかできなかった。

僕の両手の爪は全て剥がされ、指からは血が垂れており、空気に触れるだけで強い痛みが伴った。

「これで終わりだと思うなよ」

タケルは僕の髪を掴み、引っ張りキッチンまで連れて行くと、右手で僕の髪を掴んだまま、左手で鍋に水を入れ始めた。

僕は逃げようと抵抗しようとしたが、指先の感覚が麻痺していて力が入らなかった。

僕は水の入った鍋の中に顔を押し付けられ、上から頭を押さえつけられた。

とてつもなく苦しく、爪の痛みなど忘れて暴れたが、幼い僕の力はタケルの腕一本の力に及ばなかった。

意識を失いかけた時、僕はタケルの腕から解放され、勢い余って後ろに倒れた。

呼吸を整えるだけで精一杯だった僕は、タケルが隣の部屋にアイロンを取りに行ったことに気が付かなかった。

僕が呼吸を整え切る前に、狂気的な笑みを浮かべたタケルは、アイロンを持って僕のすぐ前に立っていた。

タケルは逃げ出そうとする僕の右腕を掴み、不敵な笑みを浮かべた。

タケルは僕の腕を引っ張り、僕の右手をテーブルの上に置いた。

アイロンからは熱が空気をつたって感じられるほど熱が発生していた。

タケルはテーブルに置かれた僕の右手の上に、アイロンを押し付けた。





当時の火傷痕はあれから十五年経ち、二十二歳になった今でもくっきりと残されている。

僕は貯金を全額引き出し、そのお金と家具とアパートを売り払った金を手に、コンビニに入った。

そこで僕は約十五枚の一万円札を募金箱に入れた。

店員は目を丸くして見ていたが、僕は何も言わずコンビニを出て、近くにある公園に向かった。

薄暗い街灯が不気味に照らす道を歩き、公園に到着した。

深夜の三時ということもあり、公園には誰もいなかった。

薄明かりの街灯に照らされた無音の深夜の公園にいると、人の気配のない公園の空気が、僕を歓迎しているように思えた。

僕はベンチに座り、右手の火傷痕を見つめた。

これから、僕はこの傷に染み付いた過去に別れを告げる。

ベンチに座ったまま周囲を見渡すと、静かな闇がいくつも浮かんでいた。

僕はその暗闇を見て、火傷痕がついた夜の出来事を思い浮かべた。





静かで重たくて冷たい夜。僕は暗い部屋で天井を見つめていた。

目が徐々に慣れていき、次第に天井の形が浮かび上がってきた。

ケイコはどこか外に泊まると言って家を出て行き、タケルは僕の右手にアイロンを押し付けた後、今夜は家には帰らねえと言い残し、家を出て行った。

僕は電気を消して、押入れには入らず、キッチンで仰向けになっていた。

キッチンの窓から差し込む微かな光が、却って闇を意識させた。

僕は痣だらけの自分と、先ほどついた火傷痕を思い、苦しい現実を自覚した。

「不安定な生を抱えて無防備に息をしている」

タケルとケイコは今夜は帰ってこない筈だが、万が一帰ってきた時のことを考えると、とても家の中にはいられなかった。

僕は玄関から外に出て、近くにある公園に向かった。

誰ともすれ違うことなく僕は公園に着いた。

公園の時計を見ると、時刻は深夜の十一時だった。

ベンチにはスーツを着たサラリーマンのような若いお兄さんが座っていた。

僕がお兄さんの隣に座ると、お兄さんは目を丸くして、こんな時間にどうしたのか尋ねてきた。

「お兄さんこそどうしたの?」

「辛いことがあったんだよ。それよりこんな時間に子どもが出歩いてちゃダメだろ」

「僕も辛いことがあったの」

僕がそう言うと、お兄さんは冷たく嘲笑した。

「どうせママかパパと喧嘩でもしたんだろ?さっさと家に帰って謝れよ」

「帰らないよ。僕は」

「おいおい。意地張るなよ。そんなんで辛いなんて言ってたら社会に出たら生きていけねえぞ。社会は甘くないからな」

「僕だって辛いよ」

僕がそう言うと、お兄さんは「はは、子どもは楽でいいよな。大人はみんなお前より辛いんだよ」と言い残し、公園を去っていった。

僕は、大人は僕より辛いのに、街に出れば笑っている大人がいて、大人はすごく強いんだなと思った。けれど、不思議なことに顔中痣だらけの大人も、右手に火傷痕のある大人も見たことがなかったし、僕より辛い人が笑えるなんて気が狂ってるとしか思えなかった。

僕は公園で心地良い静寂を堪能したあと、近くにある海岸に向かった。

その間、誰ともすれ違うことなく海岸に着き、座って海を眺めていた。

海岸からは水平線が見えた。

指先と右手や色々な痛みによって目に浮かんだ涙で視界がぼやけて、徐々に水平線の輪郭が水彩画のように曖昧になっていった。

僕は夜の波音に耳を澄ませながら目を瞑った。

波の音が、雑音を掻き消してくれた。

「よお、ぼうず」

声のした方向を見ると、汚れた服を着て、無精髭を生やした知らないおじさんが立っていて、僕の隣に座った。

「子どもがこんな時間に海を見ながら泣いてるなんて、健全じゃないぜ」

「まあ住む家もない俺だって健全じゃないかもしれんがなガハハ」

年齢は50代後半くらいに見える白髪交じりのそのおじさんは、僕の隣で海を見つめた。

「おじさんはどうして家に住まないの?」

「親友の借金の保証人になったんだが、そいつが夜逃げしちまってよ〜。そんでこの有様さ」

「大人は大変なんだね」

と、僕は答えた。

「俺は小さな頃、両親が死んで施設で育ってよ、上級生にいじめられてたんだ。それこそ流さないで放置してあった誰かのウンコを食わされたり、親の形見を捨てられたり、雑巾を絞った水を飲まされたりだ。あの時からすりゃ、大人になってからの苦労なんて大したことはねえ。子どもの頃の方がよっぽど大変だったぜ。お前も大変だろう」

「どうして分かるの?」

「あの時の俺と、同じ目をしてる」

「そっか」

「ねえ、おじさん」

「なんだ?」

「自殺はいけないこと?」

「……当たり前だ。世界で一番いけないことだ」

「おじさんは、死ぬのが怖い?」

「怖くはないな。明日死んでもいいと思ってる。それに、生きることの方がよっぽど怖いさ」

「おじさんは、今死んだとして、この世に未練はないの?」

「ない、とは言えない。悲惨なものを人一倍見てきて、なのに大きな幸福もなく死んでいくのは、少しだけ心残りだ。でも色んなものを失って、色んなものを諦めて生きてきた俺に、今更心から悔やめるものなんてないんだよ」

「そっか」

「ああ」

「……それとよ、俺はもう行かなきゃならねえから、これ、受け取れよ」

そう言っておじさんは火傷痕のある僕の右手を手に取り、くしゃくしゃになった千円札をしっかりと握らせた。

「どこに行くの?」

「遠い場所だよ。お前と会うことは二度とないが、会ったら声かけろよ……その時まで、会いに来るんじゃねえぞ」

おじさんはそう言って、一度も振り返ることなく去っていった。

あのおじさんがこれから何をしようとしているのか、僕には何となく分かっていた。

僕はぼんやりと海を眺めた。

それから僕は家に帰らずに海岸で眠ろうと思った。

家の鍵は開いているし、よっぽど家事が面倒じゃない限りは、タケルとケイコはわざわざ僕を探しには来ないだろう。



僕が目を覚ますと、空は灰色の雨雲で覆われていた。今にも雨が降り出しそうな重苦しい空模様だった。

僕は海岸を離れ、近くのコンビニに入り、おじさんから貰った千円札でおにぎりを一つ買った。

僕はコンビニを出て、第六小学校を見に行ってみることにした。自分も一応その学校の生徒だが、まだ一度も顔を出していない。

小学校に向かって歩いていると、右手に冷たいものが当たった。曇天から落ちる一滴目の雨粒を合図に、頭上から激しい雨が降り始めた。

それはまるで人生に降り頻る苦難のような、そんな雨だった。

僕はしばらく空を見上げ、小学校に行くことを諦め、近くのゲームセンターに入り、雨宿りすることにした。

びしょ濡れのままゲームセンターの中に入ると、様々な音で溢れていて、まるで遠い世界に来たようだった。

この場所だけが、現実と隔離されているような気がした。

僕はゲームセンターの中でこれからの計画を練った。行くあてもないし、もちろん一生食っていける金があるわけもない。

僕はいつか家に帰らざるを得なかった。

そしてそれはなるべく早い方が、タケルとケイコの機嫌を損ねずに済むと考えた僕は、今日の夜家に帰り、残った家事を全てこなそうと思った。

僕は非現実の箱の中のようなゲームセンターで、おじさんから貰った残りのお金を全て使った。

外に出ると、まだ雨が降り続いていた。

けれど、ずっとゲームセンターにいるのは居心地が悪かったので、お金はないがコンビニに入ることにした。

コンビニに向かって走っていると、一瞬水溜りに自分の顔が映り込み、僕は走るのをやめた。

水溜りを覗き込むと、酷い顔をした僕が映っていた。頰は痩せこけていて肌は青白かった。

僕はなんだか現実と非現実の狭間で揺れ動いているような、そんな気分になった。

僕は再び走り出し、コンビニに入ると、コンビニの電子音が僕を現実に引き戻した。

僕は商品の棚を一通り見て回り、十分ほどでコンビニを出て、雨が降り続いている中、家に向かった。辺りはすっかり薄暗くなっていた。

アパートの階段を上がり、ドアの前に立った。

僕は勇気を振り絞り、ドアを開けた。

部屋は灯りが点いておらず、留守のように見えた。

けれど、部屋の中からはケイコの悲鳴と、肉でも刺しているような生々しい音が聞こえた。

僕は音がする方へ向かい、恐る恐る部屋を覗き込んだ。

「ははっ、死ね!死ね!死ね!」

そこには、身体中穴が開いて動かない血まみれのケイコと、血で真っ赤になった包丁をケイコに何度も突き刺しているタケルがいた。

グサッ、グサッ、と刺すたびに生々しい音とケイコの血が飛び散った。

僕はそんな光景をタケルの斜め後ろから見ていて、恐怖で固まり、息も出来なかった。

タケルは動かなくなったケイコを何度も何度も突き刺した。それが人間の死体である事は一目では理解できないほど、ケイコの死体は原形をとどめていなかった。

タケルは僕の気配を感じ取ったのか後ろを振り返り、僕はタケルと目が合った。

タケルの目は、悪魔だった。

まるで蛇に睨まれた蛙のように、身動き一つ取れない僕の方に、真っ赤に染まった包丁を右手に持ち、狂気的な笑みを浮かべたタケルがゆっくり近づいてくる。

僕はただ、視界の中で大きくなっていくタケルを見ていることしかできなかった。

タケルは僕と三十センチの距離もない僕の目の前に立ち、包丁を持っていない左手を僕の右肩に置いた。

「腹減ったろ?」

僕にはその言葉の意味を理解する余裕なんかなかった。

タケルはキッチンに行き、テーブルの上に置いてあったカープラーメンを持ってきた。

僕はその間も、一歩も動くことはできない。

タケルはカップラーメンの蓋を開け、スープの素などを放り投げ、血まみれの包丁で麺を粉々に砕き始めた。黄色い麺が真っ赤に染まっていく。

「食えよ」

タケルは真っ赤に染まったカップラーメンを僕に差し出し、包丁を向けた。

「……い、いやだ」

そう言った僕の目をタケルはじっと見つめて、こう言った。

「食えよ」

僕は強引に赤いカップラーメンを持たされ、胸に包丁を突き付けられた。

タケルを見ると不気味な笑みを浮かべている。

僕は恐怖で抵抗することができず、赤く染まったカップラーメンを口に運んだ。

味なんか分かるはずもなく、僕は反射的にそれを吐き出した。

「ほら食えよ。食わなきゃ殺すぞ」

そう怒鳴ったタケルの目はもはや人間のものではなかった。

カリカリと音を立てて、僕は麺を咀嚼し、無理やり喉に流し込んだ。

それが済むとタケルは満足そうに笑い、部屋から出て玄関から出て行った。

僕はその場で胃の中のものを全て吐き出し、何より先に、急いで玄関の鍵を閉め、家中の戸締りをした。

僕は力が抜けたように座り込み、全身は小刻みに震えていた。

視界の端には穴だらけのケイコの死体があり、床にはケイコの血が広がっていて、生々しい匂いが鼻を刺激した。

僕は同じ空間に人間の死体がある事と、それを主張する死体の匂いで気が狂いそうだった。

一刻も早くこの場所を去りたかったが、外の世界にタケルがいると思うと、僕はここに閉じ籠るよりほかなかった。

僕の心臓は、日本中に聞こえているんじゃないかと思うくらい激しく脈打っていた。

僕は口で呼吸をし、目を瞑って耳を塞いだ。

けれど、瞼の裏にはケイコの死体が鮮明に映されており、頭の中でタケルの怒号が反響していた。口の中には赤いカップ麺の感触が残っており、死体の匂いは口を通して喉から入ったが、その過程でやはり鼻にも少し入ってしまう。

世界の負の部分を凝縮したかのようなこの空間での時間は、まるで永遠のように長く感じられた。

誰でもいい、借金を取り立てる男でもいい。タケル以外の誰かがこの場所に来てさえくれれば、僕は辛うじて地獄の一歩手前に踏みとどまることができたのに。

目の前に横たわる地獄を見た僕は、頭が混乱し、徐々に意識が遠のいた。



目を覚ますと、僕はベッドで横になっていた。僕のすぐ横には山内さんが椅子に腰掛けていた。

「目が覚めたか」

山内さんは心配そうに僕の顔を覗き込んだ。

「ここはどこ?」

「病院だよ。お前のおばさんが亡くなった病院だ」

梅雨のせいで空気はじめじめしていて、病室には陰鬱とした空気が漂っていた。

外を見ると雨が小さく降り注いでいた。

僕は上を向いて天井を見つめた。真っ白な天井がひどく汚く感じられた。

「話はできそうか?警察の人ができるだけ早くお前と話がしたいらしいんだが」

大丈夫、と僕は答えた。

山内さんは頷き、病室から出て行った。

しばらくすると山内さんは、ベテランの風格を漂わせる年季の入った男と、若い男を連れて病室に戻った。

山内さんは席を外し、彼らは軽く自己紹介をした後に僕に色々な質問をした。

話をして分かった事だが、タケルはケイコを殺した後、多量の返り血を浴びて血まみれの包丁を持ったまま外を歩いており、それを見たアパートの住人が警察に通報したらしい。

その後警察はタケルの目撃情報のあった場所周辺とタケルの自宅を捜査し、タケルはすぐに捕まり、警察が大家に合鍵を借りて部屋に入った時には、僕はもう気を失っていたらしい。

タケルは覚せい剤を使用しており、非合法組織から金を借りていて、多額の借金を抱えているとのことだった。

きちんと会話はできたが、僕はなんだかぼんやりとしていたらしく、話はまた後日という形になった。二人の警察官が病室を後にすると、僕は目を閉じて雀の声に耳を澄ませた。

途方もない非現実が僕の中に入ってきている感覚だった。

しばらく耳を澄ませていると、頭の中で雑音が鳴り始めた。

死ね!死ね!死ね!と言いながらケイコの死体を刺しているタケルの声がして、その光景が頭にくっきりと浮かび上がってくる。

床には大量の血が流れ、そこからは生々しい匂いがした。

動悸が激しくなり、恐怖や憎しみで頭がいっぱいになった。

……気がつくとベッドの布団が破けており、表情に困惑の色を浮かべた看護師が廊下から僕を見つめていた。僕はどうやら奇声を発して物に当たっていたらしかった。

僕はごめんなさいと一言言うと、わざとらしく白い天井を見つめた。

看護師が怪訝な顔をして僕を一瞥したあと、コツコツと音を立てて廊下を歩き出したのが僕の視界の端に映っていた。

僕は何をするでもなく、そのまま天井をずっと眺めていた。

天井を叩く雨の音が、まるで耳元で囁いているように、やけに近く聞こえた。










僕はタバコを一本取り出し、ライターで火をつけた。

タバコの煙が暗い夜空の中に垂直に吸い込まれていった。

僕は一週間前の昼間、八神タケルが僕の前に現れたときのことを思い返した。


あの事件で無期懲役の刑を受けたタケルは、十五年間の刑務所生活を経て、何らかの方法で刑務所から脱獄し、僕の住所を突き止めたのだろう。

午後二時頃、滅多に鳴らない自宅のインターフォンが鳴り、玄関に行きドアを開けると、見知らぬ男が立っていた。

白髪混じりで痩せ型の四十歳くらいの男だった。

「十五年振りだな」

と男は言った。

二十二歳の僕と十五年前に会ったことのある人物、つまり僕が七歳の頃に最後に会った人物。

十五年前と言えば、ちょうどあの夜と重なる。僕は全身の毛がよだつのが分かった。

男の目を覗き込むと、僕の不安は現実へと姿を変えた。

僕の背が伸びた分、タケルの背が少し縮んだように感じられたが、それは紛れもなく八神タケルだった。

「クスリを打つために金がいる。よこせ」

タケルは僕のアパートの玄関で、周りを気にする素振りもなく、その言葉を口にした。

僕はガクガク震えている足をどうにか抑えようと努力しながら、平常心を装っていた。

日雇いの肉体労働で鍛えた腕っ節の強さや年齢のことを考えても、素手なら僕がタケルに負ける理由は見当たらなかった。

けれどタケルの目を見ていると、僕はこの男に殺されるんじゃないかという錯覚に陥った。

僕は邪念を振り払い、タケルに付けられた火傷痕の残る右手の拳を固く握り締めた。

「お前に貸す金なんてない」

「……あ?」

タケルが一瞬遅れて僕を睨みつけた。

「お前に貸す金はないって言ってるんだよ」

僕はタケルに強い口調で言葉を投げつけるうちに、徐々に恐怖より怒りが込み上がってきた。

瞼の裏に張り付いて離れない地獄の光景を作り出した男が、今、目の前に立っている。

徐々に足の震えが止まり、それとすれ違うように、握っている右手の拳がぷるぷると震えだした。

「……んだよその目は」

タケルは僕の怒りを感じ取ったのか、僕に顔を近づけてきた。

「……貸すよ」

「…は?」

「金、貸すよ」と僕は言った。









タケルが警察に捕まったあと、殺人犯の義理の息子を引き取る人間などいるはずもなく、僕は児童養護施設に預けられた。

僕はあの夜以降の記憶が抜け落ちていた。

特に小学二年生から中学二年生に相当する年齢まで、施設での記憶はほとんどない。

思い出せるのは、施設の入居者である山田という男が僕を歓迎してくれたこと。

山田は僕が施設に入った一ヶ月後に自殺したこと。

それから、僕はあの夜の幻覚や夢をよく見ていたこと。

それ以外の記憶はほとんどなかった。

後に医者は、君は極度のストレスで記憶を失ってしまったのだと言った。

僕は数少ない施設での記憶を、頭の片隅から拾い上げた。



「よう新入り」と山田は言った。

僕は顔を上げ、声を掛けてきた男の目を覗き込む。

瞳の奥に、何か悲しげな感情が渦巻いているのを思わせることを除けば、どこにでもいるような普通の男だった。

「……やっぱりお前も目が汚れている。ここにいる奴らはみんなそうだ……暗いものをたくさん見てきた目だ」

山田は、悪い奴ではなさそうだった。

「仲良くやっていこうぜ」と山田は言い、僕は頷き、山田からペットボトルのお茶を一本渡された。

それから山田は僕に色々な質問をし、時には自身のことを話した。

山田は中学三年生の年齢で、来年は施設を出て一人暮らしを始めるらしい。

もうすぐ小学校に上がるという時期に、母親に「小学校に下見に連れてってやる」と言われ、その学校のプールサイドでスタンガンを当てられ気絶させられて、両足を縛られた挙句、異臭のする緑色のプールに放り込まれたのが発覚し、独り身だった母親が逮捕されたのが、山田がこの施設に入った理由らしい。

僕は自分に似ている山田に親近感を覚えた。

山田は、本を読むのが好きだと言った。

そして、辛い思いをしたなら本を読むべきだと僕に言い、本についての熱弁を始めた。

「それなりに辛い思いをしたことがあり、尚且つ思考の深さにその経験の影響を受けている人間なら、厭世的な小説を内側の視点から読み解くことができる。

暗いものを見た人間の底には、得体の知れない”何か”が沈んでいて、人間の暗部に焦点を当てた言葉によって、その沈んでいる”何か”を自覚できる瞬間がある。

それを自覚したとき、人は、人間についての理解を深めることができるんだ。

これは自分の中に、その”何か”が沈んでいないとできないことだ。

つまり、絶望の淵から見た景色が…極限の状態で生きた経験でしか得られない気づきが、自分だけの強い哲学をもたらしてくれる」

「それに、根本にある途方もない暗闇を言葉として形にすることによって、無限に思えた暗闇を有限だと自覚し、そうするとそれはやけに陳腐に思えてくるんだ。暗闇に飲まれるギリギリの場所に立ち、その闇に言葉として形を与えている人達の暗い言葉には救済がある」

まだ小学一年生の僕には、山田が何を言っているのかさっぱり分からなかった。

元々無かった、僕の本に対する興味がさらに薄れた。

けれど、ここには自分の居場所がある気がした。

僕を歓迎する人がいて、助け合おうと言ってくれている。そして何より、守られている。

ここにいれば、世界の暗さを一人で背負って生きることを強要されることはない。

そう思いながら山田に施設の中を案内されると、そこでは入居者同士の喧嘩が至る所で起こっており、それを当然だとでも言うように山田は見向きもせず淡々と案内を続けた。

こうして僕の施設での生活が始まった。

その日の夜、僕は余計なことを考えないように、一刻も早く眠りにつく必要があった。

けれど、こんな日に限って目は冴えており、一向に眠れる気配はなかった。

僕は枕元に置いてあるペットボトルのお茶を飲もうと体を起こした。

部屋の真ん中に気配を感じ、ふとそちらを見ると、そこには穴だらけのケイコの死体が横たわり、その隣に立つタケルがこちらを見てニヤリと笑った。

僕は頭が真っ白になり、気付けば部屋の中が滅茶苦茶になっていた。

僕は大声で怒鳴っていたらしく、それを聞いて駆けつけた山田が僕の前に立っている。

「大丈夫か?」

僕はふと我に返り、自分は幻覚を見ていたのだと知った。

僕は山田の言葉に頷き、幻覚を見たことを伝えた。

お前は疲れてるんだ。早く休めと山田は言って、部屋を出て行った。

それから毎晩、タケルは僕の前に現れ、僕はその度に我を忘れて絶叫している。

見兼ねた施設の職員は僕にカウンセリングを受けさせた。

けれど、僕は幻覚を見続けたし、昼間はいつも施設内で喧嘩やいじめが起こっており、僕も標的にされて心身共に疲れ切っていた。

そんな生活が一ヶ月ほど続いた頃、前触れもなく山田は自殺した。

いや、もしかしたら前触れがあったのかもしれない。ただ僕が気付かなかっただけで。

山田もいじめの標的にされることはあったし、そもそもこの施設に入っている人間は誰がいつ自殺してもおかしくないように感じていた。みんな、瞳の奥に深い悲しみの色を浮かべていたから。

山田が自殺する前日、僕は山田と話をしていた。

山田は僕と初めて会った時と同じ表情で、あの時のように難しい話をした。

「俺は多分、お前と同じ方角を向いていて、お前より少しだけ先を歩いてる人間だ」

と山田は僕に言った。そしてその翌日、山田は建物の屋上から飛び降りた。

僕もいずれ、山田と同じ道を辿ることになるのだろうか。やはり希望などないのだろうか。

夜は相変わらずタケルが現れた。

死ぬことができたら、どれだけ楽だっただろうか。

昨日の土砂降りでできた水溜りには、酷い顔をした僕が映っていた。

僕の頭に、ある記憶がよぎった。

いつも愛情を注いでくれたおばさんは言っていた。

自殺だけはするなと。

家を失い、くしゃくしゃになった千円札を僕に握らせたおじさんは言っていた。

自殺は世界で一番悪いことだと。

僕は、負けるわけにはいかなかった。

この暗い世界に押し潰されるわけにはいかなかった。

僕は水溜りに映り込む酷い顔をした僕を踏みつける一歩を、ここから動き出す一歩目とした。

空は、相変わらず光を遮る灰色の雲に覆われていた。



僕の施設でのそれ以降の記憶はすっぽりと抜け落ちている。

後に医者に聞いた話によると、僕は小学一年生から中学二年生に相当する年齢まで、毎晩のように発狂し、その度に暴れていたらしかった。

中学三年生の年齢になると、僕はタケルの幻覚を見ても、足が震え動悸が激しくなるが、極端に取り乱すこともなくなっていて、施設での喧嘩やいじめには動じなくなっていた。

僕は勉強をして、施設からの助成金を借り、アルバイトをしながら高校に行こうと思う。

そして普通に生きて普通の幸せを手に入れたいと思う。

そして僕は、施設から一番近い高校に入学して、施設からの助成金で学校の近くに安いアパートを借りた。



高校の入学式、僕は全く緊張していなかった。

特に不安も期待も無かったからだ。

勉強して、アルバイトをして、眠る。

それらを機械のようにこなす日々を始めようとしていた。

普通に生きることができるなら、それだけで満足だ。

これからは、大きな幸福も大きな災いもなく、感情の起伏のない生活を送ろうと思う。

入学式が終わり、僕は自分のクラスである一年七組の教室に入り、自分の席に着いた。

クラスメイトは同じ中学の人同士で固まっていて、僕は孤立していた。

当然周りに知っている人間はおらず、けれどそんなことはどうでもよかった。

やる事もないので黒板の上に掛かっている時計を見ていると、頭に何かが当たった感覚がしたので後ろを振り返ると、明らかに校則違反の髪型をした男三人組が、悪意を込めた目でこちらを見ている。三人はニヤニヤと笑みを浮かべている。

床にはプリントを丸めたものが落ちており、これを投げたのだろうと思った。

「お前の右手、お岩さんみたいだな」

と、三人のうちの一人の男が言って笑った。

僕はタケルに付けられた火傷痕を見て、男に視線を戻す。

「お前ぼっちかよ。どこの中学出身だよ、お岩さん」

「中学は行ってない。施設出身だよ」

僕がそう答えると三人の顔がみるみる青ざめていき、三人はすみませんでしたと頭を下げて教室を出て行った。

後から知ったことだが、この三人は児童養護施設出身の人間にちょっかいを出し殺されかけた経験があるらしく、それ以来、施設出身の人間は躊躇なく人を殺すという認識らしかった。

確かに中にはそのような人間もいるが、少なくとも僕や、自殺した山田はその類の人間ではなかった。けれど、耳障りな雑音が消えた方が好都合だったので、それは言わないでおいた。

僕は平日全てにシフトを入れたアルバイトと土日の日雇いのアルバイトと高校生活をほぼ同時にスタートさせた。

僕は相変わらず毎晩タケルの幻覚を見るが、それ以外は大きな災いもなく生きていた。

そんな生活が二ヶ月くらい続いた頃、僕はあることに気がついた。

クラスメイトは「青春」や「恋愛」のような明るいものを見ていて、自死を否定する理由だとか、生きるためにどうやって心の隙間を埋めようかとか、そんな問答をしている人間は一人もいないように思えたのだ。

「死にたい」とよく言っているクラスメイトの瞳には、深い悲しみの色なんて無かったし、「私の青春はどこ言ったの」などと言っているクラスメイトの瞳は、明るいものだけを捉えているように見えた。

この二ヶ月で、よく分かった。

生きることに専念しなくても、みんな生きていけてるんだ。

普通に生きるとは、余裕を持って生きることなのだ。

そして、暗い現実を真正面から直視した経験がない人間だけが、明るいものだけに焦点を合わせていられる。

同じ高校で同じような生活をしていて、ノイズのような違和感を覚えたのは、おそらくこのためだった。

「今日はみんなで海行こうぜ!青春最高!」と口にしている原田にも、恋人と別れて「私の青春は終わったんだ」と口にしている佐藤にも、僕は同じように羨望の眼差しを向けていたと思う。

当然のように明るいものだけを見ることのできる余裕が、僕にはとても羨ましかった。

僕は人として真ん中を歩いてきた恵まれた人間になりたかった。

僕はふと、世界という枠組みの外側から世界を眺めているような、まるで自分だけが世界に取り残されてしまったような疎外感を覚えた。

自分の立っている場所から一歩離れた場所で、そこに立つ自分や、その背景を眺めているように感じた。





あの時は辛かったけど、今は辛くない。と、そう言えるのなら、それは幸せなことだと思う。

どん底の経験は……暗くて汚いものを見た経験は、その後の人生にずっと影響し続ける。

薄汚れたフィルター越しに見る世界は、どんな綺麗なものであっても霞んで見えてしまう。

そしてその汚れたフィルターを作り出すのは、紛れもなく自身の暗い過去の記憶だ。

僕は、自分の過去を憎んでいた。

明るいものを、くだらなく見せる過去を憎んだ。

僕の心は、暗くて汚くてドロドロしていて死にそうな場所に留まっていた。

簡単なことだ。

僕は、あの夜を越えられないままでいる。





部屋の微かな灯りの中で、僕は天井を見上げていた。視界の端にタケルが映っている。

僕は横を向いてタケルを視界から外し、別のことを考え、気を紛らわすことにした。

そして僕は、山田が言っていた言葉を思い返した。


自分の行動の指標に『道徳』や『一般論』しか持たない人は、ごく普通の楽しい思いをして、ごく普通の辛い思いをして生きてきた人だと俺は思う。

俺は、自分の世界を自分一人で背負って生きた経験のある人なら、強い『芯』を持つと思っている。

全てをねじ伏せるような圧倒的な苦痛の前では、道徳や正しさなんてものは本当に無力で、助けてくれる人もいない場合、嫌でも自分の心に拠り所を作らざるを得なくなる。

芯を持つ人は、芯を持つ必要を迫られる人生を送ってきた人で、困難な状況を乗り越えるために、それが必要だったんだ。

本来、人が明るいものに向ける視線を、何らかの事情で暗いものに向けざるを得なかった人に確固たる芯が創られるのだと思う。

そして、道徳や倫理より、絶望の淵から見た世界の醜さが人生を歩む上での尺度として強くなってしまう人間がいて、道徳という概念から遠く離れた芯を持ってしまった結果、犯罪に手を染めてしまう人もいるのだろうと俺は思う。

何にせよ、強くなることを強いられないまま生きてこれた人は、とても幸せな人だろう。


ここでいう『芯』が、山田の言っていた『自分だけの強い哲学』の土台になるのだろうと僕は思った。

……ふと、ある考えが頭をよぎる。

もしかしたら、山田は死に憧れを抱いていたのではないだろうか。

僕はそう思ったが、考えることをやめ、目を瞑った。

この日は中々寝付けなかった。








必ずしも+から始まる人生だけじゃないんだ。と山田は言っていた。

社会の大部分を覆う透明な円形のバリアの内側で生きている人がほとんどだけれど、生まれながらにして素っ裸でジャングルの奥地に放り込まれてしまうような人もいる。そういう人が地べたを這いつくばって泥水を啜って必死に円の内側に舞い戻る。ただそれだけのことが命懸けだったのに、それができてようやくスタートラインさ。そして掃き溜めのような汚い−の場所から0にまで這い上がった人間に、さも当然のように円の中で生きてきた人間が足を組んでこう言うのさ。「君が立っている場所は0だ。つまり君は何も努力をしてこなかった怠け者だ」ってな。そして、そうやって円の端っこに追いやられた人間が、揺れ動く不安定な足場によって、いつ円の外に弾かれるか分からない恐怖と、生きているだけでいつの間にか抱え込んでいた重たいものに嫌気がさして、やけになって自分から円の外側にハミ出るんだ。

……誰のことだか分かるか?

俺の親父だよ。残された人間は、苦悩の日々が始まる。

透明な円の中に……幸せな夢の中に、いられない人がいるんだ。

「不公平だよ、世界は」そう、聞こえた気がした。







僕は夜遅くまでアルバイトをして、昼間の授業中は机に突っ伏して寝ていることが多かった。

地学の担当である平野は、僕の頭を叩いて起こし、教卓の前に立ち、話を始めた。

「八神は本当のんびりしてるよなぁ。危機感が全くない。危機感がないってのは今まで苦労した経験がない奴の典型的な例だぞ。お前もしかして今でもお母さんの膝枕で耳かきしてもらってるんじゃないのか?」

クラス中が笑いに包まれ平野はさらに話を続けたが、僕はやはり眠気には勝てなかった。


高校に入学して半年もした頃、学級委員でもある隣の席の佐山さんが声を掛けてきた。

「八神くん、その右手の写真、インターネットで拡散されてるよ。矢野くんが載せてたの」と言って、佐山さんは矢野がSNSに投稿した僕の右手の写真を僕に見せた。

矢野とは、入学式の日に僕にちょっかいを出してきた三人のうちの一人だった。

半年の間に、僕が躊躇なく人を殺すような人間ではないと気付いた矢野たちは、僕を悪意の対象に入れたようだった。

最近、筆箱や教科書がゴミ箱に捨てられているのも、おそらく矢野たちの仕業だ。

「苦しかったらいつでも相談して。できる限りのことはするから」と佐山さんは言ったので、大丈夫だと言ったら、佐山さんはしばらく黙り込み、やがて泣きそうな顔になり、僕の目を覗き込んだ。

「なんでよ…なんでそんなに平気な顔してるの?泣きなよ。誰か頼りなよ。見てるこっちまで辛いよ…八神くんの学校生活は……地獄だよ」佐山さんはそう言って顔を伏せ、声を押し殺して泣き始めた。

僕には、この学校生活を地獄と呼ぶには、いささか苦痛が足りなすぎる気がしたし、僕の心は、高校生の遊びに怒りや悲しみを向けていられるほど暇では無かった。

気を抜けば、毎晩枕元に現れるタケルに、殺されてしまいそうだったから。

思えば、今まで汚い泥水ばかり啜ってきて、よくここまで生きてこれたものだ。

けれど、せっかくこの世に生を受けたのに、こんなんじゃ命も人生も、何もかも台無しだ。

……こうして僕は、大きな幸福も大きな災いもなく高校生活を終え、何とか卒業して土木関係の仕事に就いた。

仕事をして酒を飲んで寝るだけの生活が四年間続いた。

枕元には、やはり毎晩タケルが現れた。

その幻覚が消えることはなかった。






「金、貸してくれんのか?」

二十二歳になった今、タケルは幻覚ではなく、実際に目の前にいた。

「銀行から下ろしてくるから、一週間後の夜八時に✖︎✖︎の近くの草原に来てくれ。見つからないように、そこで渡すよ」と僕は言った。

「どういう風の吹き回しだ。さっきまでとは言ってることが違うぞ」

「あんたには大変な思いをさせられて来たけど、それでも雨風をしのげたのは家に住ませてくれたおかげだから。ちょっとした恩返しだよ」

タケルはそれを聞いて訝しげに僕の目を覗き込んだあと、ニヤリと笑い、「じゃあ一週間後の夜八時、✖︎✖︎の近くの草原に行ってやるから、金を持ってこい。もし来なかったら、このアパートは全焼すると思え」

タケルはそう言うと、歩き去っていった。

逃げも隠れもしない。僕は一週間後の夜八時にタケルと会う。そして、

八神タケルを殺害する。




タケルが去ったあと、僕の家に警察から連絡があった。

八神タケルが脱獄した。念のため聞くがそちらに連絡や接触はないかと聞かれ、「ありません」と僕は答え、電話を切った。

僕は戸締りをしっかり確認してから布団に入った。

今日はタケルの幻覚は現れなかった。

僕の頭の中は一つの推測でいっぱいになっていた。

「タケルを殺せば、僕はあの夜を越えられるのではないだろうか?」

それから五日間の間に、僕は家具を全て売り、アパートを売り払った。

その金は全てコンビニに募金した。


僕は何もない空っぽな部屋を眺めていた。

家具一つないその部屋には、深夜の公園のような静けさが漂っていた。

開けっ放しにしていた窓から入り込んだ独特な匂いが、梅雨の時期の到来を告げた。

外に出よう。と僕は思った。

玄関を開け部屋の外に出て、腕時計を確認すると時刻は三時を指していた。

外はじめじめしていて蒸し暑かった。

ふと空を見上げると、分厚い灰色の雨雲が月の光を遮るように空を覆っていた。

僕はその後公園に行き、ベンチに座り、タバコを吸った。

僕は闇の中に垂直に消えていく煙を眺めていた。

いよいよ明日、タケルと会う。

僕は隣に置いたリュックサックの中身を確認する。

包丁が一つ。ただ、それだけが入っていた。

僕はタケルと会う予定の場所に向かい、その草原で夜を明かした。



目が覚めると、やはり、灰色の雲が光を遮るように空を覆っていた。

腕時計を確認すると、時刻は朝の九時だった。十一時間後、タケルはこの場所に来る。


僕はずっと、曇天の空模様を眺めていた。


腕時計を確認すると、時刻は夜の七時だった。

一時間後、僕はあの夜を越える。

僕の心は思いのほか冷静だった。

そして、殺人の加害者のことを考えた。

恨みから殺人を犯す者もいるし、快楽の人もいる。

人生に絶望して人を殺す奴もいる。

僕はどれだろうか。

……そんなことはどうでもいい。


ユウスケはくたびれた体を草原に横たえ、空を見つめていた。

分厚い雲が世界を覆う暗い夜だった。

それはまるで世界が光を失ってしまったように見えた。

ユウスケの目は闇の中に飲み込まれるように、空っぽな暗い空に焦点を合わせていた。


おい、と呼ぶ声が聞こえた。

時刻は七時三十分、約束の時間より三十分早く、その男は暗い世界の草原に立っていた。

ユウスケはリュックサックを手に持ち、ゆっくりと腰を上げ、包丁の入ったリュックの中に手を入れた。

ふと、あの夜の光景が脳裏をよぎる。

穴だらけのケイコの死体、床に流れる大量の血、ケイコの血の入った真っ赤なカップ麺、タケルの悪魔のような目、血まみれの包丁。

ユウスケはリュックから手を出し、チャックを閉め、地面に置いた。

火傷痕の残る右手には、何も握られていなかった。

「金はそのリュックの中か?」とタケルは言った。

「持ってねーよ。一円も」とユウスケは言った。

「……話が違うぞ」

「元からお前に金を渡そうなんて思ってないさ」

ユウスケがそう言うと、タケルはこっちに歩き出した。

タケルはユウスケの目の前に立ち、次の瞬間、ユウスケの顔に強い衝撃が走った。

ユウスケは仰向けに倒れ、タケルがユウスケの上に馬乗りになった。

「よくも騙しやがったな」

ユウスケは左の頬に衝撃を感じ、次に右の頬に衝撃を感じた。

ユウスケの顔はみるみるうちに腫れあがる。

タケルは、何度も、何度もユウスケの顔に拳を振り下ろした。

ユウスケは自分に馬乗りになっているタケルを押し退け、倒れたタケルは急いで起き上がり、二人は立って睨み合っていた。

ユウスケは右の拳に力を込め、それをタケルの顔に放つ。

タケルは鼻血を出して倒れ、ユウスケは倒れたタケルに、何度も拳を振り下ろした。

タケルは何とか立ち上がり、ユウスケを殴った。


ユウスケは地獄の日々を殴った。

タケルは逆らう少年を殴った。


二人とも、痛みは感じなかった。

これは、どちらかが動かなくなるまで続く。

……ぽつん、と冷たいものが、ユウスケの腕を濡らした。

それから数秒後には、草原に激しい雨が降り注いだ。

雨が、血を流した二人の拳を洗い流している。

二人は殴り合った。

二人の顔は腫れ、拳からは血が流れ、暗い空からは雨が降り注いだ。

…二人とも体が思うように動かなくなり、気力だけで立っていた。

もはやこれは、意地の張り合いだった。

……ふらふらの体で、ユウスケはタケルに全ての重さを乗せた拳を放った。

タケルは倒れ、立ち上がろうと踠いていた。

タケルは、立ち上がれなかった。

ユウスケは倒れて踠いているタケルを、立ったまま見下ろしていた。。

どれくらい経っただろうか。

タケルは全く動かなくなり、雨はさらに激しさを増した。

激しい雨の音だけが、真っ暗な世界に鳴り響いていた。

ユウスケは拳や体に徐々に痛みを感じ始め、雨の冷たさを感じ始めた。

あの夜の残像が雨の中でその輪郭を浮き彫りにしていた。

眼を閉じると瞼の裏にはあの夜が浮かび上がった。

僕はあの夜の光景を瞼の裏に残したまま、真っ暗な世界で、何もかも洗い流すような激しい雨の中、ただ、ずっと立ち尽くしていた。

おしまい

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