健忘症には勿忘草を
上層部から送られてきた文書を見て、私は頭を抱えた。
いくらなんでも、この案は信者がパニックになるだろう。そしてそのままこの地区の教会の消滅への道につながりかねない。私の任期期限はあと4年。その間、体制を整え、少しでも神父の巡回頻度をあげるよう、陳情しなければ。やれやれです。仕事と考え事が多すぎて不眠気味です。
私の不眠の原因その一のお客さんが来た。亘は朝早いので熟睡してるし、私が対応するしかないかな。やっぱり。今夜でもう3回目。さすがに疲れてきた。
「あの、すみません。この町に柊 由奈 さんの実家があると聞いてきたんですが」
そういう男性は30代ぐらいだろうか。すでに2回ここに来てるのに、同じ質問で私に声をかけてきた。極度の健忘症とでもいいのか、仕方のない事なのか。
「申し訳ないですが、柊さんという家は、私は知りません。電話帳で調べてみますか?」
私は、電話帳を差し出したが、彼は受け取ることなく勝手に話しを始める。
「柊 由奈ですよ。知りません?あの有名なアイドルの。俺は彼女の大ファンなんです。それがある時から、メッセージ送っても拒否られるし、コンサートでプレゼントを渡しても、つっ返されるし。そのうち俺は出禁になってしまうし。由奈のやつ、俺がもりたてて、やっと有名アイドルにしてやったのに、いきなり引退だなんて、何考えてんだ。許せない。これから行って天罰を下す」
はいはい。その話し、今夜で3回目です。どう話したらいいもんでしょうね。
”自分が死んでいる”と理解させるのには。これまでの2回、その事を彼に告げても、聞いてないようだった。
男はまだブツブツいってる。
「ところで、あなたはどちらからいらしたんですか?お名前は?憶えてますか?」
「ああん?名前だと。当たり前じゃないか俺は、由奈の自称マネージャーの...あれ?なんだっけ。どこから来たって、そりゃ自分の家からだし」
自分の生前の記憶の殆どをなくし、名前すら覚えていないのに、柊 由奈 って人の事だけは覚えてる、執念なんでしょうね。この人の。
「じゃあ、ここに来る前に、どこに居ましたか?時間があるのでゆっくり考えてみてください」
「ここに来る前は...」
男はしばらく考えたあげく、唐突に消える。これまで2回会ったけど、そういう結果で終わった。しかも同じやり取りをして、その事すら覚えていないし。今日もそうなるのか、
「あなたは、霧山 雄一という人です。あなたは、柊 由奈さんという人を刺し殺そうとして未遂。自分の犯した罪に対しての反省のなさと身勝手さで、世間を騒がした。拘置所への護送の最中に車が事故を起こし、その隙に逃走。翌朝、歩道橋の階段下で死んでいるのが、発見されました。あなたはね霧山さん。階段から落ちて、死んだんです。もう死んでるですよ。自分で自分の体を触れますか?」
いつのまにか亘が2階から降りてきて、男にそう突きつけた。助かりました。それにしても、幽霊の来てる事を知って、調べてくれたんですね。
「俺が死んだ?死んでる?そうだ、思い出した。俺は追われてて。いや、俺は呼び出されたんだ。柊 由奈の居場所を教えるって。で、俺をこんな目にあわせた由奈に仕返しに行こうと、待ち合わせ場所に行ったんだ。で突き落とされた。そうだ俺は殺されたんだ。なんとか犯人を捜して俺の怨をはらしてくれよ」
亘もこの男のいう事には、呆れるを通りこしたかも。だいたい、電話をもたない逃走中の犯人を、どうやって呼び出すというのか。ひょっとして頭の中に声が響いたとかかな?出来るなら説得して天への道のりを歩きだして欲しいのですけどね。
「霧山さん、あなたには二つの道があります。一つは自分が犯した罪を反省しながら、長い道のりを歩き、天に戻り生まれなおす事。もう一つは、このまま消えてしまう事。魂だけではこの世に長くとどまれませんからね。その場合、生まれ変わる事は出来なくなります。」
「俺は悪くない。由奈が俺を無視するからいけないんだ。俺が消えるだと?ありえないね。由奈にとりついて仕返ししてやる。俺を階段から突き落とした犯人も捜す。それまでは絶対に成仏だとかはしない。」
亘は、ため息をついた。おもむろに、右手の指2本、胸にあてラテン語で聖句をとなえた。指が横の花瓶にいけてある小さな青い花をさすと、途端、青っぽい煙のようなものが、立ち上って行くのが見えた。そしてそれは男を包み込み、そのまま暗闇の中へ消えて行った。
「あんな奴、二度と生まれ変わらないほうがいいんですけどね。魂消滅、多いに結構。でも兄さんに、これ以上付きまとわせるわけには、いきません。強制的にこの世から去ってもらいました」
確かに。あの様子だと、又、今日の事を忘れ夜中に現れるかもしれないですね。亘は、その事を心配したのでしょう。それにしても花の精霊で強制送還とは、さすが元エクソシストだ。いろんな方法を知ってるもんです。
「亘、さっきあの青い花から、何か立ち上ったのが見えたのだけど。」
「おや、兄さんにもやっと少し見えましたか。あれは、勿忘草の花の精霊です。我ながらいい花を選んだと思いますよ。ふふふ」
その笑い声、ちょっと怖いです。亘がこういう顔をして笑った時は、何かいじわるな考えがある。小さい時からそうだった。私が苛められた時、亘が怒って相手に、恥をかかせるような仕返しをした。その時もこんな顔で笑ってました。
「あの花は、”私を忘れないで”の意味があります。その通り、由奈ちゃん本人の味わった恐怖や痛み、霧山にたいしての嫌悪感を、天までの長い道のりの間、味わってもらいましょう。」
あの霧山とかいう男が、天にたどり着くまでは、相当かかるだろう。もし、心から改心したとしたら、自分の罪を悔やむ時間があまりにも長くなって、少し可哀想な気もしますが。
「兄さんの事だから、どうせ霧山という男に、少しか同情してるのでしょう。大丈夫ですよ。花の精霊は、最後まで付き合う事はないでしょう。霧山が反省したら先に天に行き、反省しないようならあきれて、ささっと先に行ってしまうでしょうし」
”ところで”と、亘の説教が始まった。兄さんは無防備だの気が長すぎだの、少しはあの男について調べろだの、山ほど。私はこれほど心配をかけてたんですね。
すみません。と謝って2階へあがり、私は今度こそ熟睡した。
水曜日深夜(木曜日午前1時ごろ)更新。週一です。基本、一話完結




