サバイ婆ちゃん
「まいったなぁ」
そう呟く自分の声で、鯖井行道は我に返った。
1月も末の冬真っ盛り、だというのに見渡せば碧い海、見上げれば青い空──彼方には積乱雲が発育の一途を辿り、太陽が暴力的な光量でもって、彼の皮膚にビタミンDの生産を強いる。
振り返ればどう見ても赤道直下な植生どもが、風に吹かれてざわざわと福本的なSEを奏でていた。
なんともはや、ヤケクソ気味の常夏感。ダッフルコートにジーパン姿は、場違いにも程がある。
あまり見事なキャスト・アウェイ──どこともしれぬ南の島で、彼は途方に暮れていた。
「……まいったなぁ」
ひとまずはコートを脱いで、同じセリフをもう一度──いったいどうしてこうなった? 足元を見つめ、じっと思考を巡らせる。やがて、ひとつの閃きが訪れた。
「グラコロ……」
寂然とした呟きとともに、ユキミチの脳裏にジャンクでコムギカンでカロリッシュな食べ物の姿が描かれる。それを皮切りに、フラッシュバックが連鎖する。
捗らない受験勉強、息抜きという名のSNSへの逃避、フォロワーの深夜の飯テロ、囁かれる偏執的なまでのグラコロ愛、グラコロbot化するフォロワー、訪れるミーム汚染、グラコロで埋まるTL。
未体験からくる疎外感、反発心、ないまぜのままググる。ギリギリまだ販売期間──もう慌てる時間じゃないか!
財布片手にスプリント、駅前のマックへ急げ、急ぐ、急がなきゃ。
「んで、」
KONOZAMAである。まるで意味がわからない。
それでも無理くりに心当たりを述べるとすれば、近道の丁字路か。
そこを左折した所で、ユキミチの記憶はバケーションなロケーションまで飛んでいる。やはり右折で正解だったか。いやはや、横着などするものではない。
ひとまず帰り方をググっとこう──現代っ子の感覚で、コートの中からスマホを取り出す。と、そこでぐらりと来た。
俗にいうハンガーノック──極限の空腹と渇き、目眩と頭痛がユキミチを襲う。「こりゃまずい」と思った時には、前のめりに倒れていた。
波しぶきが容赦なく押し寄せ、少年の手からスマホを攫う。
理性の警告──立て、早く立って水場を探せ。さもなきゃせめて木陰に入れ。
本能が誘惑──このまま死ぬのもいいかもな。
それは、とても魅力的な囁きだった。ひとたびそう思ってしまえば、抗う気力も失せていた。
──いつも僕は意思薄弱で、すぐに人の意見に流されて。おまけにこんな、方向音痴で。
──このまま大人になったって、社会の荒波で溺れ死んだに違いない。恐らくはもっと惨めに、もっと無様に。
それに比べて、ここは何といいところだろう。なんていい天気だろう。死ぬにはいい日、なんて言葉があるけど、まさに今日がそれかもしれない。
ああでも、せめて一口。
グラコロが食べてみたかった──。
暖かな光、穏やかな波。その2つに抱かれて、少年は微睡みに堕ちていく。
瞼の裏にグラコロ浮かべ、小麦色の幸福へと旅立つ少年の眼前に、いつしか人影が落ちている。
奇妙な人影だった。
ユキミチが『居る』と認識するまで、それは確かに居なかった。
そして認識してすら、人影の輪郭はぼやけ、かすみ、古いテレビの映像のような不確かさでもって、実在と不在のちょうど狭間を揺れている。
人影が言った。
「生存んしゃい、ユキミチ」
力強い呼びかけに、否応なく心惹かれる──未だ夢と現のさなか、ユキミチはまぶたを持ち上げ、仰ぎ見た。
小柄な身体にサファリな上下、ナップザックに探検帽。いかにも世界で不思議を発見しそうな、実に日立な出で立ちだ。
老婆だ、とかろうじて分かった。逆光の中、油っぽい銀鼠色の引っ詰め髪が、陽光浴びてギラギラとまばゆい。見下ろす視線も獰猛に、少年の体たらくをまじまじと見定める。
その眼の色に見覚えがある気がして、ユキミチは頭を巡らせた。やがて答えにたどり着き、ハッとなっておもてを上げる。
「ばあちゃん!?」
「そうだねぇ」
肯定の返事とともに、懐かしい気配、そして匂いが色濃く漂う──老いてなおますます盛ん、羅生門の追い剥ぎ婆を100倍タフにしたような、野生のババアが現れた。
鯖井ハル、御年確か92歳──ただし、生きてさえいれば。
行方不明の少年の祖母が、どういう訳かそこに居た。
◆
ざっし、ざっしと白砂かき分け、ユキミチはあてどなく進む。先刻の怠惰ぶりはどこへやら、両の瞳を血走らせ、生還への手がかりを探す。
その後ろを、相変わらずホログラムのような希薄な気配の老婆が追う。
「どこへ行こうと言うんだねぇ」
「決まってる。僕は日本に帰るんだ。帰って、グラコロを食べるんだ」
さりとて特にあてはなく、あるのはただグラコロへの渇望だけだ。
やがて20分ほど歩いた所で、砂浜と地続きの森に行き着いた。
足を止めて一息入れる。すぐそばのババアも止まる。
ざざぁん、ざざぁん。潮騒がユキミチの耳を撫でる。
ザザァッ、ザザァッ。祖母もまた、ブレたりブレなかったりした。
いい加減目にうるさいので、話しかけざるをえない。
「婆ちゃん」
「なんだねぇ」
「婆ちゃんは幽霊なの?」
「違うねぇ。婆ちゃんオカルトじゃないんだねぇ」
「ならなんなの」
「難しいことは省くけど、ひとことで言うと婆ちゃんは『確率』なんだねぇ。生きているけど生きていないし、居ないけど居るんだねえ」
「量子力学なの? 婆ちゃんはダブルオーライザーなの? ゼーガペインなの?」
「現象としてはサーヴァントが近いかねえ」
うるせえな、と心底思った。ニュアンスが分かる自分が嫌だ。クラスはさしずめsurvivorですってか? それこそずばりオカルトじゃねえか。
いや、よそう。こんな加藤鷹botみたいな口調の、シュレーディンガーの婆の言う事を真に受けてはいけない。
ひとまずこれからどうしよう──ググレカスとはよく言うが、今やユキミチはググれないカスだ。そして世界は、カスにあまり優しくない。
「──伏せるんだねえ」
不意に祖母が呟いて、嫌な予感が背筋を走る。ユキミチは言うとおりに伏せた。
直後、茂みの中から巨大な影が凄まじい速さで飛び出し、ユキミチのいた木陰の幹に激突した。衝撃で巨木が倒れ、濛々と土煙が上がる。
一体何ごと──振り返ったユキミチは、懸命に目を凝らす。
「Gururururu」
低く重たい唸りを上げて、襲撃者が姿を現す。体長およそ3メートル、黄色と黒の縞模様。餓えと殺気に満ち満ちた、すわったお目目がほの光る。
「と……虎!?」
「ありゃベンガルだねえ。虎は縞模様と体毛の色で見分けると楽なんだねぇ」
「インド産が何故ここに……!? いや、なんでいきなり襲ってくるんだ!」
「迂闊に縄張りに入るからだねぇ。マーキングをよく見るんだねえ」
そう言って、祖母は一本の木の根本を指差した。
「虎は自分の縄張りの木や石に爪痕を残すんだねぇ。ユキミチの不法侵入なんだねぇ」
「知るわけ無いだろ、そんなこと!」
などと言ってる間にも、トラの爪牙が少年を襲う。ユキミチはとっさに木を盾にした。強靭な前肢が閃き、コンパクトな三日月を描く。鋭利な爪が大振りなソテツを穿ち、やすやすと両断した。
「なんとかしてよ!! お婆ちゃん!!」
「しょうがないねぇ」
早々のギブアップに、祖母はやれやれとかぶりを振った。だが満更でもなさそうだ。肉親だけはカスにも甘い。
睨み合う一人と一匹。虎が吠え、ババアがブレた。ガオーッ。ババァッ。果たしてどちらが優勢なのか、少年の理解は追いつかない。
「Gururururu……」
虎の理解も追いつかない。かすむババァ、現れるババァ。こんな獲物は初めてだ──当惑混じりに吠え続ける。
「去ぬがいいねぇ」
ババアの放つ言霊とプレッシャーに、ネコ科の獣は気圧された。やがて諦めた様に、虎がぷいっとそっぽを向いた。踵を返し、森の奥へと消えていく。
助かった──ユキミチはその場にへたり込んだ。どっと汗が吹き出てきて、心臓が早鐘を打つ。
頭痛腹痛悪心眩暈、あらゆる苦痛が少年を苛んだ。
「もうこれで分かったねぇ」
悶える孫を見下ろして、祖母はとくとくと語った。
「ユキミチにゃ生活力が足りないんだねぇ。学校のお勉強だけじゃ、世の中やっていけないんだねぇ」
生きるってのは大変なんだねぇ──そう締めくくると、祖母はユキミチに背を向ける。
「婆ちゃんなら、すべてを教えてあげられるんだけどねぇ。でもユキミチが望まないなら、婆ちゃんこれで消えるとするねぇ」
そのうちまた会おうねぇ──寂しそうな微笑み遺し、祖母が虚空に消えていく。
ヤバい、本気だ──本気で祖母は消える気だ。今更一人残されたって、やっていけるはずがない。
もう20デニールほどに薄まったババアに向けて、ユキミチはたまらず手を伸ばす。
「待って、待ってよお婆ちゃん!」
あまりに過酷な現実に、少年の心はたやすく折れた。
◆
あれから一年と半年が過ぎた。
ユキミチは、原生林の奥深く──一本の木の上で、じっと息を殺し続けている。
両手には自作の弓矢。それを携え、ある一点──細く流れる小川に向けて、絶えず注意を払っている。
やがて、一頭の猪がしげみをかき分け現れた。大きい。年も若く、100キロ近くはありそうだ。
獲物はユキミチに気づかない。木石と化した彼の気配は、野生すらも謀った。
猪はのそのそと、実に無防備に歩を進める。やがて水辺に落ち着くと、目を細めて思う様飲みだした。ユキミチは動かない。しっかりと獲物を見定めながらも必中の時を待つ。
猪が水を飲み終えた。満足そうにおくびを漏らす。
『今だねぇ』──祖母の声が聞こえた気がして、ユキミチは矢を解き放った。ぷん、と弓弦が震え、音もなく矢が疾走る──透明の殺意はどこまでもまっすぐに、ユキミチの視た未来へと飛翔する。そして未来は現在に、瞬く間に過去になる。
放たれた矢は恐るべき精度で猪の眼窩に命中し、柔らかい眼球を食い破って脳へと達し、そして。
──ぷぎィッ。
ひとつ高く嘶いて、猪は絶命した。
◆
「随分腕を上げたねぇ」
炙った猪肉を一つ齧って、祖母のハルがしみじみといった。
「恐縮です」
ユキミチは頭を垂れて、己の分を頬張った。若い猪の肉は、野趣が強いが歯ごたえもよく、肉汁も多い。余った分は燻製だ。テキパキと準備をすすめると、祖母が手元を覗き込む。
「調理、工作、医療に狩猟。どれをとっても一人前、婆ちゃんもう安心だねぇ」
「いえ、師の教えが良いのです。そうでなければ、いったい何日生き残れたか……」
面映さに薄く微笑みながら、ユキミチはこれまでを振り返る。
全く、酷いものだった。火も起こせなければ水の確保もままならず、何度も何度も死にかけた。
それでも祖母は孫を見捨てず、ユキミチが死にかけるたび、丁寧に教えを説く。
彼女の深い経験と知識に触れるたび、己がいかに浅学で、無力だったかを思い知る。そのたびに湧き上がる、崇敬と感謝の念。
時折「ストックホルム」という単語が脳裏を掠めたが、ググれないのでほっといた。
今や彼は楽しんでいる──生きることの困難さを。もはや島は庭同然、彼は絶対の強者であった。
「だがアンタ、この島じゃ二番目だねぇ」
ピクリ、ユキミチの肩が震えた。出来立ての燻製が滑り落ちる。聞き捨てならない言葉だった。
「お言葉ですが、師よ」
「婆ちゃんと呼ぶんだねえ」
「婆ちゃん、もう昔の僕じゃない。こんな大きな猪だって、僕にかかれば一捻りさ。そんな僕に勝てる奴が、まだこの島にいるのかい?」
「居るじゃないか。あんたが初日に出くわした、ホラ、アイツだねぇ」
糸目がちな祖母の瞳が、挑発的にギラリと光る。
忘れもしない、漂流初日。ユキミチが初めて出会った死の恐怖──黄色と黒のプレデター。
「アイツか……」
少年の胸中に、苦い記憶と六甲おろしが吹き荒れる。ユキミチは翌朝から、打倒虎に向けて動き始めた。
◆
払暁、薄暗いジャングルに蛮声が響く。
「森の中の虎、出てこいや!!」
静寂と眠りを妨げられ、平和な森が騒然となった。鳥も、鹿も、猪も、不安げな様子で周囲を見渡す。
ただ、虎だけが──この森の王だけが動じない。
勇ましくも不遜極まる呼びかけに、虎は悠然と頭を起こした。
何事か、とは思わない。頂点に立つ以上、こうした挑戦は避けられないし、避けるべきではない。
ただし、その無謀がいかに高くつくものか、思い知らせてやらねばなるまい。
久方ぶりの高揚感──狩りとは違う、決闘への昂ぶりを胸に、虎はねぐらを躍り出て、そしてそこで目をむいた。
「Gururururu……!?」
彼の縄張り、そのど真ん中の地にあって、見知らぬ異界が広がっている。
それは、敵の縄張りだった。同時にまた、祭壇でもあった。一辺5.48メートル、戦士のみが立ち入る事を赦される、荒ぶる生命の夢舞台。
すなわちそれ四角いジャングル──栄光のプロレスリングが、南海の孤島に現れた。
その中心、闘魂を総身に漲らせ、王者を見据える若武者一人。
「おうコラ、虎コラお前やれんのか!? ここで俺とやれんのか!?」
来いコノヤロー、なんだバカヤロー。
完全に出来上がった戦士は、罵声とも咆哮ともつかぬものを喚き続ける。
ともすれば侮辱とも取れる挑戦に、しかし虎は頷いた。
──いいだろう。受けてやる。
ひらり巨躯を宙に舞わせて、軽やかにリングイン。マット、コーナーポスト、ロープの感触を確かめる。
リング中央にはレフェリーのババア。実況・解説席にババア。リング脇にもリングドクターのババアが控え、万全の体制で試合を見守る。
周囲にはいつしか森中の動物たちが、この世紀の一戦を見届けようと集まってきている。全く物見高いことだ。
まあ、いい。一体誰がこの森の王者か、その威厳を知らしめるには、うってつけの舞台である。
やがて陽射しが闇を払うころ、戦いは始まった。
◆
「Fightッ!」
レフェリーのババア氏による号令と同時、両者ゆるりと前に出る。
厳かな立ち上がりとは一転、試合は非常に荒れた展開となった。
狭苦しいリングの中、王者ベンガルトラがいきなり仕掛けた。ネコ科特有のしなやかな跳躍から大顎を開く。数多の獲物を屠った大振りな剣歯が朝日を受けて鈍く光る。
挑戦者はかろうじて反応、素早く伏せて転がるように回避。直撃こそ避けたものの、額を牙が掠めたのかいきなりの流血。会場がどよめき、ここでレフェリーがタイムストップ。不審がる虎に対し、噛みつき及び捕食行為の禁止をアナウンス。
王者が不満を訴えるも、レフェリーは取り合わず。
イエローカードが提示され、減点1ポイントとなる。虎には理不尽にしか思えなかったが、従うにやぶさかではない。王は戦場を選ばぬからこそ王なのだ。
スタンドで試合再開。
いきなりのアウェーの洗礼に多少面くらいはしたものの、王者はまだ落ち着いている。牙がダメでも、虎にはまだ武器がある。そう、爪だ。
再び跳びかかった王者ベンガル、俊敏に脇へと回ると前肢を一閃。かつてソテツの巨木を一撃で両断した恐るべき猫パンチを繰り出す。
アッパー気味の一撃を、挑戦者はまたもやギリギリでスウェーバック。腹から胸にかけてざっくりと裂け、鮮血が飛沫となって観客席に降り注ぐ。
こんなものか──いささか失望を覚えながら、虎は後詰の左を繰り出そうとする。再びレフェリーが両者の間に割って入った。ダウンか、いや違う。
「Stop!! Don't Scratching!」
何とまさかの爪もダメ──では一体どう戦えというのか。不可解な裁定に今度こそ虎は猛烈に抗議。苛立ち混じりの咆哮を放ちながらレフェリーに詰め寄る。
だがレフェリー、荒ぶる猛虎を前にして、あくまでも量子的な態度を崩さない。
「This is “MMA”, not Savannah rule. you OK?」
なるほど、Vale Tudoではなかったか──虎はようやく理解した。ローカルルールは難しい。
度重なる反則行為に、レフェリーは二枚目のイエローカードを提示。厳重な注意と共に、あと一回の反則で失格となる旨を宣告した。観客席からは激しい非難のブーイングが巻き起こる。
挑戦者にはインターバルが与えられたが、出血は中々止まらない。しかし挑戦者は続行を希望。ドクターの協議の結果、痛みどめの少しいけないキノコを接種後、試合再開の運びとなった。
王者、今度は様子見の時間が長い。そもそも一辺5.48メートル四方の空間ではその体格が災いし、自慢のフットワークを生かしきれない。
対する挑戦者も失った体力ばかりは如何ともしがたく、王者の懐にもぐれず膠着した展開に。客席からはさらなるブーイング。
王者はこれに焦れたのか、はたまた威厳を損なうことを恐れたか、ジリジリと咆哮やフェイントでプレッシャーを掛ける。
挑戦者、たまらず後退。気づけばロープを背負っている。これはやや不用意だったか。ここが勝機と王者が詰める。悩んだすえ、仕掛けたのは体当たりだ。噛まぬよう刻まぬよう意識された慎重な一撃は、しかしそれ故にキレがない。
ほぼ同時、ここしかないと挑戦者が動く。背負ったロープをバネに、真っ向正面迎え撃つ。まさかの特攻──後退は罠だった! 虚をつかれた王者のブレーキ、だがもうどうにも止まれない、これぞまさに起死回生、若武者の膝蹴りが王者の鼻先にカウンターで突き刺さる。
王者、不覚! たまらずその場に崩れ落ちる。太い首に挑戦者の両の腕がするりと巻きつき右脇でクラッチ。ごろり横転、自重と回転を利用してグイグイと締めあげる。そう、これこそブラジルの名選手、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラの得意技スピニング・チョーク! またの名を、
「アナコンダチョークだねぇ」
挑戦者の作戦、そして技のチョイスに、解説のババア氏がしみじみと頷く。
もがく王者、しかし爪は使えない、どうする、どう引き剥がす!? 観客席から「ブヒィ」「ウホォ」と歓声があがる。「落とせコールだねぇ」──ババア氏による解説も、興奮のるつぼの中で掻き消えた。
王者、かろうじて自由な左前肢、見かけによらずふっくらした肉球でぷにぷにと挑戦者の脇腹をつつく。挑戦者たまらずほっこり。しかし技は解けない解かない。
俺がバンズでお前がパテで、小麦粉使用0%、血と汗と涙がソース、隠し味はいけないキノコ、喰らえ男の虎料理、寝技で必ず殺す、これが俺のグラコロだ。
王者耐える、しかし苦しい。思い出せ、おのれがまとうその色を。黄色と黒、その二色は一体何の印だろうか。そう勇気、だが無情、酸素はそれじゃ補えない、これは厳しい、目が回る、汗がまるでバターのよう。もがく四肢から力が抜ける、弱々しくしっぽが堕ちる。ダメか、無理だ、ギブアップ。
1ラウンド4分14秒、鯖の血を引く若蛇が、巨大な虎を飲みんだ。
◆
激闘から3ヶ月が過ぎた。
「いよいよだねぇ」
浅瀬に浮かぶイカダをみて、祖母はしみじみと呟く。その態度は例によって淡々しているが、どこか少し寂しげである。
それもそのはず、今日は孫の門出の日──日本へ帰国を目指す航海が、いよいよこれから始まるのだ。
トラを下し、島の王者となった今、ユキミチがこの島に留まる理由はもはやない。今や彼は、一皮むけたカスなのだ。だからもう、どこでだってやっていける──強く孫が訴えた時、祖母は黙って微笑んだのであった。
子が育つのは早いねぇ──昔日を振り返っていると、足元に色濃い影がさす。
「大変お世話になりました。この島の経験を糧にして、これからも強く生きていこうと思います」
つきなみな、しかし真摯な言葉に祖母は静かに振り返る。出港の準備を終えたユキミチが、折り目正しく控えていた。その傍らにはベンガルトラ。
この虎は潔く敗北を認め、狩りにイカダ作りにと大いに孫を助けた。更に船旅にも同行するという。今や親友と言ってもいい彼らを、引き裂く理由もないだろう。
「達者でやるんだねぇ。婆ちゃんいつでもどこでも、見守っているからねぇ」
「婆ちゃんはこれからどこへ?」
「そうだねぇ。またどこかで死にかけてる子でも見つけて、鍛えあげてやろうかねぇ」
その思いつきが妙案に思えたか、祖母の表情から陰りが消える──いつ見ても頼もしい、タフな背中が夏空の中に溶けていく。
「婆ちゃん、元気でね! 量子的に元気でね!」
弟子として、孫として送る最後の言葉は、やっぱりどうもつきなみで。
それでも祖母は、ワイルドな笑みで応えるのだ。
「思うように、生存んしゃい。笑顔で、生存んしゃい」
その言葉を最後に、師であり祖母である量子存在は真昼の孤島に掻き消えた。
ざざぁん、ざざぁん。一人になったユキミチの耳を、潮騒が優しく撫でた。漂流初日を思い出し、懐かしさが胸に溢れる。だがもう、寂しくはない。祖母はいつでも、どんな時でも自分を見守っているのだから。
「……行こうか、李徴」
「ガウッ」
相棒が一つ吠え、軽々とその身を踊らせた。素早くもやいを解き放つと、自身も船上の人になる。
天気は快晴、波は穏やか、絶好の航海日和。だが行く手の彼方に積乱雲が、とぐろを巻いて待ち受ける。それを見て一人と一匹、顔を見合わせにやりと笑う。
荒天高波どんと来い──人生は、いつだって冒険なのだ。
◆
──10月某日、ユキミチは小笠原諸島沖でサンゴの密漁を企てる外国船舶にベンガルトラをけしかけている所を、海上保安庁の巡視船「あこぎ」によって発見・保護された。
帰国後すぐに身元確認が行われ、ワシントン条約違反及び外国貿易管理法違反の疑いで拘禁。保護観察処分が妥当とされ釈放、およそ二年ぶりに帰宅。
奇しくも日付は1月末日──すなわちグラコロ最終日。
◆
ユキミチは、夜の街をひた走る。財布に340円、息せき切って征く道は、あの日迷った分かれ道。
ここを左折したならば、またどこかに迷うのだろうか。それも一興、冒険心がうずくけど、今日のところはまだ我慢。
運命の曲がり角を落ち着いて右折。直進して更に右折。駅前通りに躍り出て、あとはもう一直線──閉店間際に無事入店。
ユキミチは早速モスチキンを購入すると、「これじゃない、でも美味しい」と文明の味に涙した。