偶然
クライン・メドワーズは人を殺した。
仄暗い路地裏で、憎き男の心臓を一突き。それでも納まらない憎しみに、息絶えて肉塊と化した男をめった刺しにして穴だらけにしていく。彼は長いことその路地裏にいたが、偶然にも誰一人そこを通る者はいなかった。ついにはその憎しみをすべて吐き出した彼は真っ赤に染まる。
さてどうするかと、彼が凶器となった刃渡りの長い包丁や目立ちすぎる奇抜な服を見つめる。だが、彼はこの後どうするかと考えた自分自身をを笑った。どうすることもなかったのだ。
彼はその奇異な姿のまま自分の店まで戻った。肉屋だ。
普段から動物の肉を切り血を浴びている彼の姿を見ても誰一人として彼が危険な、ついさっき人を殺してきた人間だとは思わなかった。
だからといってクラインは気が気ではなかった。あの憎き男と関わりがあることは誰もが知っていることだった。つまり、あの男の死体が見つかれば即座に自分が疑われてしまうのではないかと。いいや、あの男は自分だけに憎まれていたわけではない。大丈夫だ。疑われるのは自分だけではない。彼の頭の中はまるで自分の尻尾を追いかけ回す仔犬のようにぐるぐると目まぐるしく堂々巡りを繰り返した。
翌日、肉屋の男は偶然に救われた。
なんでも、彼が憎き男を殺すより前から起きていた連続通り魔殺人。あの男がその被害者であると新聞には書いてあった。どうやら殺し方や時間帯などが一致していて、警察も同じ事件として追うことになったらしかった。なんという偶然。
クラインの胸の内は安堵で満たされせ、ついには捌いている最中の牛の前で高笑いとなって溢れ出た。そんな彼を店の従業員たちは奇異の目で見つめたが、彼にとってそんなことはどうでもよかった。あの憎き男から解放される。殺した後も長いこと頭に付いて離れないであろうと考えていた、あの男からだ。その事実だけあれば充分だった。
しかしそれから数日、彼は別のことで頭を縛られることになった。
連続通り魔殺人の犯人がいつになっても捕まらないのだ。これでは安心できない。警察はもっと有能なものだと思っていたのに、全然犯人が捕まる気配がない。
「やってるかい?」
クラインが豚を前に未だに切り掛からないでいると、店に男が入ってきた。
男はブレッグ・マーラー警部。町でも名の知れた名警部だった。
「ああ、警部さん。どうされましたか?」
クラインはこの警部が自分のことを疑っているのではないかと考えた。しかし、警部ははてなといった表情をした。
「どうされた? 君は私に魚を売ってくれるのかい?」
「ああ、肉を買いにね。何をお求めですか?」
「人の肉は売ってるかね?」
「はい!?」クラインの声が裏返る。「何を仰います。冗談にしては笑えませんよ」
「いやあね、最近まで起きてた通り魔殺人。あの事件がどうにも解決しないものでね。苛立っているのさ」
「ああ。なかなか難航しているようで」
「そうなんだ。あ、牛の肩肉を頼むよ。それでだな。君の知り合い」
「ああ……確かに僕の知り合いも殺されました…………」
「そう。あの男が死んだら途端に事件が起こらなくなった」
「……」クラインは黙っていたが、内心少しばかり焦りが生まれた。
「君はここからどういった結末を導くかね?」
「僕は肉屋ですよ。そういったことは――」
「いいんだ。苛立つと頭が回らなくてな。私の苛立ちを抑えるために、考えてみてくれ」
「……」肉屋は黙り。考える仕草を見せる。「僕の知り合いが犯人だった、とか?」
「ほう。確かに、それならあの男が死んだ後に事件は起こらないな。しかしどうだね。それならあの男はどうして死んだ」
「さあ……?」
「考えてみてくれ」
「はぁ……」クラインは牛の肩肉を用意しながら困惑してみせて応える。「あ、彼が犯人じゃなくて、他の誰かが犯人だとして、彼が最後の目的だったんじゃないでしょうか? だから、殺人が終わった」
「だとしたら、犯人はまだのうのうと暮らしているということだな。君や私のように」
「そうなりますね。どうぞ、牛の肩肉です」
「ありがとう」
ブレッグ警部は肉を受け取り、代金を払って店を出て行こうとドアに向かう。
クラインは小さく一息吐いて肩の力を抜いた。その時。
「ところで」警部はドアノブに手を掛けた途端に翻った。「君の知り合いが通り魔殺人の犯人だったという君の考えだが、通り魔の彼を別の誰かが殺したとなればどうだろう、君。……しかし、さっきの君の考えも捨てきれんな。やはり別に犯人がいるのかもしれんな。ああ! まだ頭が回らん! すまんな、また肉を買いに来るよ。では」
ブレッグ・マーラー警部はクラインの応答を待たずに店を出て行った。
それから数日後、クライン・メドワーズは捕まった。
それも、偶然にも名警部が苛立ちで頭がしっかりと回らなっかたがために、憎き男を含む大勢の人間を殺した、連続通り魔殺人の犯人として。