夏の夜の幻想
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一
夕月は車を降りてから、緑の空気の濃くなった砂利道を歩き続けていた。
車一台やっと通れるほどの砂利道は白い陽差しを浴びてくすんだ灰色をぼやけさせたまま続いている。その道程の遠さに夕月は諦めて来た道を引き返そうとも考えた。しかし振り返ってみても砂利道と緑がぼやけて続くだけで、今まで歩いて来た距離をただ引き返すのも躊躇われた。いや、どちらにしろ夕月の行き場所は一つしか無いのだ。
夕月自身が自分の身を持て余していた。大学を卒業して無事入社して晴れて社会人になったまでは良かったが、その社会は夕月が耐え得るものではなかった。事務の仕事自体は大したものではなかったが、夕月の臆病な性質がその会社で自分の置き場所を確保するのを邪魔した。会社に入ってすぐに一人の男に言い寄られるようになって、それを無下にする勇気もなければ、上手くかわす術も持たない彼女は気付いた頃にはその男のモノになってしまっていた。断りきれぬままに男の一方的な親切を受け、おどおどしているうちに、段々とその男に愛情という名のものを注がれるのが苦痛になった。男はそれに見返りを求めたし、自分を愛する事を求めた。夕月は男に恋愛感情は湧かないまま、ただ男の求める見返りを差し出す日々を繰り返すうちに、針に刺されるようなストレスが次第に心の内だけでなく体の方にも回ってきて、ついに働く事も難しくなった。仕事を辞めて実家に戻ってみても、居場所はなかった。両親は口々に新しい仕事を探せと言うし、例の男は何度も電話を鳴らす。夕月は自分がはっきりとした態度をとれないのがいけないのだと思った。自分のこの卑屈な性質は、どの会社に行っても上手く順応出来ずに八方塞がりになってすぐに弾き出されてしまうだろう。そう考え続けるうちに、自分はどんな社会にも適応できないというところに思い至り、いよいよ自己嫌悪と日常の疎ましさから、部屋へ閉じこもり何をする気力も起きないようになっていった。無論、夕月の両親も夕月の事を持て余していた。七月に実家に戻って来てから、新しい仕事を探す素振りを見せるどころか暗い表情ばかりして二コリとも笑わない娘をどう扱ってよいのか困惑していた。夕月の纏う陰鬱な空気が家庭にいよいよ暗い影をさすようになったのを見かねた両親は、夕月を祖母の家にやる事にした。
「気分転換にお祖母ちゃんの家に行ったらいいわ。あそこは静かで空気も良いし、それに最近お祖母ちゃん、何だか体調が悪いみたいなの」
母は小さな子供に言い聞かせるような口調で、そんな事を言った。夕月は何だか自分の母の事が結局は他人に過ぎないような気がして、その申し出を断る事が出来なかった。そして今、祖母の家に向かうためにただひたすらに砂利道を歩いている。
二
時折、生温い風が強く吹いてざわざわと音を出した。色褪せた竹の葉が宙を舞って、夕月の肩をかすめてゆく。砂利道に沿うように小川が流れていて、その右岸は竹林が続いているのだ。夕月の居る方はその竹林とは対岸ではあったが、時折、川を跨いで竹が砂利道の上にまで倒れこんでいた。七月の台風の名残りだろう。これが、夕月がわざわざ車を置いて歩かねばならなくなった理由である。夕月の歩いているすぐ傍には梔子が陽を浴びて白く光りながら淡い香気を放っている。そして梔子の樹の先には目の眩むほどの濃い緑の常緑樹林が見渡す限り続いているが、そのどちらも全く夕月の気をひくことはない。
もう二時間近く慣れない道を歩き続けたせいで、一々自然を楽しむ余裕など残っていないのだ。じわりと額に浮かぶ汗を拭いながら夕月は死人のような目を雲ひとつない空へと向けた。頭上の高いところから、空の青さを掻き消してしまう程の強い光を太陽が放っている。目蓋を下ろしても消えないほどの残像を散らす強い日差しに夕月は軽い眩暈を覚えた。段々と視界は色を失いはじめ、暑さからとは違う冷たい汗が背中を伝うのを感じて、思わずひきずるように動かしていた足をとめる。
そこで夕月は自分の足がひどく痛むのに気付いた。車で祖母の家まで行けるものと思い込んでいた彼女に山歩きの準備などあるわけなどなく、履いているのはウエッジソールの白いサンダルで、ベルト部分が擦れたからか、青白い足の甲の皮膚が破れて痛々しい。
夕月は深い溜息をついて、少し休もう、と傍を流れる小川への岩場を慎重に下りた。小川はその砂利道から一メートル程窪んだ所を流れているのだ。黒い岩にぶつかりながら流れるそれは夕月の膝くらいまでの深さで、水源に近いためか水は澄んでいて美しい。飛沫で濡れた岩に躊躇いもせず腰を下ろして、夕月はそっと清水に足をひたした。水は突然現れた夕月の足首に戸惑いながらも光を散らして流れてゆく。ひんやりと心地よい水の感触に、火照った頬を手の平で押さえながら夕月は目を閉じた。もう十五分も我慢して歩けば、祖母の家には辿りつくだろう。しかし夕月の気持ちは重苦しかった。祖母の家に当然のように厄介になるほど夕月は祖母と親しいわけではなかったからだ。 祖母と最後に会ったのは、もう五年も前の祖父の葬式の時でその時も大した会話をしていない。祖母と夕月の繋がりといえば年賀状をやり取りする程度だった。小学校の頃などは、夏休みの度に祖母の家へ行き、この小川で水遊びをしたものだが、それは夕月にとって遠い昔の夢のような記憶でしかない。夕月は祖母の顔さえぼんやりとしか思い出せなかった。そんな自分がこれから祖母と二人きりで過ごし、上手くやっていけるのか、それが不安で仕方ない。向こうも迷惑だと思っているのではないか、いや、初めはそう思っていなくとも厄介になるうちに迷惑だと感じさせてしまうのではないか、そう考えるだけで、夕月は消え入りたいようなどうしようもない衝動にかられた。
暗い方へと簡単に沈んでゆく思考を蹴散らそうと足首をくすぐる水をパシャと一度蹴った。小川の上は竹の葉が覆っていて幾分涼しい。淡い黄緑の影が川全体に落ちている。細い葉では受け止め切れない陽光が、たまに風が吹く度に水面を白く光らせた。少しだけ疲労の抜けた体を起こそうとして、夕月はふと目を落とした水面の上に灰青の影が浮いているのに気付いた。何だろう、と目を凝らしてみると、その影は水の流れと共に深い青になったり、灰色を帯びたりを繰り返しながら、濃茶の岩と岩の間で揺らめいている。不思議に思ってしばらく見守っていたが、それは岩にぶつかったかと思うと跡形もなく消えてしまった。夕月は首を傾げて、ゆっくりと立ち上がった。
三
夕月の暗い予想に反して、祖母は柔らかい笑顔で彼女を出迎えた。目尻に深い皺をよせて
「遠いところから、よう来なさった。暑かったろう」
と、夕月の頭を撫でて、よく冷えた麦茶と糖蜜のたっぷりとかかった葛餅を出した。黒檀のテーブルには薄青の敷布が掛けられていて、麦茶の入ったグラスの結露で環状の染みが出来ている。 ・・・・・・この染みは跡に残ったりしないだろうか。
夕月はそんな些細な事さえ気になって仕方なかった。
祖母はいつも目を細めて優しい笑みを夕月に向けた。この家で夕月は、まさに至れり尽くせりといった感じだった。夕飯の準備から風呂や寝具の用意に至るまで、祖母はてきぱきと済ませて夕月をもてなした。夕月は手伝おうにも勝手がわからず、ただおどおどするだけだ。もう大人の年齢に達した夕月は自分がどこまで祖母に甘えていいのかを判りかねていた。祖母の心遣いをひしと感じる度に、自分が何も出来ない孫である事が申し訳ない気がしてたまらない。久しく笑うという事をしなかった夕月は、祖母の優しい微笑を見ても、上手く笑顔を返せずに、曖昧に目を伏せて笑う事しか出来ないでいた。そして自分はこのまま祖母に与えるだけ与えて貰って、何一つ祖母に恩をかえす事は出来ないんじゃないかと漠然とした不安を感じ始めていた。祖母が与えてくれるものは、今まで両親や男から与えられたものとは、全く違う印象を受けた。見返りを求めていないのだ。押し付けがましさのない優しさに包まれた柔らかい気遣いが、夕月は嬉しかった。だからこそそれがたまらなく苦しくもあった。自分は変わらなくちゃならない、祖母に優しくされる度にそう思う。もっとしっかりと人を支え、与える事の出来る善い人間にならなければ、と。しかし、実際夕月は全くそこからかけ離れた場所にどうする事も出来ずに立ち尽くしていた。それに気付く度に夕月は罪悪感に似た寂しい虚しさを感じずにはいられなかった。
それでも田舎の時間は、静かに緩やかに流れていた。祖母は、午前中は縁側に腰掛けて水彩画を描くのを日課にしているらしい。
「何か、頭を使ってないとすぐ呆けてしまうからねぇ」
そう言いながら、鉛筆の下絵に淡い青色をのせる。祖母は大抵庭先に咲く花を写生している。今日は露草だ。夕月は隣で祖母の絵の進行具合をただ見つめていたが、露草の花弁が鮮やかな青に塗られ始めた時、ふいに川で見た青い不思議な影の事を思い出した。一体あれは何だったのだろう。そう考え出すといよいよその正体が気になり始めて、思わず祖母に「散歩に行ってくる」とだけ伝えて、夕月は川へと向かっていた。
四
川は相変わらず竹林の薄緑の影を満たして、薄い膜の中を流れているようだった。昼前の陽射しは、さほど強いものではなかったが砂利道には陽を遮るものがなく暑かった。夕月はあの不思議な影を見た場所まで下っていく予定だったが、どうせなら川の中を歩いて行こうと考えた。川の中なら竹葉が陽を遮っていて涼しいし、あの不思議な影の正体を確かめやすいだろう、と思ったのだ。祖母が使うのだろうか、河岸には木で出来た階段状の足場がある。サンダルを脱ぎ捨てて夕月はその足場から川へと降りた。
水の流れは幾分か穏やかで、深さも夕月の脹脛までしかない。川底の泥土は柔らかく生温い。夕月はスカートの裾が濡れないように太ももまで捲くし上げて、ゆっくりと下流の方へ歩を進めた。意外に簡単に、その不思議な影とは出会う事が出来た。それは目を凝らすとあちこちにあるのだ。黒い岩の影や、水の流れに紛れてたしかに、灰青の影がある。しかし、その正体は何なのかわからない。触れようとすれば、泡のように消えていったり、普通の黒い影と同化してしまったりする。しばらく夕月はその影の正体を知ろうと水を掬ったり、きょろきょろと周囲を注意深く見渡したりしたが、結局それは徒労に終わってしまった。
夕月が家に戻った時、祖母は居間で何か書き物をしていた。居間は硝子戸から差し込む西日で、眩しいくらいに明るい。何を書いてるの、と訊ねる前に、祖母は夕月が帰って来た事に気付いて、微笑を浮かべてゆっくりと立ち上がった。ふわりとした墨の匂いがやってくる。
「おかえり。西瓜がよく冷えてるよ。切ろうかね」
おっとりとした声調で、夕月の手を引く。夕月は、祖母の全てを受け入れてくれるような澄んだ深い瞳と慈悲深い微笑に、強い憧れを感じた。自分も祖母のような人になりたいと思う。卑屈で自分を責める癖があり、他人のために優しく振舞えない夕月にとって祖母は、本当に自分が全く追いつく事の出来ないすばらしい人に思えてならないのだ。
その日の晩、祖母の作った良く冷えた梅酒でほろ酔いになった夕月は、いつもより早く心地良い眠りについていた。見た夢は、懐かしいものだった。
まだ十歳になったばかりの夕月が、祖母の手を引っ張って砂利道を横切っている。夕月も祖母も、楽しそうに笑顔を浮かべていた。夕月は小さな靴を投げるように脱ぎ捨てて、木で作られた足場を踊るようにかけおりていく。この足場は、夕月が川に下りるのが危なくないように祖父が取り付けたものだ。歓声をあげながら、川の中で水をはじいて遊ぶ夕月を河岸から祖母が優しい瞳で見守っていた。
「ねぇ、おばあちゃん、これ、なあに?」
水遊びに夢中になっていた夕月は、水面に浮かぶ丸くて青いをしたものを見つけて、祖母に訊ねる。
「それはね、魂のようなものだよ。この時期になると、皆暑がって水浴びしにやって来るんだよ。だから乱暴に扱っちゃだめだよ」
祖母は笑って、そう言った。
五
夕月は、まだ夢うつつのまま、ぼんやりと天井を見上げていた。窓から差し込む微かな月明かりで、黒い天井は洞窟の土のような色に見えた。田舎の夜は、静寂ではない。木々の呼吸する音や、梟や蛙の声、虫の鳴き声が夏の夜の空気に入り混じっている。しかしそれらは決して神経を逆撫でるものではなく、気怠い眠気を連れてくるような音色だった。また微睡みに引き込まれそうになっていた所で、夕月は何か微かな違和感を覚えて、起き上がった。・・・・・・何かが違う気がする。その原因を探ろうと夕月は神経を張り巡らせる。するとその違和感の正体は、匂いである事に気付いた。嗅ぎ慣れない匂いが混じっている。甘いようで、でもさっぱりとしている、果物とも花の香ともとれない何とも不思議な香である。夕月はその香がどこから漂ってくるのか確かめようと、静かに部屋を見回した。どうやら居間の方からそれはやってきているようだ。息をひそめて物音を立てないように居間へと向かう。祖母は寝ているらしい。隣室から微かな寝息が聞こえる。夕月は祖母を起こさぬように慎重に居間の襖を開けた。電燈を点けて居間を見渡すと、不思議な香の正体はすぐに見当がついた。テーブルの上にそのままにされた浅葱色の便箋、祖母が昼間に使ってそのままにしているのだろう、その紙から確かに墨の匂いとは違う不思議な香が放たれているのだ。夕月は祖母の物を勝手に触るのに躊躇いはあったが、好奇心に負けて、思わずその紙を手に取った。その紙には薄墨で流れるような書体の祖母の字でこう記されていた。
東照公御遺訓
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基
怒りは敵と思え
勝つことばかり知り負くる事を知らざれば
害その身に至る
己れを責めて人を責むるな
及ばざるは過ぎたるに勝れリ
夕月はすべて読み終えてから、苦悶とも同情ともいえるどうしようもない感情が湧きあがってくるのを抑えられなかった。祖母だって、この自然以外何もない田舎に一人で、寂しくないわけがない、辛くないわけがないのだ。全てを受け入れてしまって微笑を浮かべているわけではないのだ。優しい微笑の陰では、全てを受け入れようと必死にもがいているのだ。安息は簡単に手に入るわけではない。自分は全く愚鈍で、祖母に苦しみなど何一つないものだと思い込んでいたのだ。夕月は慙愧に堪えない気持ちで、ふらふらと居間を出ていた。
六
気が付くと、夕月は川の前まで来ていた。川の水は暗く頭上で竹の葉擦れの音と水の流れる音が曖昧に交じり合って響いた。月は明るく砂利道をぼんやりと白けさせたが、川面までは届くはずもなく、川は暗い淵のように見える。それでも構わず夕月は川の中へと入っていった。水は昼間よりも大分冷たかった。その水面にあの青い影があるのを夕月は簡単に見つける事が出来た。影は月の光を受けてもいないのに、蛍のように青白く光っていた。それは小さく分かれたり、またより集まって一つになったりを繰り返しながら、川面を上流の方へと滑っていく。夕月が振り返ってみると、川面の至るところにその青白い影が揺らめいて浮いているのがわかった。それらはどれもゆっくりと上流の方へと流れていっている。夕月は夜着が濡れるのも厭わずに、その影の後を追った。それを無我夢中になって追いかけながらも、先刻見た夢の続きを思い出そうと必死だった。そして、それが何だったか思い出せないうちに、行き止まりまでやって来てしまった。突然、川は深さを増していて、水は夕月の腰や太ももを冷やした。川は途切れ、その場所は小さな池のようになっている。その周りはいつの間にか竹林ではない鬱蒼とした木々が囲んでいて、濃い緑の呼吸を繰り返していた。その隙間を縫うようにして岩間から水が静かに流れ落ちている。そこが水源の近くらしい。青白い影たちは、その池の辺りを月の光を浴びながゆっくりと動いている。そして段々とその水の流れ込む岩間の下に集まって一つになった。
岩間に近づいてみると、そこには鈴懸草が月に照らされて青い花を開いていた。あれはこの花の香だったのか。夕月は水の音と共に薫る不思議な香は、鈴懸草から漂うのを知った。この花の香は確かに祖母の家で嗅いだ不思議な香と同じである。夕月は月の光を背に受けながら、うっとりとその香を嗅いだ。そしてその花をもっと良く見ようと一つ摘み取った。月光に透かすと、その花の花弁と繊細に伸びた花糸が目に沁みるほど深い青色になる。花糸の先の葯は、砂金を纏ったかのように眩しく光っていた。その花の美しさに心を奪われていた夕月は、自分の手に違和感を感じて我にかえった。鈴懸草の花を持つ手の輪郭は曖昧でぼやけている。月に透かしてみればみるほど、その境界ははっきりしなくなってきている。夕月は自分の腹の辺りを見てみた。そこは月の光を止める事なく、薄く向こう側を流れている水を見ることが出来た。消えている。自分の存在が。そう気付いた頃には、もうほとんど夕月の姿は残像のように薄くなってしまっていた。夕月の居たところにはいつの間にか、濃い青い影が出来上がっている。ふと思い出せなかった夢の続きが、ぼんやりとしてきた夕月の頭に浮かんだ。
「青い魂を見つけても、興味本位でついていっちゃあ駄目だよ。魂を抜かれちゃうからね」
優しい祖母の声だった。その事を思い出したところで、夕月は焦りも恐怖も感じなかった。それどころか、いよいよ自分の体が消え去ってしまおうとする瞬間、夕月は静かに微笑をさえ浮かべていた。
了
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