第一章 春雨
春雨と呼ばれる生温い雨は監獄島第一等政警備警察隊事務所を濡らしていた。
雨漏りを直そうと、合羽を着込んだ隊員が梯子を立て掛けている。
無機質に単調な調べは、その光景に降り注ぐだけであった。
紺色の雨傘を差し、見回りから戻ったのは、この隊に就任して間もない副隊長である。
丸い顔に円い眼鏡を掛け、男とも女とも見分けが付かないスーツを着込んだ人間は、口元に微笑を浮かべ屋根に上る隊員に声を掛けた。
風が、雨粒を弄び副隊長の肩を濡らす。
「コアリス巡査。無理はしないでください。晴れてからでも充分間に合いますから」
「そうなんですが。どうも鬱陶しくて。ああ。そういえば、アスカが探してましたよ」
屋根の上から金槌と板を持って、コアリスは副隊長にそう返した。
梯子を支えていた老人が、面倒そうに副隊長に付け足す。
「副隊長殿。先日の破壊処理報告も早めに頼みますぞ」
「わかってますよ。ヒルさん。今から書き上げますから」
副隊長は、傘立てに雨傘を置くと事務所の中へ入った。
雨は事務所内で別の調べを奏でる。
床が濡れないようにと置かれた鍋や食器類に滴が落ちる度、事務所の廊下が賑やかになる。
「副隊長。お帰りなさい」
雑巾やモップを抱え、事務所には似つかわしく無い少女が立ち止まる。
副隊長は、少女をアスカと呼び雑巾を持つことを手伝った。
「コアリス巡査から聞いたんですが、何か御用でしょうか」
「うん。あのね。ユーリ博士のメイドさんが元気無いんだって。だから、会いに来てって、連絡があったの」
と、事務所の片隅にある洗濯機なる、洋服洗い機にモップと雑巾と不思議粉を入れアスカは答えた。
「そう、ですか」
ぎこちなく頷いた副隊長は、洗濯機の蓋を閉め、短い単語を呟いた。すると、洗濯機が起動し始める。
此の世界は、科学技術と種と呼ばれる未知なる力で生活が成り立っている。
未知なる力とは、神が与えた気紛れな力、数百年前までは魔法と呼ばれていたそれである。
「ねえ、副隊長」
アスカは首を傾げてスピカを見た。
洗濯機の回る音は妙に静かだった。
「いつまで黙ってるの」
スピカは眉を顰めて、アスカから視線を外す。
「言えませんよ。元は僕の責任ですから」
「でも、このまま騙し続けるのは無理だと思うよ」
アスカは心配そいに続けた。
ユーリ邸のメイド、カリンはスピカに惚れている。それは、島中が知っている話しではあるが、スピカには口が裂けても言えない秘密がある。
「兎に角、資料を書いたら、ユーリ邸にお邪魔しますと折り返し連絡を御願いします」
スピカは、アスカにそう告げると事務室へと向かって行った。
監獄島の警備隊は四つの地区に分かれており、その地区ひとつひとつに警備警察は置かれている。
第一等星の事務所は、そのひとつであり、政府に一番近い存在と言われている。
政府の本部は大陸にある。
PCに向かったスピカは、そこへ文面を送信する。作業はそれだけだ。後はその文面を資料として保存される。機密文書は、監獄島の警備警察軍事総本部、ハリスの権限で、この島の東地区に建てられた、イリス管理棟のPCイリスへ保存することになる。 文書事態の出来はまあまあだ。急いで書いたにしては、筋が通っている。満足気したスピカは、カリンの所へ向かうべく、立ち上がった。
雨音は先程より、緩やかな音を奏でていた。
屋根の修理を終えたコアリスが、疲れた顔で事務室へと姿を見せる。
「お疲れ様です。御隠居さんとアスカはもう帰ったんですか」
「御隠居は、先に帰りましたよ。薄情なんだから。アスカはアスカで資料室で寝てます」
合羽を壁のハンガーに掛け、差し出されたタオルを受け取り髪を拭く。
「スピカ副隊長も、帰るんですか」
タオルの礼を述べた後、コアリスは尋ねた。
「僕は、これからカリンさんの所へ」
ぎこちない微笑みを返し、上着を羽織るスピカに、コアリスは労いの言葉を言い、軽く頭を下げた。
「じゃあ。行ってきますね。戸締まりをお願いします」
「スピカ副隊長。どうか御無事で」
頷いたスピカに真顔でコアリスは続けた。
「大袈裟すぎますよ」
スピカは溜息交じりに言い放つと、事務室を後にした。