第二話
彼女の学校が休みの日、僕たちは部屋の中でのんびりとしていた。風にそよぐカーテンの隙間から、太陽のひかりが漏れる。
小さな勉強机の上に置かれた、毛布の敷かれたバスケット。僕はその中で羽根の手入れをしていた。
彼女は机にもたれかかるようにして、組んだ腕の上に顎を乗せて僕を見つめている。
「ほんとにきれーだね」
ふいに彼女が僕の翼を指先で撫でる。もう何度言われたか分からないその言葉に、僕はクスリと笑う。
「あたしにも、はねがあったらいいのに」
彼女は微笑を浮かべながらそう言った。
「どうして?」
僕は翼から手を離し、彼女を見上げた。
「高いところからこの町をながめるの。ちっちゃいあたしには見えないものが、たくさん見えるのよ」
彼女は何かを思い浮かべるように、眼を瞑った。
「鳥さんたちといろんなところへ行って、いろんなものをみるの。きっとすごく楽しい」
「いつか、叶うといいね」
そう言って、僕はまた羽根の手入れに戻る。会話はそこで途切れ、沈黙が訪れる。彼女はまた机に突っ伏してしまった。窓の外から聞こえる、風の音が心地良い。
「そうだ!」
沈黙を破ったのは彼女の大きな声だった。彼女は半ば机を叩くようにして立ち上がった。
「こうえんに行こう!!」
『第二話』
「どうして急に?」
ポケットの中から彼女に尋ねる。この季節特有の乾いた空気の中、白い日差しが僕たちを照らす。
彼女の突発的な行動には、僕には理解できないものが多々あった。学校からの帰り道、右にしかまがっちゃダメね、と突然言い出し、そのまま迷子になってしまったこともあったし、目を瞑りながら歩いて、川に落ちたこともあった。そんなことがある度に、彼女は笑いながら家に帰ってくるのだ。
「いいから!」
歩きながら彼女は僕の質問にそう答える。足は近くの公園へと向かっていた。普通に歩けばそう遠くない距離なのに、彼女は野良猫を見つけるたびに立ち止まり、トンボを見上げるたびに追いかけるものだから、結局公園に着いたのは普通の何倍もの時間が経ってからだった。
僕も何度かこの公園には来たことがある。決して広いとは言えない敷地の中、最低限の遊具だけが置かれている。今は昼時ということもあってか、公園に人影は無い。
まばらに置かれた遊具の中、ひときわ目を引くのが、公園の中心にそびえる大きな木。イチョウという種類の木らしい。
彼女は公園に足を踏み入れると、その木の前で立ち止まった。彼女も僕も、それを見上げる。あまり手入れされているとは思えない乱雑に生えた枝、夏には青々しかった葉は、今は黄色い葉をなびかせている。幹の先端は、太陽の光に邪魔されて見ることができない。
「これ!!」
彼女は自慢げに木を叩いた。
「え?」
「てっぺんからなら、きっとみえる!」
「さっき言ってた、いろんなものが?」
彼女はコクリと頷くと、木の隣りに置かれているベンチの上に立った。背伸びをして一番下の枝の根元を掴む。ぶらさがった体勢のまま、木の幹に足をかけると、そのまま枝に体を寄せる。あっという間に彼女は一本目の枝に上がった。幹に片手を付けながら、ゆっくりと立ち上がる。
「わー! もうたかーい!!」
喚起の声を上げ、満足したのかと思ったが、彼女は一つ高い枝へと足をかける。そのまま階段を登るようにして三つ目、四つ目と登っていく。そして五つ目の枝に足をかけた直後、彼女の足元から嫌な音が響き、突然足場を失くした彼女の体は、バランスを崩して空中へと投げ出された。
急に訪れた落下に、僕は咄嗟に翼を広げ、彼女のポケットから飛び立ってしまった。体温で温まっていた体が冷たい外気に触れる。
直後、一瞬の衝撃音。僕は空中から音のした方を振り向く。
イチョウの葉がゆっくりと降り注ぐ中、彼女は尻餅をついたような格好で地面に手を付き、苦痛に顔を歪めていた。そのまま僕を睨む。
「もー!! いつもポケットにいるのに、こんなときばっかり!!」
彼女は手をバタバタとさせて抗議の声をあげた。地面が土だったせいか、大きな怪我はしていないようで、僕は胸を撫で下ろす。
彼女は膝をついて、スカートの後ろに付いた砂を払った。そして前を向いた瞬間、彼女の顔から表情が消えた。
「あ……」
彼女の視線の先、イチョウの木の下には、さきほど折れたものであろう枝が転がっていた。根元からちぎれ、繊維が剥き出しになっている。
まずい……そう思った僕は急いで彼女の前に飛んでいく。呆然としている瞳の前に止まった。彼女がどうしてこんな顔をしたのか、僕はすぐに分かった。
「仕方ないよ。脆くなってたんだ」
「えだが……」
僕の声が聞こえているのかいないのか、彼女はそう呟いた。
「君のせいじゃない」
「でも、でも……あたしがのらなかったら……」
言い終わる前に、彼女は顔を手で覆った。表情は見えなくても、泣いているのが分かった。
「君が乗らなくても、いつかは折れていたよ。見てごらん。枝の根元が乾いている。もうあれは枝の役目を果たしていなかったんだ」
僕は涙を流したことがない。人間がどうして涙を流すのか僕は不思議で、それへの興味もあった。
しかし今、そういった感情ではなく、泣き止まない目の前の少女を、何故か必死に慰めようとしている自分がいることに気付いた。
彼女は少しだけ手を離し、指の隙間から僕を見た。
「でも、あの子は、さいごまでいっしょにいたかったはずだよ……」
彼女はそう呟いて、僕の体を掴んだ。僕は抵抗することもなく、彼女の額に押し当てられる。嗚咽が芯に響き、翼が温かく滲んでいくのが分かった。
そして僕たちは、彼女に気付いた大人が声をかけてくるまで、ずっとそうしていた。
家に帰っても彼女は落ち込んだままで、ベッドに仰向けに寝たまま動かない。僕は濡れてしまった羽根を、窓際で広げて乾かしていた。
「僕の羽根はハンカチじゃないんだけどな」
そんな僕の皮肉にも、彼女は無関心だった。
僕は立ち上がると、彼女のベッドの上に降りる。枕元から彼女の顔を覗き込んだ。赤くなった目が僕を捕らえる。
「明日、ごめんなさいをしに行こう。僕も一緒にいってあげる。大丈夫。きっと許してくれるよ」
いつからだろう。彼女に対して、こんなことを口にするようになったのは……。何故だろう。彼女の涙をみるのが、こんなに辛くなったのは……。
しばしの沈黙のあと、彼女は布団にもぐったまま、「うん」と小さく言った。
読了感謝。
つづく