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悪女として修道院へ送られるはずが、証拠を公開したら王子と側近たちが全員破滅しました

作者: シオン
掲載日:2026/10/22


第一章 断罪劇の幕開け


「リディア・フォン・アルヴェイン! 貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」


王立学院の卒業記念舞踏会。


王都でもっとも格式高い大広間の中央で、第一王子レオンハルトは高らかに宣言した。


楽団の演奏が止まり、数百人もの貴族たちが一斉に息をのむ。


その視線の先に立っていたのは、深紅のドレスをまとった公爵令嬢リディアだった。


艶やかな黒髪。雪のように白い肌。紅玉を思わせる瞳。


王太子妃として厳格な教育を受けてきた彼女は、突然の宣告を受けても背筋を曲げなかった。


一方、レオンハルト王子の腕には、淡い桃色の髪をした男爵令嬢ミア・ベルナールがしがみついている。


「殿下……わたし、怖いです」


ミアが震える声で言った。


庇護欲を誘う大きな瞳には、今にもこぼれそうな涙が浮かんでいる。


レオンハルトは彼女の肩を抱き寄せ、リディアをにらんだ。


「恐れる必要はない、ミア。余が必ず守る。この悪女からな」


「悪女、ですか」


リディアは静かに聞き返した。


「ああ。貴様は嫉妬に狂い、ミアの教科書を破り、階段から突き落とし、さらには毒を盛ろうとした。証人もいる!」


レオンハルトの背後から、側近候補である三人の青年が進み出た。


騎士団長の息子ギルバート。


宰相の息子オスカー。


大神官の息子ユリウス。


いずれも、かつてはリディアに礼儀正しく接していた者たちだ。


「私が、ミア嬢の破られた教科書を確認しました」


オスカーが言う。


「階段から落ちた彼女を助けたのは俺だ」


ギルバートが続ける。


「毒についても、彼女の部屋から怪しい小瓶が発見されています」


最後にユリウスが冷然と告げた。


広間がざわめいた。


悪名高い公爵令嬢。


身分の低い可憐な少女。


彼女を守る王子と美青年たち。


観客にとって、これほどわかりやすい物語はない。


レオンハルトは勝利を確信した顔で言い放った。


「貴様を王太子妃候補から外し、辺境の修道院へ送る。王家への反逆に等しい所業を考えれば、命があるだけでもありがたく思え!」


「まあ」


リディアが口元を扇で隠す。


「ずいぶん寛大なご処置ですこと」


「今さら媚びても遅い!」


「媚びてなどおりません。ただ、安心いたしました」


「何?」


リディアは扇を閉じた。


そして初めて、はっきりと笑った。


それは敗者の引きつった笑みではない。


獲物が罠の中心へ踏み込んだことを確信した、狩人の微笑みだった。


「皆様が揃って罪を認めてくださったので、安心したのです」


広間の扉が開いた。


入ってきたのは、銀髪の青年だった。


黒を基調とした軍服。腰には長剣。氷のような青い瞳。


北方を守護するグランツ辺境伯家の若き当主、カイル・フォン・グランツである。


彼の後ろには、王国監察局の役人たちが並んでいた。


「王国監察局特別監査官、カイル・フォン・グランツ」


カイルは国王から授けられた紋章を掲げた。


「国王陛下の勅命に基づき、王立学院内における公文書偽造、毒物密輸、国家機密漏洩、および王太子殿下を利用した王位簒奪計画について捜査を開始する」


「な、何を言っている!」


レオンハルトの顔から血の気が引いた。


カイルは答えず、リディアの前まで進む。


そして彼女の手を取り、騎士の礼を捧げた。


「お待たせいたしました、リディア公爵令嬢。ご依頼の証拠は、すべて揃っております」


リディアは優雅にうなずいた。


「ご苦労さまでした、カイル様」


その瞬間、断罪劇の主役が入れ替わった。


第二章 破られた教科書


「まずは、一つ目の罪状から確認いたしましょう」


リディアは舞踏会の壁際に置かれていた長机へ歩み寄った。


監察局の役人が、そこへ一冊の教科書を置く。


表紙にはミア・ベルナールの名前があった。


何ページも破られ、インクで汚されている。


「これが、わたくしが破ったとされている教科書かしら?」


「そうだ!」


オスカーが答えた。


「三週間前、ミア嬢の机の中から発見された。前日の放課後、君が彼女の教室に入るところを複数の生徒が目撃している!」


「ええ。教室には入りました」


リディアはあっさり認めた。


「翌日に行われる王妃教育の試験範囲を、担当教師に確認するためです。もっとも、わたくしが教室を出た時刻は午後四時十分。教科書が破られたのは、それより後ですけれど」


「でたらめを言うな!」


「では、こちらをご覧ください」


カイルが合図すると、役人が小さな箱を運んできた。


中に入っていたのは、時計型の魔導記録器だった。


学院の廊下には、魔力を感知して通行者の紋章を記録する装置が設置されている。王族や高位貴族を狙った襲撃を防ぐためのものだ。


記録を映した光の板には、時刻と紋章が並んでいた。


リディアが教室へ入ったのは午後三時五十分。


出たのは午後四時十分。


そして午後四時四十二分、教室へ入った者がいる。


「ミア・ベルナール嬢、ご本人です」


カイルの言葉に、広間がどよめいた。


ミアは慌てて首を振った。


「ち、違います。忘れ物を取りに行っただけです!」


「忘れ物とは?」


「その……髪飾りです」


「奇妙ですね」


リディアは教科書の破れたページを一枚持ち上げた。


「この紙から、微量の柑橘油が検出されました。ミア様が普段お使いの香水と同じものです」


「香水なんて、誰でも使っています!」


「では、もう一つ」


リディアが合図を送る。


今度は学院の用務員が入ってきた。初老の男性は緊張しながら頭を下げる。


「その日の夕方、焼却炉のそばで見つけたものです」


差し出された布袋の中には、破れた紙片が入っていた。


ミアの教科書から破られた部分と、ぴたりと一致する。


さらに紙片には、小さな文字で走り書きが残されていた。


――教科書を破られたことにして、リディア様を困らせればいいのですね。


筆跡鑑定の結果、それはミア自身の文字だと判明している。


「う、嘘よ!」


ミアが叫んだ。


「わたしの字を真似したんです! リディア様なら、それくらいできます!」


「なるほど」


リディアは少しも動じなかった。


「では、貴女に指示した人物については後ほど伺いましょう」


「指示なんてされていません!」


「今、ご自分で書かれた文面には『困らせればいいのですね』とあります。誰かの指示に答える文章に見えますけれど」


ミアの唇が震えた。


広間の空気が変わり始める。


これまで同情に満ちていた視線が、疑念を帯びて彼女へ集まっていた。


「小さな嫌がらせなど、どうでもよい!」


レオンハルトが声を荒らげた。


「肝心なのは階段から突き落とした件だ!」


「殿下のおっしゃるとおりです」


リディアは微笑む。


「それでは、次の演目へ参りましょう」


第三章 階段の悲劇


ミアが階段から落ちたのは、一か月前のことだった。


学院の中庭へ通じる大階段。


目撃者はギルバート一人。


彼は階段の下で倒れているミアを発見し、直前に上階から立ち去るリディアを見たと証言していた。


「俺は確かに見た!」


ギルバートが拳を握る。


「階段の上に立っていたのはリディア、君だった!」


「ええ。立っておりました」


「ならば!」


「ただし、ミア様が転落した時刻より二十分前に、です」


「そんなはずはない!」


カイルが一枚の診療記録を取り出した。


「事件当日、ミア嬢は午後二時二十分に医務室へ運び込まれている。ギルバート卿は転落が午後二時十五分頃だったと証言した。しかし、リディア嬢は午後一時五十分から二時三十分まで、王立図書館の禁書閲覧室にいた」


「誰かに記録を書き換えさせたのだろう!」


「禁書閲覧室への入室には、本人の血液と魔力による認証が必要です。替え玉は使えません」


「だったら、魔導記録器の故障だ!」


「当日は王太子殿下も同じ閲覧室におられました」


リディアの一言に、ギルバートは固まった。


「殿下。覚えていらっしゃいますでしょう?」


レオンハルトが目を泳がせる。


「あ、あの日は……」


「西部地方の洪水被害について、共同で報告書を作成いたしました。殿下は開始から十分ほどで飽きて眠ってしまわれましたが」


貴族たちの間から失笑が漏れた。


「黙れ!」


レオンハルトが顔を赤くする。


「余を侮辱するな!」


「事実を申し上げただけです」


リディアはギルバートへ向き直った。


「ギルバート様。貴方は本当に、転落の瞬間をご覧になったのですか?」


「俺は……ミアが倒れているのを見た。階段の上には君が……」


「二十分前に見たわたくしの姿と、後から倒れているミア様を結びつけただけではありませんか?」


「違う!」


「では、ミア様が階段から落ちた瞬間を見たのですか?」


ギルバートは答えられなかった。


リディアは監察官へ合図した。


連れてこられたのは、学院近くの薬草店の主人だった。


「その日の朝、このご令嬢に頼まれて、化粧用の赤い染料を売りました」


主人がミアを指さす。


「肌についても害のないものです。舞台で傷を表現する時にも使われます」


次いで、医務室の治癒術師が証言する。


「ミア嬢に骨折はありませんでした。打ち身すら、ほとんど見られませんでした。ただ制服に血のようなものが付着していたため、当時は大けがだと思い込んでしまいました」


その染料と、ミアの制服に付着していた赤い液体は一致していた。


結論は単純だ。


ミアは階段の途中で自ら横になり、染料を使って転落事故を演出した。


そこへ偶然ギルバートが通りかかった。


「そんな……」


ギルバートは青ざめた顔でミアを見る。


「君は俺に、リディアに突き落とされたと……」


「だって、怖かったんです!」


ミアは泣きながら彼にすがりついた。


「リディア様がいつも冷たい目で見るから! いつか本当に突き落とされると思って……」


「存在しない事件をでっち上げた理由にはなりません」


リディアの声は静かだった。


「ギルバート様。貴方は騎士団長を目指すお立場でありながら、現場も調べず、一方の話だけを信じたのですね」


「俺は彼女を守ろうと……」


「冤罪を作る者が、誰を守れるというのです?」


その言葉は鋭い刃となり、ギルバートの誇りを切り裂いた。


彼は何も言えず、うなだれた。


第四章 毒入りの小瓶


「それでも毒の証拠は残っている!」


追い詰められたレオンハルトが叫ぶ。


「リディアの部屋から、毒物が見つかったのだ!」


ユリウスも同意する。


「瓶の中身は、間違いなく猛毒の黒百合でした。それをミア嬢の紅茶へ混ぜようとしたのでしょう」


「その小瓶が発見されたのは、わたくしの寮室にある机の引き出しでしたわね」


「そうです」


「鍵のかかった引き出しから?」


「ええ」


「ではユリウス様は、どのように中身を確認したのですか?」


ユリウスの表情が硬くなった。


「それは……学院長から鍵を借りて」


「学院長は鍵を貸していないと証言しております」


カイルが言った。


監察官に伴われ、学院長が姿を現す。


「リディア嬢の部屋の予備鍵は、公爵家の要請により封印保管していました。事件の翌日に確認した際も、封印は破られていませんでした」


「ならば、扉が開いていたのです!」


「おかしいですわね」


リディアは首をかしげた。


「わたくしの部屋の扉には、許可されていない者を拒絶する防護魔法が施されています。扉が開いていようと、勝手に入ることはできません」


カイルが小瓶を取り出した。


「こちらが問題の毒物です。瓶から、ユリウス・バルテル卿の魔力痕跡が検出された」


「発見した時に触れたからです!」


「瓶の表面ではない。蓋の内側と、毒を詰めた者しか触れない瓶口からだ」


「違う!」


ユリウスは後ずさった。


リディアは彼をまっすぐに見つめる。


「わたくしの机には、王家から預かった機密文書が入っていました。そのため、引き出しには侵入者を記録する魔法を仕込んでおります」


「な……」


「小瓶が置かれたのは、舞踏会の五日前、深夜十一時四分。侵入者はユリウス様、貴方です」


光の板に映像が浮かぶ。


黒い外套をまとった青年が、特殊な道具を使って窓の防護魔法を解除し、リディアの部屋へ侵入する様子。


顔は隠されていたが、右手には大神官家の指輪が光っている。


そして男が机に小瓶を入れた瞬間、指先に浮かんだ魔法陣も記録されていた。


大神官家の直系にしか使えない、聖印魔法である。


誰の仕業かは明白だった。


「ユリウス様」


リディアは冷たく告げた。


「この瓶を、どこで手に入れました?」


「知らない!」


「神殿の薬草庫ですね」


大神官の顔色が変わった。


王宮から招かれていた彼は、息子を見て震える。


「黒百合は神殿が厳重に管理している禁制品です。持ち出すには大神官の印章が必要となる。ところが、先月、その印章の使用記録が一件だけ削除されていました」


「父上、私は……」


「ユリウス!」


大神官が怒鳴った。


「神聖なる印章を盗んだのか!」


「ミアを助けたかっただけです!」


ついにユリウスが叫んだ。


「彼女はリディアに苦しめられていた! だから証拠さえあれば、王家も動くと思った!」


「証拠がないから、ご自分で作ったのですね」


「リディア、お前の存在そのものが彼女を苦しめていたんだ!」


「それは便利な理屈ですこと」


リディアの微笑みが消えた。


「貴方がたは、ミア様の涙を正義の証と決めつけた。調査をせず、事実を確かめず、邪魔な人間を悪と呼んだ。そして貴方は、わたくしを処刑台へ送るかもしれない猛毒を持ち込んだ」


ユリウスは口を閉ざす。


「作り上げた悪女を裁くことで、英雄になったつもりでしたか?」


広間には、もはや彼を擁護する者はいなかった。


第五章 桃色の令嬢の正体


「もう十分だ!」


ミアが突然叫んだ。


可憐な声ではなかった。


低く、苛立ちに満ちた声だった。


「教科書も階段も、ちょっとした悪戯じゃない! 毒だってユリウス様が勝手にやったことよ! わたしは関係ないわ!」


「ミア……?」


レオンハルトが呆然とする。


ミアは彼の腕を振り払った。


「頼りにならない男ね。王子なら、もっと上手に片づけてくれると思っていたのに」


「なんだと?」


「わたしが何回泣いたと思っているの? リディア様が怖い、苦しい、死にたいって。そのたびに絶対守るって言ったでしょう!」


「余は守ろうとした!」


「結果がこれじゃ意味ないのよ!」


貴族たちは言葉を失った。


これまでの清楚な仮面は完全に剥がれていた。


リディアは、そんなミアを哀れむように見つめる。


「とうとう本性をお見せになるのね」


「うるさい!」


「ですが、まだ終わりではありません」


「何よ」


「貴女を学院へ送り込んだ人物について、お話しいただきます」


ミアの顔から表情が消えた。


「……誰のこと?」


「宰相バルガス公爵です」


ざわめきが爆発した。


国王の右腕であり、長年にわたって国政を支えてきた宰相。


その名を持つ男、バルガス公爵が客席からゆっくりと立ち上がった。


六十歳を過ぎてなお鋭い眼光を持つ老獪な政治家だ。


「公爵令嬢ともあろう方が、根拠もなく宰相を告発なさるとは」


「もちろん、根拠はございます」


「聞きましょう」


「ミア・ベルナールは、男爵家の実子ではありません」


リディアの言葉に、ミアが息をのむ。


「本名はミレーヌ・アッシュ。隣国で諜報活動の訓練を受けた工作員です」


「嘘よ!」


「三年前、隣国の諜報養成所から失踪。その半年後、遠縁の娘を養女にしたという名目でベルナール男爵家へ入りました。ですが、本物のミア・ベルナールは十年前、流行病で亡くなっています」


監察官が二つの記録簿を広げる。


一つは教会の死亡記録。


もう一つは、隣国から密かに入手した工作員名簿。


記載された似顔絵は、目の前のミアと同じ顔だった。


「そんな紙、偽物に決まってる!」


「では、左肩の印を確認しましょうか」


ミアは反射的に左肩を押さえた。


その動きが、自ら答えを示していた。


「諜報養成所の者には識別用の焼き印があるそうですね」


「近寄らないで!」


ミアが髪飾りを引き抜いた。


鋭い針が仕込まれている。


彼女はリディアへ飛びかかろうとした。


しかし一歩踏み出した瞬間、カイルがその手首をつかんだ。


「離して!」


「毒針か」


カイルは髪飾りを奪う。


「これで殺人未遂も追加だな」


監察官たちがミアを取り押さえた。


彼女は叫び、暴れ、ついには床に押さえつけられる。


「バルガス様!」


ミアが宰相へ向かって叫んだ。


「助けて! わたし、言われたとおりにしたのよ! 王子を誘惑して、リディアを追い出せば、王太子妃にしてくれるって!」


宰相は眉一つ動かさなかった。


「何の話かわからんな。錯乱した娘の戯言だ」


「わたしを捨てる気?」


「君とは初対面だ」


「ふざけないで!」


ミアの叫びが広間に響く。


「王子を操って王家を弱らせろって言ったじゃない! 国境の軍事計画を盗んで渡したのも、全部あなたの命令でしょう!」


レオンハルトの顔が凍りついた。


「軍事計画……?」


リディアは彼へ尋ねる。


「殿下。半年前、わたくしが『機密文書を自室へ持ち帰ってはならない』と申し上げたことを覚えていらっしゃいますか?」


「あれは……ミアが政治を学びたいと言うから……」


「殿下は王宮から国境防衛計画を持ち出し、ミア様へお見せになった」


「彼女が盗むとは思わなかった!」


「機密情報の漏洩は、盗んだ者だけの罪ではございません。管理する責任を放棄した者にも罪があります」


レオンハルトは足元をふらつかせた。


自分が愛した少女は工作員。


自分が罪人と決めつけた婚約者は、王国を守るために動いていた。


その事実を理解しても、もう遅かった。


第六章 王子の価値


「父上!」


レオンハルトは壇上に座る国王へ駆け寄った。


「これは陰謀です! 余は騙されただけだ! 被害者なのです!」


国王は深く息を吐く。


「レオンハルト。お前には失望した」


「父上?」


「リディア嬢から最初の報告を受けたのは、四か月前だ」


広間が静まり返る。


「彼女は学院内に国外勢力の工作員がいる可能性を察知した。だが証拠が足りず、相手の目的も不明だった。そこで余は、内密に捜査するよう彼女とカイル辺境伯に命じた」


レオンハルトは信じられないものを見る顔で、リディアを振り返った。


「余は、何も聞かされていないぞ……」


「聞かせられる状態ではなかったからだ」


国王の声に怒りがにじむ。


「お前は王太子でありながら、知り合って間もない娘に国事を漏らした。長年支えてくれた婚約者の言葉より、その娘の涙を信じた。しかも正式な裁判も開かず、公衆の面前で公爵令嬢を断罪した」


「ですが、ミアに騙されて……」


「黙れ!」


国王の怒声に、窓が震えた。


「王とは、騙されたから許される立場ではない!」


レオンハルトは膝をついた。


「余は……王太子だ」


「今まではな」


「まさか……」


「レオンハルト。お前から王太子の地位を剥奪する」


「お待ちください!」


「王族としての臣籍も外す。国家機密漏洩の罪については、改めて裁判を行う」


「父上! 余はあなたの息子です!」


「だからこそ、何度も機会を与えた!」


国王は立ち上がった。


老いた顔には、父親としての悲しみが浮かんでいた。


「リディア嬢は、お前の未熟さを補い続けてくれた。提出できなかった報告書を書き直し、失言を謝罪して回り、国外使節との交渉まで陰から支えた。お前の評価の半分以上は、彼女の働きによって保たれていたのだ」


「そんな……」


「お前は彼女の功績を自分のものと思い込み、注意されれば疎ましがった。そして甘い言葉だけをくれる者へ逃げた」


レオンハルトは力なく座り込んだ。


「リディア……」


彼は床をはい、リディアの足元へ近づいた。


「すまなかった。余は目が曇っていた。もう一度、やり直そう」


「やり直す?」


「ああ。婚約破棄を撤回する。君を王太子妃にする」


リディアは目を瞬かせた。


そして笑った。


今夜初めて見せる、心から愉快そうな笑みだった。


「殿下は先ほど、王太子の地位を剥奪されたばかりではありませんか」


「父上に頼めば戻してもらえる!」


「なぜ、わたくしがそのために口添えすると?」


「君は余を愛していたはずだ!」


その言葉を聞き、リディアの笑みが消える。


「確かに、かつては敬愛しておりました」


レオンハルトの瞳に希望が宿った。


しかし次の一言が、その希望を打ち砕く。


「ですが、それは未来の国王となるため努力していた、幼い日の殿下です」


「余は変わっていない!」


「変わりました」


リディアは断言した。


「努力をやめ、責任を嫌い、耳に心地よい言葉だけを求めるようになった。ご自分の失敗を他人のせいにして、都合が悪くなれば、捨てた相手に助けを求める」


「余を見捨てるのか?」


「先に捨てたのは殿下でしょう」


「それは誤解だった!」


「誤解で人を修道院へ送り、人生を奪おうとしたのですか?」


返す言葉を失った王子へ、リディアは最後の一撃を与えた。


「その程度の判断力しか持たない方を、わたくしは愛せません」


レオンハルトは床に崩れ落ちた。


誰も彼へ手を差し伸べなかった。


第七章 宰相の切り札


「茶番は終わりかな?」


低い声が響いた。


バルガス宰相だった。


彼は騒ぎの中でも、落ち着きを失っていない。


「工作員の証言だけで私を罪人扱いするとは、いささか早計ではないかね」


「おっしゃるとおりです」


リディアは認めた。


「ミア様の証言だけでは、貴方を裁けません」


「では、私を拘束することはできんな」


「いいえ」


リディアは懐から、銀色の鍵を取り出した。


宰相の顔色が、初めて変わる。


「これに見覚えがおありでしょう?」


それはバルガス家が王都に所有する別邸、その地下金庫の鍵だった。


「なぜ、それを……」


「昨夜、監察局が別邸を捜索いたしました」


「馬鹿な! 令状もなく宰相家を捜索するなど!」


「令状ならここに」


国王が羊皮紙を掲げた。


「私が許可した」


バルガスは国王をにらみつける。


「陛下は、長年王国に尽くした私より、この小娘を信じたのですか」


「信じるかどうかではない。証拠を確かめただけだ」


運び込まれた箱から、大量の書類が取り出された。


隣国との密約書。


軍事情報の売買記録。


貴族や役人への賄賂の帳簿。


そして国王暗殺後の新政権について記された計画書。


そこには、新王としてレオンハルトを即位させ、宰相が摂政として実権を握る筋書きが記されていた。


ミアを王子に接近させた目的も、明白だった。


愚かな王を操り、国を手に入れるためだ。


「あり得ない」


バルガスは書類を一瞥した。


「すべて偽造だ」


「筆跡、印章、使用された紙、魔力痕跡。すべて確認済みです」


カイルが答える。


「さらに、貴方の私兵三十名を拘束した。全員が計画を認めている」


「役立たずどもめ」


宰相の口から、冷たい声が漏れた。


もはや否定する意味はないと悟ったのだろう。


彼は肩を震わせ、やがて笑い始めた。


「まさか、小娘一人にここまで追い詰められるとはな」


「わたくし一人ではありません」


リディアは答えた。


「不正に気づいた文官。脅されながらも記録を残した役人。証拠を運んでくださった商人。国境で命を懸ける兵士たち。貴方が取るに足りないと見下した人々が、この結果を生んだのです」


「美しい話だ」


バルガスは嘲笑う。


「だが、この国が清廉さだけで守れると思うな。隣国は強大だ。国王は老い、王太子はこのありさま。やがて王国は滅びる」


「だから売り渡したのですか?」


「私は生き残る道を選んだ」


「ご自分だけが、でしょう」


「権力を持つ者とは、そういうものだ!」


宰相が懐へ手を入れた。


その動きと同時に、カイルがリディアを背後へかばう。


次の瞬間、宰相は小型の魔導具を床へ投げつけた。


激しい光と煙が広間を覆う。


悲鳴が上がった。


煙の中から、バルガスがリディアへ突進する。


その手には短剣が握られていた。


「お前さえいなければ!」


だが刃は届かなかった。


カイルの剣が短剣を弾き飛ばし、返す一撃で宰相の袖を床へ縫い止める。


「ぐっ!」


「動けば腕が落ちる」


冷徹な声に、バルガスの体が止まった。


監察官たちが駆けつけ、宰相を拘束する。


それでも彼はリディアをにらみ続けた。


「勝ったつもりか、小娘!」


「ええ」


リディアは煙の中を歩み、宰相を見下ろした。


「貴方の計画は失敗しました。築き上げた地位も、財産も、名誉も、今夜ですべて失われます」


「私を処刑して終わりだと思うな!」


「終わりにはいたしません」


「何?」


「貴方が奪った財産は、被害を受けた領地へ返還されます。不正に失脚させられた官僚も復職するでしょう。隣国との裏取引も、貴方の名前とともに公表します」


バルガスの顔が引きつった。


死よりも、彼が恐れるもの。


それは自分が敗者として歴史に残ることだった。


「貴方の名前は、王国を支えた偉大な宰相としてではなく、若い令嬢に陰謀を暴かれた売国奴として記録されます」


「やめろ……」


「百年後も、二百年後も」


「黙れ!」


「どうぞ牢獄で、ご自分の評判を想像しながらお過ごしください」


バルガスは獣のような声を上げた。


だが、もう彼に従う者はいなかった。


かつて王国でもっとも大きな権力を握っていた男は、両脇を抱えられ、床を引きずられていった。


彼の叫びは、閉じられた扉の向こうへ消えた。


第八章 悪役たちの結末


事件の裁判は、一か月にわたって行われた。


バルガス元宰相は、国家反逆罪、機密情報売却、収賄、暗殺未遂など、十二の罪で有罪となった。


処刑を望む声も多かったが、国王は終身刑を命じた。


死をもって逃げることさえ許さず、彼が壊そうとした王国の再建を、牢獄の中から見届けさせるためだった。


彼の財産は没収され、不正に税を奪われていた領地の復興へ充てられた。


配下の貴族たちも爵位や領地を失った。


ミアことミレーヌは、工作員として終身刑に処された。


取り調べの間、彼女は何度も証言を変えた。


自分は命令されただけだ。


王子に愛されて判断を誤った。


リディアが怖かった。


境遇が悪かった。


だが、どれほど泣いても、以前のように信じる者はいなかった。


最後の裁判で、彼女は傍聴席のレオンハルトへ助けを求めた。


「殿下! わたしを愛しているって言ったでしょう?」


レオンハルトは彼女から目をそらした。


「余は騙されていただけだ」


ミアはしばらく沈黙した後、甲高い声で笑った。


「同じじゃない」


「何?」


「嫌なことは全部、誰かのせい。わたしと殿下、そっくりよ」


レオンハルトは青ざめた。


ミアは看守に連れられながら、いつまでも笑っていた。


ギルバートは騎士団への入団資格を失った。


事実を確認せず虚偽の証言を行った責任を問われたのだ。


父である騎士団長は、息子を領地の警備隊へ送った。


華々しい王都の騎士ではない。


農村を巡回し、盗賊を警戒し、住民の困り事に耳を傾ける仕事だった。


「もう一度、人を見ることから学べ」


それが父から与えられた言葉だった。


オスカーは官僚登用試験の合格を取り消された。


彼は破られた教科書を確認したと証言したが、実際にはミアの話を聞いただけだった。


事実と推測を区別できない者に、国政を任せることはできない。


宰相である父が失脚したことで、家門も取り潰された。


オスカーは遠方の商会で、帳簿係の見習いとして働くことになった。


一つの数字、一つの記録が、どれほど重い意味を持つのか。


彼は最低の立場から学び直すこととなった。


ユリウスは神官位を剥奪された。


禁制の毒物を盗み、冤罪を作ろうとした罪は重い。


彼は鉱山で十年間の強制労働に服すこととなった。


出発の日、ユリウスはリディアとの面会を求めた。


「私は愛する者を守りたかっただけです」


鉄格子の向こうで、彼は言った。


リディアは冷ややかに答える。


「守るという言葉を、ご自分の罪を美しく見せるために使わないでください」


「私は間違えた。だが、ミアを救いたいという気持ちは本物だった」


「貴方が救いたかったのは、ミア様ではありません」


「何を……」


「可哀想な女性を救う、正義の味方であるご自分です」


ユリウスは息を止めた。


「貴方は一度でも、彼女の言葉が真実か確かめましたか? 一度でも、彼女自身と向き合いましたか?」


「それは……」


「ご自分が信じたい物語を信じただけです」


リディアは背を向ける。


「どうか十年かけて、ご自分の罪と向き合ってください」


彼女は振り返らなかった。


そして、レオンハルト。


国家機密漏洩の罪については、ミアによる誘導があったことを考慮され、死罪を免れた。


だが王位継承権と王族としての身分、すべての財産を失った。


彼は北西部の小さな砦へ送られた。


名前も地位もない、一人の兵士として働くためだ。


出発前、レオンハルトは王宮の庭でリディアを待ち伏せした。


かつて黄金色に輝いていた王子の髪は乱れ、華やかな衣装の代わりに粗末な兵士服を着ている。


「リディア」


「レオンハルト様」


彼はその呼び方に傷ついた顔をした。


以前なら「殿下」と呼ばれていたからだ。


「一つだけ聞きたい」


「何でしょう」


「いつから、余を疑っていた?」


「疑ってはおりませんでした」


「では、なぜ証拠を集めていた?」


「貴方を信頼できなくなったからです」


レオンハルトは苦く笑う。


「同じことではないか」


「違います。疑いは、悪事を働いていると考えること。信頼できないとは、重要なものを任せられないということです」


「余は、それほど頼りなかったか?」


「はい」


即答だった。


レオンハルトは胸を刺されたような顔をする。


「少しくらい、迷ってくれてもよいだろう」


「迷っている間に、国民の命が失われるかもしれません。王位に立つ者の責任とは、そのようなものです」


「君は最後まで厳しいな」


「いいえ。以前のわたくしは、甘すぎました」


リディアは静かに言った。


「殿下の失敗を隠し、代わりに仕事をし、いつかご自身で気づいてくださると思っていました。結果として、殿下から成長の機会を奪っていたのかもしれません」


「ならば、余がこうなったのは君の責任でもあると?」


「責任の一端は認めます。ですが、選択したのは貴方です」


レオンハルトは空を見上げた。


「いつか……罪を償ったら、また君の前に立つことは許されるだろうか」


「立つことは自由です」


「その時、もう一度余を見てくれるか?」


リディアは少し考えた。


「一人の人間としてなら」


「婚約者としては?」


「あり得ません」


迷いのない返答だった。


レオンハルトは目を閉じ、やがて小さく笑った。


「そうか」


彼は背を向ける。


数歩進んでから、一度だけ振り返った。


「今まで、ありがとう」


「どうかご無事で」


それが二人の最後の会話となった。


第九章 王太子妃ではない未来


事件後、国王は第二王子アレクシスを新たな王太子に指名した。


十六歳のアレクシスは優秀だったが、兄の失敗を目の当たりにして、自分が王になることを恐れていた。


彼はリディアへ頭を下げる。


「どうか、僕の婚約者になっていただけませんか」


以前なら、王家の申し出を断ることは難しかっただろう。


だが、リディアは穏やかに首を振った。


「申し訳ございません」


周囲の貴族たちは驚いた。


王太子妃となり、いずれ王妃となる。


公爵令嬢にとって、それ以上の栄誉はない。


しかしリディアは、もう自分の価値を王子との婚約で証明しようとは思わなかった。


「わたくしは長い間、王妃になることだけを目的として生きてまいりました。けれど今回の件で、自分に別の道があると気づいたのです」


彼女は王立監察局の改革責任者となった。


貴族の不正を調査し、身分の低い者でも被害を訴えられる制度を作る。


地方ごとに監察官を置き、税の横領や違法な徴兵を取り締まる。


その構想は、カイルとともに証拠を集めていた時から温めていたものだった。


「君なら良い王妃になれたと思う」


アレクシスは残念そうに言った。


「ですが、良い監察官になれるかもしれません」


「王妃より、そちらがいい?」


「はい」


リディアは晴れやかに笑った。


「自分で選んだ道ですから」


アレクシスは、その言葉を聞いて納得した。


「では僕が王になった時、間違っていたら止めてください」


「容赦なくお止めいたします」


「兄上にも容赦がなかったからね」


二人は顔を見合わせて笑った。


王太子の婚約者になる代わりに、リディアは王国初の女性監察局長へ就任した。


同時に、女性の官僚登用を制限していた法律も撤廃される。


彼女が守ったのは、王子との婚約ではない。


自分自身の未来だった。


第十章 氷の辺境伯


王都に春が訪れた頃、リディアの執務室へカイルがやってきた。


相変わらず黒い軍服を着ている。


「北方へ戻られるのですか?」


「ああ。国境の混乱も落ち着いた。私がいつまでも王都にいる理由はない」


いつもどおり無表情だったが、どこか言いにくそうにしている。


リディアは気づかないふりをして、書類へ視線を落とした。


「お世話になりました。カイル様がいなければ、宰相を追い詰めることはできなかったでしょう」


「それはこちらの台詞だ。隣国の侵攻計画を防げたのは、君がミアの正体に気づいたからだ」


「最初から怪しいと思っていたわけではありません」


リディアは苦笑する。


「殿下が急に機密文書を持ち出すようになったので、調べただけです」


「十分だ。普通は王子の機嫌を損ねることを恐れ、見て見ぬふりをする」


「わたくしは元婚約者ですもの。殿下に嫌われることには慣れておりました」


カイルがわずかに眉を寄せた。


「君が笑って言うと、怒るべきか迷うな」


「あら。氷の辺境伯様にも、迷うことがおありなのですね」


「私を何だと思っている?」


「雪山に立つ石像かと」


「君は時々、ひどいことを言う」


そう言うカイルの目は、少し楽しげだった。


二人の間に沈黙が落ちる。


窓の外では、春の風が木々を揺らしていた。


やがてカイルが口を開く。


「リディア」


いつもの「公爵令嬢」ではない呼び方だった。


「はい」


「私は、言葉を飾るのが得意ではない」


「存じております」


「だから率直に言う」


カイルは一通の封筒を机へ置いた。


「結婚を前提に、私と交際してほしい」


リディアは封筒と彼の顔を交互に見た。


「それは、求婚状ですか?」


「いや」


「では、何でしょう」


「北方監察局の新設計画書だ」


思わずリディアは笑ってしまった。


「この状況で、そちらを先に出す方がいらっしゃいますか?」


「君が結婚と仕事を天秤にかける必要がないことを、先に示したかった」


リディアの笑いが止まる。


計画書には、北方監察局の全権をリディアへ委ねることが明記されていた。


辺境伯の妻として飾られるのではない。


一人の官僚として、能力を求められている。


「私の領地にも、不正や古い慣習は残っている」


カイルは続けた。


「君の力を借りたい。もっとも、それは求婚とは別の話だ。求婚を断っても、監察局長として来てくれるなら歓迎する」


「ずいぶん不器用な告白ですこと」


「否定はしない」


「一つ、質問しても?」


「ああ」


「もしわたくしが、貴方の不正を見つけたら?」


「告発すればいい」


即答だった。


「私が間違っていれば止めてくれ。私が罪を犯せば裁いてくれ。それでもなお、隣にいてほしい」


それは甘い愛の言葉ではなかった。


永遠に守るという約束でもない。


互いを対等な人間として認め、間違いを許すのではなく正すという誓い。


リディアが欲しかったのは、きっとこういう関係だった。


「お返事は、すぐでなくてもよろしいですか?」


「もちろんだ」


「では、まず北方監察局の予算についてお話しいたしましょう」


カイルの顔がわずかに曇る。


「予算?」


「この計画では足りません。最低でも二割増額していただきます」


「領地の財政にも限界がある」


「必要経費です」


「一割なら」


「二割です」


「一割五分」


「交渉成立ですわ」


リディアが手を差し出す。


カイルはその手を握った。


「求婚の返事より先に、予算交渉で譲歩させられるとは思わなかった」


「わたくしと結婚したいのなら、慣れていただきませんと」


カイルが目を見開く。


「それは……」


「前向きに検討いたします。ただし、わたくしは王都での仕事も続けますし、辺境伯夫人らしくおとなしくするつもりもございません」


「望むところだ」


「それから、求婚の際には花束くらいご用意くださいませ。計画書だけでは、あまりにも色気がありません」


「覚えておこう」


「本当に覚えておけますか?」


「国境に咲く花を、すべて調べる」


真剣な顔で答えるので、リディアはまた笑った。


断罪の夜には決して浮かべられなかった、心からの笑みだった。


終章 悪役令嬢が残したもの


それから三年後。


リディア・フォン・アルヴェインは、王都の大聖堂でカイル・フォン・グランツと結婚した。


彼女は結婚後も監察局長の職を辞さなかった。


王都と北方を行き来しながら、不正を摘発し、新たな制度を整えていく。


彼女を嫌う者は多かった。


厳しすぎる。


冷酷だ。


女らしくない。


公爵家の権力を振りかざしている。


そして時には、こう呼ばれた。


悪役令嬢、と。


その呼び名を聞くたび、リディアは誇らしげに笑った。


誰かにとって都合の悪い女であることを、もう恐れなかったからだ。


新王太子アレクシスは真面目に学び、五年後、国王から王位を引き継いだ。


即位後最初の会議で予算を水増ししようとした大臣を、リディアは遠慮なく告発した。


「陛下の即位直後なのだから、今回は見逃してはどうか」


そう主張した重臣に対し、アレクシス王は笑って答えた。


「彼女に見逃してもらおうとする方が間違いだ」


王と監察局長は、互いに間違いを指摘できる関係を築いた。


王国は少しずつ変わった。


完璧な国にはならなかった。


不正はなくならず、争いも起きた。


それでも、身分の低い者が声を上げられるようになった。


女性が官僚や騎士を目指せるようになった。


王族の命令であっても、法律に反すれば拒める制度が作られた。


かつて舞踏会で一方的に断罪されかけた令嬢は、誰も一方的に断罪されない国を作ろうとした。


ある春の日。


リディアは北方の城の執務室で、古い新聞を見つけた。


三年前の卒業記念舞踏会を報じたものだ。


見出しには、こう書かれている。


『稀代の悪女、王太子殿下より婚約を破棄される』


初版の記事だった。


事件の全容が明らかになる前に印刷され、すぐに回収されたものらしい。


「何を読んでいる?」


執務室へ入ってきたカイルが尋ねた。


リディアは新聞を掲げる。


「稀代の悪女だそうです」


「間違ってはいないな」


「まあ」


「私の予算案を毎年削る女性だ。少なくとも私にとっては悪女だろう」


「無駄遣いをなさるからです」


「兵舎の暖房設備は無駄ではない」


「豪華な装飾暖炉は不要です」


「兵士の士気が上がる」


「普通の暖炉で十分です」


いつもの議論が始まる。


やがて二人は顔を見合わせ、同時に笑った。


窓の外では雪が解け、芽吹いたばかりの草花が風に揺れている。


リディアは新聞を静かにたたんだ。


あの夜、彼女を悪女と呼んだ者たちは、彼女の人生を終わらせたつもりだった。


だが本当は、始めてくれたのだ。


王太子妃になるためだけに用意された人生を終わらせ、彼女自身が選ぶ人生を。


リディアは夫の腕を取り、執務室を出た。


これから新しい学校の開校式へ出席する。


身分や性別に関係なく、官僚を志す者へ教育を施すための学校だ。


廊下の先には、大勢の生徒たちが待っている。


その中の一人が、緊張しながらリディアへ尋ねた。


「局長閣下。悪い人たちを倒すのは、怖くありませんか?」


リディアは少し考えてから答えた。


「怖いこともあります」


「それでも戦えるのは、どうしてですか?」


「悪い人を倒したいからではありません」


彼女は生徒の目線に合わせて腰をかがめる。


「守りたいものがあるからです」


「国ですか?」


「国も、人々も。そして、自分自身の誇りも」


少女は目を輝かせた。


リディアは立ち上がり、学校の扉へ向かう。


かつて彼女を裁くために鳴らされた鐘が、今は新しい時代の始まりを告げていた。


悪役令嬢は断罪されなかった。


赦しを乞うことも、愛されるために自分を曲げることもしなかった。


彼女を陥れた者は、自らの嘘と愚かさによってすべてを失った。


そして彼女は、奪われるはずだった未来よりも、はるかに大きな未来を手に入れた。


その名はリディア・フォン・グランツ。


後世の歴史書には、こう記されることになる。


王国を陰謀から救い、法の下では王族さえ例外ではないと証明した、最初の女性監察局長。


敵対者からは、冷酷な悪女。


弱き者からは、希望の公爵令嬢。


そして、自らの人生を自ら選び取った女性であった、と。


終

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