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第二話『折れた剣に、麺棒』

 明確に異常が起きている気配。身体中に走り回るその悪寒に、凍えそうだった。

 頭に鳴り響く警鐘は、目覚ましどころじゃない。私の勘が、生命の危機を叫んでいた。


 パン屋を飛び出して数秒、すぐに私はその異常の正体を見る。その姿を記憶と照らし合わせた瞬間に、その異常は絶望という名前に変わった。

「……は? タナ……トス……?」


 あれは、正確には魔物ではない。生命を刈り取る、裏世界の原理であって、現象だ。

 裏世界は魔物の住処であり、私達人間が悠長に暮らしていていい場所ではない。

 だから、定期的に私達という異分子を排除する為に現れる。ただ、出現までの時間は、測っていたはずだ。観測係はどの階層の拠点にも存在するくらい大事な仕事なのだから、出現する事なんて噂レベルでしか聞いたことがない。

 

――それなのに、どうして。

 だけれど、タナトスが人を襲い始めている今、観測係の事を考えている場合じゃない。

「……少しでも、逃さないと」

 私にとっての『その日』が来た、だなんて生半可なものじゃない。私が剣を取る日は、このままじゃ私の死ぬ日になる。だけれど、戦えるなら、放っておくわけにはいかない。


 目の前で、一人の生命が刈り取られる。魔物に殺された時とは違って、現象に刈り取られた人間は、姿など残らない。絶望の表情のまま、黒い霧になって、消えた。


――あぁ、この人は大酒飲みだけれど、それでも良い人だったな。

 一瞬だけ想う。一瞬だけ。それしか、想う事は出来ない。


 私はタナトスに刈られて消えた仲間の前に躍り出て、剣を振るう。勝つ為でも、倒す為でもない。タナトスが持つその、生命を刈り取る鎌を一撃でも止める為に、剣を当てに行く。

「皆! 下の階層に逃げて!」

 タナトスの事を知っている人は、この階層じゃそう多くない。観測係か、手練の探索者くらいのものだ。それにそもそも、見たことがある人すら少ない。私だって、初めてお目にかかっているのだ。

 ただ、私が少しだけ、ルーンさんだとかに聞いて、この裏世界を理解しようとしていただけの差。


――こんな事は、起こるはずがないのに。


 タナトスの目が、赤く光る。私に向かって振り下ろされるその鎌撃は、圧こそ強いが、弾く事は出来る。とはいえ当たってしまえば一撃で死ぬ。もう既に、何人かは犠牲になっている。ただ、弔いの感情を持つべきは、今じゃない。私は細心の注意を払いながら、タナトスと対峙する。


 ただ、タナトスの事を知らなければ、魔物だと思う人間も、勿論存在する。

「後ろががら空……き……」

「待っ……ッッ!」

 説明する暇なんて無かったのだから、魔物だと思う人がいるのだって仕方がない。私のよく知るもう一人が、剣をタナトスに振り落して、反転したタナトスの鎌撃で生命が刈り取られる。

 後ろががら空きだろうが、こいつにまともな攻撃は通用しない。現象は、そう簡単には壊せない。


「だから! 逃げてってば! そんで君は……こっち!」

 あえてタナトスの鎌先に滑り込んで、私は剣を大きく上に掲げて、鎌を弾き飛ばそうとするが、そんな事で揺らぐ相手ではない。とにかく、時間稼ぎをする必要があった。


――だけれど、死神という名を冠した現象に、例外はないのかもしれない。

 きっと、目の前で起きているこの現象は、予め何かに決められたかのように動いている。

 だけれど判断もしている。だからこそ、私の妨害を無視するに至ったのだ。それしか、考えられない。


「こっち、だってば!」

 追いかけて薄く透けている背中に剣を振るっても、それは何の意味もなく。ただタナトスは私の方すら見ずに、素早く住民を切り裂いていく。一撃という事実に、例外は一つもない。私の一撃が届かないという事実にも、例外はない。


 一人。


 次の、一人。


 次の次の、一人。


 毎日の営みを一瞬で壊していくかのように、その消滅は、数秒単位で訪れている。

 恐怖の叫び声だけがこだまする。タナトスは、何も言わない。

「なんで……! どうし……」

 怖がったまま、強張ったまま、消える。

「クソッタレ! 食らいやがっ」

 強がったまま、勢いを殺され、消える。


 駆けても、駆けても、間に合わない。

 タナトスは正確に、まるでそこが決まっている道かのように動き、同じ動きで人を消す。


 何が、剣を取る理由だ。何が『その日』だ。

 だったら私は一生パン屋で構わなかった。

 そんな事を思う一瞬の間にも、仲間達が一人ずつ消されていく。

「ッッ……! それでも!」

 一人でも良い、せめて一人だけでも、この階層から落とせば、それ以上タナトスは襲ってこない。

 だから、私は出口へと走る。

「皆! 攻撃は通用しない! 急いで出口へ!」

 知っているという事が、常に正しいわけじゃない。私だって、意味も分からず消えてしまった方が良かったかもしれないとすら思う程の、生命の消去。

 

 これが、裏世界のルールだとするならば。どうしてこんな事が、起きたのだろう。

 ふと、遠くで観測係の男と目があった。彼もきっと、絶望の表情を浮かべているのだろう。

 この現象は、彼の観測の結果、起きてしまった事だ。必ず避けなければいけなかった事を、起こしてしまった。その結果、彼も今に死ぬ。タナトスが、その鎌を振り落しに近づいていく。


――だが、その男は笑っていた。

 両手を広げ、住民の中で唯一だっただろう。笑いながら、消えていった。

 その理由など、知る由もない。それに、そんな事を考えている暇もない。


「だから! 私を狙ってよ……ッッ!」

 怯えて隠れる住民達は、出口に向かってくれない。それをタナトスは、確実に一人ずつ刈り取っていく。第一拠点だからと、一番安全な拠点だからと、あまりに油断していたのだ。

 

 ここは、決して地上なんかじゃ、ないのに。

 魔物が発生し、人を消す事象すら起きてしまう。決して人とは相容れない場所だというのに。


 私達は、油断をしていた。

 だけれど、死ぬ必要なんて、一つもない。

 

 私はタナトスの鎌へと、飛びつくように跳躍しながら剣を振り下ろす。軸はブレる。ただやはり、力量差は圧倒的だ。今だって、鎌と武器がぶつかった衝撃で後ろに重心を逃さなければ私の身体は鎌によって分断されていただろう。

「それでも、一秒でも! 一人でも!」

 いい加減鬱陶しいと思ってくれたのだろうか。タナトスはやっと私に向かって、鎌を振り下ろし始めてくれた。だったら、時間は稼げる。

 私だって死ぬつもりはない。だけれど住民が避難する時間を作れる人間は、この拠点には多くない。

 

――受け止めて、弾く。

 何度も何度も繰り返した事を、思い出す。鍛錬してくれる人はそう多くなかった。物心ついた頃から剣を振っていた私にとって、魔物こそ私の師匠のようなもの。だったらこれは、命がけの最後の訓練なのかもしれない。パン屋はどうやら、本当に閉店みたいだ。

「逃げて! 皆! 下に逃げて!」

 周りの事を見ている余裕など、少しもない。ただ私は同じ言葉を叫びながら、タナトスの鎌を受け続ける。


――受け流して、避ける。

 何度も何度も繰り返した事を、思い出す。だけれど今回に限っては、失敗がそのままおしまいだ。

 私よりも上手く剣を使えた人は、そう多くない。鍛錬が出来なかったのもそのせいだ。

 だけれど私が鍛錬する立場になりようもない。だって今までは、ただのパン屋だったのだから。


 私は変わらず住民に向けて退避を叫びながら、少しずつ階層出口の階段付近まで追い込まれていく。

 本気で私を刈ろうとしているタナトスの鎌撃は、生易しいものではなかった。


 出口の手前から、拠点が見える。

 何一つとして、変わらない風景。タナトスは家も物も壊さない。ただ生命だけを、壊す。

「……皆! 逃げッ!」

 途端、私の剣がガギリと音を出して、刀身が半分に折れる。


 と、同時に、私の目の前に剣が差し込まれた。

「ルーネ、もう、皆はいないよ」

 身体が出口側にズン、と押し込まれる。

 目の前で、誰かが私を階段の方へと押し飛ばしたのが、見えた。


 階段を転がり落ちる痛みなど、気にもならなかった。

 ただ、上の階でカラン、と鎌が落ちる音だけが、聞こえた。


 タナトスが消える条件は、当階層の人間がいなくなった時。

「あ……」

 最後の彼が、誰だったのかすら、分からなかった。

 ただ、私だけが生き残り、彼が消されて、タナトスという現象が去ったという事実だけが、静寂の中で響き続けていた。


「剣、折れちゃったな」

 私は、誰一人すら、守れなかった。

 状況も勿論、全て噛み合っていなかったのは間違いない。

 だけれど、せめて一人くらい。その一人が、皮肉にも、私という誰の事も守れなかった生命だった。


「折れた剣に、麺棒……か」

 呆然としたまま、自分の持ち物をぼうっと見る。麺棒が、変わらない日常を思い出させて、ふと涙が溢れかけた。

 それを私は、強く手のひらで抑えて、堪える。


――皆には、泣く為の時間すら、無かった。

 生き残った私が、生き残らされた私が、生き残ってしまった私が、泣いていいはずが、ない。


 だから、私は階段に足をかける。

 私の生命を受け止めてくれた誰かの剣を拾いに、一歩ずつ、登る。

 私の折れた剣も、鞘にしまい、戦う為の誰かの剣を、使わせてもらう事にする。

「誰も、いなくなっちゃったな」

 とにかく今は、これを拠点に伝えるのが先だ。タナトスの出現は観測出来たとしても、間違ってまた出てきてしまっては、生命の無駄使いだ。

 私は、誰もが部屋で眠っているだけならばいいのにと、一瞬だけ考えた後、首を横に振って、階段を、一歩ずつ、踏みつけるかのように、降りていった。

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