第一話『このパン、美味しいですか?』
新しい朝が来た、らしい。
少しだけ湿っぽい布団にも慣れたし、いつになっても温度変化が無い環境にも慣れた。
ただ、時間間隔だけはピンと来ない。ポケッポーと鳴る目覚まし時計の頭をチョップして、私はベッドから起き上がる。実際、目覚まし時計の時間がどれくらい正確かも分からない。
ただ、朝ってこういう時間って事にしようと、この場所にいる皆で決めただけの事、上の世界が朝だろうと夜だろうと、私達は、今この瞬間が朝と決めた。
――世界が違えば、ルールも変わる。
当たり前だ。だけれどこんなにも、冷たくて寂しい世界を、私は便宜上でも、世界だなんて呼びたくない。陽が当たらずに、魔物が現れ、冷たい壁に覆われた場所を、世界だなんて、呼びたくない。
「でも、選んだのは私、だしね」
この世界が沈黙しているから、私達が沈黙させているから、表の世界――地上は平穏でいられる。
私の居場所は地上には無かった。だから、私はこの場所に一番相応しい人間だ。
「ふぁ、今日もやるかぁ」
欠伸とともに、起き上がる。衣服と呼ぶには少しだけ頑丈な、軽装備を纏った。
ただ、手に取るのは麺棒。
何故なら、麺棒はパン生地を伸ばす事が出来る。それに、棍棒と見た目も名前も似ている。だから好きだ。
文明の利器というのは、素晴らしいと思う。ただし私の文明の利器は麺棒と捏ね鉢。明かりは松明で構わない。要は生きる為に必要な物が揃っているなら、構わない。世界が違えばそんな事だって起きる。
私が、私達が住んでいるのは、場所としては地下にある大きな迷路のような場所だ。『裏世界』と呼ばれたこの世界に、果てがあるかは分からない。
そこで過ごす私達にとって、水やら明かりやらは、頭を捻って一生懸命作るものであって、出来るのならば上手く簡略化して使わなければいけない物達だ。地上のように、井戸を掘ればいいわけじゃあない。たかが水の調達にすら、魔物に襲われる危険がある。私はまだ貯蓄がある綺麗な水と、定期的に地上から届けられる小麦を使って、パンを捏ね始める。
『地下店』
誰が呼んだかは分からないけれど、いつの間にか私のしている事、私が裏世界で開いている探索者の為の支援施設はそう呼ばれるようになった。店という名は冠しているけれど、別にお金を取っているわけでもない。
――この裏世界にいる人間は、誰もが誰もの意志で、危険を承知で助け合って生きている。
私の場合は、この地下世界、及び地上の平穏を保つ為のお手伝いをしているというわけだ。
私は魔物が蔓延る裏世界を探索する為に必要な食料を作り、時には自分自身も探索に出る。
個人的には探索の方が好ましいのだけれど、まだ二十歳にも届かない私の年齢を考えてか、お客さんの殆どは私からパンを受け取りながら、その探索譚を聞かせてくれるだけで、あまり私の探索を良しとはしてくれない。
私自身、そう簡単にこの裏世界に飲み込まれるつもりは無いけれど、それでも数十人で構成された裏世界の探索部隊に女性は少ない。私達がいる第五階層では、私は最年少だ。そもそも、裏世界に望んで入るような酔狂な人は多くない。義勇、偽善、捨て身、どんな言い方でも構わない。だけれどその全てが、自分の時間や、生命を落とすかもしれない危険を承知の上で、地上の平和の為に、この場所に降りてくる。
――だからこそ信用が成り立っている。
探索は、少しずつでも進んでいる。私がいる第一拠点が一番人の出入りが激しいけれど、下の階層にも十数人規模の拠点が出来始めている。噂では三十階層の第六拠点まで足を伸ばしたらしいけれど、その人達と会う事もそう多くない。会うとすれば補給部隊の人々だろうか。
一度補給部隊に志願した事もあったのだけれど、店を空けられないのと、おそらく私自身がお荷物になると判断されたのだろう。不許可になってからは、何も言わずにこの店を続けていた。
重要な事も分かる。この拠点から、私達の戦いは始まるのだから。
「でも、何の為の修行だったんだか……」
店を開いて毎日探索者用の食事を用意しているにせよ。私のパンはあまり美味しくない。というか、堅い。
日持ちを考えてあえて堅く作っているのだけれど、それでも熱心に応援してくれる人以外は、戦闘糧食として食べているという事情が大きいだろう。そもそも普通の食事は拠点の食堂で出るのだから、あくまで私は探索時の栄養補給という扱いでしかない。美味しく食べてもらうものを作っているわけじゃないのだ。
――パンを焼くより、上手い事はあるんだけどな。
それでも、この地下世界を探索しているのが『私』ではなく『私達』である以上、私の役目をする人は必ず必要になる。
この日々がいつか終わればいい。私はそれを願って、パンを捏ねる。
この裏世界の存在を終わらせる役目が私でなくとも良いのだ。きっといつか、この裏世界という異質な世界を、誰かが解読し、理解し、地上と裏世界の歪な関係を誰かが断ち切る。
その当事者になりたいという英雄願望は、私には無い。
だけれど、きっとパンを焼くよりも役に立つ事が出来るという確信はあった。
剣を振るうのは、パンを焼くようになるよりもずっとずっと前から、やっていた事だ。
時々、夜に店を抜け出して、第五階層のそう強くない魔物だとはいえ、魔物と戦うという事もしていた。
「おまたせしました、開店ですよー……ルーンさん」
着替えを済ませ、シャッターを空ける。先日焼いておいたパンを店先に並べる前に。外に誰かがいる気配を感じ、傷薬や、水といった物もまとめた、探索用セットを差し出す。
「おはよう、ルーネくん。いつも悪いね」
誰が一番最初にいるか、誰が一番最後に来るか、それは私にとって当たり前の習慣のようにも思えて、事実として感覚でも認知出来る事だ。ルーンさんは、第一拠点でも別格の強さ。私にとってはお祖父ちゃんと言ってもいいくらいの、優しい人だ。だけれどその太刀筋は、普通の人のそれではない。
私は、ヒゲを多く蓄えた、いかにも歴戦の老兵と言わんばかりの風格で大剣を背負っている彼に、小さく笑いかける。
「そういえば……ルーンさんは今日から第二拠点に行くんでしたっけ」
「守るべきではなく、攻めろという判断が出たそうだよ。ワシはこの場所を守る側でいたいのだけれどな」
彼は空を――見えない空を眺めるように、石で閉ざされた天井を見上げる。
目を瞑った彼に見えているのはきっと、青空なのだろう。
「私も……攻める側になりたいんですけどね」
小さくこぼすと、彼は目を開いて、私の頭をゆっくりと、無骨な手でそっと撫でた。もう何年も顔を見知った仲だ。この裏世界に滞在している住民は、皆家族だと言っても良い。
――だからこそ、私に剣を持たせてくれない。
「言いたい事は分かっている。君が本当は剣を取って然るべき人間だと、気付いていない人も多いだろう。しかし、その時は必ず来る。来てしまうんだよ。この世界に、いる限りはね」
彼は、私の言いたい事を、言葉を変えて答える。今ではないとはその通りなのだろう。だけれど、私の太刀筋を見た事が無い彼は、どうしてそう断定出来るのか、不思議で仕方が無かった。
だけれど彼程の猛者であれば、私が誤魔化しながら生きている事も分かっているのかもしれない。
「あの、ルーンさん、最後に一度……」
「やらんよ」
彼は大剣を少しだけ浮かせて、笑った。
「その瞳の奥に映っている物に気付かない程、ワシは耄碌しとらん。少女とも呼べる君に、今から地下階へと攻め入るワシが一本でも取られては、格好がつかん、だろう?」
「そんな……過大評価です。私は別に……」
――言いかけた瞬間、空気が上へと押し上げられる。
私のこぼした言葉から昇る音が、それと交わる前に、重い剣撃が私の頭上で止まった。
「……ありがとう、ございます。これは……丁度良いですね」
私が咄嗟に防御に使った堅いパンの束が、剣撃を私の頭ギリギリの所で受け止めきっていた。しかし、私に当てるつもりがない事もまた、分かっていた。
「ああ、丁度良いだろう? 使う機会が無いからって、そう卑屈になるもんじゃあない。ワシが殺すつもりで振るわないから、君は守りに入った。しかし君は、ワシが殺すつもりで振るっていたらどうしていたかな?」
彼は、私が握りしめていた、パンを見る。少しだけ、胸のモヤモヤが晴れた気がした。
だけれど、彼は分かってくれているのに、それでも私は動けない、それがやはり、寂しい。
「パンは食べ物ですから……食べやすくしてくれた事は、ありがとうございます」
あえて、言葉を濁す。一瞬で頭の中で生まれた沢山の分岐は、こんな優しい人に対して思うべき事じゃない。たとえ疑問として問われたとしても、だ。
「そんなつもりは、ないのだが。君の役に立ったなら、老兵もまだまだ若者の未来に役立てるという事だろうなぁ」
ルーンさんは半分になったパンを、私の手からそっと取り上げる。
「餞別にもう少し貰っておこうじゃないか。これからは食べられなくなるんだ、いいだろう?」
多めに作っていたが、そんな事は関係無い。長い別れか、短い別れか、永遠の別れか分からないのだ。私の作ったパンで良ければ、いくらでも持っていけばいいと、思った。
「勿論、構いませんけれど、ちなみにこのパン、美味しいですか?」
「まぁ……良く噛めばな」
結局、最後まで、美味しいとは言わないまま、彼はこの階層から姿を消した。
「いつか、会えたなら、一緒に戦えたら良いな」
強くて優しい人だった。私の家族もああだったならと、一瞬考えて頭を横に振る。
私はもう、一人の人間、この世でたった一人の『ルーネ・トネリコ』という人間だ。
違う世界で生きている人達の事は、あまり考えたくない。
攻めたいわけでも、現状を呪っているわけでもない。
だけれど、記憶はそう簡単に消えてくれない。
地上で生きるという事、そうして裏世界という地下で生きるという事。
それらはどちらも、選択の上で成り立っている。
裏世界は気を引き締めて、常に生命を揺らぎの中で研磨している。だけれど、私達が魔物を倒しきれず地上に魔物を顕現させてしまった時、それらを研磨していない恐怖に、地上の住民は蹂躙されかねないのだ。
一方は、危険の中で、緊張して暮らす毎日。
一方は、危険の少ない毎日の中で、弛緩する毎日。
どちらが正しいなんて、簡単には答えられない。
だけれど、危険が無くなればいいだけの話なのだ。
其のために、ルーンさんは裏世界の奥へ赴き、私もまた探索者の為にパンを焼く。
変わらない日々、少なくとも、今はまだ変わってはいけない日々。
終わるまでは、変わらせちゃいけない日々。
――いつか、剣を取る日、か。
考えて、少し身体が震えた。それは武者震いかもしれないし、恐怖かもしれない。
ただ、その日がいつかなんて事は、誰一人として、知る由もないのだ。
次の日も次の日も、次の日も、私は堅いパンを焼き。裏世界で日常を営み続ける。
次の日も。
次の週も。
次の月も。
時折届く、ルーンさんの生存報告にも似た手紙に、ほっとするような日々が続く。
彼はもう、二十五階層まで到達しているようだ。彼の手腕ならきっと問題がないのだろう。
堅いパンが食べられなくて少し寂しいなんていう冗談が、彼の優しさを少しだけ思い出させてくれた。
そうして、日々は続く。
次の、次の、次の、次の朝、目覚まし時計の音が、鳴らない日。
その日が来る事は、決められていたのだろう。
目覚まし時計の代わりに私の目を覚まさせたのは、良く知っている仲間の、叫ぶ声。
「この階層は、異常が起きる階層じゃないはずなんだけどな」
私は起き上がり、ベッドに立てかけていた一本の剣を手に取った。
――でも、異常が起きなきゃ、こんなに嫌な感覚が身体に奔るわけがない。
痛みでも、恐怖でもない。ただ、私のすべき事を教えているような、警告を伴っているような、そんな感覚。
「麺棒だけは、持っていこうかな」
今日は店を開く必要がない。
これからはきっと、パンを焼く必要もないだろうと、思った。
もしかしたら、この家に戻ってくる事も、ないかもしれない。
ただ、私は『その日』が来たという事だけを、何となく察しながら、叫び声の元へ、駆け出していた。




