第9話 国境の関所と最後の検品
国境の関所前は、異様な熱気に包まれていた。
数百台の荷馬車が立ち往生し、商人たちの怒号が飛び交っている。
「いつまで止める気だ! 積荷が腐っちまうぞ!」
「王都の都合なんて知るか! 通せ!」
関所の門は固く閉ざされ、武装した衛兵たちが槍を構えていた。
私たちは少し離れた丘からその様子を見ていた。
「……完全に封鎖されてるな」
ザックが険しい顔で言う。
「正面突破は無理だ。裏道もない。……だが、手はある」
私たちは商人たちの野営地に降りていった。
そこには、絶望的な顔をした果物商人がいた。
「ああ、もうおしまいだ……。このままじゃ『陽光リンゴ』が全部腐っちまう。破産だ……」
彼の荷台には、完熟して傷み始めたリンゴが山積みになっていた。
私はリュックを下ろした。
「おじさん、そのリンゴ、私がなんとかしてあげましょうか?」
「はあ? なんだあんた……」
「鍋と砂糖、ありますか? 腐らせて捨てるより、加工して倍の値段で売りましょう」
私は即席の野外厨房を作った。
傷んだ部分を削ぎ落とし、果肉を刻む。砂糖と一緒に大鍋で煮込む。
グツグツと煮立つ音がして、甘酸っぱい香りが周囲に広がった。殺気立っていた商人たちが、鼻をひくつかせて集まってくる。
「いい匂いだ……」
「なんだ、ジャムか? こんな場所で?」
出来上がったのは、黄金色に輝く特製リンゴジャムだ。
瓶詰めにして、冷たい雪解け水で冷やす。
「これなら日持ちしますし、辺境では保存食として高く売れますよ」
私が瓶を渡すと、商人は目を輝かせた。
「すげえ……! 魔術師かあんた!?」
「ただの料理人です。……ところで、私たちを『助手』として雇ってくれませんか?」
交渉は成立した。
数時間後。
商人たちは団結し、関所の門へと押し寄せた。
「おい役人! 通さないなら、ここで商品を全部腐らせて、その損害賠償を王都に請求するぞ!」
「そうだ! 商人ギルドを通じて正式に抗議する!」
数百人の男たちの怒りの圧に、役人たちが怯んだ。
経済の血流を止めることは、国家にとっても致命傷だ。現場の指揮官は、ついに責任を負いきれなくなり、青ざめた顔で手を振った。
「わ、わかった! 検問だけはさせてもらうぞ!」
重厚な門が、軋みながら開く。
その隙間を縫うように、馬車の列が動き出した。
私は商人の荷台の隅に座り、荷物に紛れていた。
隣にはザックがいる。彼は自分の毛皮のマントを私に被せ、さらにフードを目深に被っていた。
「……顔を上げるなよ」
彼の腕が、マントの上から私を抱き寄せた。
衛兵の視線が突き刺さる。
ザックは私の耳元に顔を寄せ、まるで親密な夫婦のように囁いた。
「俺から離れるなよ、奥さん」
その声は甘く、でも腕に込められた力は痛いほど強かった。
心臓が跳ねる。
これが演技だとわかっていても、彼の体温と匂いに包まれていると、世界で私たち二人きりになったような錯覚に陥る。
馬車が関所を通過する。
石畳の冷たい響きが、土の柔らかい音に変わった。
抜けた。国境を越えたのだ。
「……行ったぞ」
ザックがマントを少し開けた。
眩しい陽光。ここから先は辺境伯領だ。自由な土地だ。
「ザックさん、私……」
「礼はいい。まだ仕事は終わってない」
彼は素っ気なく言ったが、その表情はどこか寂しげだった。
もう「奥さん」と呼ばれることもない。旅が終われば、私たちは他人同士に戻るのだから。
しかし、感傷に浸る間もなかった。
前方から、土煙を上げて一台の豪華な馬車が疾走してくるのが見えた。
金色の装飾。教会の紋章。
ザックが息を呑んだ。
「……嘘だろ」
馬車は私たちの進路を塞ぐように急停車した。
扉が開き、降りてきたのは──きらびやかな法衣を纏った、大神官バリオスその人だった。
背後には、武装した私兵団が控えている。
「待っていたぞ、エマ・フローリス」
バリオスは歪んだ笑みを浮かべ、両手を広げた。
「ここが貴様の終着点だ。さあ、神の元へ帰ろうか?」
退路は断たれた。
背後の関所の門が、ドーンという重い音を立てて閉ざされた。
私たちは、袋の鼠だった。




