第5話 雨音と生姜のホットドリンク
天が割れたような雨だった。
宿場町を出て半日。霧の渓谷に入った途端、黒雲が垂れ込め、氷のような雨粒が叩きつけてきたのだ。
「走るぞ! あそこに岩陰がある!」
ザックの怒鳴り声が、雨音にかき消されそうになる。
泥濘む足元に気をつけながら、私たちは街道脇の斜面を駆け上がった。
岩壁にぽっかりと口を開けた、小さな洞窟。
滑り込むように中に入ると、外の轟音がふっと遠のいた。
「……酷い天気ですね」
私はフードを払い、肩で息をした。
チュニックの裾から滴が垂れる。ブーツの中までぐっしょりだ。
「春の嵐だな。じきに止むだろうが、これじゃ動けねえ」
ザックは入り口に立ち、外の様子を窺っている。彼の革鎧からは水が滝のように流れ落ちていた。
「俺は薪を拾ってくる。お前はその辺の石で竈を組んでおけ」
「えっ、こんな雨の中で?」
「濡れてない木を探す当てはある。……火がないと凍えるぞ」
彼はそれだけ言い残し、再び豪雨の中へ飛び出してしまった。
一人残された洞窟の中。
外の世界から切り離されたような、薄暗い静寂。
岩肌からは湿った土の匂いがする。雨音は絶え間ないドラムのように響いているが、不思議と落ち着く音だった。
私は言われた通り、手頃な石を集めて竈を組み、リュックから着替えを取り出した。
濡れた服を脱ぎ、乾いたシャツに着替える。
寒さで肌が粟立つ。早く温かいものが欲しい。
数十分後、ザックが戻ってきた。
腕には大量の薪。表面は濡れているが、割れば中は乾いているはずだ。
「……ただいま戻りました、って顔じゃないですね」
彼は全身ずぶ濡れで、唇が少し青ざめていた。
それでも手際よく薪を割り、火種を作っていく。
パチパチ、という音がして、赤い炎が揺らめいた。
洞窟内の温度が、じわりと上がる。
「ザックさん、これを」
私は小鍋で温めておいた液体を差し出した。
生姜の薄切りと蜂蜜、それにシナモンスティックを加えた特製ホットドリンクだ。
洞窟内に、甘くスパイシーな香りが充満する。
「……なんだこれは」
「飲むカイロです。一気にいってください」
彼は訝しげにカップを受け取り、一口飲んだ。
喉を通るゴクリという音。
「……ッ」
彼の目が見開かれる。
「熱っ……いや、腹の中が熱い」
「生姜は血流を爆発的に上げますから。風邪を引かれたら、護衛がいなくなって私が困ります」
私が軽口を叩くと、彼はふんと鼻を鳴らし、二口目を飲んだ。
その表情が、さっきまでの険しいものから、ふわりと緩んだ。
彼が鎧を脱ぎ、焚き火のそばで乾かし始めた。
私も火のそばに座り、濡れた髪をタオルで拭いていた。
すると、ザックの手が伸びてきた。
「……貸せ」
私の手からタオルを取り上げる。
「自分じゃ後ろが拭けないだろ」
彼は私の背後に回り、乱暴に、でも力加減は優しく、私の髪を拭き始めた。
ゴシゴシ、という感触。
大きな手が、頭の形に沿って動く。
タオルの上からでも、彼の手の熱さが伝わってくるようだった。
「……髪、伸びたな」
耳元で、低い声がした。
「そうですか? 旅に出てから切ってませんけど」
「……悪くない」
彼の手が止まった。
タオルの隙間から、彼と目が合った。
至近距離。
琥珀色の瞳が、焚き火の光を映して揺れている。
雨音だけが、世界の全てを埋め尽くしているような錯覚。
彼の指先が、私の頬に触れそうになり──。
ピタリ、と止まった。
彼はハッとしたように息を呑み、ぱっと身を引いた。
「……もう乾いただろ」
彼はタオルを私に返し、焚き火の反対側へドカリと座り込んだ。
気まずい沈黙。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
ただ、心臓の音が雨音よりも大きく響いているだけだ。
「……雨、止みそうですね」
私が話題を変えると、彼は入り口の方を見た。
「ああ。……だが、妙だな」
彼の声色が、鋭い「仕事」のトーンに戻る。
雨脚は弱まっていたが、その分、周囲の音がクリアに聞こえてくる。
ザックが立ち上がり、入り口の岩陰に身を隠して外を窺った。
「どうかしましたか?」
「……足跡だ」
「え?」
「雨上がりの泥の上に、新しい足跡がある。……それも、複数だ」
彼は腰の剣に手をかけた。
その背中は、もう私に髪を拭いてくれた優しい男性のものではなく、歴戦の冒険者のものだった。
洞窟の外。
雨上がりの静寂を破るように、カチャリという金属音が、風に乗って聞こえてきた。




