第4話 宿屋の厨房は戦場です
宿場町カレンの門前には、殺気立った空気が漂っていた。
衛兵たちが、通行人の女性一人ひとりの顔を乱暴に覗き込んでいる。
「次はどいつだ! フードを取れ!」
私の心臓が早鐘を打つ。
手配書の特徴は「金髪の聖女」。私の髪は蜂蜜色だが、陽の光の下では金に見えなくもない。見つかれば、王都へ強制送還──最悪の場合、投獄もあり得る。
私の番が来た。
衛兵が私のフードに手を伸ばそうとした、その時。
ぐいっ。
強引な力で、私は横から抱き寄せられた。
硬い革鎧の感触。タバコと鉄の匂い。
ザックが、私の肩を抱き込み、衛兵を睨みつけていた。
「……俺の連れに、手荒な真似をするな」
低く、地を這うような声。
衛兵がひるんで一歩下がる。
「あ、怪しい奴じゃないか確認を……」
「新婚旅行だ。田舎から出てきたばかりの、大事な嫁なんでな。他所の男に顔を見られるのを嫌がるんだよ」
ザックは平然と言ってのけた。
さらに、衛兵の手のひらにチャリリと銀貨を握らせるのを、私は見逃さなかった。
「……ちっ、好きにしろ」
衛兵は舌打ちをしつつも、道を開けた。
門をくぐり、喧騒の中に入っても、ザックの手は私の肩に残っていた。
市場のスパイスの匂い。焼き串の煙。人々の話し声。
それらが遠くに感じられるほど、私の意識は肩の熱に集中していた。
「……ザックさん、もう大丈夫です」
「ああ」
彼はパッと手を離した。
横顔を見ると、耳の先が少し赤くなっている気がする。
「……悪い。とっさの嘘だ」
「いえ、助かりました。……嫁、ですか」
「他に言い訳が思いつかなかっただけだ」
彼は早口で言って、さっさと歩き出した。その背中が、いつもより少し強張って見えた。
たどり着いたのは、路地裏にある「赤猫亭」という古びた宿だった。
看板の塗装は剥げ、扉を開けると蝶番が嫌な音を立てた。
カウンターにいたのは、派手な化粧をした中年の女将だった。
「いらっしゃい。……なんだい、貧乏旅行かい?」
彼女は私たちの服装──泥だらけのブーツと旅装束──を値踏みするように見て、鼻を鳴らした。
「二階の角部屋しか空いてないよ。一泊、銀貨五枚だ」
「高いな。相場は三枚だろ」
ザックが抗議するが、女将は扇子をバシッと閉じた。
「嫌なら他所へ行きな。最近は検問のせいで足止め食らった客が多くてね、どこも満室さ」
足元を見られている。
しかし、私は女将の顔色に違和感を覚えた。
厚い白粉の下、目の下の隈が酷い。それに、扇子を持つ手が小刻みに震えている。爪の色も紫色だ。典型的な血行不良と、慢性疲労。
ぐらり、と女将がカウンターに手をついた。
「……ちっ、めまいかよ」
「女将さん!」
私は駆け寄り、彼女を支えた。身体が氷のように冷たい。
「あんたたち、触るんじゃないよ……!」
「黙って座ってください。厨房、借りますよ」
「はあ!? 客に貸すわけ……」
私は聞く耳を持たず、ザックに目配せした。
彼は心得たように頷き、女将を椅子に座らせて威圧感たっぷりに立ち塞がった。
「料理人がやる気になったんだ。大人しく待ってろ」
私は奥の厨房に飛び込んだ。
油と焦げた鍋の匂いが染み付いている。清潔とは言えないが、食材は揃っていた。
生姜、陳皮(干したミカンの皮)、そして私の手持ちの薬草。
お湯を沸かし、手早く『特製・血行促進茶』を淹れる。さらに、残ったご飯で粥を作り、刻んだネギと卵を落とす。
十分後。
私は盆を持ってカウンターに戻った。
「飲んでください。身体が温まります」
女将は疑わしげにカップを見たが、立ち上る生姜の香りに抗えず、口をつけた。
一口。二口。
「……あら?」
彼女の目が丸くなった。
カッと顔色が良くなり、紫色の爪に血色が戻っていく。
「なんだいこれ……身体の中から火がついたみたいだ。肩の重みも消えた……?」
「生姜と陳皮の効果です。それに、私の『おまじない』も少々」
ニッコリ笑って粥を差し出すと、彼女は夢中で平らげた。
「……あんた、何者だい?」
完食した女将は、憑き物が落ちたように晴れやかな顔で私を見た。
「ただの料理好きの旅人です」
「ふん。……宮廷の薬師よりいい腕だね」
彼女は扇子で口元を隠し、ニヤリと笑った。
「銀貨五枚なんて吹っ掛けて悪かったよ。お詫びに一番いい部屋を用意する。代金はいらない」
「えっ、でも」
「その代わり、夕食もあんたが作ってくれ。私の分もね」
現金な人だ。でも、悪い人じゃなさそうだ。
その夜、私たちは最上階の部屋で、ふかふかのベッドと温かい食事にありついた。
窓からは、夜の宿場町の灯りが見える。
食後のハーブティーを飲みながら、ザックが窓の外を警戒するように見ている。
「……昼間のことだが」
「はい」
「嫁だなんて言って、迷惑だったか」
彼は私を見ずに言った。
「いいえ。……頼もしかったです」
私が答えると、彼は短く「そうか」とだけ言って、カップの中身を飲み干した。
部屋には静かな時間が流れていた。沈黙さえも、心地よいと感じるようになっていた。
コンコン。
ドアがノックされ、女将が入ってきた。手には差し入れのワインを持っている。
「いい夜だね、お二人さん。……ちょっと耳寄りな情報を持ってきたよ」
彼女は声を潜め、真剣な顔つきになった。
「あんたたち、検問で止められかけただろ?」
「ええ」
「王都から、『聖女狩り』の騎士団が向かっているらしいよ。……なんでも、『逃げた聖女が国宝を盗んだ』って罪を着せられてるんだとさ」
私は息を呑んだ。
国宝泥棒? そんな濡れ衣まで着せられているなんて。
「それとね、王都じゃ原因不明の病が流行り始めてるって噂だ。……あんた、心当たりがあるんじゃないかい?」
女将の視線が、私を射抜く。
ザックがすっと立ち上がり、私の前に立った。
「……噂好きだな、女将」
「ふふ、商売柄さ。……ま、私は恩人の秘密を売るような安っぽい女じゃないよ。ただ、気をつけな。追っ手は、もうすぐそこまで来てる」
女将が出て行った後、部屋には重い空気が残った。
ザックが私の方を向き、真剣な瞳で言った。
「……明日、夜明け前に出るぞ」
「はい」
私は強く頷いた。
旅の空気が、変わり始めていた。ただの逃避行ではなく、明確な敵との追いかけっこに。




