第2話 そのスープ、毒ではありません
陽が落ちると、世界から色が失われた。
深い藍色の闇が、街道沿いの森を飲み込んでいく。
馬車は街道を外れ、森の中の少し開けた場所で停止していた。今夜の宿はここ、つまり野宿だ。
春とはいえ、夜の冷気は容赦がない。吐く息は白く、指先の感覚が鈍くなる。
「おい、ボーッとするな。結界石の配置が終わるまで動くなよ」
ザックの声が闇に響く。
彼は手慣れた様子で、野営地の四隅に淡く光る石を置いて回っていた。魔物除けの結界石だ。その動きには一切の無駄がない。
重そうな荷物を軽々と運び、あっという間に私用の小さなテントを設営してしまった。
「……ありがとうございます、ザックさん」
「仕事だ。野垂れ死にされたら報酬が減る」
彼は相変わらず素っ気ない。
焚き火の準備をしながら、私が昼間の休憩中に森の入り口で採取してきた「あるもの」をリュックから取り出すと、彼の眉間に深いシワが寄った。
「……なんだそれは」
彼が指差したのは、私の手にある赤黒くてイボだらけのキノコだ。
見た目は最悪。毒々しい紫色の斑点まである。
「『オニシメジ』です。この森の特産品ですよ」
「捨てろ。どう見ても猛毒だ」
「いいえ、毒じゃありません。加熱すると毒素が旨味に変わるんです」
「信じられるか。そんなグロテスクなもん」
ザックは本気で嫌そうな顔をして、一歩後ずさった。
Sランク冒険者ともあろう人が、キノコ一つでそこまで警戒するなんて。
「じゃあ、ザックさんは食べなくていいです。私一人で食べますから」
「……勝手にしろ。死んでも知らんぞ」
私は彼を無視して、小鍋に水を張った。
ナイフでキノコを刻む。ザクッ、ザクッという音が、静かな森に吸い込まれていく。
確かに見た目は悪いけれど、このキノコは出汁の王様なのだ。干し肉の切れ端と、少しの香草を加えてじっくり煮込む。
次第に、鍋からコトコトという心地よい音と、濃厚な香りが漂い始めた。
最初は腐葉土のような土臭さがあったが、沸騰するにつれて、それが芳醇な「森の香り」へと変わっていく。
焦がしバターのようなコクのある匂いが、冷たい空気に溶け込んだ。
焚き火の向こうで、剣の手入れをしていたザックの鼻が動いた。
チラリ、とこちらを見る。すぐに視線を戻す。
でも、数秒後にはまたチラリ。
私は気づかないふりをして、木匙でスープを味見した。
「ん……! 美味しい」
口の中に広がる濃厚な旨味。身体の芯から熱が広がる感覚。やはり、私の【食の加護】は完璧だ。
「……おい」
低い声。顔を上げると、ザックが焚き火のすぐそばまで移動してきていた。
「なんですか?」
「毒見だ」
「はい?」
「護衛対象が変なものを食べて死なないか、俺が先に確認してやる。……義務としてな」
彼は真顔で、しかし空のマグカップをしっかりと差し出していた。
言い訳が苦しすぎる。
私は笑いを噛み殺して、彼のカップにたっぷりとシチューを注いだ。
「どうぞ。毒見役、ご苦労様です」
ザックはカップの中身を睨みつけた。赤黒いキノコが浮いている。
覚悟を決めたように、彼はそれを口に運んだ。
瞬間、カッと目が見開かれた。
「……ッ!」
言葉を失っている。
濃厚なキノコの出汁と、干し肉の塩気。冷え切った冒険者の身体には、何よりのご馳走のはずだ。
彼は二口目からはもう躊躇わなかった。ハフハフと熱いスープを息で冷ましながら、夢中で喉に流し込む。
「……なんだこれは。肉より美味いぞ」
「オニシメジは『森のステーキ』って呼ばれてるんです。見た目で損してるだけで」
「……知らなかった。この森には何度も来ているが、こんなもん、ただの毒草だと……」
彼は悔しそうに呟きながらも、カップを空にして突き出してきた。
「もう一杯だ。……毒の有無を完全に確認するためにな」
「はいはい」
二杯目を食べ終えた頃には、ザックの表情から険しさが消えていた。
満腹になった彼は、焚き火に新しい薪をくべると、ふと私の薄着に気づいたようだった。
私はチュニックの上にショールを羽織っていたが、夜の森は底冷えする。無意識に身体を摩っていた。
バサッ。
視界が暗くなり、重たい何かが肩にかかった。
獣の匂いと、微かなタバコの香り。ザックの毛皮付きのマントだった。
「……え?」
「使え。俺は火の番で起きているから暑い」
彼は短くそう言うと、自分は革鎧だけの姿で焚き火の反対側に座り込んだ。
マントには、彼の体温が残っていた。
分厚い生地に包まれると、驚くほど暖かい。
「……ありがとうございます。でも、ザックさんが」
「言っただろ。俺は頑丈だ。それに……」
彼は焚き火の炎を見つめたまま、ボソリと言った。
「料理人が風邪を引いたら、明日の飯が不味くなる」
ああ、そうですか。
私はマントの前をぎゅっと掴んだ。素直じゃない。でも、その不器用な気遣いが、今は少しだけ嬉しかった。
パチパチと薪が爆ぜる音だけが響く。
頭上を見上げれば、木々の隙間から満天の星空が見えた。王都の窓から見るよりも、ずっと近くて、鮮烈な光。
「綺麗ですね」
「……そうか?」
彼は空を見上げもしない。その視線は、暗い森の奥、闇の深淵に向けられていた。
さっきまでの緩んだ空気が、ふっと引き締まる。
彼の背中から、ピリリとした緊張感が伝わってきた。
「ザックさん?」
「……寝ろ。朝まで起きるなよ」
彼は腰の剣に手を置いたまま、私を見ずに言った。
「何があっても、俺のそばを離れるな。……それだけ守れば、死なせはしない」
その声には、単なる護衛任務以上の、重くて暗い響きがあった。
私は口をつぐみ、彼のマントに顔を埋めた。
温かいスープとマントのぬくもりに守られているはずなのに、彼の背中だけが、冷たい夜風の中で独りぼっちに見えた。
森の奥で、何かが枝を踏む音がした気がした。
ザックは動かない。ただ、琥珀色の瞳だけが、闇の中で静かに燃えていた。




