第10話 さようなら、私のいない王国
風が荒れ狂っていた。
国境の荒野で、私たちは大神官バリオスの私兵団に取り囲まれていた。
「愚かな娘だ」
バリオスが馬車の上から冷ややかな視線を下ろす。
「大人しく戻れば、地下牢での生活くらいは保証してやったものを。……やれ。抵抗するなら腕の一本くらい折っても構わん」
私兵たちが剣を抜く。
ザックが私の前に立ち、大剣を構えた。
「……エマ、俺の後ろにいろ。絶対に離れるな」
彼の背中から、殺気が噴き上がる。でも、多勢に無勢だ。彼一人で全員を相手にするのは無理がある。
私は震える手を握りしめ、一歩前に出た。
「ザックさん、下がってください」
「おい!?」
私はリュックから、あの「真鍮の小鍋」を取り出し、高く掲げた。
そして、ありったけの声で叫んだ。
「ガルヴァランド辺境伯様! お約束の品をお持ちしました!」
その瞬間だった。
地響きと共に、荒野の丘の向こうから、漆黒の騎馬隊が現れた。
先頭に立つ旗印は、辺境の守護者・ガルヴァランド家の「双頭の狼」。
「な、なんだと!?」
バリオスが狼狽える。
騎馬隊は瞬く間に私兵団を包囲した。その数、百以上。圧倒的な戦力差だ。
指揮官らしき騎士が進み出て、私の持つ小鍋を見て恭しく礼をした。
「豊穣の神器、確かに確認いたしました。……ご苦労だったな、ザック」
「……遅いぞ、親父」
ザックが剣を納め、呆れたように言った。
親父?
私が驚いてザックを見ると、彼はバツが悪そうに視線を逸らした。
「……説明は後だ」
指揮官──辺境伯が、氷のような目でバリオスを睨んだ。
「教会の者が、我が領土の目前で何ごとか。これは侵略行為とみなすが?」
「ご、誤解だ! その女は教会の罪人で……」
「罪人? 彼女は我が領土への正式な亡命希望者であり、この神器を届けた恩人だ。手出しは許さん」
辺境伯の宣言に、バリオスは顔面蒼白になった。
越境行為の現行犯。しかも相手は武闘派で知られる辺境伯軍。言い逃れはできない。
「そ、そんな薄汚い鍋が神器なものか!」
バリオスが最後の悪あがきで叫ぶ。
私は小鍋を撫でた。
「ええ、見た目はただの鍋です。でも、これで作ったスープは、何百人もの人々を笑顔にし、健康にしました。……貴方たちの飾り立てた聖杖よりも、よほど尊い奇跡です」
私はバリオスを見据えて告げた。
「私は戻りません。私の料理を『家畜の餌』と呼んだ貴方の国には、もう私の居場所はありませんから」
バリオスは言葉を失い、崩れ落ちるように膝をついた。
彼らは辺境伯軍によって武装解除され、連行されていった。その背中は、かつての威光など見る影もなく小さかった。
騒ぎが収まり、夕暮れが荒野を黄金色に染めていた。
丘の上には、私とザックの二人だけが残っていた。
眼下には、辺境の街の灯りが瞬き始めている。
「……黙ってて悪かった」
ザックがぽつりと言った。
「俺は辺境伯の拾い子でな。親父から『神器の鍋を持つ聖女を保護しろ』って頼まれてたんだ」
「そうだったんですか。……じゃあ、あの鍋が神器だって知ってて?」
「いや。ただのボロ鍋だと思ってた。……まさか、あれで作った飯があんなに美味いとはな」
彼は懐かしそうに笑った。
そして、改まった顔で私に向き直った。
「エマ・フローリス。……依頼完了だ。ここまで無事に送り届けた」
契約の終わり。
胸がきゅっと痛んだ。
「……はい。ありがとうございました。ザックさんのおかげで……」
「だが」
彼は私の言葉を遮った。
「俺にはまだ、やり残したことがある」
「え?」
「毒見だ」
彼は真顔で言った。
「お前の料理は危険だ。いつ毒が入るかわからない。……だから、これからも俺が一番に味見をする必要がある」
それは、あまりにも不器用で、遠回しな告白だった。
私は瞬きをして、それから吹き出した。
「ふふっ……一生、かかりますよ?」
「構わん。俺の胃袋は頑丈だ」
彼は大きな手を差し出した。
私はその手を、両手でしっかりと握り返した。
荒れた手。温かい手。
この手となら、どんな荒野でも、どんな料理でも作っていける。
「じゃあ、契約更新ですね。……報酬は、とびきり美味しい夕ご飯でいいですか?」
「……悪くない」
彼は短く答え、私の手を引いて歩き出した。
風が私たちの背中を押している。
さようなら、私のいない王国。
こんにちは、美味しい匂いのする新しい世界。
私たちの旅は、まだ始まったばかりだ。




