第1話 追放聖女の最後の晩餐
ゴトゴト、ゴトゴト。
硬い木の車輪が石畳を噛む音が、もう数時間は続いている。
お尻の感覚はとっくになかった。隙間風が吹き込む護送馬車の中は、外気と変わらないほど冷え切っている。
私は冷たくなった指先を擦り合わせ、荷物のリュックを強く抱きしめた。
早春の曇天。王都の尖塔は、もう振り返っても見えない。
「……おい。休憩だ」
向かいの席で腕を組んでいた男が、低く唸るような声を出した。
ザック、と呼ばれていた護衛の男だ。
熊のような巨躯に、無精髭。背中には不釣り合いなほど巨大な黒い剣を背負っている。教会が雇った傭兵らしいけれど、私と目が合っても眉一つ動かさない。まるで荷物を見るような目だ。
馬車が止まる。御者が扉を乱暴に開けた。
「降りろ、元聖女様。馬を休ませる」
私は無言で頷き、ステップを降りた。
地面の土は凍っていて、ブーツの底から冷気が這い上がってくる。街道脇には少し開けた河原があり、冷たい風が枯れ草を揺らしていた。
「ほらよ。ありがたく食え」
御者が放り投げてきたのは、麻袋に入った「保存食」だった。
受け取って中を覗く。石のように硬い黒パンと、干からびたチーズが一欠片。パンの表面には、うっすらと青いカビが浮いている。
大神官バリオスの顔が浮かんだ。
『無能な偽聖女には、家畜の餌がお似合いだ』
あの嫌味な笑い声が聞こえてくるようだ。私がここで泣き喚き、惨めに許しを乞うとでも思っているのだろうか。
「……火を使ってもいいですか?」
私が尋ねると、ザックが片眉を上げた。
「火? 暖をとるだけなら構わんが、そんなカビたパン、炙っても食えんぞ」
「いいえ。パンは食べません」
私はパンを丁寧に麻袋に戻し、その辺の石の上に置いた。
そして、抱きしめていたリュックの紐を解く。
取り出したのは、使い込まれた真鍮の小鍋だ。底が少し歪んでいるけれど、私が厨房の片隅で磨き続けた、唯一の私物。
「なんだそれは」
「調理器具です」
「……お前、ピクニックに来たんじゃないんだぞ」
ザックの呆れた声を無視して、私は河原の石を組んで即席の竈を作った。
次に水だ。川の水は澄んでいるけれど、そのまま飲むのは怖い。
重い革の水袋を持って川岸へ降りようとすると、不意に手から重みが消えた。
顔を上げると、ザックが私の手から水袋をひったくっていた。
「……足を滑らせて怪我でもされたら、運ぶのが面倒だ」
無愛想に言い捨てて、彼は水際へ降りていく。
背中を向けたまま、たっぷりと水を汲んで戻ってきた。
「ありがとうございます」
「仕事だ」
彼はドサリと水袋を置くと、興味なさそうに少し離れた場所で座り込み、自分の剣の手入れを始めた。
私は竈に火を熾し、小鍋をかけた。
火打ち石の火花が枯れ枝に移り、パチパチと小さな音を立てて燃え上がる。その熱だけが、今の私にとって確かな味方だった。
湯が沸くまでの間に、リュックの奥からもう一つの包みを取り出す。
中身は、追放が決まった夜に厨房からこっそり持ち出した「野菜くず」──大根の皮、人参のヘタ、玉ねぎの芯──を、私が一晩かけて徹底的に乾燥させたものだ。
一見するとゴミだが、これには私の魔力特性【食の加護】で、旨味と栄養を凝縮させてある。
沸騰した湯に、乾燥野菜を放り込む。
さらに、携帯していた岩塩をひとつまみ。最後に、私が独自に調合したスパイスの小瓶を振る。
ジュワッ、という音と共に、湯気が立ち上った。
その瞬間、世界の色が変わった気がした。
冷たく乾燥した空気に、芳醇な香りが爆発的に広がる。
煮込まれた野菜の甘い香り。焦がしネギのような香ばしさ。そして、五臓六腑に染み渡るような、温かい出汁の匂い。
剣を磨く布を動かしていたザックの手が、ピタリと止まった。
馬に水やりをしていた御者が、鼻をひくひくとさせて振り返る。
「……なんだ、この匂いは」
御者がふらふらと近寄ってきた。
「ただの野菜スープです。残り物で作った」
私は木匙でスープをかき混ぜながら答える。黄金色のスープの中で、戻った野菜たちが宝石のように輝いている。
御者が唾を飲み込む音が、静かな河原に響いた。
「あー……その、なんだ。俺たちにも、配給はあるのか?」
「教会からの支給品は、そこのパンだけですけど」
私が石の上の「カビたパン」を指差すと、御者は露骨に顔をしかめた。
「……金は払う。銅貨二枚でどうだ」
「商談成立ですね」
私はニッコリと笑い、予備の木の器にスープを注いだ。
御者は器を受け取ると、我慢できない様子で口をつけた。
「あっつ! ……う、うめぇ……!?」
目を見開き、彼は夢中でスープを喉に流し込む。
「なんだこれ、身体の中から熱くなるぞ……! 昨日の腰の痛みまで消えていくようだ……!」
大袈裟ではない。私の料理には、食べた人の自然治癒力を強制的に引き上げる効果がある。薬草ポーションよりも安上がりで、ずっと美味しい。
視線を感じて横を見ると、ザックがじっとこちらを見ていた。
手入れ道具を片付け、無言でこちらに歩いてくる。その威圧感に少し身構える。
彼は私の前に立つと、懐から銀貨を一枚取り出し、弾いた。
銀貨はきらりと光って、私の膝の上に落ちた。
「一杯、よこせ」
「……銅貨二枚でいいですよ」
「釣りはいらん。具を多めにしろ」
不器用な注文に、私は少しだけ可笑しくなった。
彼の差し出した金属製のマグカップに、なみなみとスープを注ぐ。
ザックはカップの中身をじっと見つめ、それから用心深く口をつけた。
一口。二口。
彼の眉間の深いシワが、少しずつ解けていく。
獣のように鋭かった瞳が、湯気の向こうで緩やかに細められた。
「……悪くない」
短く呟くと、彼は一気に残りを飲み干した。
そして、空になったカップを差し出してくる。
「おかわりだ」
「ふふ、追加料金はいりませんよ」
結局、鍋一杯のスープはあっという間に空になった。
御者は「こんな美味いもん食ったのは久しぶりだ」と満足げに腹をさすり、先ほど自分が投げた「カビたパン」を、馬の餌袋に放り込んだ。
「こんなゴミ、人間が食えるかよ」
その言葉を聞いたとき、胸の奥につかえていた重い塊が、すっと溶けた気がした。
大神官バリオス。貴方は私を惨めな敗北者にするつもりだったでしょうけれど。
残念ながら、旅の食卓に関しては、私の圧勝のようです。
焚き火の始末をして立ち上がると、ザックが私のリュックを片手で軽々と持ち上げた。
「……貸せ。お前が持つと遅れる」
言い訳がましい口調だったが、その手つきは乱暴ではなかった。
私が「真鍮の小鍋」を大切そうに布で包むのを、彼は黙って待っていた。
再び馬車が動き出す。
お腹の中の温かさが、冷たい隙間風を和らげてくれていた。
向かいの席で、ザックが懐から羊皮紙の束――契約書だろうか――を取り出し、何かを確かめるように目で追っている。
ふと、彼が顔を上げ、私と目が合った。
その瞳には、最初のような軽蔑の色はもうなかった。代わりにあったのは、得体の知れない生き物を見るような、探るような光。
「あんた……本当にただの聖女か?」
低い声で問われる。
私は小さく肩をすくめてみせた。
「いいえ。今はただの、料理好きの追放者ですよ」
嘘は言っていない。
けれど、この旅がただの護送で終わらないことを、私はまだ知らなかった。




