第9話 似顔絵
ちょっとほろ酔いのいい気分で、私は自宅に帰った。もう日は落ちて薄暗くなってしまっていたけど、母はまだ帰宅していない。
薬師ギルドも最近忙しいみたいだ。もっとも母は、自らギルドに居残って仕事をしたがるところがあるので、いつも帰宅は遅い。大抵私の方が先に帰るから、夕食の用意は主に私がやる。
台所はあまり広くないけど使いやすい。母が育てたハーブを乾燥させたものが部屋中にあり、台所はいつも独特の香りがする。すぐ手が届くところに調理ツールがずらりと並び、調理台の上には様々な調味料やスパイスがぎっしりと置かれている。
籠の中には市場で買った野菜が沢山ある。適当にそこから野菜を選び、刻んで鍋に放り込み、オイルで炒める。香りが出てきたら刻んだトマトと水、乾燥ハーブを入れて煮込む。野菜はまだ沢山残っているけれど、卵の残りがあと少ししかない。明日早起きして市場に買いに行かないと。
煮込んでいる間にパンを切り分けて皿に盛りつける。これは食べる前に火でちょっと炙ると香ばしくなって美味しくなる。トマト煮込みは最後に塩で味をつける。チーズがあったので、仕上げにナイフでちょっと削って入れてみよう。
「ただいまー」
料理が出来上がった頃、ちょうど母が帰って来た。今日は一緒にご飯を食べられそうだ。料理をダイニングテーブルに運んで、ピッチャーから水をコップに注ぐ。母はワインが好きだから、母のワインも用意しておく。ワインのお供にチーズとルバーブのジャムも添えておく。甘酸っぱいルバーブのジャムは母の大好物だ。チーズにちょっと乗せて食べるのが彼女のお気に入り。後は母がテーブルに着くのを待つだけだ。
♢♢♢
母とテーブルで向かい合い、他愛のない話をしながら食事を取っていた時、迷いながら今日の出来事を母に話してみた。
「ふうん、そんなことがあったのねえ」
「ラウロっていう、十二歳くらいの男の子なんだけど……お母さん、心当たりない? 薬師ギルドにいるなら、街の人の顔を沢山知ってるでしょ?」
薬師ギルドでは街の人に薬を売っているので、ギルドにはいろんな人がやってくる。だから母は住人のことにとても詳しい。
「うーん……名前だけじゃねえ……せめて顔が分かるといいんだけど……」
ワイングラスを持ったまま考え込んでいた母は、突然思い出したように目を輝かせた。
「そうだわ! エルナ。あなたが似顔絵を書けばいいじゃない。絵を描くの、得意でしょ? 絵をギルドに貼っておけば、誰かその男の子を知ってる人が気づくかもしれないわ」
「……昔の話よ。もう何年も描いてないし」
母の言葉に私の心が重くなる。絵のことを言われるのは嫌だった。
「でもあなたの絵、すっごく上手じゃない。お父さんの絵、まるで動き出しそうなほどそっくりだもの!」
母は部屋に飾ってある父の絵に目をやった。棚の上に置いてある小さな絵は、私が十二の頃に描いたものだ。
「もう絵を描くのはやめたの。絵なんか描いてもお金にならないし」
「でも、せっかく絵が描けるのにもったいないじゃない。描いてたら誰かが買ってくれるかもしれないのよ?」
「画家になれる人は、貴族様と繋がりのある人だけよ。私みたいな何もない平民が絵を描いても、銅貨一枚にもならないの。絵の具だって高いんだから!」
イライラして、思わず母に対して言葉がきつくなってしまった。ハッと我に返って母の顔を見ると、母はなんだか悲しそうな顔をしていた。
「……ごめん。私、明日早いから先に休むね」
「そう……おやすみ、エルナ」
気まずい空気の中、私は食器を台所に運んだ。小さい頃、私は絵を描くのが好きだった。父は私の誕生日に絵の具と絵筆を買ってくれた。私は嬉しくて、もらった絵の具で父の絵を描いた。私が描いた笑顔の父は、今では額縁に入って棚の上に飾られている。
父が亡くなり、私は絵を描く気力を失った。ぽっかりと心に大きな穴が空いて、毎日をただぼんやりと過ごしていたのを覚えている。そのままずるずると絵を描かなくなり、学校を出た後は討伐者ギルドで働き始めた。仕事を覚えるのに必死で、いつしか絵のことは忘れてしまった。
絵のことを思い出すと、父が生きていた頃に時間を戻される気がしていた。忘れたくない思い出ではあるけれど、同時に悲しい思い出も蘇ってしまう。私はいつの頃からか、自分の感情に蓋をしていたのだろうか。
♢♢♢
翌朝、私は眠い目をこすりながら階段を下りた。台所からはいい匂いがしていて、顔を出すと母がボウルに卵を割っているところだった。
「……あ! 今朝市場に卵を買いに行こうと思ってたの忘れてた……! ごめん、お母さん」
昨日、卵の残りが少ないから今朝早起きして市場へ行こうと思ってたんだった。すっかり忘れていたのを思い出し、私は焦りながら母に声をかけた。
「いいのよ。私も久々に市場で買い物したかったしね。でも珍しいわね? あなたが寝坊だなんて」
母はいつもと変わらない笑顔で私を見る。
「……実は、これを描いてたの」
私は恐る恐る一枚の紙を母に差し出した。
「あら! 凄いわ。これがラウロっていう男の子の絵ね!?」
母はひったくるように私の絵を奪い、ジロジロと絵を見つめていた。昨夜、部屋に戻った私は久しぶりにペンを持ち、紙にラウロの似顔絵を描いた。線で描いただけの色のないシンプルな似顔絵だけど、私の記憶を総動員して描いたその絵は、我ながらなかなかよくできたと思う。長めの前髪に、吊り上がったような瞳と不機嫌そうに結ばれた口。
「多分、こんな感じだったと思う……これを薬師ギルドに貼ってもらって、知ってる人がいたら教えて欲しいんだけど」
「分かったわ! この子を見つけられるように、私も協力するわね! それにしても、やっぱり上手ね、あなたの絵」
母は目を細めながら私の絵を見ていた。なんだかちょっと恥ずかしくなった私は、顔を洗ってくると言ってその場から逃げた。
……でもやっぱり、褒めてもらえるのは嬉しいと思う。またいつか、絵を描いてみてもいいかもしれない。