第88話 笑顔でいたい
夜が明けたころ、私は目を覚ました。
いつもと違う光景に違和感を覚えて飛び起きる。そうだった、昨夜はアレイスさんの家に泊まったのだ。
幸い今日は仕事が休みなので、もう少しゆっくりしてもいい。でも、仕事に行く前の母に会って、早く話したかった。きっと母も心配しているだろう。思えば、母と喧嘩して家出するなんて初めてだ。後先を考えず、大胆なことをしてしまった。
ベッドに入ったあと、眠れないんじゃないかと思ったけど、気づけばぐっすり眠っていた。アレイスさんがお風呂に安眠効果のある香油を入れたと言っていたから、そのおかげだろうか。昨日までギルドではフローレさんの事件で大騒ぎだったし、遅くまで絵を描いたりして、ここ数日あまり眠れていなかったから、寝不足だったみたいだ。
アレイスさんは多分まだ寝ているだろうから、このまま家を出ることにする。メモを書いて台所に置いておこう。ここならアレイスさんも目にするはずだ。
『昨夜はお世話になりました――エルナ』
メモを置いて「よし」と独り言を呟く。
家を出ると、朝日が眩しくてくらくらした。ここは周辺より高い場所にある住宅街で、アレイスさんのようなお金持ちばかりが住む区画だ。綺麗な石畳の道は広く、でこぼこでつまずきそうな場所もない。一軒一軒が大きく、隣家との距離も遠い。道を歩く人の姿もなく、本当に人が住んでいるのかと思うほど静かだ。
緩やかな坂道を下りると広場が見えてくる。この辺りまで来ると、ちらほら人の姿がある。ほとんどがこれから仕事へ向かう人たちだ。ギルド街へ向かう人、店を目指す人――みんな足早に広場を駆け抜けていく。
商店が並ぶ大通りを抜け、私の家がある住宅街へ。アレイスさんの住む地区とはまるで違う光景が広がっていた。申し訳程度の小さな庭がある一軒家が多く、隣家との距離も近い。家の中からは子どもの泣き声や、母親らしき女性の大声が聞こえる。
改めて、アレイスさんが暮らす世界との違いを感じた。彼は貴族出身で、元王宮魔術師で、討伐者としても一流。お金もたくさん稼いでいる。彼のような人が私を選ぶわけがない。母が私の目を覚まそうとしたのも当然だ。
自宅に戻り、玄関に鞄を置くと、すぐに裏庭に回った。思った通り、母は温室で植物に水をやっていた。
「……ただいま」
声をかけると、母は何事もなかったように「あら、おはよう」と返した。
「あの……お母さん」
「何?」
母は植物の葉を撫でながら、丁寧に水をあげている。
「昨日は出て行ったりしてごめんなさい」
恐る恐る口を開くと、母は手を止めてこちらを見た。
「……私も、つい言い過ぎたわ。ごめんなさい、エルナ」
「うん……」
母は私に近寄ってきて、私の体を包むように抱き寄せた。
「エルナ。私はあなたに幸せになってほしいだけよ。アレイスさんは素晴らしい魔術師だと思ってるわ。アメリアも彼のことを認めているしね。私は彼が駄目だというわけじゃないの。でも、討伐者ではなく、もっと平凡で穏やかな人と結ばれてほしいと思って……」
私は母の体からそっと離れた。
「お母さんの気持ちは分かる。でも私は多分、お母さんが思うような人を好きにならない。アレイスさんがいると思うと、毎日がワクワクして楽しいの。早く明日が来ないかなって思う。アレイスさんはいつも優しくて、困ったときはすぐに助けてくれる。アレイスさんは私のお守りみたいな人なの。他の人じゃ、代わりにならない」
母は少し黙った。小さく息を吐き、顔を上げる。
「……エルナの気持ちはよく分かったわ。もう何も言わない。でもエルナ、私があなたのことを心配しているってことは、知っておいてほしいのよ」
「分かってる。ありがとう、お母さん」
「あなたはどんどんルーベンに似てくるわね。普段はのんびりしているくせに、一度こうだと決めたら信じられないくらい頑固なのよ」
アメリアさんにも、お父さんに似ていると言われたっけ。私の記憶にあるお父さんは、強くて優しくて、よく食べる人。頑固な印象はあまりないけど、そんなに似ているのだろうか。
「この間、アメリアさんにもお父さんに似てるって言われたよ」
「あら、そうなの? まあ、彼女もルーベンとは長い付き合いだったものね」
アメリアさんの話を出したら、母はようやく笑顔を見せた。さっきまでぎこちなかったけど、ようやくわだかまりが取れそうで安心した。
「――さて、早いところ水やりを済ませないと。エルナは今日も仕事?」
「ううん、今日は休みなの。だから今朝は私が朝ごはんを作ってあげるね」
「あら、優しい。それじゃあパンケーキをお願いしようかな。ベーコンもつけてね?」
「えー? 面倒くさいなあ……」
いたずらっぽく笑う母にちょっと呆れたけど、今日は母のリクエストに応えよう。こんがり焼けたパンケーキにベーコンを添えて、たっぷり蜂蜜をかけよう。想像したら、私のお腹が早く食べたいと催促してきた。
その日はいつもより会話が多く、母の機嫌もよかった。母が私の気持ちを本当に分かってくれたのかは分からない。でも私は自分の気持ちをちゃんと話したし、これで分かってくれないなら、もう仕方がないと思う。私と母は違うのだ。一緒に暮らしていて仲良しでも、考え方が違うことはある。
それでもいい。毎日おいしいご飯を食べて、楽しく笑って過ごしたい。私は母が笑い転げる顔を見ながらそう思った。
♢♢♢
休みが明けて、私は仕事に戻った。本物のフローレさんはアメリアさんの家でしばらく過ごすそうだ。あと少し休んだら仕事を始めるという。アメリアさんの話では、食事もしっかり取れていて落ち着いているみたいだ。無理せず、ゆっくり復帰してほしい。
偽物のフローレさんは、このままミルデンから追放されるらしい。どうやら他の街でも何かやらかしていて、行くところがないと嘆いているそうだけど、自分で蒔いた種だから仕方がない。
盗み癖というのは、治らない病気のようなものらしい。つい盗めそうなものを見ると、盗ってしまうのだとか。ギルドでは細々としたものが盗まれていた。お金になるものもあれば、どう考えてもお金にならないものもあった。魔物素材もいくつか盗まれていたけど、どれも貴重なものではなかったので、みんな安心したようだ。
ベケット副長は、フローレさんを逃がしてしまった反省で、しばらく仕事を休むという。どうやら相当落ち込んでいるらしく、少し痩せたと自分で言っているとか。多分大したことはないと思うから、じきに戻ってくるだろう。
捕まった異端討伐者については、領主様の命令で牢屋に入ることが決まった。衛兵詰所にある簡易的な牢ではなく、罪人たちが収容される大きな塔だ。ミルデンの街から遠く離れた場所にあり、一度入ると二度と外に出られないらしい。
すべてが片づき、ようやくギルドがいつもの姿を取り戻した。今日も朝から賑わうギルドで、私は依頼に出発する討伐者さんを見送る。
「――では、いってらっしゃいませ!」
「行ってきます!」
笑顔で手を振る討伐者さんに、私も笑顔で応える。どうか怪我もなく、無事に戻ってきますように。
次の討伐者を呼ぼうとしたその時だった。
突然、地鳴りのような音がして、地面が突き上げられるように揺れた。
「きゃっ!」
「何だ!?」
揺れはすぐ収まったが、ロビーにいたみんなが驚いて周囲を見回す。
「地震……?」
地震なんて珍しいなと思ったその時、再びドンと突き上げる揺れを感じた。
「また!?」
「何これ……」
思わず不安になって横を見ると、リリアも顔をこわばらせていた。
嫌な予感がした。この辺りではほとんど地震が起こらない。ただ、あるときだけは地震が頻発すると言われている。
それは『ドラゴン』の目覚めの前兆だ。アルーナ山で百年ほど眠りについているドラゴンが目覚めるとき、周囲にはさまざまな異変が起こる。
他の魔物が山から逃げ出したり、近くの滝が枯れたり、小さな地震が増えたりするという。
「エルナ……」
「うん、リリア」
ひょっとしたら、前兆が現れたのかもしれない。私もリリアも、頭に浮かんだことは同じだった。
討伐者たちも、突然の揺れに不安げな表情を浮かべている。
このあと何が起こるのか。私たちは不安な中で、いつもの生活を続けるしかなかった。
第2章 完
第2章、完結です。ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます。
第3章は最終章となります。引き続きよろしくお願いします。リアクション、ブクマ、評価などいつも励みになっています!




