第85話 アトリエで・1
すぐにアレイスさんと別れ、私は急いで母を追いかけた。
「お母さん、聞いて! アレイスさんとはギルドで偶然会って、今日は色々あったから」
台所で水を飲んでいる母の背中に訴えると、母は大きな音を立ててグラスを置いた。
「私を馬鹿にしないで、エルナ。あなたがアレイスさんに恋してることくらい知ってるわ」
「そ……それは……」
私は言葉が続かない。母は振り返り、私を冷たい目で見ている。母がこんなに怒っているのを見るのは、いったい何年ぶりだろう。
「私はいつも言ってるでしょ? 討伐者だけは駄目だって。しかもアレイスさんは王都の貴族なのよ。あの人に関わったら、あなたが苦労するのは目に見えてるわ」
母に一方的にまくし立てられ、私もだんだん腹が立ってきた。
「お母さんはいつもそうやって、あれは駄目、これは駄目って怒ってばっかり! おかげで私は好きな人も作れない人生なの! それにアレイスさんとはどうせ結ばれることなんてないんだから、放っておいてよ!」
「私はあなたが傷つくことを心配してるの。王都で名高い筆頭魔術師の息子なんでしょう? 彼は。そんな人がどうして、あなたのことを大切にしてくれると思うの?」
私は頭にカッと血が上った。アレイスさんのことも侮辱されたような気がして、握りしめた拳が震える。
「アレイスさんは優しい人なの! お母さんは何も知らないくせに、勝手なこと言わないで!」
「私は経験からものを言ってるの。王都の貴族がどんなに勝手な連中か、あなたは知らないのよ」
「それはお父さんのことで、お母さんが勝手に恨んでるだけでしょ!? お父さんが亡くなったのは王都の人たちのせいじゃないのに」
父の話をした瞬間、母の顔色が変わるのが分かった。口を滑らせたことに気づいたけど、もう遅い。母の怒りは抑えられなくなっていた。
「ルーベンのことは関係ないわ! とにかく、アレイスさんと個人的に会うのは今後一切やめなさい!」
「お母さんに私の行動を縛る理由なんてない! もう分かった。お母さんとは話し合っても無駄だってことが!」
私は怒鳴るように母に言い返すと、そのまま階段を駆け上がり、部屋に戻った。興奮状態のまま、私は手当たり次第に着替えと化粧品を大きめの鞄に放り込む。
鞄を閉じたあと、アクセサリーボックスを開ける。そこにはアレイスさんからもらった鍵が入っていた。鈍色の鍵はずっとしまったままで、一度も取り出したことがなかった。
私はそれを掴んでポケットに突っ込み、部屋を出て階段を下り、父の絵に挨拶をする。
「お父さん、ごめんね」
父の笑顔に向かって声をかけると、まぶたがじわっと熱くなった。涙をこらえ、私は玄関へ向かう。
「どこへ行くの」
母の低い声が後ろからした。
「……しばらく帰らないから」
「何言ってるの! 家出なんて子供みたいなこと……」
「お母さんは私に、子供のままでいてほしいんじゃないの?」
振り返って母を睨む。母は私の言葉に怯んでいるのが分かった。私はそのまま「……それじゃ」と言い残して家を出た。
そのまま夜道を歩き、アレイスさんの家を目指した。アレイスさんからもらったアトリエは、「いつでも来ていい」と言われている。あれから一度も行っていなかった。絵を描くくらいなら家でできるし、彼の家に出入りすることに抵抗もあった。
――今夜だけなら、あそこへ行っても構わないだろう。
最初はリリアの家に行こうかと思ったけど、もう夜も遅いし、ひょっとしたら彼氏がリリアの家にいるかもしれない。いるのはサイラスさんの可能性もあるけど。
一晩アトリエに泊まらせてもらって、明日からはリリアに頼んで泊めてもらおう。とにかく今は、母の顔を見たくない。
♢♢♢
アレイスさんの家に着き、玄関の前に立ったところで、私は急に緊張してきた。
「いつでも来ていい」と言われていたけど、まさか本当に来るとは思われないだろうか。こんな夜中にやってきて、迷惑だと思われるかもしれない。
ポケットから鍵を取り出し、じっと見つめる。さすがにこの時間に勝手に入ったら、アレイスさんを驚かせてしまう。ここは呼び鈴を鳴らして、来たことを知らせよう。
ドアの前に吊り下がる呼び鈴を一回鳴らし、しばらくその場で待った。アレイスさんが出てくる様子はない。ひょっとしたらまた、魔術の勉強に集中しているのかもしれない。あるいはお風呂にでも入っているのかな。もう一度呼び鈴を鳴らそうか。それでも出なかったら、申し訳ないけど鍵を使って中に入ろう。
扉の前で悩んでいたら、突然扉が開いた。アレイスさんが驚いた顔で私を見ている。
「エルナ、どうしたの?」
「ごめんなさい、こんな遅くに……あの、アトリエを一晩使わせてもらえたらと思って……」
アレイスさんの視線が私の大きな鞄に向いた。多分、それで全てを察したのだろう。何も言わず、私に中へ入るよう促した。
「アトリエは君のものなんだから、遠慮せずいつでも来ていいんだよ。さあ、どうぞ入って」
「ありがとうございます……」
私はおずおずと彼の家に足を踏み入れた。大きな音がして、重い玄関扉が閉まった。アレイスさんは内側から鍵をかける。ガチャリと重々しい音がやけに響き、私は少し怯んだ。
「さあ、二階に行こう。君がいつ来てもいいように、アトリエはきちんと掃除してあるんだよ」
アレイスさんは微笑み、手を差し出して私の鞄を持った。勢いでここまで来てしまった。母のことを思うと少しだけ胸が痛んだけど、アレイスさんの笑顔に導かれるように、私は階段を上った。




