第84話 高鳴る心
久しぶりに夜猫亭に行くと、窓辺に座ってこちらを見ている黒猫のエボニーと目が合った。
「こんばんは、エボニー」
外から窓越しに挨拶をする。エボニーは返事代わりに目を細めた。何度見ても、エボニーが魔獣だなんて信じられない。エボニーは夜猫亭のダナさんを守るため、店の客を見張っているのだそうだ。
アレイスさんと店の中に入る。ダナさんは私たちを見ると笑顔で、「あらエルナ、アレイスさん。いらっしゃい!」と出迎えてくれた。カウンターの中にいるヒューゴさんはその声に気づいてこちらを見た。
「久しぶりだな。エールでいいか?」
私たちの返事を待たずに、ヒューゴさんはエールを注いでいる。私たちはカウンターに並んで腰かけた。
「ちょっと怪我とかあって来られなくて……今日は一杯だけ飲んでいこうかなって」
「怪我?」
ヒューゴさんは眉をひそめながら、私たちの前にエールのカップをドンと置いた。
「エルナは僕のせいで怪我をしたんだ」
「アレイスさんのせいじゃないですってば! ちょっとした事故ですから」
私は慌ててアレイスさんのフォローをする。
「もう怪我はいいのか?」
「はい、もうすっかり。痣はまだ残ってますけど」
「そうか、ならいい。後遺症が残ると大変だからな」
ヒューゴさんは元討伐者だ。膝を怪我して討伐者を引退したあと、料理人になった人だ。だから「怪我」という言葉に敏感になるのだろう。
「なら、これは快気祝いだ。食え」
そう言ってヒューゴさんは私たちにソーセージを出してくれた。ナイフで切ると、じゅわっと肉汁が溢れ出て、辛みのあるソースにつけて食べるととても美味しい。
「美味しいですね!」
「ヒューゴさんの料理は絶品だな。これからはここで夕食を取ることにしようかな」
アレイスさんもソーセージを笑顔でほおばっている。
「来たきゃ好きにすりゃいいが、サービスは今回だけだぞ」
「分かってるよ」
ヒューゴさんは眉間に皺を寄せながら話すけれど、彼のぶっきらぼうな態度はいつものことだ。アレイスさんはいつも外食しているようだから、これからは夜猫亭でよく顔を合わせることになるかもしれない。
それがどこか嬉しくて、私はにやける顔を隠すようにエールを飲んだ。
一杯だけ飲んで帰るつもりだったけど、結局おかわりしてもう一杯頼んでしまった。仲間の異端討伐者を捕まえたときの話をアレイスさんから聞いていたら、時間はあっという間に過ぎていった。
「――逃げられたら厄介だから、男が潜む家の周囲に罠をかけるんだ。足で踏んだら雷で体が痺れて動けなくなるんだよ」
「すごいですね! なんだか動物にかける罠みたい」
「まさにそれだよ。小さくて素早い魔物を倒すときに使うんだ。魔術の加減が難しくてね、見えないほどの小さな魔術を等間隔に置かないといけないんだ――」
アレイスさんは魔術について話すとき、とても楽しそうに目をキラキラさせている。この人は本当に魔術のことしか頭にないんだろう。でも、彼が楽しそうに話す横顔を見るのは好きだ。
夢中で話しながらエールを飲み、カップを置いたアレイスさんは、ようやく私の視線に気づいた。
「ん?」
目を細め、優しいまなざしで見つめ返すアレイスさんに、私の顔は急に熱くなる。
「いえ、何でもないです!」
大げさに首を振り、エールのカップで顔を隠した。自分の顔が赤くなっている気がする。これはきっとお酒のせいだ。
♢♢♢
エールを二杯飲んだところで、私たちは店を出た。予定より遅くなってしまったけれど、アレイスさんと過ごす時間が楽しくて、むしろもっと一緒にいたいとすら思ってしまった。
アレイスさんと私は、生まれも育ちもまるで違う。彼は両親と決別して家を出ているけれど、いつか王都に帰ってしまう時が来るだろう。彼と私には、初めから未来なんてない。それを忘れちゃいけないと、いつも心に言い聞かせている。
それでもこうして彼と一緒にいると楽しい。今だけは、この気持ちに嘘をつきたくなかった。
アレイスさんはいつものように、私を家まで送ってくれた。
「前にエルナが作ってくれたサンドイッチが美味しかったから、自分でも作ってみたんだよ」
「サンドイッチを作った? アレイスさんが?」
「おかしい? 僕だってサンドイッチくらい作れるよ」
そう言ってアレイスさんは得意げな顔をする。私はそんな彼の顔を見たら、なんだかおかしくなって、つい笑ってしまった。
「美味しかったですか?」
「うーん、まあまあかな。今後の改善点も見つかったし、次はもっとうまくできると思うよ。僕が思うにバターの量が多すぎたんだ。チーズは反対に少なすぎて……」
真剣な顔で話すアレイスさんを見ていると、この人は本当に物事を追求するのが好きなんだなと思う。
「今度、エルナにも食べさせてあげるね」
「楽しみです!」
そんな話をしているうちに、あっという間に私の家に着いた。私はすぐにお別れを言いたくなくて、その場にたたずんでいた。アレイスさんもすぐに帰ろうとせず、私たちは家の前で向かい合っていた。
「……星が落ちてきそうだね」
アレイスさんは夜空を見上げて呟いた。言われて私も夜空を見上げると、まるでこちらに迫ってきそうなほど、たくさんの星が瞬いていた。
「ミルデンの夜空は澄んでいて、とても綺麗なんだ。汽車が走っていないから、煙で空が汚れないんだよ」
「他の街は、こんなに綺麗じゃないんですか?」
「そうだね。ちょっとくすんでいる気がする」
私がいつも見ている夜空は、当たり前じゃないのだろうか。私がいつも見ているものは、どこにでも当たり前のようにあるわけじゃない――そんなことを思いながら視線を戻すと、目の前にアレイスさんの顔があった。
アレイスさんは穏やかな笑みを浮かべながら、手を伸ばしてきて私のリボンに触れた。
「僕があげたリボン、いつもつけていてくれてるんだね。ありがとう」
「あ……これは、お守りですから……」
彼の顔が近い。私は思わず目を逸らしてしまう。
「そうだよ。これはエルナを悪いものから守ってくれるんだ。エルナがいつも、笑顔でいられるように」
私は彼の顔に視線を戻した。アレイスさんの瞳は本当に綺麗だ。吸い込まれそうで、目を逸らせなくなる。
アレイスさんの手が、そのまま私の頬に触れそうなほど近づいた――その時だった。
「何やってるの?」
それは母の声だった。驚いて振り返ると、門の前に母が立っていた。
「お母さん!」
私の声とほぼ同時に、アレイスさんは手をさっと引っ込めた。母は目に怒りを浮かべてこちらを睨んでいる。
「やけに帰りが遅いと思ったら。アレイスさんと会ってたの?」
「お母さん、これはそういうことじゃ――」
「ジェマさん、誤解です」
私とアレイスさんは慌てて母に説明しようとしたけれど、母は聞く耳を持たなかった。
「言い訳は結構よ。私が気づいていないとでも思ってたの? こそこそ私に隠れて会うようなことをして!」
吐き捨てるように言うと、母はぷいと背を向けて家に戻ってしまった。




