第43話 魔術師アレイスの一日
魔術師アレイス・ロズの朝は遅い。
日が昇ってしばらくしてから彼は目が覚める。彼が寝ているのはソファの上だ。二階に立派な寝室がちゃんとあるのだが、彼は寝室にわざわざ行くのが面倒で、一階の書斎にあるソファで眠っている。昨夜も夜遅くまで魔術の勉強をしていた。ぼさぼさの頭で起き上がった彼の目に入るのは、床じゅうに紙が散らばり、ゴミだらけの部屋だ。
彼は片づけが苦手だ。貴族として育ち、王宮魔術師として王宮で暮らしていた頃は、掃除などの身の回りのことは全て使用人がやってくれていた。王宮を出てからはずっと一人で暮らしているが、片づけの習慣は未だにない。数日に一度、通いのメイドが家に来るので、掃除はメイドに全て任せている。だからこの部屋は、数日に一度だけは綺麗になる。
ぼんやりとしながら廊下に出ると、メイドが既に来ていて箒で床を掃いていた。
「おはようございます! アレイス様」
「おはよう、ミランダ」
ミランダは少しふくよかな中年女性だ。いつも明るく、仕事も早くて丁寧なのでアレイスは彼女のことを信頼している。彼女に鍵を渡しているので、彼が寝ていても勝手に家の中に入って既に仕事を始めている。
「お湯を沸かしてありますよ」
「ありがとう」
アレイスは台所へ行き、お茶を飲む用意をする。彼は料理を全くしないが、お茶だけは自分で淹れている。このお茶は目が覚める効果があるハーブが入っているので、頭をすっきりさせる為に飲んでいる。
お茶を飲み終えたら、遅めの朝食を食べる。今日はミランダが来ているので、彼女が朝食の用意をしてくれている。アレイスは朝あまり食欲がないので、メニューはパンとスープだけという簡単なものだ。スープはミランダが家で作ったものを持ってきている。
食べ終わったらすぐに部屋に戻り、昨日の勉強の続きをやる。王宮で若き天才と称された彼は、魔術の勉強を今でも欠かさない。より強く、より効率的に魔術を使う為、様々な書物に目を通す。
もちろん、魔物の調査や研究も行っている。魔物を倒す為には、魔物の生態を調べることは重要だ。彼は普段から魔物の知識を頭に叩き込んでいるので、たとえ一人でも難なく魔物を倒すことができるのだ。
その後は家の外に出て、実際に魔術を使用した訓練も行う。アレイスの家は裏庭が広く、周囲をぐるりと木々で囲まれていて、魔術の訓練をするのにぴったりな環境だ。彼がこの家を気に入った理由がそれだった。アレイスは家の内装や住み心地などには興味がない。あくまでこの家は、彼が魔術を使いやすいかどうか、それだけの理由で選んだ家である。
日が暮れるまで魔術の訓練に励み、ようやく疲れたところで家に戻る。ミランダはとっくに仕事を終え、帰宅していた。彼の部屋は綺麗に掃除され、きちんと畳まれた洗濯物がチェストにしまわれている。
外出着に着替え、夕食を食べに出かける。彼は大通りにある『樫の食卓』という食堂で、いつも食事を取っている。味で選んだわけではなく、単純に一番最初に入った店がここだったからだ。『樫の食卓』は二階が宿屋になっており、旅人などもよく利用するので、アレイスのようなよそから来た人間が利用しやすい店でもある。
「こんばんは、アレイスさん。今日は何にします?」
アレイスが席に着くと、早速いつものウエイトレスがやってきた。彼女がアレイスになんとか近づこうとしているのは、誰が見ても分かる。これまで何度も彼女はアレイスに誘いをかけているが、彼は相手にしない。アレイスを狙っているのは彼女一人だけではない。別のウエイトレスも、他の常連客も、なんとかアレイスに近づこうと狙いを定めたような目で彼を見ている。
アレイスはそんな女達の視線が面倒だと感じることもあるが、表面的には彼女達にも親切に接する。彼の経験上、女達を邪険に扱うと嫌がらせを受けたり、変な噂を流されたりといいことがない。彼の処世術として、あくまで笑顔で、親切に。
一人でもくもくと食事を取り、食べ終わったらさっさと店を出る。長居をすると話しかけて来る女がいるので、ゆっくり食事を楽しむこともない。
家に帰ると風呂に入る。アレイスは魔術師なので、火を起こすのは簡単だ。家の外にあるかまどで水を温め、長い時間入浴する。時には花のオイルを入れたりして楽しんだりもする。魔術以外これといった趣味のない彼の、唯一の楽しみだ。
風呂から上がるとまた部屋で勉強だ。せっかく片づいた部屋がまた散らかり始める。しばらく経って一息つこうと部屋を出て、台所へ向かい再びお茶を淹れる。
アレイスはふと思い立ったように、大きめのボウルを食器棚から取り出すとそこに水を入れた。水面をじっと見て、指をそっと水の中に入れる。
すると水面がゆらゆらと揺らめき、そこに人の姿が映った。
それはエルナの横顔だった。エルナは笑顔を浮かべていて、誰かと話している様子だ。そこへ男の姿が映りこむ。エルナに向かって何かを話しているその顔は、ヒューゴだった。どうやらエルナは夜猫亭にいて食事を楽しんでいるようだ。
アレイスがエルナに贈ったリボン。これには秘密があった。アレイスはリボンに彼の魔術を仕込んだ。こうして彼女がどこで何をしているのか、アレイスは覗き見できる。エルナが知ることのない、彼だけの秘密だ。
「また夜猫亭に行ってるんだ。僕の家にはちっとも来てくれないのに」
ぽつり、と彼は低い声で呟く。水面をじっと見つめるアレイスの顔は表情がなく、彼の青い瞳はどこまでも深い湖を覗いたような、底知れぬものがあった。
第1章 完
第1章完結です。ここまで読んでいただきありがとうございました!第2章の投稿準備の為、少しだけ更新をお休みします。第2章は近日公開予定です。引き続き第2章もよろしくお願いします!




