第39話 プレゼント
翌朝、私は母の温室に顔を出した。いつも通り、母は温室にいて植物に水をやっている。
「おはよう、お母さん」
私が声をかけると、母は気まずそうな顔でこちらに視線を動かした。
「おはよう、エルナ」
「あのね……昨日のことなんだけど」
母はじょうろを持ったまま、私に向き直る。
「お母さんの気持ちは分かってるつもり。でも私は、相手が誰でも区別したくない。討伐者だからとか、そういうことを考えて仲良くするかどうか、決めたくない……」
母は眉を下げ、ちょっと悲しそうに笑った。
「私のほうこそ、ごめんなさい。私があなたを縛っていることは自覚しているの。あなたには自由に生きて欲しい気持ちがあるのは本当よ。でも、もう一人の私が、あなたが泣く姿を見たくないって言ってる。ルーベンが亡くなったと知らせを受けた時の私の気持ちは、あなたには味わって欲しくない」
「分かってる、分かってるから……お母さん」
私は母に近寄り、じょうろを持つ手にそっと触れる。ちょっと骨ばった手の甲が、母の苦労と年月を感じさせた。
「ごめんね、エルナ……」
震える声で母は私に呟いた。私はそれ以上何も言えなかった。
♢♢♢
今日は仕事が休みだ。アレイスさんの絵は無事に完成したので、約束通り、彼の家を訪ねることになっている。
母は仕事で家にいない。アレイスさんの家に行くと言えばまた母と言い合いになりそうなので、彼の家に行くことは内緒にしていた。せっかくあの後母と仲直りしたのに、また喧嘩をしたくはない。
絵をくるくると巻いて紐で結び、両手でしっかりと抱えて自分の部屋を出る。出かける前に父の絵に挨拶をするのも忘れない。
「行ってきます、お父さん」
笑顔の父に声を掛け、私は家を出る。外は雲一つない青空が広がっている。空を見上げると、討伐者ギルドの方角に小さく飛行船が飛んでいるのが見えた。今日も討伐者さん達は魔物を倒す為に頑張っている。
アレイスさんの家に到着すると、彼はまた屋根の上にいた。長杖を空へ向け、じっとしていて動かない。何をしているんだろう?
「こんにちは!」
「あ! エルナ。いらっしゃい! すぐにそっちに行くよ」
アレイスさんは焦った顔で私を見ると、杖を抱えて地上にふわりと舞い降りた。
「また魔術の修行ですか?」
「まあね。効率よく魔術を使うやり方を色々考えていたところ」
アレイスさんは依頼を受ける時以外は、常に修行や勉強を怠らない人だ。ちょっとした待ち時間にも修行をしているのはさすがだと思う。
「アレイスさん、絵を持ってきましたよ」
「完成したんだね! 早く見たいよ。さあ、中へどうぞ」
アレイスさんは私が持っている絵を見て目を輝かせている。こんなに期待してもらっていると、彼に見せるのが段々怖くなってくる。大丈夫かな、がっかりされないだろうか?
二階へ上がり、前に絵を描いた部屋に入る。中は以前来た時と変わっていない。何も置かれていないテーブルがポツンとあるのが、どこか物悲しい。
「さあ、絵を見せて」
アレイスさんに促され、私は恐る恐る紐を外して絵を広げ、彼に渡した。絵を目にしたアレイスさんの瞳が、驚いたように大きく広がる。
「……凄いよ。上手だね、エルナ!」
「本当ですか?」
アレイスさんは笑顔で何度も頷きながら、私の描いた絵をじっと見つめていた。
「僕って、こんな顔してるんだな……」
私が描いたアレイスさんは、青空をバックに穏やかに微笑む顔だ。アレイスさんは目を細め、嬉しそうに絵をじっくりと観察していた。私は彼が喜んでいる様子にホッと胸を撫で下ろす。
「アレイスさんのお祖父様が、これを見て何か思い出してくれるといいんですけど……」
「きっと思い出してくれるよ。凄くいい絵だ……エルナ、本当にありがとう。早く祖父に見せたいよ」
「そう言ってくれると、私も描いた甲斐がありました」
アレイスさんが喜んでいる顔を見ていると、私も嬉しくなった。頑張って絵を描いて良かった。
「そうだ、エルナにお礼を渡さないとね。ちょっと待ってて!」
アレイスさんは慌てて部屋の外へ出て行った。
しばらくして、アレイスさんが部屋に戻って来た。彼の手には小さな箱が握られている。
「お待たせ。これは僕からのお礼だよ」
そう言って差し出された箱を受け取る。手のひらに収まるほどの小ささだ。お金でも入っているのかと思ったけど、とても軽い。何だろうと首を傾げつつ、箱を開けてみる。
「アレイスさん、これ……」
中にはリボンが入っていた。取り出してみると、夜空のような濃い青色で、端には星空のような刺繍が散りばめられている。なんて繊細で綺麗なデザインだろう。
「気に入った?」
「すっごく素敵! ありがとうございます。早速つけて見てもいいですか?」
私はポニーテールに着けていたリボンを外し、アレイスさんにもらったリボンを結ぼうとした。
「僕がつけてあげるよ。貸して」
「あ……ありがとうございます」
アレイスさんは私の背中に回り、リボンを髪の結び目に巻き始めた。しゅるしゅるとリボンがこすれる音がする以外、部屋の中は無音だった。感じるのは後ろに立つアレイスさんの気配だけ。
私は緊張で、まるで石みたいに固まっていた。リボンを結び終わったらしいアレイスさんは「よし」と呟くと、私の耳に顔を寄せた。
「これは『お守り』だよ。悪いものから君のことを守ってくれるからね」
アレイスさんはいつもよりも低い声で私に囁いた。私は背中がぞくりとなって、すぐに反応できない。
「……お守り?」
ようやく私が声を発すると、アレイスさんはいつもの声に戻って「そう、お守り」と明るく言った。
「アレイスさん、素敵なリボンをありがとうございました」
「エルナ、お礼はそれだけじゃないよ。実はもう一つあるんだ」
「え?」
振り返ってお礼を言った私に、アレイスさんはニコニコしながら突然両手を大きく広げた。
「もう一つは、ここだよ! この部屋を君にあげる!」
「……え?」
私は呆然としたままアレイスさんが笑っている顔をただ見ていた。部屋をあげるって、どういうこと?
「この部屋を君の『アトリエ』にしようと思うんだ! ここはいつでも君が使っていいよ! あ、そうだ合鍵を渡さないとね。はい、これがあればいつでも家に入れるから」
アレイスさんはポケットから鈍色の鍵を私に差し出した。
「……あの、ちょっと今私混乱してるんですけど」
「うん」
「……私の、アトリエ? この部屋が?」
「そうだよ」
「でもここは、アレイスさんの家ですよね?」
「そうだね」
「それなのにこの部屋は、私が使うんですか?」
「だからそう言っているじゃない。絵を描くならアトリエは必要でしょ? 僕の家は空き部屋ばかりだし、この部屋も使う予定はない。君がアトリエとして使ってもらえるならちょうどいいんだよ」
アレイスさんはさも当然と言った顔で私を見る。アレイスさんと言う人は、私の想像以上にぶっとんだ人なのかもしれない。いくら顔見知りだからって、一部屋を私にあげるだなんて。
「あの……家賃とか……」
「だからいらないってば。君のものだよ? ここは。絵のお礼だって言ったでしょ?」
「……本当に、使っていいんですか?」
「もちろんだよ。内装とか、好きに変えて構わないからね。ここは君の城なんだから」
ようやくじわじわと喜びが沸き上がってきた。アレイスさんは、私に夢を見せてくれた。飛行船で空を飛びたいというささやかな夢を、魔術で飛ぶことで叶えてくれた。それだけではなく、私に絵を描く場所を与えてくれた。私に絵を描く楽しさを思い出させてくれたのだ。
気づいたら、私は泣いてしまっていた。アレイスさんは慌てて私にハンカチを差し出した。
「ごめ……なさい。嬉しくて……」
「気にしないで」
アレイスさんはそっと私の背中に手を置いた。それは触れるか触れないかくらいの、優しい手の感触だった。




