第100話 生きる力が欲しい
ここはミルデン支団のギルドにある診療所。
四台のベッドが並ぶ病室には、たった一人の病人がベッドの上にいる。いつもの少し微笑むような口元は固く結ばれ、透き通るような青い瞳は閉じられ、その顔は真っ青で血の気がない。
アレイスさんは、魔術でドラゴンの炎から私たちを守ってくれた。でも力を使い果たしてその場に倒れていたのだ。
マーティンさんはアレイスさんを背負い、私は避難者に付き添いながら集合場所の野営地に戻った。アレイスさんは急いで医者に診せないといけないので、先に飛行船へ彼を乗せた。他の人たちはギルドが用意した荷馬車に乗ってもらい、ミルデンまで避難してもらう手筈になっている。
ミルデンに到着したのは、夜十時を過ぎたころだった。マーティンさんらとサディラさん、クリフさんはまだ現地に残っていて、向こうで夜を明かす予定だ。アレイスさんに付き添って、私だけがミルデンに戻ってきた。
医師のレイチェルさんの話では、アレイスさんは魔力を使いすぎたせいで体を動かすことができないという。今はとにかく、魔力の回復を待つしかないらしい。アレイスさんはもともと持つ魔力が非常に高く、それゆえに使い果たしたあとの反動も大きいのではないか、とのことだった。
アメリアさんは一度アレイスさんの様子を見にきたあと、また慌ただしく病室を出て行った。何しろアルーナ山ではまだドラゴンとの戦闘が続いている。討伐隊がドラゴンを足止めし、なんとか弱らせて再び眠りにつかせようと奮闘してくれている。今のところミルデンは安全ということになっているけど、何が起こるか分からない。少しも気を抜けない状況なのだ。
「エルナ、私は少し外すから、アレイスの様子を見ていてもらってもいい?」
「はい、レイチェルさん」
レイチェルさんは病室を出ていき、しんとした病室に私とアレイスさんだけが残された。前とは状況が逆だな、とベッドの上で目を閉じているアレイスさんを見ながら思う。あのときはアレイスさんを追いかけ回していたルシェラ嬢に怪我をさせられ、私がここに寝ていたっけ。
ベッドの横に椅子を置き、私はそこに腰かけた。アレイスさんはぴくりとも動かないままだ。
このまま目が覚めなかったらどうしよう。嫌な想像が頭をよぎるたび、私は首を振ってその考えを追い払う。彼の顔はまるで人形みたいだ。顔に血の気がないから、余計に作り物っぽく見える。彼の顔を眺めていたら、突然アレイスさんの目がパッと開いた。
「アレイスさん!」
「……エルナ?」
アレイスさんはゆっくりと目を動かし、私を見た。
「よかった、意識が戻って……」
「ここは……どこ?」
アレイスさんは視線だけをゆっくりと動かした。
「ミルデンのギルドに戻ってきたんですよ。ここは病室です」
「ギルドに? そうか……ドラゴンはどうなった?」
「まだ戦闘中です。アレイスさんは魔力を使い果たして倒れていたので、ここに運んできたんですよ」
「戦闘は続いているのか。すぐに戻りたいところだけど、どうやら体の自由が利かないみたいだ」
天井を見つめながら、アレイスさんはため息をついた。
「今はご自分の体のことを心配してください。アレイスさんは魔力を使い果たしたんです。回復するまで、しばらく休んでいてくださいね」
「エルナは……ずっと僕に付き添っていてくれたの?」
「はい。倒れていたアレイスさんをマーティンさんが運んでくださって、私は一緒に飛行船で戻ってきたんです」
「そうか……ありがとう。エルナ、怪我はしてない?」
どう見てもこの状況で心配されるべき人はアレイスさんなのに、彼は私を気遣っている。
「私のことは心配しないでください。アレイスさんこそ、具合はどうですか? 気持ち悪いとか、どこか痛いとか」
「体に力が入らなくて、なんだか妙な感じだ。頭と体がバラバラみたいな」
魔術師が魔力を使い果たすと、体が動かなくなることは知っている。魔力回復薬を使えば元に戻るはずだけど、アレイスさんには既にレイチェルさんが注射で薬を投与している。通常ならこれで体が動かせるようになるはずのに、まだアレイスさんは体を動かせない。
だんだん不安が強くなってくる。目が覚めたあとの彼は、相変わらず顔が青白い。すぐにレイチェルさんを呼び戻さなければ。
「私、レイチェルさんを呼んできますね」
椅子から立ち上がろうとしたら、アレイスさんは「待って」と私を呼び止めた。
「ここにいて、エルナ」
「でも、すぐにレイチェルさんを呼ばないと」
「呼んでも意味がないよ」
「……どういう、意味ですか?」
私はすっと体が冷えた気がした。アレイスさんは首をほんの少し傾け、私をじっと見ている。
「お願いがあるんだ、エルナ」
「何ですか?」
「僕の手を、握って欲しい」
「手を?」
少し驚いたけど、言われるままに私は彼の手を取った。
冷たい。アレイスさんの手はまるで氷のようだった。私は少しでも彼を温めようと、両手で彼の手を包み込む。
「ありがとう、エルナ」
アレイスさんの穏やかな声に、私は胸が詰まった。目の周りが熱くなり、視界がぼやける。
「エルナ。僕のすぐ近くに死神が来ているのが分かる。このままだと、僕は向こうに連れていかれるだろう。だから君の力が必要なんだ」
「死神なんて、そんな恐ろしいことを言わないでください!」
震える声でアレイスさんに語りかけた。
「エルナ、僕に生きる力を分けて欲しい。君の温かさが、僕に生きる力をくれるんだ。だからずっと手を……握っていて」
「分かりました。私にできることなら、なんでもします!」
「……何も言わずにアルーナ山に行ってしまって、すまない。君の顔を見たら、決意が鈍ると思ったんだ」
「そんな、いいんです」
ポツリと呟いた彼の手を、私は首を振りながら強く握りしめた。
氷のようになってしまった彼を、なんとか私の力で溶かしたい。でも手の冷たさはなかなか治らない。どうしたらいいんだろう……どうしたら……。
その時、廊下からバタバタと誰かの靴音が聞こえた。
誰か来る。私は急いで彼の手を離して立ち上がった。
バタン! と大きな音を立てて扉が開き、部屋に飛び込んできたのは、意外な人物だった。
「エルナ! アレイスさんの容態はどう!?」
「お母さん!?」
息を切らせて病室にやってきたのは、母だった。




