湯女の怪
「この宿、少し変わってますね」
友人の陽菜がそう言ったのは、チェックイン直後のことだった。
山間の温泉旅館「白滝楼」。山道を抜けた先にぽつんと佇む、木造三階建て。観光案内にもネットにも情報が少なく、口コミも片手で数えられるほどしかない。けれど「秘湯」という言葉に惹かれた私たちは、半ば冒険のつもりで来てみたのだった。
部屋は清潔だった。食事も丁寧。スタッフも丁寧すぎるほど丁寧。唯一気になるのは、「女湯には絶対に一人で入らないでください」という張り紙。
「なんか怖くない? “湯女”って知ってる? 江戸時代の風呂場で働いてた女の人たち」
「娼婦みたいなやつでしょ?」
「そう。ああいう人たちの霊が出る話、よくあるじゃん」
「やめてよ……」
湯上がりに肝試しのような話題。私たちは軽口を叩きながら、夜の温泉へ向かった。
女湯ののれんをくぐると、湯気の向こうに静寂が広がっていた。石造りの浴場。木造の梁。古びた提灯がわずかに揺れ、雰囲気は抜群だった。
私たちは肩まで湯に沈み、しばらく無言になった。
湯はぬるめで、とろりと肌を撫でる。山の硫黄泉というよりも、どこか……甘い匂いがした。
「……ねえ、さっきから変な音しない?」
陽菜が囁いた。
耳を澄ますと、確かに聞こえる。ちゃぷん、ちゃぷんと、誰かが歩いてくるような水音。
「他にお客さんいたっけ?」
「貸切って聞いたけど……」
音が近づいてくる。湯気の向こうに、なにか白い影が揺れていた。
「お、おかみさんかな?」
だが、それは違った。
湯けむりの奥から、濡れた髪の女が現れたのだ。
うつむいていて顔は見えない。白い着物が水に沈み、足が……なかった。
「っ……!」
私と陽菜は声も出せず、体をこわばらせた。
その女は、湯の上を滑るように移動し、湯船の縁でぴたりと止まった。そして、こちらにゆっくりと顔を向けた。
水にふやけた皮膚。真っ白な眼。口元だけが、ゆっくりと笑っていた。
「ようこそ……白滝の湯へ」
その声は、風のようだった。
次の瞬間、湯が黒く変わった。
底から泡がぼこぼこと湧き上がり、湯の中に無数の白い手が現れた。女たちの手だった。しわくちゃで、ふやけて、しかし異様な力でこちらを引きずり込もうとする。
「陽菜!! 逃げて!!」
私は陽菜の手を掴んで湯船を飛び出した。
浴場を裸足で駆け抜け、タオルも着替えも忘れて、部屋に戻った。
⸻
翌朝、宿を出るとき、私たちは何も言わなかった。あの夜のことを口にすると、現実になりそうだった。
だがチェックアウトの直前、フロントに飾られた古い絵が目に入った。
墨で描かれた、大勢の女たちが風呂場で笑っている絵。
その中央に、昨夜の“あの女”がいた。
宿の女将に尋ねると、こう返された。
「それは昔の“湯女”たちです。大昔、この宿で働いていた女衆。皆、源泉の事故で亡くなりましてね……今でも、お湯に未練があるんでしょう」
女将の目は、まっすぐだった。あれは、冗談ではない。
私たちは無言のまま、宿を後にした。
⸻
その夜、帰宅してシャワーを浴びていたときのこと。
浴室の鏡が曇った。指でなぞってみると、そこに文字が浮かび上がった。
「またきてね」