名前を忘れた花
風の里に来て、千尋は毎朝、花畑の小道を歩くのが日課になっていた。
そこには、言葉を話す花たちが咲いていて、それぞれがその日の風のこと、土の眠りのこと、夜の星の夢を教えてくれる。
ある日、千尋はひとりだけ言葉を話さない花を見つけた。
小さく、色もどこか曖昧で、ほかのどの花とも違っていた。まるで、まだ咲ききれていないような――そんな風に見えた。
「こんにちは」
千尋が声をかけると、その花はほんの少しだけ揺れた。けれど、言葉は返ってこなかった。
「名前、あるの?」
そう尋ねても、ただ風に揺れるばかり。
不思議に思って銭婆に尋ねてみると、銭婆は少し困ったように言った。
「その花はね、自分の名前を忘れてしまったの。名前を失った者は、この里では眠り続けるしかないのよ」
千尋はそれを聞いて、胸の奥がきゅっとした。
夜、風の里の湖のほとりに立ちながら、千尋は考えていた。
名前を忘れるって、どういうことだろう。自分を失うって、どんな感じなんだろう。
思い出せない何かが、自分の中にもあったような気がして――
「……わたしも、思い出せないことがあるよ」
湖に向かってそっとつぶやいた。
次の朝。千尋は花畑に戻り、名もなきその花の前に座った。
「今日から、私が君に名前をつけてもいい?」
花は静かに、少しだけうなずいたように見えた。
「じゃあ……“ほのか”はどう? ほのかに色づいて、ほのかに香って、だけどずっと心に残る……そんな花」
すると、不思議なことが起きた。
その花が、ふわっと淡い光を放ち、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。
「……ありがとう」
確かに、そう聞こえた。
やわらかな声だった。風の中に消えていくほど儚くて、それでいて確かにそこにあった。
その日から、「ほのか」は少しずつ色を取り戻していった。言葉は多くなかったけれど、毎朝、千尋が来るのを待っているのがわかった。
名前があるって、不思議だ。
誰かに呼ばれることで、自分の輪郭が浮かび上がる。
そして千尋は、自分の中にあった、忘れかけていた願いを思い出した。
――誰かのために、そこにいること。
それが、自分の小さな幸せなんだって。
風の里には、今日も優しい風が吹いていた。