風の音がする方へ
車の後部座席。千尋は少し疲れて、窓の外を眺めていた。ぼんやりと揺れる景色。父と母の会話は遠くでこだまするように聞こえ、風の音と混じって心地よい眠気が押し寄せる。
――すぅっと、目を閉じた。
次に千尋が目を覚ました時、車のエンジン音も、父の声も、もう聞こえなかった。
代わりに聞こえてきたのは、小川のせせらぎと鳥のさえずり。そして、どこかで風鈴が揺れる涼やかな音。目の前には、見たことのない小さな村が広がっていた。木造の家々、青い空、草の匂い。そして、道の向こうには、懐かしいような金色の光が満ちていた。
「ここ……どこ?」
千尋は車から降りた。けれど、車は音もなく、風に溶けるように消えていった。不安よりも、胸の奥がぽっと温かくなる。
その時――
「久しぶりね、千尋」
振り向くと、そこには湯婆婆ではなく、銭婆が立っていた。あの時のように、どこか優しげな目で千尋を見つめている。
「ここは『風の里』。この世とあの世の間にある、小さな幸せの町。あなたは“目覚めた”のよ」
「目覚めた……?」
「そう。大人になると忘れてしまう心――でも、あなたは忘れなかった。だから、帰ってこれたの」
風の里の住人は、みな千尋に優しかった。紙のように透き通った鳥が空を飛び、動物のような姿をした言葉を話す花たちが、千尋に道を教えてくれた。
川のほとりでは、あのハクに似た白い龍が水面に姿を映していた。でも彼はもう名前を取り戻しているのか、姿は遠く霞んで見えただけだった。
「ここで、私は……暮らせるの?」
千尋が銭婆にそう尋ねると、彼女はふっと微笑んだ。
「暮らすのではなく、“思い出す”の。あなたの中にずっとあった、ほんとうの時間を。焦らずにね」
千尋は、風の里で少しずつ、少しずつ、自分自身を取り戻していった。
泣いた日も、笑った日も。すべてが風に運ばれて、やさしく胸の奥に染み込んでくる。
そして、ある日ふと、川の向こう岸に見覚えのある影が見えた。
あの少年だった。
けれどもう、名前も姿も必要なかった。
二人は風の音の中、微笑み合った。
そこには、言葉よりも深い理解があった。
それが、千尋の「ほんとうの帰る場所」だった。