第1章:転生と目覚め
どんよりとした曇り空の下、冷たい雨が容赦なく降り注いでいた。花乃修一は、全身ずぶ濡れになりながらも、ただただ息を殺して耐えていた。視線の先では、クラスのいじめっ子グループのリーダー格である影山が、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。
「おい、花乃。まだ抵抗する気か? お前みたいなゴミクズは、俺たちに逆らうことなんてできないんだよ」
影山の言葉に、周りの取り巻きたちが汚い笑い声を上げる。修一は、ただ耐えるしかなかった。スクールカーストの底辺で喘ぐ自分には、反抗する力も術もなかったからだ。小説家になるという密かな夢だけが、彼の心を支える唯一の光だった。しかし、その光も今、激しい雨にかき消されそうになっていた。
「もういいだろ、影山。こいつ、マジで死んじゃうんじゃねえの?」
取り巻きの一人がそう言うと、影山は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにまた冷酷な笑みを浮かべた。
「ああ? 心配いらねえよ。せいぜいちょっと溺れるだけだ。それもいい薬になるだろ」
次の瞬間、修一の体は突き飛ばされ、ドゴォンという鈍い音と共に、川へと投げ込まれた。冷たい水が全身を包み込み、呼吸ができなくなる。泥と藻の臭いが鼻腔を突き、視界はあっという間に真っ暗になった。意識が薄れていく中、修一の脳裏には、いじめられ続けた日々が走馬灯のように駆け巡っていた。
ああ、こんな終わり方なんて……。
その時、どこからともなく、優しい、しかし確固たる意志を持った声が聞こえてきた。
「諦めるな。お前の運命は、まだ終わってはいない。運命の円環を紡げ……」
その言葉を最後に、修一の意識は完全に途絶えた。
次に目覚めた時、修一は眩い光に包まれていた。冷たい水はどこにもなく、代わりに柔らかな土の感触と、草木の生命力に満ちた香りが鼻腔をくすぐる。ゆっくりと目を開けると、そこは見たこともないような深い森の中だった。木々の間からは、今まで見たこともないほど鮮やかな青い光が差し込んでいる。
「ここは……どこだ?」
体を起こすと、今まで経験したことのないような清涼感に包まれていることに気づいた。そして、自分の体が、以前よりもずっと軽くなっているような気がした。
その時、再びあの声が聞こえた。
「よくぞ目覚めた、円環の賢者よ。お前はアクアリスへと転生した」
頭の中に直接響くようなその声に、修一は驚き、周囲を見回した。しかし、誰もいない。
「アクアリス? 円環の賢者?」
戸惑いながらも、修一は立ち上がった。すると、その足元から、青い光が彼の体を包み込んだ。光は彼の内側へと染み渡っていくかのように感じられた。
「その力は、お前の運命を変えるためのもの。過去の屈辱を清算し、新たな円環を紡ぐのだ」
声がそう告げると同時に、修一の脳裏に、この世界の情報が流れ込んできた。アクアリスは水と魔法が支配する世界。大陸の中央には「水底の聖域」と呼ばれる巨大な湖があり、そこに世界の運命を操る「円環の秘宝」が眠っているという。そして、彼に与えられた「円環の賢者」の能力は、時間の流れを「円」として操るものだということも。
特定の範囲内で時間を巻き戻したり、加速させたり、物体や魔法を円環状に制御する。それは、まるでゲームのチート能力のようだった。
「これで、俺は変われるのか……?」
修一は、かつて自分を苦しめた影山たちの顔を思い浮かべた。心の奥底に沈んでいた怒りと、新しい世界での希望が交錯する。
まずは、この力の使い方を覚える必要がある。修一は近くに落ちていた石ころを拾い上げ、そっと地面に置いた。そして、集中してその石ころに意識を向けた。
「時間を……巻き戻せ!」
すると、彼の視界がわずかに歪んだかと思うと、石ころが地面に置かれる前の状態に戻っていた。修一は驚きと同時に、喜びを感じた。
「すごい……本当にできる!」
何度も試すうちに、彼はこの能力の基礎を掴んでいった。数秒程度の時間を巻き戻すことや、小さな物体の動きを制御することなら、容易にできるようになった。まだ漠然としていた小説家になる夢とは別に、新たな目標が生まれた。この力で、自分を虐げた者たちを見返し、自分の運命を切り開く。
森をしばらく進むと、遠くから争うような声が聞こえてきた。修一は慎重に音のする方へと向かった。茂みの陰から覗き見ると、金髪碧眼の美しい少女が、数人の男たちに囲まれているのが見えた。少女は必死に抵抗しているが、多勢に無勢といった状況だ。
「このっ、離しなさい! 私はアシュフィールド家のセシリーよ!」
少女はそう叫んだが、男たちは嘲笑うばかりだ。
「アシュフィールド家? へっ、それがどうした。お嬢様だろうが、ここで抵抗すればただの獲物だ」
修一は、体が勝手に動いているのを感じた。あの頃の自分だったら、見て見ぬふりをしていただろう。しかし、今は違う。自分には力がある。この力で、目の前の不当な状況を覆せるはずだ。
彼は静かに茂みから飛び出した。
「そこまでだ」
修一の声に、男たちは一斉に振り返った。
「なんだ、テメェは?」
男の一人がそう言いながら、修一に襲いかかってきた。修一は冷静に相手の動きを見た。男の拳が迫る。その瞬間、彼は「円環の賢者」の能力を発動した。
時間が、わずかに巻き戻る。男の拳の動きが、スローモーションのように見えた。修一はその隙に、男の懐に飛び込み、首筋に手刀を打ち込んだ。男は意識を失い、その場に崩れ落ちた。
「な、なんだと!?」
残りの男たちは驚きを隠せない。修一は彼らに向かって言い放った。
「これ以上、無意味な抵抗はやめろ。さもなくば、お前たちも同じ目に遭うぞ」
男たちは互いの顔を見合わせ、恐怖に顔を歪ませた。修一の青い瞳は、彼らにとっては底知れない力を秘めているように見えたのだろう。
「ちくしょう、覚えてろ!」
そう捨て台詞を残し、男たちは一目散に逃げ去っていった。
セシリーは、信じられないものを見るかのように修一を見つめていた。
「あなたは……一体、何者なの?」
修一は彼女に手を差し伸べた。
「花乃修一だ。君は大丈夫か?」
セシリーは戸惑いながらも、修一の手を取った。彼女の目には、驚きと同時に、かすかな希望の光が宿っていた。
「助けてくれて、ありがとう。私はセシリー・アシュフィールド。名門アシュフィールド家の末娘よ」
修一は彼女の言葉に、貴族社会という言葉を思い出した。この世界は、階級社会なのだ。
「それで、なぜこんな森の中に一人でいたんだ?」
セシリーは俯き、辛そうに話し始めた。
「私は、不本意な結婚を強いられそうになって、家を飛び出してきたの。あの男たちは、私を連れ戻しに来たのよ」
修一は、彼女の境遇に、どこか共感を覚えた。自分もまた、理不尽な状況に抗えず、死んでしまったのだから。
「そうか……。俺は、行くあてもないんだ。もし良ければ、一緒に旅をしないか? 魔法学院を目指しているんだ」
セシリーは修一の言葉に、少しだけ考えてから、顔を上げた。彼女の瞳は、修一をまっすぐに見つめていた。
「ええ、喜んで。あなたのような不思議な力を持った人と一緒なら、きっと大丈夫な気がするわ。それに……あなたの力が、私には必要なのかもしれない」
彼女の言葉に、修一はわずかに頬を緩めた。この世界に来て初めて、心の底から安堵できたような気がした。
「よし、じゃあ行こう。この世界でなら、俺は変われる。きっと、変わってみせる」
修一とセシリーは、魔法学院を目指して、森を後にした。新たな運命の円環が、今、動き始めた。