5.思い出のよすが
ルーセットの妻、アリエスの母は、もうこの世にはいない。
真正面からそう切り込んだら、ルーセットは辛そうに目をそむけ、アリエスはぎゅっと唇を引き結んでしまった。
「……ああ、そうだよ。私の妻オリジェは、三年前に……」
「……お母様……」
たった三年。それを聞いて、思わずため息がもれた。本当にもう、この人たちときたら。
「あたくち、そのへやをつかいたくはないわ。どこかよそでねむるから」
きっぱりと言い切って、ぐるりと辺りを見回す。
「ものおきとか、あいてないの?」
そう問いかけると、ルーセットがちょっぴり困ったような顔で答えた。
「物置も屋根裏も、本当に物だらけで……頑張って整頓してはいるんだけど、君が寝る場所はないんだ」
「じゃあ、ここのすみっこでいいわ。きばこと、それにもうふがあればじゅうぶん」
そう言いながら、居間の片隅、窓の下に置かれていた大き目の木箱に近づく。ちょうどいい具合に空っぽで、中は特に汚れている様子もない。
今のわたくしの体格なら、この中でもゆったりと横たわれる。こっそり魔法を使えば、薄い毛布でも心地よく眠れるし。暑さも寒さも、わたくしには無縁だ。
「わらかなにか、しくものをもらえるとありがたいわね」
木箱のふちに手をかけて中をのぞき込んでいると、二人のあわてたような声がした。
「いや、でもそれではまるで、私たちが拾い子をいじめているみたいじゃないか」
「そ、そうです。フィオは子どもなんですから、ちゃんとしたところで眠らないと……」
泣きそうな顔して、何言ってるのかしら。自分も子どものくせに。
ゆっくりと息を吐いて、二人に向き直る。じっと二人を見すえて、静かな声で言った。
「ふたりとも、おひとよしがすぎるわ」
そうして、お腹の底から声を出す。
「ひろってきたこどもに、そんなたいせつなばしょをあけわたすなんて、だめでしょう!」
わたくしは、人とは違う時間を生きている。家族も友人も、もうとっくにこの世にはいない。
たまに、気まぐれに人と関わることはあった。けれどみんなあっという間に、わたくしを置いていなくなってしまった。
まだ若かったころのわたくしは、そんな人たちとの思い出の品を大切に残していた。けれど百年、二百年と経つうちに、それらの品はどんどん傷んで、壊れていった。
かつて歩いた街並みも、時の流れとともに変わっていく。そびえる山もいずれは形を変え、国すらも消えていく。
昔をしのぶことができる、そんなよすがとなるものが存在するのは、とても幸運なことなのだ。わたくしはそのことを、痛いほど思い知っている。
ましてや彼らが妻を、母を亡くしたのはつい最近のことだ。あの部屋には、二人の大切な女性の思い出がまだたっぷりと染みついている。
絶対に、わたくしがその部屋で暮らすわけにはいかない。大切な人の残り香を、踏み荒らすわけにはいかない。
「あのへやは、たいせつにとっておきなさい。いつか、むねのいたみがうすれるまで」
威厳たっぷりに言い放つ。わたくしがこんなに小さくなっていなければ、さぞかし絵になったでしょうに、どうにも格好がつかない。
しかし二人には、十分すぎるくらいに衝撃を与えられたらしい。ぐすぐすと鼻を鳴らしているアリエスを、ルーセットが抱き留めていた。彼もまた、ほんのりと涙をにじませていた。
アリエスが泣き止んだところで、わたくしの寝床をみんなで整えた。二人とも、まだ申し訳なさそうな顔をしていたけれど、悠々と無視してやった。
まずは近所で干し草をもらってきて、箱の中に敷き詰める。その上から毛布を隙間なく敷いて、さらに掛け毛布を用意する。……自分で言い出しておいてなんだけれど、これ、犬か猫の寝床みたいね……。
「寒かったら、もっと毛布を持ってくるからね。ああそうだ、何か目隠しになりそうなものを用意したほうがよさそうだ。ちょっと物置で探してくるよ」
「ええ、よろしく。きがえのたびにあっちをむいてもらうのは、めんどうだから」
ルーセットの背中にそう呼びかけると、アリエスのとまどったような声がした。
「……本当に、これでよかったのですか……?」
「あたくちがいいっていってるんだから、いいのよ。ないているひまがあったら、もうふをととのえるのをてつだって」
まだちょっぴり涙目のアリエスに、きっぱりとそう命じる。彼は素直に、小さな手で毛布を整え始めた。こういうときには、忙しくさせておくのが一番。
「フィオ、ちょうどいいものがあったよ。ほら」
そうしていたら、ルーセットが古びた板のようなものを手に戻ってきた。ちょうど、ルーセットの胸くらいまである細長い板を三枚、横につないだものだ。
片方の端に小さな支えがついていて、床に置くとそのまま立つようになっている。装飾のかけらもないけれど、衝立ね、これ。
「……これで、どうかな?」
ルーセットとアリエスが、二人そろってわたくしの様子をうかがっている。そんな二人に悠然と笑いかけ、答えた。
「ふふっ、いいかんじになったわ。ありがとう、ふたりとも」
そもそも、拾ってきた子どものためにここまで気を遣っていることのほうがどうかと思うわ。本当にお人よしね、この親子。
わたくしがそんなことを考えているとは思ってもいないらしく、二人は同時に笑顔になった。そしてふと、アリエスが何かに気づいたような顔になる。
「ところでお父様、今回の依頼の品、そろそろ持っていったほうが……」
「おっと、そうだった。フィオの世話に気を取られて、忘れていたよ」
「……お父様、依頼は信用第一ですよ。ギルレムのみなさんはいい人ばかりですが、それでもちゃんとするに越したことはありません」
のんびりしたルーセットを、アリエスがやんわりとたしなめている。その態度といい口調といい、六歳の子どもというよりも、一人前の大人のような……貴族の子なんかだと、たまにこういう子もいるけれど。
「だったら、あたくちもついていくわ。おもしろそうだし」
そうして家を出て、三人一緒に町を歩く。ルーセットが抱えたリュックをぽんと叩いて、こちらに笑いかけてきた。
「私は便利屋をやっているんだ。といってもこのギルレムの町は平和だし、大した依頼はないんだけどね」
便利屋、ね。一応存在だけは知っている。人々の依頼をこなして、報酬をもらうことをなりわいとしている者のことだ。
大きな街なんかだと、便利屋たちに仕事をあっせんする組織があり、害獣退治とか隊商の護衛とか、そんな依頼もあると聞いたことがある。
ただルーセットの口ぶりからすると、彼がこなしているのはもっとずっと簡単な依頼のようだった。
それはそうとして……便利屋になるのは、職人や農夫、あるいは商人なんかになれなかったはみ出し者か、町や村でおとなしくしていられない性分の者か、だいたいそんな感じだったはず。
ルーセットは……どちらでもないような気がする。この親子、どうにもつかめないところが多いけれど、ますます謎が深まった気がするわ。
目的地は、そう遠くはなかった。町の外周部、農家のものらしき家が立ち並ぶ区画。そこにある一軒の家に、ルーセットはためらうことなく入っていった。
「頼まれていた薬草、摘んできましたよ」
「あらまあ、早いのねえ」
「あなたの腰の痛みを早くなんとかしたくて、頑張ったんです」
そこでわたくしたちを出迎えたのは、一人の老婆だった。大きな木の椅子に座り、素朴なクッションをたくさん腰やら背中やらに当てている。そんな彼女に、ルーセットがにこやかに話しかけていた。
……腰痛のための薬草探し、って……冗談抜きに、子どものおつかいね、これ。
というか、依頼がこの調子って……本当に、これで食べていけているのかしら。
ふと胸に浮かんだ嫌な予感は、どうやっても消えてくれなかった。