35.冬の夜に思うこと
夕食と後片付けも終わり、今夜もいつものように木箱に横たわる。以前はわらと毛布が詰められていたそこには、羽毛が詰まった夜具がかけられている。
先日、わたくしたちの素朴な暮らしを見にきたエーレストが、屋敷に帰るなりこれを送りつけてきたのだ。それも、律儀にきちんと三人分。
アリエスは我がメルエシアの跡継ぎとなるかもしれない子どもなのだから、そんな薄い寝具で眠るなどもってのほかと、エーレストはずっとぷりぷり怒っていた。でも、まさかこんなものを送ってくるなんてね。
ルーセットとアリエスはかなり恐縮して、こんなものを受け取っていいのか悩んでいたけれど、せっかくだからもらっておきなさいよと説得したのだ。あいつにかけられた迷惑の分を思えば、これくらいもらう権利があると思うの。
それにしても、言い方こそ素直じゃないけれど、エーレストって案外面倒見がいいのかも。とにかく素直じゃないけど。ほんとあの人、ルーセットと真逆ね。だからこそ、ルーセットのことが気に食わないのかも。
ルーセットはふわふわでほわほわで、あきれるほどにお人よし。良くも悪くも子どものようなところもあるし。でもそういうところが、たぶん彼の魅力なのだろう。
そんなことを考えながら、ふかふかの寝具にくるまって天井を見つめる。もうすっかり見慣れてしまった木目を、ぼんやりと目でなぞる。
……荒野でルーセットと出会ってから、もう半年。
わたくしからするとまばたきするより短いはずのその時間は、驚くほどに長く、濃密だった。こんな時間がずっと続けばいいのにと、そう思ってしまうくらいに。
でも、その願いは絶対にかなわない。たまたま体が小さくなったから、わたくしは少しの間だけ彼らと同じ時間を生きられる。けれど、いずれわたくしと彼らの時間は、道は、分かれていってしまう。
「……めが、さえてしまったわね」
むくりと起き上がって、木箱から出る。ため息を一つついて、魔力を解き放った。
あっという間に、体が元の大きさに戻る。そのまま、お気に入りのドレスをまとった。この家に来てから、ずっと寝床のそばに置いたままになっていた、あの瑠璃色のドレスだ。
そして音一つ立てずに、窓から外に出る。
雲一つない夜空に、星々がちかちかとまたたいている。きんと音がしそうなくらいに、空気は冷え切っていた。
けれどわたくしにとっては、これくらいの冷たさはどうということはなかった。以前暮らしていた高山の隠れ家は、一年の半分ほど雪に閉ざされていたから。
「……懐かしい、冷たさね」
魔法でふわりと浮かび上がりながら、口の中だけでそっとつぶやく。けれど同時に、もっと別の感情がこみあげてくるのを感じた。何かしら、このやけにもやもやした思いは。
空気の壁で自分を守りながら、町の外に向かって飛んでいく。足の下に広がる町はすっかり寝静まっていて、誰の気配もしない。
まるでこの世界に、わたくしだけがいるような錯覚。あの隠れ家にいたころは当たり前になっていた、そんな感覚。
「……ああ、そうね。わたくしは……寂しいんだわ」
胸の中の思いに、ようやく名前がついた。けれどそのことに、自分で驚いてしまう。
「寂しさなんて、もうずっと感じていなかったのに。とっくに克服したと、そう思ってたのにね」
自覚したとたん、胸がずきりと痛んだ。嫌ね、こんなことじゃ先が思いやられるわ。ほんのちょっとの間に、すっかり弱くなってしまって。
苦笑しながら、どんどん宙を進んでいく。やがて、町の外の雪原にぽつんと生えた木が見えてきた。春になって雪が解ければ、びっしりと薄紅色の花を咲かせる木。
その木のそば、半ばほどまで雪に埋もれた石の前に、そっと降り立つ。魔法の風で、辺りの雪を軽く払った。
「こんばんは、オリジェ。少し、話をしにきたの」
物言わぬ墓石に、静かに語りかける。
わたくしは、普通の人間とは比べ物にならないくらい長く生きている。家族も友人も、もうとっくに冷たい土の下だ。
そしてわたくしは、今まで一度たりとも、幽霊に会ったことはない。どれほど会いたいと願っても、誰もわたくしに会いにきてはくれなかった。
幽霊を呼び出す魔法を探したこともあった。編み出そうとしたこともあった。でも全部、失敗に終わった。
だからきっと、人は死ねば全てなくなってしまうのだと、そう思っていた。そう思って、あきらめていた。
こうやって墓石に話しかけることに、意味はない。前のときは、一緒にいるルーセットとアリエスを励ますために、オリジェに呼びかけた。でも今ここにいるのは、わたくし一人。
それなのに、わたくしの胸の内には、オリジェに話したいという強い思いがこみ上げていた。きっと彼女は話を聞いてくれるに違いないと、そう思ってしまっていた。
「……わたくし、あの家にいていいのかしら」
行く当てがなくて、魔法もうまく使えなくて、仕方なく、ルーセットの厚意に甘えてあの家に滞在することにした。
けれどもう、わたくしは自分の隠れ家に戻ることができる。もう、ルーセットたちのところに滞在しなくてはならない理由はない。
でもわたくしは、二人にお願いした。もう少し、一緒にいさせてほしい、と。それは、わたくしの素直な思いだった。
でも本当にそんなことを願ってもよかったのかと、少しずつ心が揺らぎつつあった。ルーセットとアリエスとの時間が温かければ温かいほど、とまどいも増していったのだ。
それに、さっきの夕食の席でアリエスが口にした言葉。それが、どうにも引っかかってならなかったのだ。
「『三人で、笑って暮らしたい』……それは本当なら、あなたに向けられるはずの言葉なのにね」
あの家の、オリジェの部屋。そこは今でも、大切に守られている。こまめに埃を払って、窓を開けて風を通して、机の上の花瓶に季節の花を飾って。
そうやってルーセットとアリエスがあの部屋を手入れしているのを見ると、二人にとってオリジェがどれだけ大切な存在なのか、実感できる。
「このままだと、わたくしがあなたの場所を奪ってしまいそうな、そんな気がしてならないの」
アリエスは、母親の顔をはっきりと覚えていない。死に別れたときはまだ三歳だったのだから、仕方ないといえば仕方がない。
だからあの子は、母親という優しくて柔らかな概念に、憧れを抱いている。そしてその憧れは、少しずつわたくしのほうに向きつつある。しかもルーセットは、それを止めようともしない。
「死者は、過去にだけ属するもの。生きている者はいずれ死者を思い出の中に閉じ込めて、前を向いて歩いていかなくてはならない。だからいずれは、あなた以外の誰かがあの二人に寄り添うことになる。それは、当然のこと」
そっと手を伸ばして、墓石に触れた。氷のように冷たいその表面が、わたくしの指の熱をすうっと吸い取っていく。
「でもあの二人には、まだあなたが必要なのだと、そんな気もして……」
墓石を見下ろして、小さくため息をついた。指先の感覚がなくなるのも、お構いなしに。
「……わたくしが魔女ではなく、ごく普通の人間であったなら、こんなやましさを感じずに済んだのかしら」
わたくしは彼らの暮らしにあれこれと口を挟み、知恵を貸した。見るに見かねてのことではあるけれど、そうやって二人の感謝と尊敬を集め、結果としてここに居座ってしまった、そんなふうにも感じてしまうのだ。
でも、どれだけやましかろうと。
「ごめんなさいね、オリジェ。それでもわたくし、もうちょっとだけここに、彼らのそばにいたいのよ」
この思いだけは、変わらない。……譲りたくない。
「代わりと言ってはなんだけど……あなたの夫と息子は、わたくしが守るわ。こういうのって不慣れだから、うまくいくかは分からないけれど……やれるだけ、やってみる」
言葉を切って、小声でつぶやいた。
「……わたくしには、時間だけはたっぷりあるから」
それから墓石の前にひざまずいて、真正面から『オリジェ』の名を見つめる。
「文句があるなら、遠慮なく言いにきて。……それじゃ、また」
そう言い放って、立ち上がる。墓石に背を向けて、ふわりと宙に舞い上がった。
ひゅうという風の音にまじって、明るい笑い声が聞こえたような気がした。
そうして、またこっそりと家に戻る。窓を開けてそろそろと顔を出したそのとき、笑顔のアリエスと目が合った。
「おかえりなさい、フィオ」
「ちょうど薬草茶が入ったところだから、みんなで飲もう」
台所のほうからは、ルーセットのそんな声が聞こえてきた。
「え? あらやだ、起こしちゃった?」
するりと部屋の中に入り、窓を閉める。ちょうどそこに、お盆を手にしたルーセットが歩み寄ってきた。お盆の上には、湯気を上げるコップが三つ。
「いや、ちょうどたまたま、目が覚めてね。寝付けなくてお茶をいれようとしていたら、その音でアリエスを起こしてしまったんだ」
「フィオはどうしているかなって、そっとのぞいてみたらいなくなっていたので、こうして待っていたんです。……帰ってきてくれて、よかった」
そう口にするアリエスの顔色は、ちょっぴり優れなかった。
「もう、ちょっと夜空の散歩に出ていただけよ。たまにはこのドレスを着たかったし」
わざとらしいくらいに明るく言って、くるんと回ってみせる。柔らかな瑠璃色の絹が、しなやかに揺れる。それを見て、アリエスがほうとため息をついた。
「わあ、綺麗ですね……」
「前の氷のドレスも見事だったけれど、こちらもよく似合っているよ」
食卓にお盆を置いて、ルーセットもまぶしそうに目を細めている。二人の視線にちょっぴり照れながら、誇らしげに胸を張った。
「まあね。これはわたくしの、一番お気に入りのドレスだから」
「一番……ということは、他にもドレスを持っているんですか?」
「ええ。高山の隠れ家に置いてきたけれど、見たいのならそのうち取ってくるわよ」
「ぜひ、見たいです!」
アリエスが顔を輝かせたのは、わたくしのドレスがもっと見たいからか、それともわたくしと『未来』の約束ができたからか。少なくともその約束を果たすまでは、わたくしは確実にここにいるわけだから。
「ほら二人とも、お茶が冷めてしまうよ」
そうやって話しているわたくしたちに、ルーセットが穏やかに笑いながらお茶を勧めてくる。
「ありがとう、ルーセット」
礼を言い、カップを受け取った。ついでににこりと微笑みかけると、彼はどぎまぎしたように視線をそらした。相変わらず、こっちの姿には慣れないのねえ。
それから三人で席に着き、お茶を飲みながらのんびりと話をする。日常の、たわいのないことを、思いつくまま喋って。
愛おしさに泣きたくなるのを隠しながら、いつもと同じように悠然とした笑みを浮かべる。
オリジェにはああ誓ったけれど、それとは関係なしに、わたくしは彼らを守る。この、何よりも大切な時間も。
そんなわたくしの目の前で、お人よしの親子はこの上なく幸せそうに笑い合っていた。




