21.さあ、帰ろう
突然の冷たい風が、わたくしの髪を舞い上げる。隣のルーセットが、両腕で顔をかばっていた。
その風が収まると、目の前の壁にさっきまでなかったものが現れていた。壁から突き出したたくさんの氷の板と、それらをつなぐ氷の棒。魔法で作り出した、氷の階段だ。ちゃんと、手すりもついている。
それだけでなく、表面には滑り止めの模様が刻みつけてある。『氷雪の魔女』たるわたくしにとって、これくらいの細工は楽勝だ。
「かべのはんたいがわにも、おなじかいだんをつくったわ。これならあんしんして、あっちにいけるでしょう?」
「君は……本当に、すごい子だったんだな……」
ルーセットがぽかんとした顔で、上へと続く階段を眺めている。
本当なら飛行の魔法でささっと飛んだほうが早いのだけれど、その魔法を使えるのはまだ内緒。できる限り、氷の魔法でなんとかしないとね。
もっともわたくしは、この姿になってから飛行の魔法を一度だけ使ってはいる。アリエスが土の槍に引っかけられて、空中に持ち上げられてしまった、あのときだ。
ただあのときのアリエスはかなり混乱していたから、わたくしが魔法で飛んだことにきっと気づいていない。だから、内緒のまま。
「それじゃあ、あたくちがさきにのぼって」
元気よく階段に向かって歩きかけたら、ルーセットにえりくびを引っつかまれた。伸ばした足が、宙をかく。
「ありがとう、フィオ。けれどここから先は本当に危ないから、君はここで待っていてくれるかな」
ああもう、またこうなった。肝心なところで子ども扱い。自分の力を全部出せないのって、やっぱり不便ねえ。
ぷうと頬を膨らませて、ルーセットをにらむ。彼はそんなわたくしを、温かい目で見守っていた。
「い・や・よ。あたくちをつれていかないのなら、このかいだんをけしてやるんだから!」
そう宣言して手を振り払い、有無を言わさずにずかずかと階段を上る。わたくしも登りやすいように、一段の高さはちょっと低めにしてある。
「ああ、待ってくれフィオ! ……仕方ない、覚悟を決めるしかないのか……」
ルーセットのそんな言葉を背中で聞きながら、一気に塀の上まで駆け上がって、塀をまたいで反対側の階段を駆け下りる。少し遅れて、ルーセットがおっかなびっくり下りてきた。
誰かに見つかるとまずいので、氷の階段はひとまず消しておく。目印をつけておいたから、帰りにまた階段を作り直せばいい。
「で、ここからどうするの?」
「少し、待ってくれ。アリエスがいるとしたらたぶんこちらのほうだから……」
ルーセットは屋敷をじっと見つめ、考え込んでいる。と思ったら、そのまま屋敷の裏手のほうに歩いていってしまった。
やけに詳しいわね、という言葉を、またしても呑み込む。無言で、ルーセットの後を追った。
「となると、たぶんこのへんに……」
そして彼は裏庭らしき場所にたたずみ、何やら足元を見つめている。
「どうしたの、なにかさがしてるみたいだけど」
「ああ。これくらいの、木の実が落ちているはずなんだ」
そう言ってルーセットは、親指と人差し指で丸を作ってみせる。探し物は、イチゴより一回り小さい木の実……って、こんな真っ暗な夜で、どうやって探すのよ。
「夜になると、うすぼんやり光るんだよ」
わたくしが困惑しているのを察したのか、彼はそう付け加えてくる。
どうしてここでそんなものを探さなければならないの、という問いもいったん横に置いておいて、じっと地面を見すえた。落ちているものを探すのなら、身長の低いわたくしのほうが有利だろうし。
「あ、ねえ、これかしら?」
近くの植え込みの下に、それらしきものが転がり込んでいた。拾ってルーセットに手渡すと、彼はほっとしたように息を吐く。
「ありがとう、確かにこれだ。となると、アリエスがいるのはこのあたりのどこかなんだが……」
そう言って、ルーセットはそびえたつ屋敷を見る。そこにはいくつも窓が並んでいて、このあたりと言われてもどこだか分からない。
もう深夜だし、アリエスも寝ている……とは限らないか。いきなりさらわれて、一人で心細い思いをしていたら、落ち着いて眠るなんてできないだろうし。
もし、あの子が起きていたら。
「……ちょっと、ためしてみるわ」
そういって、手をばっと上げる。わたくしのちっちゃな手のひらから、虹がふわりと姿を現した。
夜の闇の中で輝くそれは、虹というよりもオーロラに似ていた。わたくしが普段暮らしている高山のあたりでは、よくオーロラが出ていた。ちょっと、懐かしくもある。
その虹は、それは奇妙な動きをしていた。まるで蛇のようににゅるりと壁際を上ると、近くの部屋を一つずつのぞき込んでいったのだ。目立たないよう、こっそりと。
この時間なら、大人たちも大体は寝ているはず。もしアリエスがこれを見たら、わたくしたちが近くに来ているのだと、そう思って姿を見せてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を込めて、虹を操る。やがて、上のほうから小さな声がした。窓が開き、アリエスが顔を出す。
ルーセットが主張していたように、アリエスは無事なようだった。下にいるわたくしたちの姿を見て、ほっとしたように笑みを浮かべている。
「……ほら、むかえにいってらっしゃいな」
虹をひっこめ、アリエスのところまで氷の階段を作ってやる。ルーセットはありがとう、と小声で言って、全速力で階段を昇っていった。
そこからは、もう大急ぎだった。ルーセットがアリエスの手を引いて下りてきて、またさっきの場所に戻って階段を作り、三人で塀を越えて、馬に乗り……。
ひたすら進んで、振り返る。メルエシアの屋敷が豆粒のように小さく見えていた。それを見て、ようやくわたくしたちは大きく息を吐いた。大きな馬の背に、三人でぎゅうぎゅうに収まりながら。
背後から伸ばした両腕でわたくしたちをしっかりと支えながら、ルーセットがつぶやいた。
「ひとまず、逃げ出せたね……だが、追っ手がかかるとまずい。少し回り道してギルレムに帰ろう」
「はい、お父様。……お父様の言いつけが、役に立ちました……」
弱々しい声でそう答えるアリエスは、しかし不思議なことに泣きも騒ぎもしなかった。元々大人びている子だけど、まだ六歳なのに。しかも、とっても恐ろしい目にあったばかりなのに。
「……ちょっとくらい、はなしてもらえないかしら。なにがおこったのか、なにをけいかいすればいいのか、さっぱりで」
どうにもこの誘拐事件は、分からないことだらけだった。でもおそらく、ルーセットは何がどうなっているのか理解している。そしてたぶん、アリエスもある程度は。
わたくし一人だけ分からないままというのも、仲間はずれみたいで面白くない。彼らの事情を詮索したくはないけれど、ちょっとくらいは教えてほしい。
すると、背後から穏やかな声が返ってきた。
「……そうだね。君には、話しておくべきだろう。君のおかげで、こうして無事に、誰も傷つけることなくアリエスを取り返すことができたのだから」
そうして彼は、近くの林の陰に馬を向ける。
「でもその前に、馬も、君たちも休んでおいたほうがいい」
ルーセットは馬を止めて、持ってきていた毛布を広げる。そこにわたくしたちを横たわらせて、もう一枚の毛布を上からかけた。そうして彼も、わたくしたちの隣に腰を下ろす。
アリエスを真ん中にして、わたくしとルーセットが両側から挟み込むような形だ。
「もう大丈夫だ、アリエス。私がついているから、ゆっくり休みなさい」
「そうよ。わるいやつがきても、あたくちがぶっとばしてあげるから」
まだどこか緊張が抜けていないアリエスに、そっと呼びかける。するとアリエスは、毛布を頭までかぶって体を震わせ始めた。ああ、ようやく泣く余裕ができたのね。
わたくしとルーセットが、同時に腕を伸ばす。そのまま、アリエスを両側から抱きしめた。
ぐすぐすと鼻を鳴らしているアリエスの頭に頬を寄せて、笑顔で目を閉じた。
そして気づいたら、夜が明けていた。どうやらわたくしは、そのままぐっすりと眠りこけてしまったらしい。
以前は徹夜くらいどうってことなかったのに、体が小さくなってからというもの、どうにも夜は眠くて仕方がない。
だからって、この緊迫した状況でこんなに眠ってしまうなんて。我ながら情けないったら。
「ルーセット、おってはきてないわね!?」
飛び起きるなりそう叫ぶと、先に起きていたらしいルーセットとアリエスが同時に笑顔でうなずいた。
ほっとしながら、のそのそと毛布からはい出る。大きく伸びをしたわたくしの目の前に、砕いたクルミを飴で固めたお菓子が差し出された。こないだ、みんなでたくさん作った保存食だ。
「こんなものしかないけれど、食べておくといいよ」
「こんなもの……って、むしろあのじょうきょうで、よくこれをもちだそうってかんがえたわね?」
「子どもはきちんと食事をとらないと駄目だからね。多めに持ってきてよかった」
ほっとしたような顔のルーセットを見つつ、甘いお菓子をかじる。高山の隠れ家にいたころは食事だって適当だったし、こんなふうに気を遣われるとくすぐったい。
わたくしがお菓子を食べ終えるころには、ルーセットはもう出発の準備を整えていた。そうしてまた、三人で馬に乗る。
「それじゃあ、約束通り話そうか。私たちが隠していた、事情について」




