12.胸の中の面影
森の中で見つけた、春雪草。それがとてもよく効く熱さましになるのだと聞いたとたん、アリエスが悲しげにつぶやいた。その草があったら、母親が助かったのかも、と。
彼の母親、ルーセットの妻は、流行り風邪で命を落としたのだと聞いている。元々体が強くなかった彼女は、貧乏暮らしで弱っていたところに流行り風邪をもらってしまい、あっけなくこの世を去った。
当時まだ三歳だったアリエスは、大いに困惑した。どうしてお母様はいなくなったの、とルーセットにしつこく尋ね続けていたけれど、聡明な彼は、やがて事実を理解した。
とはいえ、彼はまだ六歳だ。母が恋しい、母が生きていればという思いは、今でもなお彼の胸の中にあった。
彼のそういった事情を知っていながら、つい珍しい薬草を見かけて声を上げてしまった。ううん、失敗しちゃったわ。
で、どう声をかけたものかしら……。少し悩んで、口を開く。
「……そうね。このくさがあったら、あなたのおかあさまはたすかったかもね」
そんなことないわ、この草があってもどうしようもなかったのだろうし、気に病むことはないわと、その場しのぎの言葉をかけるのは簡単だ。
けどそうしたら、アリエスはきっとずっと悩む、そんな気がする。フィオはああ言っていたけれど、本当にそうなのだろうか、と。
だったら今、きちんと事実を伝えておいたほうがいい。前を向けるような、そんな提案を添えて。
「このくさね、はやりやまいにもきくの。だからこれをうえかえて、ふやしていけば……あなたのおかあさまみたいにやまいでなくなるひとを、へらせるかもしれないわ」
わたくしのそんな言葉に返事をしたのは、ルーセットだった。泣きそうな顔をしたアリエスの肩に手を置いて、わたくしをじっと見つめている。
「……フィオ。君は、物知りだね。なんだか少し、救われたような気がするよ」
彼の優しく奥深い栗色の目には、いつになく切なげで、でも温かな光がともっていた。そのまっすぐなまなざしに、なぜか居心地の悪さを感じてしまう。
「……ちなみにだけど、あたくちがでまかせをいっているとは、おもわないの?」
「ああ。君はそんな子じゃない」
とっさに尋ねたら、すかさずそんな言葉が返ってきた。
彼は、わたくしのことを少しも疑っていない。普通の人間なら、子どものたわごとだと聞き流すか、表面だけ愛想よくあいづちを打って流すだろう。四歳の子どもが、そんな珍しい薬草について知っているなんて、どう考えてもおかしいから。
彼の信頼が、どうにも落ち着かない。そんな思いをごまかすように、アリエスに声をかけた。いつもどおりに、ちょっぴり偉そうに。
「そういうことだから、このくさをほりあげてちょうだい。つちのまほうで、そうっとよ」
ルーセットにしがみついていたアリエスが、弾かれたように顔を上げる。袖でぐいと顔をぬぐうと、神妙な面持ちで魔法を使った。
今までは木々の陰でひっそりとたたずんでいた春雪草が、根元の土ごと宙に浮かぶ。
アリエスは悲痛なほどに真剣なまなざしで、その草をじっと見つめていた。それからそろそろと、手にした布でその草を受け止めた。
「さあ、それじゃあこれをうえるわよ! そうね……あかるいこかげが、ちょうどいいのだけど。かぜとおしがよければ、もっといいわ」
そう説明すると、布で包んだ春雪草をしっかりと抱えたアリエスが、悲しそうな目でルーセットを見上げた。ルーセットも神妙な面持ちで、静かにうなずいている。
「だったら、いい場所を知っているよ。……その草の根が乾いてしまう前に、行こうか」
そうして言葉少なに、町のほうに向かって歩く。しかし町には入らずに、その外側をぐるっと進んでいく。
このままだと、そろそろ畑のある草原にたどり着きそうだ。でもあそこは日当たりがよすぎて、春雪草を植えるのには向かない。
そう思っていたら、二人はくるりと方向を変え、町に背を向けて歩き出した。そうして、草原の中にぽつんと生えている木のそばまでやってくる。
この木、春になると愛らしい薄紅色の花をつける木だわ。夏から秋は葉を茂らせて、冬になると全て葉を落とす。
確かにこの木のそばなら、春雪草を植えるにはちょうどいい。春雪草は春になると小さな小さな白い花を咲かせるから、白と薄紅色の、とても美しい光景が見られるはず。
「フィオ、このあたりでいいですか……?」
消え入るような声で、アリエスが尋ねてくる。ええ、そこでいいわよと答えたとき、その理由が分かった。
木から少し離れたところに、小さな石碑のようなものが立てられていた。そこに刻まれているのは『オリジェ』という名と、三年前の日付。
ああ、これは墓石なのね。そしてここには、二人の大切な人が眠っている。
「……はるになったら、しろいはながたくさんさくわ。オリジェもきっと、よろこぶわよ」
そう声をかけると、春雪草を植え終わった二人が墓石の前にひざまずいた。その姿を見ながら、ぼんやりと考える。
わたくしは、普通の人間とは比べ物にならないくらいに長い時を生きている。両親も友人も、とっくの昔にこの世にいない。
たまに気まぐれで、こんなふうに他人と関わることはあった。ただ、その人たちもみんな、わたくしを置いていなくなった。
でもそのことを悲しむ気持ちは、もうどこかにいってしまった。たまに彼らのことを思い出したときなんかに、胸がちくりと痛むくらいで。
そんなわたくしには、この二人が感じている鮮やかな悲しみが、もう想像できなくなっていた。ただ、一心に祈っている二人の横顔を見ていたら、胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
「……はじめまして、オリジェ。あたくちはフィオ。ルーセットにひろわれて、アリエスにめんどうみてもらってるの」
堂々と立ったまま、墓石に話しかける。
「あなたのかぞく、げんきにしてるわよ。だからあんしんして、ゆっくりねむりなさいね」
わたくしは、幽霊なんて信じていない。この数百年、一度だって出会ったことがない。それに、死者の声を聞く魔法なんて存在しない。
でも今は、二人の大切な女性であるオリジェに、語りかけたい気分だった。悲しげな顔をしているこの二人に、何かしてあげたかった、それだけ。
こんなことをして何になるのだろうと、そう思わなくもなかったけれど。
ところが、それを聞いた二人が同時に立ち上がった。そうしてなんと、両側からわたくしをぎゅっと抱きしめたのだ。
「……あのとき、あの荒野で君と出会えてよかったと、心からそう思うよ。きっと神様が、君を私たちのところに連れてきてくれたんだね」
「フィオ、どうかこれからも……ぼくたちとずっと、一緒にいてください」
二人はわたくしをしっかりと抱きしめたまま、そんなことを言っている。いくらなんでも、ちょっと大げさに喜びすぎではないだろうか。わたくしはただ、ちょっと亡き女性にあいさつしただけなのに。
でも、それだけこの二人は、胸の奥によどむ悲しみを分け合いたいと、そう思っていたのだろう。町の人たちに話したら、余計に心配されてしまうから、ずっと二人だけで抱えていた。きっと、そんなところだろう。
だからわたくしは、黙ってされるがままになっていた。自分を包み込む温もりに、安らぎととまどいを感じながら。
そんなふうに忙しく過ごしていたある日、わたくしとアリエスは二人でいつもの草原に来ていた。畑の世話をするために。
小川に近いところに、わたくしたちのものと同じような畑が、いくつもできている。先日押しかけてきた女性たちが作ったものだろう。
いや、それにしてはやけに数が多いから……噂を聞いた人たちも、畑づくりに挑戦してみたのかもしれない。
「はたけ、ふえたわね。みんな、むらさきのくさをうえていて……ふふっ、おもしろい」
「そうですね……何だか、申し訳ないです」
「もうしわけないって、なにが?」
「だって、あの草が食べられることも、育て方も、全部きみが教えてくれたことですから……」
「ああ、そんなことをきにしてたの。いいのよ、あたくち、めだちたくないから」
そう言ったら、アリエスがものすごく複雑そうな顔になった。ちょっと何よ、その表情。
「……物知りで、魔法も得意で……目立ちたくないってほうが、無理があるような……」
「それでも、ぜったいにめだちたくないの。あたくちはあくまでも、ふつうのこども。いいわね?」
「ええ、きみがそう言うのなら、ぼくも努力します。……でも、結局、どこかで目立ってしまう気がするんですが……」
複雑な顔のアリエスに、さらに言い返そうと口を開きかける。そのとき、元気な足音がいくつも近づいてくるのが聞こえてきた。




