雪の花嫁と千年の誓い
世界の果て、永遠に雪が降り続ける地――白霧の谷。
そこに暮らす雪の民たちの間には、古くから伝わる伝説があった。
千年前、この地に氷の災厄が訪れた時、ひとりの王がその身を犠牲にして世界を救った。
彼は氷の呪いを封じるため、自らもまた氷の棺に閉じ込められたのだと。
そして、民たちは誓った。
王が目覚めるとき、彼に“花嫁”を捧げることを――。
***
ユナは、純白の婚礼衣装に身を包まれていた。
少女というには幼さが残り、大人というにはまだ華奢すぎる。
それでも、村の長たちは口々に言った。
「王の花嫁として、ふさわしい」
ユナの金色の髪と、雪よりも白い肌。
それはこの地の誰よりも「雪の化身」に近いとされ、彼女が選ばれたのだった。
(嫌だ、怖い)
何度も心の中で呟いた。
けれど、それを口にすることは許されなかった。
王の目覚めは、この谷の未来に関わることだと。
断れば、村全体が滅びるかもしれないと。
ユナは、震える指先で薄布のヴェールを直した。
両親も、友人たちも、誰もが静かに彼女を見送るだけだった。
まるで、これが運命だと言わんばかりに。
白銀の道を歩くユナの背中に、重たい沈黙が降り積もっていく。
***
谷の中央、巨大な氷の神殿。
その中心には、氷でできた荘厳な玉座があり、その上には、眠るようにひとりの男が座していた。
彼が、氷の王――アスヴェル。
銀髪をなびかせ、整った顔立ちは、眠っているとは思えないほど美しかった。
だが、全身を包む氷は、人を寄せつけぬ冷気を放っている。
ユナは震えながら、玉座の前に進んだ。
手には、儀式のための小さな銀杯がある。
この杯に、自らの血を一滴垂らし、王に捧げる――それが、封印を解く鍵だった。
唇を噛みしめながら、ユナは指先に小さな刃をあてた。
滲んだ赤い雫が、銀杯に落ちる。
その瞬間。
神殿全体が、低く唸りをあげた。
氷がひび割れ、玉座の中心から光が溢れ出す。
「……っ!」
ユナは思わず後ずさった。
氷が砕け、飛び散り、やがて――
彼は、目を覚ました。
ゆっくりと、冷たい蒼い瞳がユナを捉える。
その視線は、まるで全てを見透かすように冷ややかで、どこか、底知れない孤独を湛えていた。
「……花嫁、か」
低く響く声。
それだけで、ユナの膝は自然に地面についた。
畏れと、本能的な敬意。
アスヴェルは、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
彼の一歩ごとに、足元の氷が音を立てて砕ける。
近づくたびに、肌が切れるような冷気が突き刺さる。
ユナは目を伏せ、震えながら待った。
(このまま……氷に閉ざされてしまうのかな)
そんな恐怖が胸を締めつけた。
だが、次の瞬間――
アスヴェルは、そっとユナの顎に手を添えた。
驚きに目を開けたユナに向かって、彼は言った。
「……怖れることはない。お前の命を奪うために目覚めたわけではない」
その言葉に、ユナの胸に微かな安堵が広がった。
だが、それと同時に、わからない疑問も芽生えた。
――この人は、いったい何者なのだろう?
千年前に封じられた“氷の王”。
その真実を、ユナはまだ知らなかった。
アスヴェルは、ユナの手を取ることも、抱きしめることもなかった。
彼の声も、触れ方も、まるで硝子細工のように繊細で、冷たかった。
だが、そこにあるのは冷酷さではなく――ある種の距離感、そして寂しさのようなものだった。
「名前は?」
「……ユナ、です」
答えながら、ユナは自分でも不思議だった。
身体は怖くて震えているのに、心は彼の問いかけに答えたいと思っている。
「ユナ。……覚えた」
アスヴェルはそのまま玉座に背を向け、広間の奥に歩いていった。
「来い」
その声は命令のようでいて、不思議と棘がなかった。
ユナは、ためらいながらも彼の後を追った。
***
神殿の奥にある居殿は、氷の柱と蒼白の光に包まれた、幻想のような空間だった。
中央には大きな氷の泉があり、その水面は空のように深い蒼を映していた。
アスヴェルはその傍らに立ち、静かに言った。
「千年。……この地に眠っていた」
「そんなに……」
「目覚めたのは、お前の血の契約のせいだ。
だが、それが“花嫁”としての意味を持つとは思っていない」
ユナは、少しだけ肩を強張らせた。
「……じゃあ、私はただ、封印を解く“鍵”でしかなかったんですか?」
問いかけたその声は、彼女自身でも驚くほど強かった。
アスヴェルは少しだけ、表情を動かした。
そして、ぽつりと呟く。
「それでも……目覚めた時、初めに見たのが、お前でよかったと思っている」
ユナの胸が、かすかに痛んだ。
この人は――孤独なんだ。
千年という時間、ずっと一人で、凍てついた世界の中にいた。
アスヴェルは泉の水をすくい上げ、その滴を指先から落とした。
「この世界は、変わったのか?」
「……え?」
「私は千年前、戦いの末に、自らを封印した。
けれど、世界の行く末は知らないままに眠った。……今のこの地に、“春”は来るのか?」
その問いに、ユナは答えることができなかった。
なぜなら、彼が封じられたこの谷には、いまだ一度も“春”が訪れたことがなかったから。
「ずっと、雪です。生まれたときから、ずっと白いまま」
その言葉に、アスヴェルの瞳が一瞬だけ陰を宿した。
「……そうか」
ユナは問いかけた。
「王さま……あなたは、なぜ封印されたんですか?」
アスヴェルはしばらく黙っていた。
だが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……それは、もう少し時が経てば話す」
それは拒絶ではなく、ただ“今は話せない”という静かな断りだった。
ユナはそれ以上聞かなかった。
それでも、彼の言葉の中に、どこかに真実と後悔が混じっていることを感じていた。
***
その夜、ユナは氷の寝台で眠れずにいた。
外は静かに雪が降っている。
アスヴェルの部屋は隣にあるはずだが、音も気配もまるで感じられない。
それでも、彼の存在は確かにこの神殿の中にあり、ユナの中に冷たい熱を残していた。
あの青い瞳。
あの言葉。
「……お前でよかった」
あれは、きっと――
初めて、“花嫁”としてではなく、“ユナ”として見てもらえた気がした。
それが嬉しいと感じた自分に、ユナは気づいてしまっていた。
神殿に暮らす日々は、静かで、どこか夢のようだった。
アスヴェルは決してユナに強いることはなく、干渉も少なかった。
だが、必要なときには言葉を交わし、時には食事を共にすることもあった。
氷の王――というには、あまりに人間的で、どこか痛々しいほどに孤独な存在。
その姿に、ユナは次第に心を惹かれていった。
ある夜、ユナは神殿の裏庭――氷の精霊が集まる場所に足を運んだ。
そこは氷の花が咲き、星明かりが反射して幻想的な輝きを放っている。
ふいに、耳元で誰かの声がささやいた。
『雪の娘よ。なぜ、氷の王に心を許す?』
空気が震え、白い蝶のような精霊たちが宙に舞った。
ユナは静かに答える。
「彼は……私をひとりの人間として見てくれる。冷たいけど、優しい人だって思うの」
すると、精霊たちの声が重なり合い、歌のように響いた。
『では、真実を知れ――氷の王、アスヴェルの罪を』
***
語られるのは、千年前の出来事。
アスヴェルは当時、王国を護るために氷の神の力を借りた。
だがその力は強大すぎて、周囲をも凍らせ、結果的に多くの命を奪ってしまった。
自らの過ちを悔い、アスヴェルは自らを封じることで、氷の神とその呪いを沈めたのだ。
『彼は世界を滅ぼそうとしたのではない。世界を守るために、自らを封印した。』
ユナは、その真実に言葉を失った。
彼の沈黙も、冷たさも、その根底には――深い罪と悔いがあった。
「……誰も、そのことを知らなかったの?」
『記録は消された。
残された者たちは、恐れと誤解の中で、“氷の王”を忌むべき存在として語り継いだ。』
ユナはそっと目を閉じた。
あの瞳に宿る静かな光。
そして、初めて自分の名を呼んだときの声。
それらすべてが、今、痛いほど胸に迫る。
(私は、彼を……救いたい)
それが、ユナの中で生まれたはじめての“自分の意志”だった。
***
その夜。
ユナは決意を胸に、アスヴェルのもとを訪れた。
氷の扉を開けると、彼は窓辺で雪を見ていた。
「ユナか」
「……話したいことがあるの」
彼は振り返る。
静かな視線の奥には、どこか覚悟のようなものが揺れていた。
「千年前……あなたは世界を守ろうとした」
その言葉に、アスヴェルの表情がわずかに揺れる。
「なぜ……それを」
「氷の精霊が、教えてくれたわ」
ユナは真っ直ぐに彼を見つめた。
「あなたは、罪を背負って眠りについて、それでもまた目覚めた。
なのに、誰にもその真実は伝わっていない」
「……伝える価値はない」
アスヴェルは静かに言った。
「言い訳にしかならない。あのとき、私の力は、多くを傷つけた。
それが事実だ」
「でも、それだけじゃないでしょう」
ユナの声が震える。
「誰かを守るために、傷ついた人がいたって……それを、誰かがちゃんと知っていなきゃいけない!」
その言葉に、アスヴェルの目が見開かれた。
ユナは一歩、彼に近づく。
「私は……あなたと向き合いたい。契約とか運命とか、そういうのじゃなくて、私自身の意志で」
アスヴェルは、初めて言葉を失ったように黙り込んだ。
そして、ぽつりと――
「……それは、とても、恐ろしい願いだ」
それでも、ユナは微笑んで言った。
「私はもう、怖くない」
その瞬間、外の雪が一瞬だけ、止まったように見えた。
翌朝、雪の谷は静かだった。
神殿の広間では、ユナが白銀の衣装を纏い、再び玉座の前に立っていた。
だが、前回とは違う。
今回は――自分の意志で、ここにいる。
村の者たちは誰もいなかった。
これは、ユナとアスヴェル、二人だけの誓いの場だった。
「本当にいいのか」
玉座から降りたアスヴェルが、静かに言った。
「これは、契約でも義務でもない。お前が望むなら、ここを去ってもいい」
ユナはそっと首を横に振った。
「私は、あなたと共に生きたいの」
真っ直ぐな瞳でそう告げるユナに、アスヴェルの表情がわずかに揺れる。
「私は、あなたの力が怖いとは思わない。
それよりも、あなたが千年の孤独に囚われていたことの方が――何倍も、悲しい」
その言葉は、アスヴェルの胸の奥に静かに響いた。
彼はゆっくりと手を差し伸べた。
「ならば――」
ユナがそっと手を重ねる。
「この手を、今度こそ誰かを傷つけるためではなく、守るために使いたい」
その手は、冷たかった。
けれど、確かに震えていた。
自分が誰かの未来を選んでしまうことへの戸惑い。
それでも、この少女の覚悟は本物だった。
アスヴェルは、静かに笑った。
初めて、封印が解かれて以来、心からの微笑みだった。
「ようやく……“雪”が止む気がする」
その言葉に、ユナははっと空を仰いだ。
確かに――空から降り続いていた雪が、今、ゆっくりと止みかけている。
雲の切れ間から、淡い陽光が差し込んでいた。
「これは……」
「お前の選択が、谷に春を呼んだのだろう」
アスヴェルの手が、ユナの肩にそっと触れる。
その温もりは、まだ微かだったが――確かに、“冷たさ”ではなかった。
***
数日後。
雪の谷に伝えられた「氷の王の目覚め」は、静かに語り継がれ始めていた。
だがそこには、恐怖や忌避ではなく、“変化の予兆”が混じっていた。
ユナは神殿に留まり、アスヴェルと共に暮らす道を選んだ。
最初は戸惑いばかりだったが、少しずつ、互いの距離は縮まっていった。
「今日の雪は、少しやわらかいね」
窓の外を見ながらユナが呟くと、アスヴェルはそっと隣に立つ。
「あれは“粉雪”だ。春の気配が混じっている」
「ふふ、あなたがそんな言葉を知ってたなんて、ちょっと驚き」
「千年前にも、春はあったからな。……ほんのわずかだが、覚えている」
ユナはそんな彼の言葉に、そっと笑った。
この人の“千年”を、これから少しずつ取り戻していくのだと、そう思った。
***
そして、雪解けのはじまりと共に――
ユナは静かに、こう誓った。
「私は、あなたの花嫁でよかった。
あなたの“春”になるために、生まれてきたのかもしれない」
アスヴェルはその言葉に、何も言わず、ただ一歩近づいた。
そして、彼女の額に、そっと唇を落とす。
「……我が誓いを、お前に。
千年を越えて、私はようやく、この手を温める意味を知った」
氷の王と、雪の花嫁。
その手の中に芽吹いたものは――
まだ名もない、小さな春の予兆だった。
谷に、少しずつ春の兆しが訪れていた。
吹きすさぶ雪は次第に穏やかになり、氷の神殿を囲んでいた凍土にも、ぽつぽつと緑の芽が顔を出し始めている。
千年もの間、完全に閉ざされていた世界。
けれど、アスヴェルの目覚めと、ユナの選択によって、その歯車は確かに動き出していた。
***
神殿の庭先で、ユナは新しく芽吹いた草を両手で包み込んでいた。
「こんなに早く、芽が出るなんて……すごい」
「この地に流れていた氷の気が弱まっている。お前が来てから、ずっと」
後ろから声がした。振り向けば、アスヴェルが静かに立っていた。
以前よりもその気配は穏やかで、服装も氷の装束から、白銀を基調とした軽装へと変わっていた。
まるで、彼自身の氷も、少しずつ解けてきているようだった。
「……やっぱり、春は来るんですね」
「お前が、春を連れてきたのだ。ユナ」
不意に、照れくさくなって目を逸らしたユナに、アスヴェルはほんの少し口元を緩めた。
「雪の娘よ。世界を見に行く気はあるか?」
「えっ……?」
ユナは目を丸くする。
「この谷の外へ? でも、私たちの村は――」
「この地に閉じこもっていても、過去は変わらない。
私が目覚めたという噂は、きっと外の世界にも届いているはずだ」
アスヴェルの視線は、遠くを見つめていた。
「かつての王が蘇ったと知れば、歓迎されるばかりではないだろう。
……だが、それでも歩み出さなければ、真実は何も伝わらない」
彼の声は、静かでありながら確かな決意に満ちていた。
ユナはしばらく黙っていたが、やがて頷く。
「私も行きたい。……あなたと一緒に、この目で世界を見たい」
その言葉に、アスヴェルはわずかに目を細めた。
「ならば、準備をしよう。
この氷の谷に、私たちを縛るものはもうない」
***
旅立ちの日。
神殿の大扉が開き、冷たい空気と共に、新しい風が吹き込んだ。
ユナは旅装を身に纏い、背には精霊の加護を受けた小さな杖を背負っていた。
アスヴェルは銀の長衣を翻し、右腰に氷の剣を帯びている。
雪の谷の住民たちは戸惑いながらも、ふたりの背中を黙って見送った。
かつては“捧げられる花嫁”だったユナ。
今は、“自ら選んだ伴侶”として、王と並び立っている。
神殿の階段を下りながら、ユナはそっと呟いた。
「……こんなふうに、あなたと肩を並べて外に出られるなんて、思わなかった」
アスヴェルは歩きながら、ふと小さく笑った。
「私もだ」
「え?」
「誰かとこうして旅をする日が来るなど、一度も想像したことはなかった。
けれど……悪くはない」
その穏やかな声に、ユナは思わず頬を赤らめた。
目の前には、果てしなく広がる銀と緑の世界。
この先にどんな困難が待ち受けていようとも――
ふたりはもう、同じ春の道を歩き出していた。
旅の道中、ふたりは幾つもの村を訪れた。
谷を越え、峠を抜け、雪解けが始まった草原や、川沿いの小さな集落を巡るたびに、ユナの目には新しい色が映った。
だが――世界は、彼らにとって優しいばかりではなかった。
「まさか……氷の王が復活したって、あの伝説は本当だったのか」
「うちの井戸が凍ったのは、そのせいじゃないのか?」
「このままじゃ、また世界が凍るぞ……!」
村人たちの視線は、アスヴェルに向けられるたびに冷たくなった。
かつての伝説は「世界を守った王」ではなく、「世界を凍らせた魔王」として語り継がれていたからだ。
彼が歩くだけで、空気は凍りつき、農夫たちは道を避け、子どもは泣き出した。
ユナは歯を食いしばった。
(どうして……彼はこんなに静かで、優しい人なのに……)
だが、アスヴェルはそのたびに、何も言わずに前を向いた。
言い返すこともせず、ただ、すべてを受け入れるように。
それが、余計にユナの胸を締めつけた。
***
ある晩、ふたりは小さな避難所の焚き火を囲んでいた。
ユナは薪をくべながら、ようやく口を開いた。
「あなたは、何も言わないのね」
「言っても、意味がない」
アスヴェルの声は、火の揺らめきの中でも変わらず静かだった。
「彼らにとって、私は“災い”の象徴だ。
千年という時間は、すべての真実を薄め、恐怖と嘘だけが残った」
「でも、伝えなきゃ変わらない」
「……そうかもしれない。だが、それは“誰が伝えるか”によって変わる」
ユナは顔を上げて見つめた。
「じゃあ、私が伝える」
その言葉に、アスヴェルの瞳がわずかに揺れた。
「私は、あなたと旅をして、あなたを知ってる。
私が声をあげれば、きっと誰かが耳を傾けてくれるはず」
アスヴェルはしばらく黙っていたが、やがて火を見つめたまま呟いた。
「……お前は、強いな」
ユナは苦笑した。
「本当はすごく怖がりよ。あなたがいるから、強くなれるだけ」
その言葉に、アスヴェルはほんの少しだけ微笑んだ。
千年もの孤独を凍らせていた心に、ほんのひとしずくの春が落ちた瞬間だった。
***
それからの旅で、ユナは変わっていった。
各地の集会所で、あるいは村の広場で、彼女は声をあげるようになった。
「氷の王は、世界を凍らせるために目覚めたんじゃありません。
世界を守るために、自分を封じた人なんです!」
最初は誰も耳を傾けなかった。
だが、彼女の声が真っ直ぐで、濁りがないことに気づいた人々は、少しずつ話を聞くようになった。
そして、ある村では、年老いた語り部がぽつりと呟いた。
「……そういえば、私が子どもの頃に聞いた昔話では、氷の王は“英雄”だった気がする」
その言葉が、風のように広がっていった。
少しずつ、人々の目が変わっていく。
恐れから、興味へ。
敵意から、好奇へ。
変わるのは世界ではない。人の心なのだ。
***
ある日の夜。
ユナは星空を見上げながら、アスヴェルに言った。
「ねえ……もしも全部終わったら、どこに住みたい?」
アスヴェルはしばらく空を見上げて、ぽつりと呟いた。
「春のある場所に」
「ふふ、それなら私も一緒に」
ユナは笑い、そっと彼の腕に寄り添った。
「私ね、ずっと信じてたの。
あなたの瞳の奥には、誰よりも深い“優しさ”があるって」
アスヴェルは何も言わなかった。
ただ、そっとユナの手を取った。
その手は、もはや“氷”ではなかった。
確かな温もりが、そこに宿っていた。
それは、何の前触れもなく訪れた。
ある村を訪れた夜、野営していたユナたちのもとに、鋭い風が吹き込んだ。
空が凍りつくような異様な気配――そして、氷をも裂く魔力の奔流。
「来たか」
アスヴェルはすぐに立ち上がり、ユナを背後に庇った。
木々の向こうから現れたのは、全身黒装束の男だった。
顔の半分を仮面で覆い、その目には深い怨念が宿っている。
「……氷の王よ。よくも、目覚めてくれたな」
アスヴェルは剣に手をかけた。
「……“氷狩り”か」
その言葉に、ユナの背筋が凍る。
氷狩り――それは、千年前の戦争でアスヴェルと敵対した古代の魔術師一族。
王の力を恐れ、再封印、あるいは抹殺を狙って動く残党たち。
男は、ゆっくりと右手を上げた。
その掌には、禍々しい魔印が刻まれている。
「お前の力は、再び世界を滅ぼす。今ここで、永遠に沈んでもらおう」
「ユナ、下がっていろ」
アスヴェルが剣を抜くと、冷気が辺りに走る。
それに対抗するように、男の術が夜空に赤黒く広がる。
火と氷がぶつかり合い、森が軋むように悲鳴を上げた。
***
戦いは激しかった。
アスヴェルは確かに強かった。
だが、それは全盛の力ではなかった。千年の封印の代償は大きく、彼の力はまだ不安定なままだ。
押され始めたアスヴェルの肩を、火炎が焼いた。
「っ……!」
「アスヴェル!」
ユナは叫び、足元の氷を叩いた。
自分にできることはないのか。
このまま、ただ彼が傷つくのを見ているだけなのか。
(私は……もう、あの日の“捧げられた花嫁”じゃない)
ユナは胸の前に両手をかざした。
彼女が身につけていたのは、雪の巫女にだけ受け継がれる“氷精の指輪”。
それは、精霊と心を通わせるための証。
「お願い……精霊たち。アスヴェルを、守って!」
叫びと同時に、彼女の身体から白い光があふれた。
雪の精霊たちが舞い、空気が澄んでいく。
そして次の瞬間――
氷の盾が、アスヴェルを包んだ。
炎の魔術がそれにぶつかり、弾け飛ぶ。
「何――ッ!」
氷狩りの男が驚愕する間に、アスヴェルは跳躍した。
ユナの魔力に支えられ、彼の剣が蒼い閃光となって空を裂く。
仮面の男の術式が砕け、赤い閃きと共に地へ叩きつけられる。
爆発のあと、森は静寂を取り戻した。
***
戦いが終わったあと、アスヴェルはユナのもとに駆け寄った。
「……無事か」
「うん……あなたは?」
アスヴェルは頷いた。
「助けられたな。まさか、精霊の加護を呼び出せるとは」
ユナは息を整えながら、小さく笑った。
「だって、あなたを守りたかったの。私だけじゃ守られてばっかりなんて、嫌だった」
アスヴェルはその言葉に、しばらく何も言えず――
やがて、そっと彼女の頭に手を置いた。
「……ありがとう、ユナ」
彼の手は、もはや“氷”ではなかった。
この世界に、確かな“春”を刻もうとする人の、温もりそのものだった。
戦いの翌朝、ユナは目を覚ますと、あまりの静けさに息をのんだ。
鳥のさえずり。
風の音。
そして――雪が、降っていない。
神殿を出てから、初めて見る光景だった。
「……止んでる」
外に出ると、アスヴェルが丘の上に立っていた。
朝日を背に、その白銀の髪が淡い金に照らされている。
ユナは静かに隣に立った。
「あなたの中の氷も……少し、溶けたのかな?」
アスヴェルは答えず、ただ空を仰いでいた。
「千年前、私はこの空を見て世界を封じた。
もう一度、春を迎える資格があるとは思っていなかった」
彼の声には、静かな揺らぎがあった。
ユナはそんな彼の手を、そっと握った。
「もう、“資格”なんて言わないで。
私は、あなたと一緒にこの世界を見たかった。だから来たの」
「……ユナ」
「あなたがどんな過去を背負っていても、私は今のあなたを選ぶよ」
その言葉に、アスヴェルは初めて、心の奥底から笑った。
それはかつて氷に閉ざされた王が、ようやく見せた“人”としての笑顔だった。
***
その後、ふたりは旅を続けた。
訪れる先々で、ユナは語った。
氷の王の真実を。
彼の孤独を、そして悔いと願いを。
初めは耳を傾けなかった人々も、やがて気づいていった。
“彼女の言葉”が、誰かを救おうとする本物であることに。
そして、ある日。
一人の村人の少女が、ユナに小さな花を差し出した。
「これ、うちのおばあちゃんが育ててた春の花。……王さまに、あげて」
ユナは花を受け取り、アスヴェルのもとへ駆けた。
「はい、春が来たよ」
アスヴェルはその花を手に取り、じっと見つめた。
「……ああ、本当に」
氷の王の手に、春の花が咲いた。
それは、千年を越えて初めて訪れた、希望のしるしだった。
***
物語の終わりに、ふたりは再び、雪の谷を訪れた。
神殿の扉を開けると、そこにはかつてと違う光が差し込んでいた。
雪の中に、芽吹く草。
氷の柱に咲く、小さな蕾。
「春が、ここにも来たね」
「……お前が連れてきた」
アスヴェルはそっとユナの手を取った。
そして、神殿の中央で、静かに跪く。
「雪の娘、ユナ。
私は氷の王としてではなく、ただひとりの人間として、お前に誓う。
この先、いかなる時も、共に生きよう」
ユナは涙をにじませながら、微笑んだ。
「私も、あなたに誓う。
春の名のもとに――この手を、もう決して離さない」
ふたりの誓いが交わされたその瞬間、
神殿の天井から、ほんの少しだけ、温かな光が差し込んだ。
雪解けの時は、もうすぐそこに来ていた。