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雪の花嫁と千年の誓い


 世界の果て、永遠に雪が降り続ける地――白霧の谷。


 そこに暮らす雪の民たちの間には、古くから伝わる伝説があった。


 千年前、この地に氷の災厄が訪れた時、ひとりの王がその身を犠牲にして世界を救った。

 彼は氷の呪いを封じるため、自らもまた氷の棺に閉じ込められたのだと。


 そして、民たちは誓った。

 王が目覚めるとき、彼に“花嫁”を捧げることを――。


***


 ユナは、純白の婚礼衣装に身を包まれていた。


 少女というには幼さが残り、大人というにはまだ華奢すぎる。

 それでも、村の長たちは口々に言った。


「王の花嫁として、ふさわしい」


 ユナの金色の髪と、雪よりも白い肌。

 それはこの地の誰よりも「雪の化身」に近いとされ、彼女が選ばれたのだった。


(嫌だ、怖い)


 何度も心の中で呟いた。

 けれど、それを口にすることは許されなかった。


 王の目覚めは、この谷の未来に関わることだと。

 断れば、村全体が滅びるかもしれないと。


 ユナは、震える指先で薄布のヴェールを直した。


 両親も、友人たちも、誰もが静かに彼女を見送るだけだった。

 まるで、これが運命だと言わんばかりに。


 白銀の道を歩くユナの背中に、重たい沈黙が降り積もっていく。


***


 谷の中央、巨大な氷の神殿。


 その中心には、氷でできた荘厳な玉座があり、その上には、眠るようにひとりの男が座していた。


 彼が、氷の王――アスヴェル。


 銀髪をなびかせ、整った顔立ちは、眠っているとは思えないほど美しかった。


 だが、全身を包む氷は、人を寄せつけぬ冷気を放っている。


 ユナは震えながら、玉座の前に進んだ。


 手には、儀式のための小さな銀杯がある。


 この杯に、自らの血を一滴垂らし、王に捧げる――それが、封印を解く鍵だった。


 唇を噛みしめながら、ユナは指先に小さな刃をあてた。


 滲んだ赤い雫が、銀杯に落ちる。


 その瞬間。


 神殿全体が、低く唸りをあげた。


 氷がひび割れ、玉座の中心から光が溢れ出す。


「……っ!」


 ユナは思わず後ずさった。


 氷が砕け、飛び散り、やがて――


 彼は、目を覚ました。


 ゆっくりと、冷たい蒼い瞳がユナを捉える。


 その視線は、まるで全てを見透かすように冷ややかで、どこか、底知れない孤独を湛えていた。


「……花嫁、か」


 低く響く声。


 それだけで、ユナの膝は自然に地面についた。


 畏れと、本能的な敬意。


 アスヴェルは、ゆっくりと玉座から立ち上がった。


 彼の一歩ごとに、足元の氷が音を立てて砕ける。


 近づくたびに、肌が切れるような冷気が突き刺さる。


 ユナは目を伏せ、震えながら待った。


(このまま……氷に閉ざされてしまうのかな)


 そんな恐怖が胸を締めつけた。


 だが、次の瞬間――


 アスヴェルは、そっとユナの顎に手を添えた。


 驚きに目を開けたユナに向かって、彼は言った。


「……怖れることはない。お前の命を奪うために目覚めたわけではない」


 その言葉に、ユナの胸に微かな安堵が広がった。


 だが、それと同時に、わからない疑問も芽生えた。


 ――この人は、いったい何者なのだろう?


 千年前に封じられた“氷の王”。


 その真実を、ユナはまだ知らなかった。


 アスヴェルは、ユナの手を取ることも、抱きしめることもなかった。


 彼の声も、触れ方も、まるで硝子細工のように繊細で、冷たかった。

 だが、そこにあるのは冷酷さではなく――ある種の距離感、そして寂しさのようなものだった。


「名前は?」


「……ユナ、です」


 答えながら、ユナは自分でも不思議だった。

 身体は怖くて震えているのに、心は彼の問いかけに答えたいと思っている。


「ユナ。……覚えた」


 アスヴェルはそのまま玉座に背を向け、広間の奥に歩いていった。


「来い」


 その声は命令のようでいて、不思議と棘がなかった。


 ユナは、ためらいながらも彼の後を追った。


***


 神殿の奥にある居殿は、氷の柱と蒼白の光に包まれた、幻想のような空間だった。


 中央には大きな氷の泉があり、その水面は空のように深い蒼を映していた。


 アスヴェルはその傍らに立ち、静かに言った。


「千年。……この地に眠っていた」


「そんなに……」


「目覚めたのは、お前の血の契約のせいだ。

 だが、それが“花嫁”としての意味を持つとは思っていない」


 ユナは、少しだけ肩を強張らせた。


「……じゃあ、私はただ、封印を解く“鍵”でしかなかったんですか?」


 問いかけたその声は、彼女自身でも驚くほど強かった。


 アスヴェルは少しだけ、表情を動かした。


 そして、ぽつりと呟く。


「それでも……目覚めた時、初めに見たのが、お前でよかったと思っている」


 ユナの胸が、かすかに痛んだ。


 この人は――孤独なんだ。

 千年という時間、ずっと一人で、凍てついた世界の中にいた。


 アスヴェルは泉の水をすくい上げ、その滴を指先から落とした。


「この世界は、変わったのか?」


「……え?」


「私は千年前、戦いの末に、自らを封印した。

 けれど、世界の行く末は知らないままに眠った。……今のこの地に、“春”は来るのか?」


 その問いに、ユナは答えることができなかった。


 なぜなら、彼が封じられたこの谷には、いまだ一度も“春”が訪れたことがなかったから。


「ずっと、雪です。生まれたときから、ずっと白いまま」


 その言葉に、アスヴェルの瞳が一瞬だけ陰を宿した。


「……そうか」


 ユナは問いかけた。


「王さま……あなたは、なぜ封印されたんですか?」


 アスヴェルはしばらく黙っていた。


 だが、やがてゆっくりと口を開いた。


「……それは、もう少し時が経てば話す」


 それは拒絶ではなく、ただ“今は話せない”という静かな断りだった。


 ユナはそれ以上聞かなかった。


 それでも、彼の言葉の中に、どこかに真実と後悔が混じっていることを感じていた。


***


 その夜、ユナは氷の寝台で眠れずにいた。


 外は静かに雪が降っている。


 アスヴェルの部屋は隣にあるはずだが、音も気配もまるで感じられない。


 それでも、彼の存在は確かにこの神殿の中にあり、ユナの中に冷たい熱を残していた。


 あの青い瞳。

 あの言葉。


「……お前でよかった」


 あれは、きっと――


 初めて、“花嫁”としてではなく、“ユナ”として見てもらえた気がした。


 それが嬉しいと感じた自分に、ユナは気づいてしまっていた。


 神殿に暮らす日々は、静かで、どこか夢のようだった。


 アスヴェルは決してユナに強いることはなく、干渉も少なかった。

 だが、必要なときには言葉を交わし、時には食事を共にすることもあった。


 氷の王――というには、あまりに人間的で、どこか痛々しいほどに孤独な存在。


 その姿に、ユナは次第に心を惹かれていった。


 ある夜、ユナは神殿の裏庭――氷の精霊が集まる場所に足を運んだ。


 そこは氷の花が咲き、星明かりが反射して幻想的な輝きを放っている。


 ふいに、耳元で誰かの声がささやいた。


『雪の娘よ。なぜ、氷の王に心を許す?』


 空気が震え、白い蝶のような精霊たちが宙に舞った。


 ユナは静かに答える。


「彼は……私をひとりの人間として見てくれる。冷たいけど、優しい人だって思うの」


 すると、精霊たちの声が重なり合い、歌のように響いた。


『では、真実を知れ――氷の王、アスヴェルの罪を』


***


 語られるのは、千年前の出来事。


 アスヴェルは当時、王国を護るために氷の神の力を借りた。


 だがその力は強大すぎて、周囲をも凍らせ、結果的に多くの命を奪ってしまった。


 自らの過ちを悔い、アスヴェルは自らを封じることで、氷の神とその呪いを沈めたのだ。


『彼は世界を滅ぼそうとしたのではない。世界を守るために、自らを封印した。』


 ユナは、その真実に言葉を失った。


 彼の沈黙も、冷たさも、その根底には――深い罪と悔いがあった。


「……誰も、そのことを知らなかったの?」


『記録は消された。

 残された者たちは、恐れと誤解の中で、“氷の王”を忌むべき存在として語り継いだ。』


 ユナはそっと目を閉じた。


 あの瞳に宿る静かな光。

 そして、初めて自分の名を呼んだときの声。


 それらすべてが、今、痛いほど胸に迫る。


(私は、彼を……救いたい)


 それが、ユナの中で生まれたはじめての“自分の意志”だった。


***


 その夜。


 ユナは決意を胸に、アスヴェルのもとを訪れた。


 氷の扉を開けると、彼は窓辺で雪を見ていた。


「ユナか」


「……話したいことがあるの」


 彼は振り返る。

 静かな視線の奥には、どこか覚悟のようなものが揺れていた。


「千年前……あなたは世界を守ろうとした」


 その言葉に、アスヴェルの表情がわずかに揺れる。


「なぜ……それを」


「氷の精霊が、教えてくれたわ」


 ユナは真っ直ぐに彼を見つめた。


「あなたは、罪を背負って眠りについて、それでもまた目覚めた。

 なのに、誰にもその真実は伝わっていない」


「……伝える価値はない」


 アスヴェルは静かに言った。


「言い訳にしかならない。あのとき、私の力は、多くを傷つけた。

 それが事実だ」


「でも、それだけじゃないでしょう」


 ユナの声が震える。


「誰かを守るために、傷ついた人がいたって……それを、誰かがちゃんと知っていなきゃいけない!」


 その言葉に、アスヴェルの目が見開かれた。


 ユナは一歩、彼に近づく。


「私は……あなたと向き合いたい。契約とか運命とか、そういうのじゃなくて、私自身の意志で」


 アスヴェルは、初めて言葉を失ったように黙り込んだ。


 そして、ぽつりと――


「……それは、とても、恐ろしい願いだ」


 それでも、ユナは微笑んで言った。


「私はもう、怖くない」


 その瞬間、外の雪が一瞬だけ、止まったように見えた。


 翌朝、雪の谷は静かだった。


 神殿の広間では、ユナが白銀の衣装を纏い、再び玉座の前に立っていた。

 だが、前回とは違う。


 今回は――自分の意志で、ここにいる。


 村の者たちは誰もいなかった。

 これは、ユナとアスヴェル、二人だけの誓いの場だった。


「本当にいいのか」


 玉座から降りたアスヴェルが、静かに言った。


「これは、契約でも義務でもない。お前が望むなら、ここを去ってもいい」


 ユナはそっと首を横に振った。


「私は、あなたと共に生きたいの」


 真っ直ぐな瞳でそう告げるユナに、アスヴェルの表情がわずかに揺れる。


「私は、あなたの力が怖いとは思わない。

 それよりも、あなたが千年の孤独に囚われていたことの方が――何倍も、悲しい」


 その言葉は、アスヴェルの胸の奥に静かに響いた。


 彼はゆっくりと手を差し伸べた。


「ならば――」


 ユナがそっと手を重ねる。


「この手を、今度こそ誰かを傷つけるためではなく、守るために使いたい」


 その手は、冷たかった。


 けれど、確かに震えていた。


 自分が誰かの未来を選んでしまうことへの戸惑い。

 それでも、この少女の覚悟は本物だった。


 アスヴェルは、静かに笑った。


 初めて、封印が解かれて以来、心からの微笑みだった。


「ようやく……“雪”が止む気がする」


 その言葉に、ユナははっと空を仰いだ。


 確かに――空から降り続いていた雪が、今、ゆっくりと止みかけている。


 雲の切れ間から、淡い陽光が差し込んでいた。


「これは……」


「お前の選択が、谷に春を呼んだのだろう」


 アスヴェルの手が、ユナの肩にそっと触れる。


 その温もりは、まだ微かだったが――確かに、“冷たさ”ではなかった。


***


 数日後。


 雪の谷に伝えられた「氷の王の目覚め」は、静かに語り継がれ始めていた。


 だがそこには、恐怖や忌避ではなく、“変化の予兆”が混じっていた。


 ユナは神殿に留まり、アスヴェルと共に暮らす道を選んだ。


 最初は戸惑いばかりだったが、少しずつ、互いの距離は縮まっていった。


「今日の雪は、少しやわらかいね」


 窓の外を見ながらユナが呟くと、アスヴェルはそっと隣に立つ。


「あれは“粉雪”だ。春の気配が混じっている」


「ふふ、あなたがそんな言葉を知ってたなんて、ちょっと驚き」


「千年前にも、春はあったからな。……ほんのわずかだが、覚えている」


 ユナはそんな彼の言葉に、そっと笑った。


 この人の“千年”を、これから少しずつ取り戻していくのだと、そう思った。


***


 そして、雪解けのはじまりと共に――


 ユナは静かに、こう誓った。


「私は、あなたの花嫁でよかった。

 あなたの“春”になるために、生まれてきたのかもしれない」


 アスヴェルはその言葉に、何も言わず、ただ一歩近づいた。


 そして、彼女の額に、そっと唇を落とす。


「……我が誓いを、お前に。

 千年を越えて、私はようやく、この手を温める意味を知った」


 氷の王と、雪の花嫁。


 その手の中に芽吹いたものは――


 まだ名もない、小さな春の予兆だった。


 谷に、少しずつ春の兆しが訪れていた。


 吹きすさぶ雪は次第に穏やかになり、氷の神殿を囲んでいた凍土にも、ぽつぽつと緑の芽が顔を出し始めている。


 千年もの間、完全に閉ざされていた世界。

 けれど、アスヴェルの目覚めと、ユナの選択によって、その歯車は確かに動き出していた。


***


 神殿の庭先で、ユナは新しく芽吹いた草を両手で包み込んでいた。


「こんなに早く、芽が出るなんて……すごい」


「この地に流れていた氷の気が弱まっている。お前が来てから、ずっと」


 後ろから声がした。振り向けば、アスヴェルが静かに立っていた。


 以前よりもその気配は穏やかで、服装も氷の装束から、白銀を基調とした軽装へと変わっていた。

 まるで、彼自身の氷も、少しずつ解けてきているようだった。


「……やっぱり、春は来るんですね」


「お前が、春を連れてきたのだ。ユナ」


 不意に、照れくさくなって目を逸らしたユナに、アスヴェルはほんの少し口元を緩めた。


「雪の娘よ。世界を見に行く気はあるか?」


「えっ……?」


 ユナは目を丸くする。


「この谷の外へ? でも、私たちの村は――」


「この地に閉じこもっていても、過去は変わらない。

 私が目覚めたという噂は、きっと外の世界にも届いているはずだ」


 アスヴェルの視線は、遠くを見つめていた。


「かつての王が蘇ったと知れば、歓迎されるばかりではないだろう。

 ……だが、それでも歩み出さなければ、真実は何も伝わらない」


 彼の声は、静かでありながら確かな決意に満ちていた。


 ユナはしばらく黙っていたが、やがて頷く。


「私も行きたい。……あなたと一緒に、この目で世界を見たい」


 その言葉に、アスヴェルはわずかに目を細めた。


「ならば、準備をしよう。

 この氷の谷に、私たちを縛るものはもうない」


***


 旅立ちの日。


 神殿の大扉が開き、冷たい空気と共に、新しい風が吹き込んだ。


 ユナは旅装を身に纏い、背には精霊の加護を受けた小さな杖を背負っていた。


 アスヴェルは銀の長衣を翻し、右腰に氷の剣を帯びている。


 雪の谷の住民たちは戸惑いながらも、ふたりの背中を黙って見送った。


 かつては“捧げられる花嫁”だったユナ。

 今は、“自ら選んだ伴侶”として、王と並び立っている。


 神殿の階段を下りながら、ユナはそっと呟いた。


「……こんなふうに、あなたと肩を並べて外に出られるなんて、思わなかった」


 アスヴェルは歩きながら、ふと小さく笑った。


「私もだ」


「え?」


「誰かとこうして旅をする日が来るなど、一度も想像したことはなかった。

 けれど……悪くはない」


 その穏やかな声に、ユナは思わず頬を赤らめた。


 目の前には、果てしなく広がる銀と緑の世界。


 この先にどんな困難が待ち受けていようとも――


 ふたりはもう、同じ春の道を歩き出していた。


 旅の道中、ふたりは幾つもの村を訪れた。


 谷を越え、峠を抜け、雪解けが始まった草原や、川沿いの小さな集落を巡るたびに、ユナの目には新しい色が映った。


 だが――世界は、彼らにとって優しいばかりではなかった。


「まさか……氷の王が復活したって、あの伝説は本当だったのか」


「うちの井戸が凍ったのは、そのせいじゃないのか?」


「このままじゃ、また世界が凍るぞ……!」


 村人たちの視線は、アスヴェルに向けられるたびに冷たくなった。


 かつての伝説は「世界を守った王」ではなく、「世界を凍らせた魔王」として語り継がれていたからだ。


 彼が歩くだけで、空気は凍りつき、農夫たちは道を避け、子どもは泣き出した。


 ユナは歯を食いしばった。


(どうして……彼はこんなに静かで、優しい人なのに……)


 だが、アスヴェルはそのたびに、何も言わずに前を向いた。


 言い返すこともせず、ただ、すべてを受け入れるように。


 それが、余計にユナの胸を締めつけた。


***


 ある晩、ふたりは小さな避難所の焚き火を囲んでいた。


 ユナは薪をくべながら、ようやく口を開いた。


「あなたは、何も言わないのね」


「言っても、意味がない」


 アスヴェルの声は、火の揺らめきの中でも変わらず静かだった。


「彼らにとって、私は“災い”の象徴だ。

 千年という時間は、すべての真実を薄め、恐怖と嘘だけが残った」


「でも、伝えなきゃ変わらない」


「……そうかもしれない。だが、それは“誰が伝えるか”によって変わる」


 ユナは顔を上げて見つめた。


「じゃあ、私が伝える」


 その言葉に、アスヴェルの瞳がわずかに揺れた。


「私は、あなたと旅をして、あなたを知ってる。

 私が声をあげれば、きっと誰かが耳を傾けてくれるはず」


 アスヴェルはしばらく黙っていたが、やがて火を見つめたまま呟いた。


「……お前は、強いな」


 ユナは苦笑した。


「本当はすごく怖がりよ。あなたがいるから、強くなれるだけ」


 その言葉に、アスヴェルはほんの少しだけ微笑んだ。


 千年もの孤独を凍らせていた心に、ほんのひとしずくの春が落ちた瞬間だった。


***


 それからの旅で、ユナは変わっていった。


 各地の集会所で、あるいは村の広場で、彼女は声をあげるようになった。


「氷の王は、世界を凍らせるために目覚めたんじゃありません。

 世界を守るために、自分を封じた人なんです!」


 最初は誰も耳を傾けなかった。


 だが、彼女の声が真っ直ぐで、濁りがないことに気づいた人々は、少しずつ話を聞くようになった。


 そして、ある村では、年老いた語り部がぽつりと呟いた。


「……そういえば、私が子どもの頃に聞いた昔話では、氷の王は“英雄”だった気がする」


 その言葉が、風のように広がっていった。


 少しずつ、人々の目が変わっていく。


 恐れから、興味へ。

 敵意から、好奇へ。


 変わるのは世界ではない。人の心なのだ。


***


 ある日の夜。


 ユナは星空を見上げながら、アスヴェルに言った。


「ねえ……もしも全部終わったら、どこに住みたい?」


 アスヴェルはしばらく空を見上げて、ぽつりと呟いた。


「春のある場所に」


「ふふ、それなら私も一緒に」


 ユナは笑い、そっと彼の腕に寄り添った。


「私ね、ずっと信じてたの。

 あなたの瞳の奥には、誰よりも深い“優しさ”があるって」


 アスヴェルは何も言わなかった。


 ただ、そっとユナの手を取った。


 その手は、もはや“氷”ではなかった。


 確かな温もりが、そこに宿っていた。


 それは、何の前触れもなく訪れた。


 ある村を訪れた夜、野営していたユナたちのもとに、鋭い風が吹き込んだ。


 空が凍りつくような異様な気配――そして、氷をも裂く魔力の奔流。


「来たか」


 アスヴェルはすぐに立ち上がり、ユナを背後に庇った。


 木々の向こうから現れたのは、全身黒装束の男だった。

 顔の半分を仮面で覆い、その目には深い怨念が宿っている。


「……氷の王よ。よくも、目覚めてくれたな」


 アスヴェルは剣に手をかけた。


「……“氷狩り”か」


 その言葉に、ユナの背筋が凍る。


 氷狩り――それは、千年前の戦争でアスヴェルと敵対した古代の魔術師一族。

 王の力を恐れ、再封印、あるいは抹殺を狙って動く残党たち。


 男は、ゆっくりと右手を上げた。


 その掌には、禍々しい魔印が刻まれている。


「お前の力は、再び世界を滅ぼす。今ここで、永遠に沈んでもらおう」


「ユナ、下がっていろ」


 アスヴェルが剣を抜くと、冷気が辺りに走る。


 それに対抗するように、男の術が夜空に赤黒く広がる。


 火と氷がぶつかり合い、森が軋むように悲鳴を上げた。


***


 戦いは激しかった。


 アスヴェルは確かに強かった。

 だが、それは全盛の力ではなかった。千年の封印の代償は大きく、彼の力はまだ不安定なままだ。


 押され始めたアスヴェルの肩を、火炎が焼いた。


「っ……!」


「アスヴェル!」


 ユナは叫び、足元の氷を叩いた。


 自分にできることはないのか。

 このまま、ただ彼が傷つくのを見ているだけなのか。


(私は……もう、あの日の“捧げられた花嫁”じゃない)


 ユナは胸の前に両手をかざした。


 彼女が身につけていたのは、雪の巫女にだけ受け継がれる“氷精の指輪”。


 それは、精霊と心を通わせるための証。


「お願い……精霊たち。アスヴェルを、守って!」


 叫びと同時に、彼女の身体から白い光があふれた。


 雪の精霊たちが舞い、空気が澄んでいく。


 そして次の瞬間――


 氷の盾が、アスヴェルを包んだ。


 炎の魔術がそれにぶつかり、弾け飛ぶ。


「何――ッ!」


 氷狩りの男が驚愕する間に、アスヴェルは跳躍した。


 ユナの魔力に支えられ、彼の剣が蒼い閃光となって空を裂く。


 仮面の男の術式が砕け、赤い閃きと共に地へ叩きつけられる。


 爆発のあと、森は静寂を取り戻した。


***


 戦いが終わったあと、アスヴェルはユナのもとに駆け寄った。


「……無事か」


「うん……あなたは?」


 アスヴェルは頷いた。


「助けられたな。まさか、精霊の加護を呼び出せるとは」


 ユナは息を整えながら、小さく笑った。


「だって、あなたを守りたかったの。私だけじゃ守られてばっかりなんて、嫌だった」


 アスヴェルはその言葉に、しばらく何も言えず――


 やがて、そっと彼女の頭に手を置いた。


「……ありがとう、ユナ」


 彼の手は、もはや“氷”ではなかった。


 この世界に、確かな“春”を刻もうとする人の、温もりそのものだった。


 戦いの翌朝、ユナは目を覚ますと、あまりの静けさに息をのんだ。


 鳥のさえずり。

 風の音。

 そして――雪が、降っていない。


 神殿を出てから、初めて見る光景だった。


「……止んでる」


 外に出ると、アスヴェルが丘の上に立っていた。

 朝日を背に、その白銀の髪が淡い金に照らされている。


 ユナは静かに隣に立った。


「あなたの中の氷も……少し、溶けたのかな?」


 アスヴェルは答えず、ただ空を仰いでいた。


「千年前、私はこの空を見て世界を封じた。

 もう一度、春を迎える資格があるとは思っていなかった」


 彼の声には、静かな揺らぎがあった。


 ユナはそんな彼の手を、そっと握った。


「もう、“資格”なんて言わないで。

 私は、あなたと一緒にこの世界を見たかった。だから来たの」


「……ユナ」


「あなたがどんな過去を背負っていても、私は今のあなたを選ぶよ」


 その言葉に、アスヴェルは初めて、心の奥底から笑った。


 それはかつて氷に閉ざされた王が、ようやく見せた“人”としての笑顔だった。


***


 その後、ふたりは旅を続けた。


 訪れる先々で、ユナは語った。

 氷の王の真実を。

 彼の孤独を、そして悔いと願いを。


 初めは耳を傾けなかった人々も、やがて気づいていった。

 “彼女の言葉”が、誰かを救おうとする本物であることに。


 そして、ある日。


 一人の村人の少女が、ユナに小さな花を差し出した。


「これ、うちのおばあちゃんが育ててた春の花。……王さまに、あげて」


 ユナは花を受け取り、アスヴェルのもとへ駆けた。


「はい、春が来たよ」


 アスヴェルはその花を手に取り、じっと見つめた。


「……ああ、本当に」


 氷の王の手に、春の花が咲いた。

 それは、千年を越えて初めて訪れた、希望のしるしだった。


***


 物語の終わりに、ふたりは再び、雪の谷を訪れた。


 神殿の扉を開けると、そこにはかつてと違う光が差し込んでいた。


 雪の中に、芽吹く草。

 氷の柱に咲く、小さな蕾。


「春が、ここにも来たね」


「……お前が連れてきた」


 アスヴェルはそっとユナの手を取った。


 そして、神殿の中央で、静かに跪く。


「雪の娘、ユナ。

 私は氷の王としてではなく、ただひとりの人間として、お前に誓う。

 この先、いかなる時も、共に生きよう」


 ユナは涙をにじませながら、微笑んだ。


「私も、あなたに誓う。

 春の名のもとに――この手を、もう決して離さない」


 ふたりの誓いが交わされたその瞬間、

 神殿の天井から、ほんの少しだけ、温かな光が差し込んだ。


 雪解けの時は、もうすぐそこに来ていた。

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