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本日は、花の祭日というらしい。
そんなことは意に介さず、今日も今日とてアデルは聖堂の文机で事務処理をしていた。
誰も居ない居室は最高に仕事が進む。
(最高だ!)
アデルは書類整理の合間に、出がらしの薄い琥珀茶にあたたかな牛乳を入れて、ほうっと一息ついていた。
話しかけられることがないと、自分のペースで進めることができる。
アデルが自分の処理した書類の数々の山を、うっとりしながら眺めていると、部屋の扉がノックされた。
モルガネという、中級の聖女だ。
「アデルさん。こちらにいらしたのね」
アデルが、ぎく、と顔をあげると、モルガネは美しく優雅に微笑んだ。
「ミカエル様と大聖女様の拝謁の際の、壁の聖女が足りませんの」
壁の聖女とは、大聖女の儀式の際に背景となる聖女たちのことだ。
賛美歌を歌ったり、大聖女様の祈りの言葉を時折復唱したりする。
壁の聖女は、儀式の際には、特別な黒のレースの布で顔を隠すのがしきたりだ。
嫌な予感のしたアデルは、
(断りたい)
即座に自分の欲望に従い、回避を選んだ。
こんなに仕事がはかどっているのに、水を差されたくない。
「……あの、重要な! とても重要な! 書類の整理を、可及的速やかに行っている所でありまして」
「アデルさん」
モルガネは微笑んだ。
その微笑みに勝てない。
半ば被せるように言うモルガネの声は大きいわけでもなく、鋭いわけでもないのだが、怒鳴り散らす無能な上司の台詞よりも、断然アデルの耳に刺さる。
「いらしてくださるわね?」
アデルは露骨に嫌な顔をしたが、彼女はあくまでも穏やかで、そして有無を言わせなかった。
「黒のベール、ありますね」
「誰かにベールを貸しますから……」
モルガネの瞳がギラリとナイフのように光った気がして、さすがのアデルも押し黙る。
黒のベールは、勤続3年の聖女が貰える記念品のようなものだ。
名誉なことだが、このベールを貰うと、仕事が一つ増える。『壁の花』として、聖堂の儀式に参加させられるのだ。
壁の花の聖女たちは、黒のベールで額まで隠して大聖女の横に立つ。まさしく壁になるわけだ。大聖女の話の合間合間に祈りを捧げたり、短い祈りの言葉を唱えたりする。
聖堂には合唱団などないので、壁の花になった聖女は儀式の歌も歌わなければならない。
アデルにしてみたって、祈りの言葉や歌が歌えないわけではない。
ただ、自分でなくてもいいなら、やりたくない。
「私はここで研究したいんです、もう今日は絶好調で」
「駄目です。というか、若い娘しかいないんです」
モルガネはピシャリと言った。
つまり、この聖堂の中では、アデルは『若く』ないのだ。
5年間聖女として働くのは、なかなかに珍しい。聖堂に一生を捧げる覚悟の者か、あるいは単に嫁ぎ遅れているだけか。
二十一歳のアデルは、重鎮とまではいかないが、中堅というにはいささか働きすぎている。
「花の祭日に、このような野草を飾ってもいいんですかね」
と、アデルは恨みがましく、モルガネに言う。
年齢ということではない。
気持ちの問題だ。
実際にアデルよりも年上の聖女たちの中にも、美しく優雅に年を重ねている女性はたくさんいる。モルガネなんかはその筆頭だ。
しかし、道端の野草にロゼッタの色を塗ったところで、何になるだろう?
アデルは新色の口紅にも、流行りのスカートの型にも興味はなかった。
そして、そんなことで女性の価値を測るような男たちに好かれることにも興味はなかった。
色恋へのアデルの気持ちは萎れているというより、もはや枯れているのかもしれない。
そんなものなんてなくても、仕事は楽しいし、公爵夫妻は優しいし、子どもたちは懐いてくれる。
「あら。蜜を吸う花を決めるのは、蜂や蝶の方ですわ」
モルガネが掴みどころのない答えをするのが腹立たしい。
仕方がない。
アデルは溜め息をついて、仕事を諦めた。