ご機嫌斜めな朝月
「ただいま」
声をかけながらリビングに足を踏み入れる。
「おかえりなさい。今、晩ご飯の用意しますね」
妻が椅子から立ち上がり、台所へ向かう。
それを途中まで目で追い、今日は疲れたので着替えず先に食事を済ませようと、気持ち湿ったスーツのジャケットを椅子の背もたれにかける。
引いた椅子に腰を下ろしながら、普段と様子の違う息子が目につき、背を向ける妻に話しかけた。
「朝月どうしたんだ? ご機嫌斜めみたいに見えるけど」
コンロで温めた煮物と焼き魚の皿を持ち、振り返った妻の表情には苦笑が浮かんでいた。
「今日、朝から雨でしょう? 外で遊べなくて不機嫌なのよ。ずっと外で遊びたいって、大変だったんだから」
確かに仕事から帰って来た今も、決して弱くない雨が朝から降り続いている。
「お兄ちゃんについて回るもんだから、涼火ちゃんもお外行きたいって顔して。テレビに合わせて踊らせたりしたんだけどね」
不機嫌そうにリビングの床でオモチャ遊びをしている朝月。
「涼火ちゃんはそのうち眠たくなったけど、朝月は体力が余っているみたいで」
ご機嫌斜めな雰囲気を出しつつ、オモチャをいじる息子の背中。
「体力有り余り過ぎて、そのうち爆発とかしないよな」
「するわけないじゃない。あなたのお母さんだって言ってたじゃない、男の子なんてこんなもんだって。元気が有り余るくらいだって」
言われてしまえば性格の差はあるだろうけれど、一般的に思い浮かべる男の子を地で行っている。
「まぁ、他の子よりも元気が有り余っている感はあるけど」
「確かにな。遊び疲れるとスイッチが切れたみたいに落ちるのは驚いたな」
「でしょ。夜は遅くまで起きてられないのは助けね。それに覚えてる? 泣き相撲に参加したの」
「神社でやったやつだよな。ちゃんとビデオカメラで撮った」
「そう。あの時は涼火ちゃんだけ泣いて、羽衣も朝月も泣かなかったやつね」
「上の二人が泣かなかったから、涼火の時は驚かされたな。でも羽衣はともかく、朝月は泣かなかっただけで大人しくはなかったろ」
「そうね。いろんなものに興味を示して、少し手を緩めた隙に相手の赤ちゃんに向かってちゃって」
話している内に料理が目の前に用意され、意識をテーブルに移しながら箸を手にする。
「明日休みだし、思いっきり遊んでやるか」
翌日も雨降りだった。
雨脚は強くないが決して弱くもなく、外出をためらわせるくらいには降り続いている。
窓の外からは雨音が絶えず聞こえ、太陽光が乏しいために気分も下がるのはいざ仕方ない。
「おそといく。あーそーびーたーいー」
それでも朝月の元気は収まるはずはなかった。
「雨だし濡れるからお家に居ような。パパが遊ぶから」
「ブランコしたいの! パパじゃない」
窓に両手をつけて雨雲を覗き込む。
「……分かっていても『パパじゃない』はキツいな」
嫌われたはずではないけれど、公園の遊具に負けて多少のショックを受けた。
リビングのテーブルでは娘の宿題を監督するかたわら、妻が最近購入したレシピ集を開いていた。
その視線と合い、相手は夫のショックを受ける様子に苦笑を漏らす。
一通り列車やパズル、アニメなどを勧めるも集中してくれず、その都度窓に貼り付いて雨が止んでいないか確かめては、外に遊びに行きたいと催促された。
レシピ集に代わり、絵本を広げて涼火に読み聞かせをする妻から、ほらねと言わんばかりの眼差しを送られる。
見た限り風は無さそうなので、だから息子と目線を合わせて言わずもがなな質問を投げかけた。
「外行くか、仕方ない。ただしお散歩だけだからな」
このまま何度も催促されるくらいなら、散歩して疲れてもらおうと考えを変える。
その言葉に破顔し、ロケットみたいにリビングを飛び出して、黄色のレインコート姿で戻ってきた。
「本当お散歩して帰ってくるだけだぞ」
傘を嫌がるため雨具を着込んだ朝月に念を押す。
「うん、約束する!」
リビングに響くほどの元気な声に、宿題中の羽衣は顔をしかめ、妻は息子に折れた姿に呆れた笑みを零す。
テーブルのスマホをポケットに入れ、朝月を先頭に玄関へ向かう。
段差に腰をかけて長靴を履く背を見下ろしていると視界の端を影が掠め、朝月の隣に小さな身体が割り込み、やって来た涼火も長靴を履き出す。
「涼火ちゃん、遊びに行くんじゃ無くてお散歩だよ」
レインコートではなく、外出時に着るパーカーに腕を通した涼火に声をかけた。
「うん、お兄ちゃんと涼火もいく。かさしていっしょにいく」
声にダメと言っても無駄な気配を察し、少し戸惑っていると後に人気を感じた。
振り向くと想定内の妻が立っていた。
「お兄ちゃんにべったりというか、最近また何でもお兄ちゃんと同じことしたいモードになっちゃってるから、連れてかないとお留守はダメかな」
眼差しに乗せた救援信号は、呆気なく不許可を言い渡されてしまう。
ちょっと重そうに身体を伸ばし、傘を傘立てから引き抜く愛娘。
物静かな涼火が二人なら問題ないのだけど、片手に朝月では涼火に気が回るか不安が残る。
「頑張って。パパ」
励ましとも激励とも呼べる言葉を受けた。
朝月が手を握ってきて、腕を引いて催促される。
「行くから引っ張らない」
玄関を出ると涼火が兄の手を取り、朝月を挟んで三人横並びになった。
やはり傘に打ち付ける音から、余り雨脚は強くない。
足元も避けるほどの水たまりもなく歩ける。
もっとも子供達は長靴なので、水たまりにも躊躇無く足を踏み入れた。
「パパにかけないようにしてくれよ。あと涼火ちゃん、お兄ちゃんに傘を当てないようにな」
手を繋いでいるため傘の保持が難しいのか、一度傘で受けた雨粒が朝月の上に垂れている。
朝月を真ん中に手をつなぎ、とりあえず公園には近づかない方向で、電車の見られる駅方面に足を進めた。
すると妻の話に聞いていた女の子、祝のお出かけに出くわす。
交差点の曲がり角から姿を見せたのだけど、朝月は一瞬で彼女と判別したらしく、数メートルある中で雨音に負けない大きさで名前を呼んだ。
「祝ちゃん!」
喜びを感じる声を上げ、突然走り出そうとする。
不意を突かれはしたものの、繋がれた手に引かれても二歩前に足が出るだけで済んだ。
しかし、身体の小さな涼火は違って、急に手を引かれて転倒してしまう。
「あぁうっ……!?」
傘が道に落ちて雨に濡れる。
瞬間感覚的に時間が止まり、呼ばれた彼女が首を振り向かせた。
「あさくん?」
母親と歩いていた祝の呟きと同時に、涼火が雨音にも負けない鳴き声を上げる。
朝月と繋いでいた手を離し、娘の前に回り込みしゃがんで抱き起こす。
肩と首と顎で傘の支柱を支え、雨足にも負けない涙と声を上げる涼火を持ち上げ、立たせて細かな砂利を手で払いながら確認する。
「痛かったな。ケガは無いか。濡れた以外、痛いところないか?」
優しく語りかけながら、抱き付いてくる小さな身体を抱き締めた。
朝月の視線はこちらにやって来た女の子と、泣かせてしまった妹の間を行ったり来たり繰り返す。
「大丈夫ですか?」
声をかけてきた女性に頷いて短く答えた。
「はい。雨に濡れただけみたいで」
立ち上がり、しっかり首に掴まる娘の膝の裏に腕を回し、片手で傘を持ち直す。
向き合う相手に息子が同じ保育園でお世話になっていることを口にした。
「二人と仲良くしてもらってお世話になってると妻から聞いてます。ありがとうございます」
「いいえ、とんでもないです。朝月くんと涼火ちゃんと遊ぶ祝は楽しそうで、こちらこそありがとうございます」
大人同士言葉を交わし、祝の母親の視線が涼火に向く。
「余りお引き止めしても悪いですね。涼火ちゃんが風邪を引いたらいけないですし」
そう言って近所のスーパーだろうか、傘を差して大人しい祝の手を引いて行く。
「あさくん、バイバイ」
「……バイバイ」
いつもの元気は無く、雨に打たれながら振り返す息子。
着替えないと涼火は風邪を引いてしまわないか心配なので、散歩は中断しなくてはならなかった。
雨の中立つ頭に声をかける。
「朝月、涼火ちゃんの傘持って。濡れちゃったから帰ろ」
実を言うと胸に抱くグズる涼火から、濡れた水気が染みて湿りだしていた。
散歩を切り上げるので、帰るため転がった涼火の傘をお願いすると、レインコートの頭が跳ね上がる。
より眉を下げて口元を歪め、今にも泣き出しそうな朝月の顔が覗く。
「いやだ! おさんぽする! おさんぽいくんだ! かえりたくない!」
今度は朝月が雨にも負けない声で、帰ることを拒否して駄々をこねる。
長靴の足元で地団駄を踏み、転がったまま雨に打たれる傘を拾おうともしない。
顔に雨が当たっているかのように、目に涙が溜まる。
出来ることなら連れて行ってあげたいが、涼火も居るのでここは仕方ないと言い聞かす。
「早く帰らないと涼火ちゃん、風邪引いちゃうよ」
「ん~ん。ぼくひとりでおさんぽする」
「一人はダメだ。朝月が急に走り出したから、涼火ちゃん転んで濡れちゃったんだぞ」
両脇に下ろした手を握り、悔しそうに口を引き結ぶ彼。
「ほら、涼火ちゃんのお気に入りの傘を拾って。帰ったら一緒にゲームするから」
「むー……」
数秒間、納得いかない様子で身体を揺らすも、傘を広い家の方に歩き出した。
「偉いぞ」
水たまりを力いっぱい踏みながら先行する背中に声をかけ、首に抱き付いている涼火にすぐ帰るからと揺すりあやす。
まさか、家を出て数分のところで引き返すことになるなんて思ってもみなかった。
「ただいまー」
玄関から奥に向かって声をかけると、リビングの方から妻がやって来た。
「早かったじゃない。あら? どうかしたの?」
抱きかかえられた涼火と、不機嫌な様子の朝月を順に見た妻が質問を返してくる。
外に出られずご機嫌斜めだった息子を連れて出たのに、すぐ戻ってきたら理由を聞きたくもなるだろう。
「ちょっとね。そこで友達に会った朝月に手を引かれて涼火ちゃんが転んで濡れたんだ。早く着替えさせてやってくれ」
そう言って頼み、朝月に視線を移すと、察してくれた妻が涼火を引き受けた。
「おかえり涼火ちゃん。着替えしようか」
名前を呼ばれて伸ばされた腕に、首にしがみ付いていた娘が移動する。
「ほら」
濡れてしまった涼火を妻に任せ、不機嫌な朝月からレインコートを脱がして家に上がった。
そして息子と身体を動かすゲームをする。二時間も。
「はぁ、はぁ……朝月……体力あり過ぎ。子供ってヤバい」
まだテレビの前で手足を伸ばして遊ぶ朝月。
離脱してソファに身体を預けていると、やって来た妻が可笑しそうな声を出した。
「ね。大変でしょ」
そう言って同意を求められた。
こうして子供を相手し、もう一つしか返事はなかった。
「そうだな。お見それしました」
自分よりも子供を相手にする時間の長い妻に、感謝と共に子育てを任せっきりにしていた反省を込めて返した。
それに散歩で祝とその母親に会ったと話した。
「親の結婚が遅いと子も遅いとか聞くけど、私たちが生きている内には孫が見られそうね。朝月なら早そうで良かったわ」
「気が早いけど、そうだな」
これまで妻から聞いていた話と、今日の息子が見せた反応からこの話も割と現実味があり、自然と頷いていた。
「俺たちが遅かったし、もしかしてと思っていたが心配なさそうだ。羽衣と涼火がお嫁に行くの早いのはちょっと嫌だしってなると余計な」
そう言葉にして、目の合った妻に笑いかける。
娘が行き遅れるのも心配だが、余り早く行かれてしまうのも父親としては嫌なものだ。
未だ電源の切れる様子のない息子を眺め、その元気な姿に思わず口元が緩む。




