母と私
「早く来なさいっ!!!」
大声と共に母は私の手を引いて駆け出した。
その時私が思ったことは「寝たまま気付かなかったら、死ねたのに。」
ただ、それだけだった。
高校3年生の私は貴重な睡眠を邪魔され全然頭が働からず何が起こったのか分からなかった。
私のことを強く引く母は、燃えている家を飛び出た。
「怪我はない?!火傷とかは?」
周章しながら、私の顔や身体をべたべたと確認する。
何も怪我がなく、家に眼鏡と携帯を忘れたのが心残りだと伝えると母は安堵して私を抱きしめていた。
明日からどうなるのだろう。
色々燃えたし、進めていた参考書も確実に燃えただろう。
私の部屋には紙が多いからきっとよく燃えるだろうなんて考えながら、私は空を眺めていた。
今燃えいている家での生活が、走馬灯のように私の頭の中を駆け巡った。
朝は5時半に起床し、自分の朝ごはん・お弁当を適当に作る。
身なりを整え、学校へ向かう。
朝課外の前に学校に着いて、自習。
そのまま課外を受け、授業が始まる。
各授業に小テストがあるから、休み時間におちおちトイレも行けない。
お昼になってお弁当を食べ、半分の時間を勉強に充てる。
午後の授業が終わると、夕課外がある為準備をして教室移動。
夕課外は7時までで、終わっても家に帰りたくない私は先生達が帰宅する8時過ぎまで学校で勉強していた。
そこから8時半位に帰宅し、母が作ったと言っていいのか怪しい温めるだけの料理を流し込み風呂に入る。
暫しの癒しの時間だ。
こういう時、家に一人で良かったと心底思う。
程々に髪を乾かし、歯を磨き部屋に行って9時から自宅学習開始。
そこから25時まで勉強。
私が勉強している間に、母は趣味で通っているカルチャースクールから帰って来る。
玄関の音を聞く度に溜息が漏れ、背筋が凍る。
そして、手も洗わずに私の部屋に来て私が勉強してるか確認する。
ドアに背中を向けていても、母が今見ているということがよく分かる。
まるで私の身体に穴でも空きそうだ。
私がこんなにも勉強に打ち込んでいるのは、一人になれるからだ。
「勉強」と言えば、母は話しかけてこない。
そして私の視界に入って来ない。
母を見たくない私にとっては最高な状態になる。
だから母より早く起きて、母より遅く寝る生活になった。
何よりの目的はここから通えない距離の大学を受験して、出ていくこと。
田舎ではあるものの、選べるほど大学がある地元をどうして出たい私は「興味のある分野がない」という理由で上京を目論んでいる。
早く時が流れることを望みながら、もっと勉強して遠い大学へ行きたいという葛藤が生まれ日々を過ごしていた。
そんな時、突如カルチャースクールが休講になった母と晩御飯を食べる機会が生まれてしまった。
そのことを聞いた時思わず落胆してしまったが、母に悟られてはいけない。
もしバレたら母は何をしでかすか分からないから。
いつもの通り、温めるだけの料理が私の前に運ばれてきた。
私は「いただきます。」と小さく言い、この時間を少しでも少なくする為に早く食べようと大口で喰らいついた。
母は「いつもそんな風にがっついてるの?ご飯足りない?」と心配している風に聞いて来た。
会話をしたくない私は、ご飯を口にかっ込みながら首を横に振った。
「そう言えば志望校どこなの?まだ聞いてないんだけど。」
思わず私の手が止まる。
母は私が上京するのを確実に嫌がると、分かっている。
だからこそ志望校について何も伝えていなかった。
手続き等全て自分で行うから、何もしなくて良いと伝えたから大丈夫だと油断してしまっていた。
母の方が見れず、私は皿を見て止まっていた。
スッと私の方に来て、上目遣いでもう一度聞いてきた。
「ね、志望校どこ?ママがお金払うんだから、知る権利あるでしょう?」
艶やかな黒髪、まつ毛パーマをしている目、真っ赤な口紅。
その光景はとてもおぞましかった。
もう駄目だと腹を括り、私は白状した。
「……○○大学。」
今一番行きたい大学。
それはここから一番距離が遠いから。
それを聞いた瞬間、母は眉をひそめ右手が上がっていた。
私の左頬に衝撃が走り、咀嚼途中だった物が床へ散らばった。
「あんた何考えてんの!!!
私が金を払ってあげるのよ!なら地元に残って、恩返ししようと思うのが普通じゃないの?!
第一、志望大学がここからどれだけ遠いか分かってるの!
そうなったら一人暮らしになるのよ?!」
母の罵倒が永遠と続く。
今伝えるべきではなかったと後悔しながら、散らばした物をティッシュで片付ける。
「聞いてるの?!」
半狂乱状態の母が私の髪を思い切り引っ張られ、思わず尻餅を着く。
血走った眼で私を見つめながら、言い分を言えと力が強くなる。
「…興味ある分野が、○○大学だったの。
○○大学だったら、専門的に学べるし私の学力でも狙えそうだっ…!!」
もう聞きたくないということだろう。
母は私を床に叩きつけた。
「誰?貴方にそんな悪知恵を伝えたのは?
担任?それとも前に話していたお友達?それとも図書室の先生?それとも無理矢理入らせたはいいものの合わないからという理由で全く行っていない筈の塾の先生?
ねぇ……誰なの?教えてよ。」
今私の回答次第で、その人に多大なる迷惑がかかる。
恐らくその人にはクレームという名の怒号が大量に浴びせられてしまう。
そう考えると私は答えられなかった。
床に寝そべっていると、腹部に痛みが走った。
「聞いてる?
私今貴方に質問しているんだけど?もしかして耳悪くなっちゃったの?
もしも~し!!!聞こえてますぅ??」
耳を引っ張られ耳元で叫ばれる。
明日リスニング小テストあるけど、大丈夫だろうか…と考えていると遅れて耳鳴りが始まり止まらなくなった。
痛い。
痛い痛い痛い痛い。
耳も、お腹も、頭皮も、頬も。
何で痛覚なんて存在するのか私は人間の構造を恨んだ。
何も感じなければどれだけ楽だろうか。
その後も私は沈黙を続けた為、母の気が済むまで玩具に成り下がった。
その日進める筈だった参考書には手を付けれず、母が寝たのを確認して私もソファーで眠りに着いた.
気絶するように眠れ、私はいつもの通り学校へ向かった。
お昼休みに教室で勉強していると、担任の先生から呼び出しをくらった。
嫌な予感がどうしても拭えなかった。
夏だからだろうか、汗が止まらない。
進路相談室へ案内されソファーへ座った。
昨日のこともあり、落ち着かない様子だった私を察してか先生は直ぐに用件を話してくれた。
「君のお母さんから公務員学校へ行くという進路変更の電話貰ったんだけど…
それは本当か?」
寝耳に水だった。
私は頭が真っ白になり、何も考えれなかった。
先生にはどれだけ私が志望大学へ行きたいか、どんなことを学びたいかよく相談に乗ってもらっていた。
先生もさぞ驚いたことだろう。
「いえ……いいえ!!!!」
私はいつになく大声で否定していた。いつの間にか目から涙が溢れていた。
先生は何も言わず、私に美味しい紅茶を入れてくれた。
「先生お気に入りのダージリン。
ちょっとお高いけど今日は特別!しっかり味わって勉強頑張れよ。」
鼻をぐずりながら飲んだから、全然香りを楽しめなかったけれどとても安心した。
部屋を出る時、先生は
「ちゃんと親御さんと話すんだぞ。難しいだろうけど…」
と懸念していた。
この先生が担任で本当に良かったと私は笑顔で出て行った。
いつも通り学校に残り、勉強をした後重い足取りで帰路に着いた。
今日はカルチャースクールが休講ではないから、大丈夫と自分に言い聞かせながら。
玄関を開けると、人の気配はなかった。
安堵し、いつも通り生活を送った。
勉強をしていると玄関の音が聞こえた。
今日は何を言われても大丈夫なように英語のリスニング対策という名目で、イヤフォンを着けていた。
今後は家でこのスタイルを主にしようと考えながら問題を解いていると、机の上に厚い本が乱暴に置かれた。
驚いて本を見ると「公務員受験 過去問10年分対策」と書いてあるものが置いてあった。
呆然としていると、
「貴方、大学行かせないわよ。地方の公務員試験受けなさい。
参考書買ってき来てあげたんだから、ちゃんと受かりなさいね。」
英語が流れているのに何故か母の声が群を抜いて明瞭に聞こえた。
用件は済んだと、母は私の部屋を後にした。
まさか大学受験をさせてもらえないとは思わず、私は声を殺して泣いた。
死にたい。
もうこんな生活になら死んだ方がマシだ。
私はただ実家から離れた所で学びたいと言っているだけなのに。
金銭的に余裕がないわけではないのに。
なんでどうして。
母が私を離してくれないから。
それだけの理由で。
私は衝動的に、母が置いて行った冊子を床に叩きつけた。
絶対私は大学に行く。その思いが更に増した。
次の日学校に行き、先生に奨学金制度が使えるかを確認しに行った。
先生は「お前の成績なら問題はないだろう。」と太鼓判を押してくれた。
受験費用だが、母は出してくれないのが目に見えているので私が高校三年生になって貯めていたお小遣いを使用することにした。
その日を境に私はより一層勉強に打ち込んだ。
と同時に母からの嫌がらせも増していった。
私の部屋には公務員試験対策の本が日に日に増えていったし、
志望大学関連の参考書を母に発見されるとゴミ袋にまとめられていた。
また参考書の答えだけ抜き取られたりしたのは本当にきつかった。
お陰で片時も私は部屋から離れられなくなった。
そして受験に向け、手続きをする時。
私は貯めていたお小遣いを片手に、先生と一緒に手続きをしていた。
「料金は2万7500円です。」
他の学部も滑り止めで受けるとなると、中々な値段になってしまった。
私は袋の中身を取り出し、お会計をしようとすると何故か受付の人に笑われてしまった。
「申し訳ございません。
こちらはおもちゃの紙幣ですので…」
急いで袋の中身を取り出し、確認すると私が貯めていた3万円全てが「おもちゃ銀行」と記載があった。
私は母への嫌がらせに備えて、お小遣いは常日頃持ち歩いていた。
それに隠し場所も定期的に変えていた。
いつ
どこで
母がすり替えたのか分からない。
その事実に私は母にはっきりとした怨嗟を抱いた。
もうどうしようもない。
私は大学に行くことができない。
その事実だけが無情にも私の目の前に突き出された。
今までの努力した時間、労力全てを母に否定された。
呆然としていると、受付の人が咳払いをして来た。
受験シーズン真っただ中。
人はいくらあっても足りないような忙しい中に、こんなことになってしまい苛立ちが隠せれないようだった。
私はもう無理だと、震える手でおもちゃの紙幣を取ろうとすると
「すいません!もう焦ったからってそんなことするなよな。
2万7500円ですね…」
先生がお会計をしてくれた。
お会計が無事終わり、先生は笑顔で「受験できるぞ!」と励ましてくれた。
私は涙が止まらなかった。
お金は必ずバイトして返すことを約束し、私は先生に受験票の管理をお願いした。
先生は快諾してくれ、私は必ず合格を掴み取ってみせると固く決意した。
家に帰ると、私の机の周りは公務員試験対策の参考書で埋め尽くされていた。
それらを床へ落とし、私は学校で進めている参考書を広げて勉強した。
受験日2日前。
先生が何者かに刺されたというニュースが広まった。
何度も身体を刺されたらしく、今は集中治療室にいるらしいと説明を受けた。
私は頭が真っ白になり、先生へのお見舞いを志願した。
学校側は「受験前だから駄目だ。」と一蹴された。
頭の中では私のせいでというのが駆け巡っていた。
その日は勉強が身に入らず、先生の安否だけが頭を占めていた。
重い足取りで自宅に帰ると、母が眩い笑顔で玄関に立っていた。
その手には血がべっとりと着いた受験票。
「ざーんねん。
やっぱりママの言うことを聞かないからよ?
こんなものなんて…!!」
母は私の目の前で受験票をびりびりと細かく破り、跪いた私に高笑いを浴びせた。
母の執念を思い知り、私は死にたくなった。
受験票がこんな状態だったら、私はもう受験できない。
母は絶望する私の姿を見て、意気揚々とカルチャースクールへ出向いた。
出て行ったのを確認し、私は簡単に荷物を纏めて推薦で既に進路が決まった友人の家へ行った。
最低限の洋服と下着、そして学校の道具を持って。
受験まで携帯の電源を切り、先生が決死の思いで職員室の机で守ってくれた受験票を持って受験に臨んだ。
母のことをよく相談していた為、先生は何かあるのではないかという考えが止まらなかったそうでダミーをいつも持ち歩いていたそうだ。
先生の機転に私の人生が救われたのだ。
先生には本当に救われっぱなしだ。
そして結果発表までの1週間まで友人の家にお世話になった。
パソコンで確認すると、しっかりと「合格」の文字が浮かんでいた。
事情を知っている友人は自分のことのように喜んでくれ、友人のお母さんもケーキを作ってお祝いしてくれた。
そして一人暮らしの手続きを進め、保証人は亡き父の祖父母にお願いした。
死別し殆ど私を見せに行かなかった母とは連絡を取っていない為、とても安心出来る。
荷物を新居に送り、私はダミーの携帯をもって実家に戻った。
母は口角がとても上がり、目尻がとても下がった状態で抱擁してきた。
「ほらね、ママの言う通りでしょう?」
そう耳元で囁いて。
そして私は母の腕に包まれ、家へ帰った。
風呂へ入り母が寝たのを確認して、油を染みつけていたカーペットやクッションに替え導火線に火を付けた。
こういう時、本を読むことが好きで本当に良かったと実感している。
導火線の作り方とか、サスペンスのトリックでよく出てくる。
私は久し振りの実験に胸を躍らせながら、油を染みつけた段ボールに小さい蝋燭を乗せそのまま私の部屋に行き眠るふりをした。
後は10分程待つだけ…
そして母は思惑通り、私のことを引っ張って家から脱出した。
嫌な思いでしかない家が燃え上がる様子を見て、私は綺麗だと思った。
母と暮らす場所がなくなった、その事実が私をこの上なく安堵させた。
近所の人から心配の声が聞こえているが、母は構われているのが嬉しいのか嬉々として対応している。
私は明日飛行機で祖父母と新居へ向かう。
祖父母は私と一緒に暮らしてくれると、決断してくれたのだ。
母はどうなるか?
この性格で親戚にも煙たがれ、義実家とも関りがない。
そして今この瞬間、住んでいた家がなくなった。
家具もないし、金目の物も持って来ていない。
さぁ、どうなるのか。
もう縁を切る私にはもう関係ない。