その後の日根野家
碇山は標高五六メートル、周囲一キロに満たない小さな盛り上がりである。その山は豊後川の河口から五キロほど上流の左岸、津守の地に在り、一〇〇年前まで碇島と呼ばれていた。その名の由来は、東征に向かう神武天皇の船がその島の岸に投錨したとの言い伝えに寄るものである。津は港を意味したことから、遥か昔に、それが島であったのは想像に難くない。
碇山の頂上には熊野神社が祀られている。社は、建久七年(一一九六年)、豊後国守護職大友能直が紀州熊野三山大権現を歓請して津守庄ノ元に創建したものであるが、大友氏没落と共に春日神社に移された。それを津守館預りになっていた松平忠直が元の位置に再建した。社が現在の位置に移されたのは、明治の末になってからである。
満月が河原の見渡す限りを白く照らしていた。咲き始めたばかりの土手の菜の花や岸辺の枯れススキ、河原に転がる石群、造形物の全てが止まっていた。その中をサラサラと流れる川の水音だけが自然の営みを続けている。
丸い月は西の山の端に隠れようとしている。川面の至る所で靄が立ち上がり、碇山を茫洋とさせている。石鳥居をくぐり抜け、参道を二十歩ほど上がった左手の斜面には、台座の半分を土に埋もれさせた五十センチに満たない石塔が小刻みに震えていた。真田栗毛埋所と刻まれた石塔の振幅は次第に大きくなって、やがて台座と伴に参道に転がり落ちてしまう。暫くして、宙に向かって蹄を突き出した馬が台座の跡から這い上がって来た。馬は参道に飛び降りて何度も長い首を上下に振った。やがて頭を起こして頂上に向かって駆け上がって行く。
屋根から陽炎を立ち上らせて、六角堂が震えていた。堂の中で何かが倒れて、静寂を破った。振動が収まると、扉がギイと鳴り、狩衣指貫を纏う痩せた老武者が姿を現した。男は自分の手の甲をジッと見詰めていた。薄くなった茶筅髷に手を遣り男が呟いた。
「四十を過ぎた頃か」
馬が鼻面を寄せて再会を喜ぶと、男は愛おしむようにその長い面を暫く撫ぜていた。そして軽々と身を翻して馬の背に跨った。
「真田栗毛よ。津守館に戻るぞ」
ヒヒンと嘶いて、馬は参道を下り始めた。
二十余りの建屋が並ぶ二千坪に及ぶ屋敷が、湿田の真ん中に望める筈であった。幾ら歩いてもそれが見えないので、男は途方に暮れていた。
(道は違えていない。碇島の形からすると明らかに館に向かっている。畦道が広げられ、湿田には盛土がなされて家が軒を連ねておる。しかも百姓家の茅葺屋根が瓦に変わっておるではないか。畦道を踏み外して三尺下に落ちる心配をしなくて済むが、見慣れない景色が何とも心許ない)
馬が立ち止まり、一向に動こうとしなくなった。そこには下地を白く塗った一尺幅の板が立っており、黒墨で津守公民館と書いてある。その大袈裟な表札は後ろの真っ平らな屋根を持つ奇妙な建屋のことだろう。馬から降りた男はその隣の高札に目を凝らしていた。男は見慣れぬ景色の理由を悟り、再び馬に跨った。まるで男の気持を察しているかの如く、馬は豊後川に向かってゆっくりと歩き始めた。
馬は建屋の間を縫って常足で進んでいる。その頃になって漸く男の気色も落ち着きを見せ、辺りを観察する余裕も出て来た。道は黒い砂で固めており、それは石畳ほど硬くないので、馬の肥爪も滑らない。道の所々には丈の高い鉄の灯篭が立っており、靄に煙って弱弱しく灯っている。幅の広い道に突き当たると、四つ輪の牛車のようなものが韋駄天の如く男の前を通り過ぎた。それを引くものの正体は分からないが、牛でないのは確かである。牛車の両脇には龕灯が付いており、靄の中を遠方まで照らしていた。史跡松平忠直居館跡と書かれた高札といい、韋駄天の如く走る牛車といい、途方もない後世に姿を現したものだ、と男は思った。
男が、道に沿って築かれた小高い堤を登って古国府の渡しを探し始めた。川幅が狭くなり、水深も見知っている川のように深くない。水源が枯れ掛けているのだ。男の瞼には、一年を通じて水を湛え悠々と流れるかつての豊後川の姿が蘇っていた。
男は上流の巨大な石橋に眼を止めた。欄干に立つ何本もの灯篭が、靄の中で橋の輪郭を浮かび上がらせていた。馬がカッポカッポと肥爪を響かせて橋を渡り始めた。橋柱に張ってある表札で、それが広瀬橋と呼ばれているのを男は知った。
大津留瑠璃子の赤い軽自動車は、三福寺の角をゆっくりと左折した。松栄社に続く参道の幅は以前のままである。瑠璃子は印刷所の入り口に車を寄せて対向車をやり過ごした。彼女の眼に映る二十年振りの景色はすっかり変わっていた。傾きかけていた古屋は小ぢんまりしたプレハブ住宅に建て直されていたし、建てたばかりで活気のあった印刷所の外壁は時を経て色褪せていた。田圃の真ん中に忽然と出現して人目を惹いた貸家の並びは、今ではそれを取り囲むように住宅が建てられている。瑠璃子が探している日根野家はその内の一つであり、参道に面した緑のモミジ葉に囲まれた奥に長い住宅であった。
瑠璃子は乱れた胸中を隠せずに居る。その原因は昨日の夕方の出来事である。玄関に出ようとして戸を引いた生徒の頭上に、トイレットペーパーが詰まった大きなビニール袋が落ちて来た。倒れた子供達の中には机の角に頭をぶつけた子も居て、塾は嬌声で大混乱に陥った。雪崩の原因は母親の多恵である。彼女はスーパーで特売品のトイレットペーパーを大量に買い込んで、それを玄関に積んだまま夕食の支度を始めていたのだ。崩れた山の向こう側で多恵が申し訳なさそうな顔をして立っていた。どうやって大量のトイレットペーパーを自宅に運んだのか、七十を超えたばかりの母親に問い質すと、スーパーで顔見知りになった男性が親切に運んでくれて玄関に積んで帰った、と言い出したのだ。瑠璃子は、電話で苦情を申し立てた生徒の家を朝から訪ねて謝罪を終えたばかりであった。
その家は、勾配のある燻し瓦で葺かれた切妻屋根の平屋で、木の塀と庭のモミジ葉に囲まれているので、中を覗くのが難しい。玄関の右脇には一台停めるのがやっとの駐車スペースに黒いワゴンが停められており、瑠璃子はその前に横づけで駐車した。
母親の知り合いだから老人だと決め付けていたが、玄関から顔を出した日根野は母親より一回りほど若齢の男であった。訪問の理由を話すと、彼は年季の入った北欧のソファーに瑠璃子を案内した。座面や背もたれの布地は張り替えたばかりである。
「それは大変でしたね。でも子供が転んだ位でそんなに大騒ぎになるのですか?面倒臭い世の中になりましたね。昨日は、スーパーの店員が置いて行った大量のトイレットペーパーの前でお母さんが立ち往生していたので、私の車でご自宅まで運んで玄関に積み上げたのです。その時は、そのようなことが起こるなんて思いもしませんでした。お母さんとはスーパーの喫煙所で知り合い、何度も煙草の値上げをする政府の卑怯な振る舞いに二人で文句を言う仲でしたが、自宅で娘さんが英会話塾をしている事さえ知りませんでした」
「えっ。母が煙草を吸うのですか?」
「はい。でも彼女は煙を口に含むだけで、肺まで吸い込みません。買い物を終えてベンチに座り、煙草を燻らしながら遠くを眺めるのが、お母さんの習慣ですよ。ご主人が好きだった煙草を燻らしながら故人の思い出に浸っているようでした。彼女と話していると、よくご主人の話題になりましたから」
彼は挽き立てのコーヒーをテーブルに置いた。
「砂糖とミルクを出しましょうか?」
瑠璃子がその申出を丁寧に断って口に運ぶと、渋みと酸味が抑えられた上品な味わいが沁みて来た。
「あら。美味しい。生徒の親から皮肉を言われて腹を立てていたけど、コーヒーに癒されました。母親のことについてもご面倒をお掛けして申し訳ありませんでした」
「多恵さんとは友達だから構いません。でも、生徒が使うのかも知れませんが、あんなに大量のトイレットペーパーが必要なのですか?」
瑠璃子は小さく首を振り、ハッキリとは答えない。その話を始めると母親の認知症に辿り着いてしまうからである。初対面の人と、そのようなプライベートな問題を話題にする気になれなかったのだ。
「この辺りは高校の通学路だったのでよく覚えていますが、当時は一面の田圃でした。ここに住み始めてから長いのでしょうか?」
「十五年ほどになりますか。家も適当に古くなり、庭の植物も漸く落ち着いて来たところです」
日根野は紺のギンガムチェックのシャツを着て、背もたれと座面を薄茶色の厚い革で固めたチェアーに深く座っている。その姿勢が自然であり、無垢材で仕上げられた室内の雰囲気に溶け込んでいる。
和風の外観から室内を想像するのは難しい。天井は屋根の勾配に添って檜板が貼られており、それを曲がった松の小屋組みが支えていた。柱の大半は壁の檜板に隠れており、家の中央と思われる位置にある太い檜の柱のみが姿を現わしている。瑠璃子の眼を惹いたのは、キッチンに据えられた横に長いオークの調理台である。天板には黒い御影石が貼られている。年月を経て、木が飴色に変わろうとしている。昼前なのに、天井から吊り下げられた黒鉄のシャンデリアが煌々と輝いている。
「少し暗いので障子を開けて良いですか?」
瑠璃子は室内の暗さが気になっていたのだ。内障子を開け放すと、庭の緑が瑠璃子の眼に飛び込んで来た。履き出し窓の上部からは何層にも重なったモミジ葉が垂れており、地面から伸びた青紫蘇やミントの葉が生を競っている。
「和風のナチュラルガーデンですね。夜の景色も素晴らしいでしょうね」
「ヤマモミジは今の時期は良いのですが、葉が赤くなると妖艶に変わります。秋の夜に部屋の明かりに照らされた赤を見ていると怖くなる時があるくらいです」
紅葉狩りと称して秋の夜の風情を楽しむ人も多いのに、彼はそれが怖いと言う。その繊細な表現が日根野の顔に刻まれた深い皺に似合わないので、瑠璃子はクスリと笑った。
「美由ちゃんの部屋に居るって、絵里から連絡があったわ」
最後の生徒を見送って瑠璃子が遅い夕食を始めると、母親がそう言った。娘は高校生になったばかりだが、近所の女友達の部屋に入り浸るようになっていた。
「日根野さんが『夜のモミジを観に母さんといらっしゃい』って仰っていたわよ」
多恵は不思議そうな顔をして瑠璃子を見詰めている。
「なぜ貴方が日根野さんを知っているの?」
「昨日、母さんが家の場所を教えてくれたじゃないの。だから昼前にお宅を訪ねてお礼を言って来た」
「あら。そうだったかしら」
彼女は玄関にトイレットペーパーを積み上げたことも、その後の混乱もすっかり忘れていた。
絵里は竹中美由の部屋で長い脚を投げ出している。彼女は子供の頃からの親友だ。絵里が興味を失い掛けている勉強を美由はとっくの昔に放棄していたが、高校だけは卒業すると決めている。その後は美容師になる為に東京の専門学校に通う心算だ。そこで基礎技術を取得して、東京の一流店で腕を磨く。その数年後にはアメリカに渡ってヘアースタイリストとして生きて行く。彼女はそんな人生設計を絵里に打ち明けていた。
彼女はファッション雑誌でセンスを磨き、美容雑誌で情報収集に努めているが、併せて英会話の勉強を続けていた。今日もCDを丸暗記した部分をそらんじて絵里に聴いて貰っていた。彼女が記憶するのは、学校では習わない日常会話である。
「美由は良いよね。目標を持って生きている。私は何をしたいのか分からないから迷ってばかり・・」
「それは絵里が幸せだからだよ。アンタには沢山の才能があってド・レ・ニ・シ・ヨ・ウ・カ・ナと迷っているだけ。私には選択の余地がない。それより今の発音はどう?前より良くなっている?」
「うん。随分、CDを聴き込んでいるね」
「空いた時間はいつも聴いているから」
学校で習う英語では実践の役に立たないから、美由は絵里から塾の教材を借りて耳を英話に慣らしている。何度も聴けば、それが身体に染みて来て、やがて発音や会話が本物になると期待している。絵里はネイティブのアメリカ英語を話すから、彼女の耳を頼りに日常会話をマスターしようと励んでいるのだ。
何かが憑いたように大津留多恵は遠くを眺めていた。その様子が普通でなかったので岳が声を掛けると、その返事も唯事でなかった。
「お父さん。何処に行っていたの。随分待ったのよ。子供達がお腹を空かしているから早く帰らなくては・・」
多恵が混乱していた。心配して肩に置いた岳の手を、多恵は強く握り返して呟いた。
「お父さん。運転手さんを叱らないで。膝の傷はもう痛くないから」
多恵を保護したのはスーパーの喫煙所で、夕陽が五階建てのアパートの向こう側に沈もうとする頃である。多恵を車に乗せて彼女の家に連れて行ったが、瑠璃子は授業の最中であった。迎えに来るよう伝えて、岳は多恵を伴って帰宅した。
母親は美味そうに林檎菓子を食べていた。彼女は三日も食事をしていないかの勢いで菓子を頬張っている。
「夕食は済ませましたが、多恵さんの食欲はそれだけでは足りないようで。今、タルトタタンの味見をして貰っているところです。仕事が終わったばかりで疲れているでしょ。紅茶を淹れますから貴方も味見をして下さい」
瑠璃子は自分の舌が変わったのではないかと訝った。彼のタルトタタンと称する菓子の味はアイリッシュの義母のものとは全く別物であったからだ。一般にアメリカの菓子はかなり甘い。義母の家の庭で採れた林檎は水分が少なくて野生に近い未熟な味がした。彼女が作ったタルトタタンは、その材料が林檎であるのを忘れさせるくらいに甘く煮て、焦がし過ぎたキャラメルの苦味が舌に残り続けた。今、口に含んでいるそれは、少ない砂糖で時間を掛けずに煮詰めているので火は通っているが甘過ぎないし、キャラメルは大人の味を出していた。新鮮な林檎の風味の凝縮が何層にも重なっている。
「お上手ですね。何処で習ったのですか?」
「インターネットで作り方を確認して何度も練習しましたから。でもレシピ通りに作ると、砂糖菓子になってしまうのです。それで私流にアレンジしました。日持ちはしませんが・・」
彼は青森から取り寄せた紅玉林檎の箱を指差した。彼は段ボール箱の半分を既に使い切っている。
「すみません。母を看て頂いて」
「お母さんが認知症の症状を見せたのは、今日が初めてですか?」
「いえ。近頃は頻繁です。医師の診断ではこれからもっと悪化するそうです」
「それでは貴方の仕事に差し支えるでしょう。老人ホームへの入所は検討しましたか?」
瑠璃子は小さく首を振る。少子化は塾の経営に深刻な影響を与えていたし、彼女が教える英会話は受験に直結しないので、生徒は年々減少している。東京の姉に相談したが、二人の子供が大学に通っているので母親への援助は難しいと突き放されたと言う。
瑠璃子は東京の女子大を卒業してニューヨークの大学で日本文学の講師として働き始めた。そこでアイリッシュの実業家と知り合って一卵性双生児を産んだ。しかし彼との暮らしに軋みが生じ次女を連れて帰国することになったが、長女まで連れ帰るのは夫とその一族が許さなかった。帰国後は英会話塾を営んで来たと言う。
「学生が対象なら受験を前提に教えた方が有利では?」
岳は素朴な疑問を口にした。
「それは分かっていますが、文法から始めて筆記を優先する勉強では実践の役に立ちません。私は会話ができる方が大事だと思っています。会話から入って英字新聞を読めるレベルまで文法の習得ができれば、英語圏で生活するのに不自由しません。受験勉強ではそれが難しいのが実情です。十年も勉強して日常会話も満足にできないのは、悲し過ぎませんか」
「私もその口ですね」
岳は軽やかに笑った。
「お母さんは、少し脚に不自由があるようですが・・」
「ええ。父が建設会社を始めた頃、現場でトラックにひかれて、それ以降、脚を引き摺るようになったそうです。父はそのことを随分悔やんでいました」
タルトタタンを食べ終えた多恵は暫く二人の会話を聴いていたが、その顔には話題に付いて行けない焦燥感が浮かんでいた。話に加わりたくても二人が何を話しているのか、さっぱり理解ができなかった。顔色を変えた彼女は怒りの矛先を娘に向けた。
「貴方は誰なの?私を無視して主人と気安く話をしないで頂戴。失礼な人ね」
母親の混迷した発言が強烈だったので、瑠璃子は虚を突かれて呆然としていた。しかし、母親の怒りはそれだけで終わらなかった。彼女は、握っていたデザートフォークを娘の右手の甲に突き立てたのだ。鈍い音がした。岳が紙ナプキンで手の甲を押さえて止血すると、瑠璃子は眉間を歪めた。それを見ている多恵の眼が冷たく笑っていた。
「多恵さん。ソファーに座って大人しくしていて下さいね。今から娘さんを病院に連れて行きますから」
遠慮する瑠璃子を、彼女の軽自動車に乗せて救急病院に運んだが、それは時宜を得た行動だった。病院に着いた頃には、彼女の右手の甲は紫色に腫れ上がっていた。レントゲン写真を見ながら医師は中手骨基底部骨折と診断を下し、破れた血管を縫い合わせて手の甲を固定した。
岳が瑠璃子を自宅に送り届けたのは深夜であった。怪我の状況と今後の治療について、彼女の娘に手短に説明したが、その原因については話せずに居た。
「お母さんは明日から私の車で通院しますから、当分の間は貴方が家事を手伝って下さい。お祖母さんについては、今夜は私の家に泊まって貰いますが、認知症が進んでいるので暫く近所の老人ホームに預かって貰らおうかと考えています。お母さんの怪我が治癒するまで一か月近く掛かるそうです」
絵里は初めて会った中年男から命令口調で指示されたので憮然としたが、彼はそれを何とも思っていない様子である。彼は自宅に置き去りにした祖母のことを頻りに気にして自宅に戻ろうとしている。
短期の入所と断って多恵を連れて行ったにも拘わらず、老人ホームの職員は入所に必要な書類を封筒に入れて待っていた。彼等は多恵が短期で終わらずに入所するものだと思っている。彼女を一目見て、典型的なまだら認知症だ。今後、病気が進行するだろうと介護の人は言う。その日以降、岳は瑠璃子の送迎を済ませて老人ホームを訪ね始めた。今では、身の上話を聴いて貰うのを楽しみに、多恵は岳を待つようになっている。
「夫婦って不思議ね。傷痍軍人になった父親は働けなかったけど、私が産まれた。私は家を支える為に働き続け、夫とは勤めていた建設会社で知り合ったの。年が離れていると両親が反対したけど、私は婚期を逃していたし、彼が今の生活から助け出してくれる救世主のように思えたのよ。荒々しい男が多い中で、彼は優しかった。
私には夫との生活が全てだった。子供は二人とも女の子だったから、夫々、伴侶を見付けて家を出て行くものだと思っていたけど、夫はそうでなかった。彼は経営していた小さな建設会社を長女に継がせる心算でいた。彼は苦労して築き上げた建設会社を他人に譲るのを惜しんだのよ・・」
長女がそれに気付いていなかった訳ではなかったと言う。しかし、彼女はむさ苦しい男達と格闘しながら会社の経営をする人生は最悪だと思っていた。その世界は、優等生を続けていた彼女の美意識とは異質であったからだ。彼女は東京で民放のアナウンサーになろうとして就職活動に励んでいたが、父親は地元に戻ることを強く希望した。そんな時に知り合ったアルバイト先の社員は、彼女に取って渡りに船であった。彼は放送局に勤めるハンサムな三十前の独身男性で、しかも次男坊であった。彼女は結婚という切り札を得て、東京で自由を享受する権利を獲得したのだ。
二人は病院のロビーに座り診察室から呼び出されるのを待っていた。瑠璃子の膝の上に置かれた右手の甲には赤い傷跡が残っている。
「すっかりお世話になってお礼の申し上げようもないです。母は自宅に戻るのを納得しているでしょうか?」
「お母さんは老人ホームで暮らし続けると決めたようですよ。介護士の話では、お母さんの認知症は進行しているそうです。それで正式に入所することになりました」
「えっ。母と貴方が、私に相談もなしに勝手に決めたのですか?」
「実は昨日、老人ホームから連絡がありましてね。入所するかどうか至急決めてくれと言われました。他から入所申し込みがあって、その返事をする必要があったらしいのです。職員がうっかりその話を漏らしたので、お母さんは既にそのことを知っていました。私が着いた時には、お母さんは退所させられると思い込んで『家には帰れない。娘に迷惑を掛ける』と騒いでいました。お母さんは錯乱状態で私の言葉など耳に入らないし、その眼はフォークを握って貴方を睨んだあの夜のそれでした。私はその場で入所を申し出ました。後でそのことを貴方に話す心算でした。気を悪くしないで下さい」
「そんなに酷かったのですか。母は性格が変わったのでしょうか?」
「人には表に見せる部分と見せたくない部分があります。人は劣等感や嫉妬心を表には見せません。周囲の者は何かの折にそれを垣間見る程度です。お母さんはそれらを制御する力が弱くなって、若しくは制御システムが遮断される時間が多くなったのでしょう。高齢になってそんな症状を見せる人は多いそうです」
「そんな早過ぎます。母は七十になったばかりです」
高くはないが鼻筋の通った瓜実顔には、切れ長の目とやや受け口の上品な薄い唇が付いている。華奢な骨組みの上に適度に脂肪が付いて、それを覆う色白な肌を持つ初老の女性、それが多恵である。岳は、老人ホームで穏やかに暮らす彼女と時を共有するのも良いと思い始めていた。妻が生きていれば、彼女のような可愛い老人になるのだろう。岳の眼には、多恵と妻が重なって見えていた。しかしそれを誰にも知られたくなかった。彼女は、寡婦の心細さに晒され続けて、心を徐々に犯され始めていた。
男の網膜には、川岸から上野の丘の切り通しに向けて登る深い草叢の象が残っていたが、広瀬橋を渡り終えると道は一直線に繋がっていた。しかも道の両脇には屋根の平らな巨大な建屋が連なっていた。建屋の並びが途切れた岩屋寺石仏の前で、真田栗毛が立ち止まった。彼奴は、その前で余が妙法蓮華経を唱える習慣を覚えていた。
上野の丘を登る切り通しだけは昔の儘だ、と男は思った。円寿寺の山門の下で、彼奴は再び立ち止まる。今日は寄って行かぬのか、と真田栗毛が問うていた。親しくしていた寛佐法印はとっくの昔に入滅したであろう。男の足首が馬の腹を上下に擦った。
坂を下って塩九升に着くと、通りはすっかり変わっていた。道幅は広くなり、常店が隙間なく並んでおる。ここは萩原から運ばれて来た塩の市が立つ通りであった。吉明は余を連れて度々府内の町を案内した。
「このかますには九升しか入っていないではないか。ぬしゃ、儂を謀る心算か?」
「嘘こけ。萩原を出る時には、確かに一斗あったぞ」
「今、升で測ったら九升しかないぞ」
商人は怒鳴り声を上げて商いをしておった。余はそれが珍しくて、脚を止め眺めておった。
「御館様。どちらの言い分も正しいのです。売り手はかますに塩を一斗、確かに入れたのです。でも今は九升しかない」
「度量が違うのか?」
「いえ。太閤殿以降、度量は概ね統一されております」
「ではなぜじゃ。おかしいではないか」
余が癇癪を起して問い詰めると、吉明は笑いながらこう説明した。
「御館様。かますを良くご覧なされませ。苦汁が漏れているでござりましょう。萩原から府内に運ぶ途中で漏れてしもうたのです」
「取引の時、かますの中の塩は一斗でなければ公正ではなかろう」
「それが一概にはそうとも申せません。取引が終わってからも、あのように苦汁は漏れ続けます。あの商人も塩を買うた時には九升五合であったかも知れませんが、今は九升です。それを一升足せと申しておるのです」
「余は、そもそも苦汁など初めて知ったわ。塩に苦汁など入れずに売ればよかろうに」
余が呆れた声を出すと、彼奴はこのように説いたものじゃ。
「御館様が召し上がる塩は、あれから苦汁を抜いて精製したものでございます。商人は苦汁の入った粗塩を求めております。なぜなら、苦汁は豆腐を固めたり、野菜の肥料や皮膚のタダレなどに使いますから。文句を言っておる商人もそのあたりの事情は心得ておるのでございます。あれは利に走るというよりは、荷車を待つ間の暇つぶしの談合でござる」
上野の丘から望むと、荷揚城は四層の天守閣が海に突き出して見える美しい城郭であった。白雉城とも呼ばれる白壁が秀逸な城である。吉明が案内した折も、余は塩九升口からそれを眺めることしか許されなかった。
「重義が居住しておった荷揚城などに御館様をお入れ申す訳には参りません。申し付けて頂ければ、こちらから参上致します」
彼奴はそう言って、余を罪人扱いした重義の父親が完成させた城に一歩も入れようとしなかった。余の謹慎が解けておらぬと暗に示唆する気遣いじゃ。
竹中重義は秀忠公の子飼いであった。公は余が謀反を企てるのを恐れたから、重義は余の監視を怠らなかったし豊後川を渡るのさえ禁止した。そして海路での逃亡を防ぐために内陸の津守に館を建設して、余をそこに封じ込めた。その功績で彼奴は莫大な実入りのある長崎奉行に就任したのだ。しかし、それも秀忠公の死去に伴い終焉した。元々、長崎奉行には旗本が就任するのが慣例であったが、それに大名が就いたから旗本の恨みを買うたのだ。日根野吉明はその後任であるが、彼奴には家光公に取り入ろうとする野心がなかった。余に取って、彼奴は共に関が原を戦い抜けた盟友であった。
家光公も余と似た境遇を持つ身である。公も弟君に将軍職を奪われそうな経験をした。皮肉にも、それを権現公が正統に戻したのだ。二代目の将軍職は三男の秀忠公に継がせたのに、三代目には長男に継がせるとは、権現公は如何な所存であったのか?
余には二つの耐え難き苦悩があった。一つは将軍職を父が継げなかったことである。二つ目は権現公から受け継いだ気鬱の病だ。その二つは繰り返し余の脳に侵入して騒動を起こした。越前騒動に始まり、病気悪化による参勤の中止、極め付きは正室勝姫の殺害である。未遂ではあったが、娘の殺害まで実行されて、温厚な秀忠公も切れてしまう。家臣の忠義心は離れ、余は府内に蟄居を命じられた。 そんな境遇にあっても、お蘭はたった一人の余の理解者であった。しかし、萩原に住み始めて半年も経たずにお蘭が死去して、余は身体の一部を喪失した心持ちになり意気消沈した。しかし、若い肉体は酒や女にその捌け口を求めたのだ。
信誉上人と知己を得たのはお蘭の弔いを頼んだ時である。彼は浄土寺の住職であり、無類の善人だ。その人格は人を殺めて来た余とは真逆であった。彼の説く仏法とは、阿弥陀仏のおわす極楽浄土に行くことを目的とし、念仏を唱えることにより達成できると云うものであった。
「上人。念仏を唱えなかった者は成仏できないというのが寺の教義であるのは間違いないか?」
初めて上人に会った時、余は彼を挑発した。それに対して彼はこう答えたのだ。
「さあ。身どもは死したことが御座らぬから、そのようなことは分り申さぬ」
「それでは、なぜ死後の世界を講話しておるのじゃ?」
「凡そ仏法とは、天上天下の理を天竺におわした釈迦が悟り、それを弟子が広めたもので御座います。しかし、釈迦と云えども死後の世界を見て弟子に説いていた訳ではありませぬ。我ら凡夫は釈迦の説法を信じ、阿弥陀如来に帰依し、南無阿弥陀仏を唱えて極楽浄土に行こうとしておるのです」
余は眼に見えるもののみを信じていた。来世について関心はなかったし、その存在も疑っていた。生死の境界に身を置く戦場で余は生を満喫していた。敵の流す血に興奮し、逃げ惑う将兵の背にもののあわれを感じた。幸運に恵まれない主人に仕えた武士は悲惨である。そこには人の世の全てが凝縮されていると思った。突き詰めて、強者が弱者を支配して蹂躙するのも世の理だと割り切って来た。上人が極楽浄土を見て来たかの如くにそれを口にするなら、念仏を唱えなかった者は成仏できないとでも言うのなら、余は彼を手打ちにする心算であった。しかし、彼は極楽浄土を見たことがないから分からぬと言い、尚且つ、そこに行くことを信じて念仏するのだと言い切った。これには余も参ってしもうた。
「そもそも余は死後の世界など信じておらん。しかし、お蘭だけは別じゃ。あやつは死した後も余の枕元に出て来る。余が殺めた者は数知れぬが、誰一人幽霊になって出ては来ぬのに、あやつが現れるのは如何したものであろうか?」
「お蘭様は枕元に出て如何なさいますか?」
「何もせぬ。ただ微笑んでジッとしておる」
彼は余の面を一瞥して小考した。そして、やおらに語り始めた。
「それは御館様のお蘭様への恋慕の情が強いからでしょう。それに惹かれてお蘭様が姿を現すと、身共は考えまする」
「恋慕が幽霊を生むか・・」「上人。このまま幽霊を放っておいて大丈夫かの?」
「その前に、御館様はお蘭様が成仏できずに彷徨っておると考えたことが御座いますか?」
余はお蘭を亡くして悲しんでおった。彼の指摘は百姓の普通の感覚であろうが、『怪力乱神を語らず』を信条とする余がそれを認めてしまうと、凡夫そのものに陥ってしまう。余が返事に難儀しておると、彼は続けて言揚げをした。
「お蘭様の成仏を願って一心に念仏なさいませ」
余はそれに返事をしなかった。萩原の館に戻って直ぐ、余は三人の女中に夜伽を申し付けた。それが上人への返答である。
一時の興奮も治まって、多恵が穏やかに暮らしていたので、老人ホームの職員は安堵していた。彼等は岳が訪ねて来るのを歓迎していた。彼女が岳を相手に昔語りしている姿が、とても幸せそうに見えるかららしい。
「長女の小百合が卒業と同時に結婚したので、夫は会社を他人に譲ることを考え始めたの」
「ご主人は、瑠璃子さんに跡を継がせようとはしなかったのですか?」
それができれば、夫の憂いの大半が解消しただろう。夫は瑠璃子に跡を継げと言わなかった。建設業は男が中心の職場であったし、女が口先でとやかく言うのを最も嫌う世界であったからだ。建築士でもない娘が無防備に飛び込んだら、苦労の果てに会社を潰すのは見えていた、と多恵は言う。
「でも小百合さんには会社を継がせようとしたのでは?」
「あの子は要領が良くて人を操る才があったけど、次女は子供の頃から要領が悪かった・・」
その頃、多恵は遺族年金と会社を手放して得た預金で暮らしていた。死の間際に娘のどちらかが帰って来て、後始末をしてくれれば良いと思っていたが、突然、瑠璃子が絵里の手を引いてアメリカから帰って来た。彼女は地元の大学で英語講師として働き始めたが、周囲との折り合いが悪くて一年も経たずに辞職したという。その後、彼女は母親に絵里の世話を任せきりにして塾に没頭した。彼女は経営のことより塾生の英会話力に拘ったので、家計はいつも苦しくて、預金が目減りするばかりだと、多恵は愚痴を零した。
瑠璃子は週に二度、母親の入浴の世話をしていた。多恵が老人ホームで入浴するのを拒絶したからである。多恵は他人の前で肌を晒すのを嫌がり、娘に身体を洗わせていた。服を脱ぎ、着替えるまで、彼女は自分から動かないと言う。その態度は、彼女が退行して幼児のように振舞っているかのように聞こえるが、それとは全く異質な物を感じる。母親は私を下女扱いにしているのだ、と瑠璃子は訴える。娘に心を開こうとしない癖に、平気で入浴の世話をさせる母親に彼女は手こずっていた。そのストレスを、笑って話を聞いて呉れる岳に投げつけていた。彼女は岳に肉親に近い感情を持ち始めていた。
「岳さんが兄さんだったら、私はもっと気楽に生きられたのに」
瑠璃子は砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲みながら、世間話をすることでストレス解消に努めている。
「お母さんは、相変わらずかい?」
頷いて、瑠璃子は深い溜息を吐くのである。
「娘さんはどうしていますか?」
「ほとんど家に居ないわ。私への反発かも知れない。家には寝に戻り、上の娘とスカイプで話している。私は姉と心が通じ合うことがほとんどなかったけど、一卵性双生児って離れていても通じ合うらしいわ。その内にアメリカで暮らしたいと言い出すかも知れない」
瑠璃子の話を要約すると、絵里は、芽衣が受けている教育や彼女の人生設計を聴いて羨ましく思っている。でも自分の将来が見えて来ないので焦っている。絵里は理数系が強いけど、それを伸ばす教育を日本では受けられない、その能力を活かす職場も日本には存在しないと嘆いている、と言うのだ。
「そんなに理数系が強いのかい?」
「高校の数学・化学や物理の教科書は一日で読み終えてしまい、退屈な授業に飽き飽きしている。それが傍目にも透けて見えるから周囲や教師に疎まれている」
「へえ。それは凄い。ところで、別れた御主人はアイルランド系の実業家で、長女は彼が引き取ったと多恵さんから聞いたけど、彼は資産家なのかい?」
「私もオマリー家の資産は良く分からない。お義母さんはニューヨークの郊外で質素な独り暮らしをしていたわ。でもロバートは、私と絵里の生活費の振り込みを十年以上続けているから、多分そうだと思う」
「彼は再婚しているの?」
彼女は首を傾げて、それを自信なさそうに否定する。
「していないと思う。彼は古いタイプのカトリックだから・・」
「それは離婚が成立していないと言う意味ですか?」
「ええ。私が二人の子供を連れて日本に帰ろうとしたら、空港で夫の部下に拘束されたの。『私の子供を連れて帰るのは許さない』と彼は激高していた。
『君は最後までオマリー家に馴染もうとしなかったね。君は常に日本人であろうとしていたから、互いの溝を埋められなかった。私は家族を守るためには何でもするし、自分に不都合な法律は平気で破る。しかし、君はそれを非常識だと非難する。私の一族、いやアイリッシュはイングランドに虐げられてアメリカに渡って来た。そして、時の権力や差別と戦いながらここを永住の地と決めた。アフリカ系アメリカンが今の地位を得たのは、忍従と戦いの歴史が在ったからで、彼等が社会に調和したからではない。それはアイリッシュも同様だ。アメリカでは戦い続けなければならない。
君は、大学で理想を語る分には有能かも知れないが、実社会では無力に等しい。だから子供達を良い環境で育てられない。メイとエリーは私の事業の後継者だから、君は今後一切の関わりを持たないで欲しい』
そう夫は宣言したけど離婚するとは言わなかった。近頃は離婚するカトリックも珍しくないけど、彼の家は伝統的なアイルランドの家族制度を維持している。
私が、次の日の出発を待って空港傍のホテルの部屋で泣いていたら、彼の母親が訪ねて来て絵里を渡してくれたの。
『幼子には母親の愛情が必要よ。でも貴方の倫理観は息子の職業を許さない。女の私は、貴方の気持が痛いくらいに理解できる。家族には愛情深い夫が、他者には残虐に振舞う。そのギャップに、今でも私は慣れずにいる。本で読んだけど、日本には戦国時代があって、武士は殺戮や陰謀を重ねていた。アイルランド系アメリカンは今でもそれを続けている・・
私は可愛い二人の孫のうち一人だけ、母親の愛情を受けさせる決断をした。エリーを立派に育ててね。それは日本人も一緒でしょ』
彼女は涙を流して別れを惜しんでくれた」
ロバート・オマリーがマフィアのボスをしているのは、結婚して暫くして知った。彼は実業家であるが、裏社会のリーダーで、政治家とも繋がっていた。彼に取って、それは混然一体のもので、どれが欠けても自由と権利を享受できないと考えていた。トム・クルーズ主演の『遥かなる大地へ』という映画で昔のニューヨークの裏社会を描写していたが、それを地で行くような闘争の歴史がアメリカのゲール系には色濃く残っているのだと、瑠璃子は言う。
彼女がもう少し世俗的な性格の持ち主であったら、実業家としての夫の美味しい部分を享受できたのだろうけど、暴力を全否定する彼女は、家族と教師のキャリアを捨てて帰国せざるを得なかったのだ。
「アイルランド系社会ってアングロサクソンと少し違っているの。一般にキリスト教圏って、個人が神と契約する社会で個人主義が発達しているように言われるけど、アイルランド系アメリカンは土臭いの。家族や仲間の繋がりを重視する傾向が強い。そう言う意味では、村社会の調和を意識して暮らす日本人に似ているの」
歓楽街のビルの隙間で酔った女子を犯したが、余の心は満たされなかった。かんたん港の端に牛車を停めた男の気を失わせて隣の女子を犯しても、結果は同じである。生前、余は心の隙間を埋めるべく多くの女子を抱いたが、身も心も満たしてくれたのはお蘭だけであった。
お蘭を追うように娘のおくせが他界したのは一年後のことである。娘を不憫に思うたのかも知らぬが、お蘭はおくせを連れ去った。
「のお。上人殿。父が逝去して二十年。権現様が去られて十年になろうとしておる。権勢を誇るとは、どのようなことかのう。余は、それが分からなくなってしもうたわ」
「お蘭様はまだ枕元に現れますか?」
「お蘭はただ泣いておる。それが毎晩、現れて余を苛むのじゃ」
余は大袈裟に顔を歪めて上人に訴えた。
「御二人の供養をなさいませ。あの世の者がこの世の者と交わるのは許されませぬ」
余が浄土寺の境内にお蘭とおくせの墓を建立したいと信誉上人に伝えると、彼は眼を細めて余の申出を受け入れた。彼は己の説教の効果に上機嫌であった。じゃが、出来上がった五輪塔を見て複雑な思いをした筈だ。それは八角柱を輪切りにした大小の石を五段に重ねたもので、過去のどの仏塔にも似ていなかったし、その表面には梵字ではなく四角で縁取った幾何学模様を彫っている。しかも全体の雰囲気はバテレンを思わせるのだ。彼は何も言わずに読経を始め、お蘭とおくせの供養を済ませた。余は久し振りに爽快な気分になった。
余は竹中重義を憎んでおった。秀忠公から命じられたとはいえ、彼奴は余を罪人扱いにしたし、お蘭が密かに信心していたバテレンを徹底的に殺戮した。後に秀忠公が没して彼奴が失脚して腹を切った時、余は小躍りをして酒宴を催したくらいじゃ。そうじゃ。上人が訝しんだように、五輪塔は将軍家と重義に対する意趣返しであった。じゃが、所詮、隠居の戯れじゃ。
五輪塔にはもう一つの意味があった。当時、家の概念は絶対的なもので、一対の雌雄からなる家族は重要視されていなかった。余は家族の五輪塔を建立して冥途での成仏を祈願した。それ以降、お蘭が枕元に現れることがなくなって、余の心は安んじたが、ここでもあの竹中重義が注文を付けたのじゃ。
「一伯様。お三方の墓が雨に濡れてお気の毒です。廟で囲んでも構いませぬか?」
「上人は面白いことを言う。元々、墓とはそのような物であろうが・・」
「常人の墓は雨に打たれ朽ち果てて行くのが世の習いですが、権現様の血筋となればそう云う訳には参り申さぬ。強い気には永遠の供養が伴うもので御座います。石塔を朽ち果てさせる訳には行きませぬ」
五輪塔を人目に触れさせまいとする上人の意図は明らかであったが、余はそれ以上の言揚げは止しにした。
余が意匠した八角五輪の石塔が切支丹墓を窺わせると重義は注文を付けたが、彼奴の言い分は当たらずとも遠からずであった。石の側面に刻んだ模様は波斯国の絨毯の模様を真似たものであり、それが余に許された精一杯の抵抗であった。それに彼奴は敏感に反応したのじゃ。彼奴は、余に謀反の意志ありとして津守館の建設を急がせた。余は豊後川を渡るのを禁じられていたが、浄土寺での供養だけは例外とされていた。ここで重義に付け込む隙を与えてしまえばそれも叶わなくなる。それで上人の申出を受けることにした。
瑠璃子は英語の学習を通じて、アメリカの歴史や社会、日本の歴史や文化に対する一定の見識を持っていた。それは彼女が不断の努力を重ねて習得したものである。帰国して、それを活かす場が与えられたが、大学の徒弟制度やセクハラ紛いの行為に嫌気が差して自宅で塾を始めた。
「グローバリゼーッションの波を泳ぎ切る為には、英語は必須です。その為に私は英会話ができる人材を育てている心算です」
初めて会った時、彼女は自分の職業についてそう話したが、今は停滞している。岳は、そのような頑なな姿勢を取り続ける彼女の生い立ちや境遇に興味を持ち始めていた。そうすると、多恵と瑠璃子の言葉の端々に、三人の女性の関わり合いが朧気に見えて来た。
大津留夫婦は勤勉に高度経済成長期を生き抜いてそれなりの財を成したが、彼等は後継者問題を抱えていた。夫は才気溢れる長女を後継者にしようとしたが、多恵はそれに積極的になれなかった。なぜなら、建設会社の承継が長女を幸せにしないと思っていたからだ。
長女の小百合は父親似で背も高く人目を惹く美少女だった。スポーツも勉学も人より抜きん出て、皆の善望を集める子供であった。それに対して、二つ年下の瑠璃子はコツコツと努力を積み重ねる地味なタイプだった。彼女は姉のように人の注目を集めることはなかったし、痩せた内向的な子供であったと言う。妹に取って、姉は憧れだが、嫉妬の対象であり、強烈な劣等感を自分に与える相手でもあった。
大学に入った瑠璃子は、姉を超えることのみに執心して得意の英語の勉強を続けたが、彼女は予想もしていなかった現実に向き合うことになったと言う。それは英字新聞を読むことはできても、アメリカ人の講師と満足に日常会話ができなかったことである。もう一つは姉の結婚である。小百合は瑠璃子の前からあっという間に去ってしまった。彼女は妹のそんな気持ちを知らなかったし興味もなかった。ただひたすらに自身の幸せを求めて歩き始めていた。越えるべき存在を喪失した瑠璃子は目標を失ってしまったのだ。
英会話力はこの二年で向上した心算であったが、講師は新たなテーマを彼女に投げ掛けて来た。ゼミの教材にしていたニューヨークタイムズの記事について講師から意見を求められたが、彼女は何一つ答えることができなかった。その記事は東西ドイツ統一の特集であったが、彼女はそれを論評するほどの知識や見識を持ち合わせていなかったのだ。
『いくら英語を話せても、新聞記事に対する批評一つ言えないのでは、アメリカでは馬鹿にされます。アメリカは個性を大事にする国だから、自分なりの意見を
常に求められます。それに答えられないのは言葉以前の問題なのです。そして日本人はその傾向が強いと思います』
講師の一言が瑠璃子の胸を貫いた。記憶した単語の数はゼミの誰にも負けない心算だけど、その語源や背景について彼女は何も知らなかった。世界史や日本史は一通り学んだので一般的な知識は備わっている心算であったが、今、誌面を賑わせている出来事について、それを評論するほどの政治や経済や宗教に関する知識は皆無に近かったのだ。講師は更にこんな風にも言った。
『アメリカは歴史の浅い国だから、日本の歴史や文化を語れる人は現地では尊敬され、本物の知性だと評価されます。貴方方は清少納言や世阿弥について、人に説明ができますか?』
因みに、彼は日本文学の研究をするために来日した研究者で、講師の仕事は生活費を稼ぐ為と大学の図書館が所蔵する非公開の書籍を自由に読める特権を得る為である。その講師の紹介で、瑠璃子はニューヨークの大学で講師として働き始めた。
瑠璃子は岳に話すべきかどうか、迷っていた。彼女は飲み終えたコーヒーカップを暫く見詰めていた。岳が新たな豆をミルに入れてハンドルを回し始めると、胸の内に収めておく窮屈さに耐えかねて彼女は話し始めていた。
「いつも誰かに見張られている気がする。視線を感じるの。胸騒ぎがして落ち着かない。それに加えて母がおかしくなった。私の前だけかも知れないけど、母には別の人格が時々現れます。岳さんの前ではどうですか?」
岳が首を振ってそれを否定すると、彼女は告白を続ける。
「母の憎しみに満ちた眼差しに気付いて、ハッとする時があるの。先日もそうだった。いきなり私の胸をギューと掴んで『この身体が御館様をお慰めするのは許さない』なんて言い出すのよ。
男性にこんな事を話すのは恥ずかしいけど、母の身体が段々若くなっている。胸に張りが出て肌が潤い始めている。その肌から、娘の私が赤面するほど甘い女の匂いがするの。母に何かが起こっている・・」
「入所したての頃ほど頻繁ではありませんが、私が老人ホームを訪ねて、お母さんの話し相手をしているのは御存知でしょ。それが、お母さんのリハビリになると医者も言っています。でも、私も男の端くれですから、そんなことを聴かされたら困ってしまうし、変なことを想像してしまうじゃありませんか」
岳は冗談を言って話題を逸らした心算であった。
岳には、多恵が特段変わったようには思えなかった。しかし不自由をしている左脚の動きは一層悪くなっていた。介護士は、その原因は筋肉量の減少だと断言した。体操レクリエーションに誘っても、彼女は自室から出て来ないという。彼女は夫との幸せな日々の記憶を反芻しながら生きている、と思った。
枯れ始めたモミジ葉を、降り続く秋霖が濡らしていた。天気の所為か、気持ちが沈んで、岳は妻子が他界した日のことを思い出すことが多くなった。瑠璃子から連絡があったのは、そんな日の昼前である。
「今から母を迎えに行くけど、家の座敷で待機して貰えない?母と二人きりになるのが怖くて。鍵はポストに入れて置くから・・」
玄関ドアを閉めると、岳は顔に冷気を感じた。まるで人が長く住んでいないかのような冷たさである。雨戸を閉め切った暗い座敷に入ると冷気は一層強くなる。蛍光灯を点けると声を上げそうになった。二間続きに並べた木製の机や椅子が埃を被っている。塾は活動を停止していた。
多恵が湯に浸かって温まり始めると、瑠璃子が座敷の戸を開けた。そして、岳をダイニングの椅子に座らせて、石油ストーブに点火した。
「ごめんなさい。座敷は寒かったでしょ。私の勘違いかどうか、確かめて欲しいの」
茶を飲みながら岳は耳を澄ませていた。浴室から聞こえて来るのは瑠璃子の声ばかりであるが、多恵が風呂から上がり浴衣に着替えているのはその話声で察せられる。どうやら洗髪したので石油ストーブの傍で髪を乾かすようである。
挨拶をしようと椅子から立ち上がり掛けると、多恵が怒りの形相をして詰め寄って来た。不自由な脚を引き摺る彼女の浴衣の前が開けている。老人ホームの介護士に裸を見られるのを嫌がった彼女が、前を隠そうともしていない。授乳の痕跡を残す濃ゆく丸い乳首が、張りのある盛り上がりの先に付いている。瑠璃子の言う通り、衣服に隠された部分の色艶は尋常でない。それが年相応の顔や手足の皺に比べて不自然なのは明らかであった。
「結界を破り、女所帯に居座るお主は誰じゃ。瑠璃子への手出しは許さぬ」
彼女は自分の領域を犯した者を糾弾する勢いである。下々の者に言い放つような言い方も彼女には似合わない。
「多恵さん。しっかりして下さい。日根野です」
「おお。日根野か・・」
緊張を緩めた多恵が溶けるように床に尻を落とし、眼を石油ストーブの炎に向けて動かなくなってしまう。ヘアードライヤーを握ったまま、瑠璃子は瞬きを繰り返している。
いつもなら読書の時間だが、早めに湯に浸かり浴槽で関節を解し始めた。それなりの効果があると思うが、この程度では役に立たないのは分かっている。
(卑下するほどには、身体も心もまだ衰えていない)
そう自分を慰めるが、湯から出した手の甲には皺が目立つようになった。この十五年、岳は外出するのを控えて人との接触を避けていた。人と話をする必要がある場合でも、事務的に用件を伝えて手早く終えるようにしていた。人生の再構築には臆病になっていたが、忍び寄る運命とそれに向かい合う覚悟はできている心算である。岳が隠遁生活を始めたのには、それなりの事情があったが、それを他人に口外することはなかった。仮にその理由を話したとしても、誰もそれを信じないだろうし、その経験を共有したいと思う者は居ないだろう。岳の脳内には茫洋たる光の集合体が浮かんでいた。
岳が祖父と同じ経験をしたのは、バブル経済が崩壊して一五年ほど経った頃である。家業の不動産賃貸業は順調であったが、政府は増え続ける国債残高を懸念して景気対策を中断した。それが景気を冷えさせて賃貸料が一気に下落したのだ。その結果、建設中のビルの資金調達にも支障が出て、岳は地所の一部を処分する羽目に陥っていた。その年の暮れに、岳は家の慣わしである寺社への供養料を納めなかった。資金繰りに困っていたのもその理由だが、最大の理由は一伯公の命令である。
当時、自宅は府内城祉公園の内堀に隣接するビルの四階に在り、一階は駐車場で、二、三階には弁護士事務所が入居していた。岳はそこで妻と娘の三人で暮らしていた。この辺りは裁判所や警察や法務局等の公的機関が一か所に集まった区域で夜間の人通りは極端に少なくなる。
岳がその姿を見たのは十月の終わり頃である。建て直しを始めたビルの打ち合わせを終えて車から降りたのは深夜であった。車の施錠をしようとして、バックミラーに何かが映っているのに気が付いた。振り向くと堀端で何かがぼんやり光っていた。腕時計を見ると既に十一時を過ぎていた。その茫洋とした明かりは、内堀の真向いに建っているビルが放つ光が水面に反射したものだと思ったが、目を凝らすと、その明かりの中から人が手招きをしていたのだ。背中に氷の塊を落とされた気分になった。
明かりの前に立っていた。
「お主には余が見えるのか」
頷くと、陽炎に似た光に包まれた老武者が再び口を開いた。
「名は何という」
「日根野岳と申します」
その男は狩衣を纏い、剃った頭頂部の脇から白髪の混じった長い髪を肩まで垂らしていた。齢は六十前後であろう。
「おう。日根野か。その方は吉明の子孫かえ。確か吉雄という嫡男が居たが、その末裔かえ?」
「いえ。私は吉明の弟筋、高英の末裔です」
「それでも余が見えるのじゃから、その方が日根野家を継いで余の供養をしておるのじゃな。日根野家が余の供養を始めて何年になる?」
「慶安三年の供養が最初ですから、確か、三百五十年になったかと・・」
無力感を漂わせるその男は深い溜息を吐いた。
「供養のお蔭で、お蘭とおくせは黄泉の国で平穏に暮らしておる。しかし、余は今でも黄泉比良坂を彷徨っておるのじゃ。余の罪はそれほど深いし、気鬱の病も治っていない。のう日根野。もう供養を止めてくれんか」
男の背が曲がり、頬と眉間には皺が刻まれている。
「一伯様。供養は先祖の遺言です。今更それを止めることはできません」
岳は男の眼を窺っていた。
「日根野家には感謝しておるが、供養を止めてくれ。そうすれば、黄泉の国に住むお蘭とおくせが出国して、余と逢うことができるのじゃ。余が黄泉比良坂を漂う運命なら、せめて妻子と旅を同じゅうしたいのじゃ。そうしてくれぬと、余の癇癪の虫が動き出して害を為すことになる」
車のドアノブに手を掛けたまま、一歩も動いてなかった。堀端の薄明かりも消えていた。岳はその年の暮れの供養料を納めなかったのである。
一伯とは松平忠直の号である。彼の父親は結城秀康であり、秀康は徳川家康の次男である。長男の信康は織田信長から自刃を命じられて既に他界していた。世の習いからすれば、次男が家康の後継者になる選択もあった筈だ。しかし家康は才気活発な次男より、関が原の戦いに遅参する凡庸な三男の秀忠を跡継ぎに選んだ。忠直の屈折した性格はその頃から表れ始めたという。越前での乱行の末に豊後に隠居を命じられ、府内藩主の竹中重義が預り人となった。日根野吉明は重義没後の藩主で、預り人の役目は承継された。
日根野吉明は気骨の武将であり、府内では厳格な治政を敷き恐れられたが、初瀬井路の開削をして領民を飢餓から救ったので尊敬もされた。彼は自身にも厳格であり、当時の常識である側室も置かなかったので、子は一男一女のみであった。しかし、彼はその跡継ぎに先立たれたのだ。
当主が死期を迎えると、日根野家では弟の孫にあたる高英を養子にと幕府に届け出たが認められなかった。岳は、そのまま府内に残った日根野高英の末裔である。日根野家は、その後に入城した大給松平家と良好な関係を築いて、一伯公の供養をしながら明治を迎えた。
江戸時代の末期まで、日根野家は浄土寺・熊野神社・円寿寺に夫々毎年百俵の供養料を納めていた。浄土寺と熊野神社には一伯公の遺骨が弔われており、円寿寺は吉明公を祀っている。今ではそれを現金に換えているが、日根野家はそれを捻出するのに腐心していた。特に戦後の農地解放が家の財政を直撃した。それで岳の父親は府内に残った農地にアパートや賃貸ビルを建てて供養料を捻出していた。生前の父親に問うたことがある。
「なぜ苦労しながら供養料を納め続けるのですか?」
父親は半ば諦めた表情で岳に答えた。
「他の日根野家は旗本として江戸に帰参したが、天皇家が崇徳上皇を祀り続けるように、私のご先祖は一伯公の霊を慰めるために府内に残ったのだ。祀り続けなければ災いが起きる。過去に何度か強姦殺人が横行して府内の治安が乱れたと伝えられている。
良い機会だからお前に伝えておくが、私の父は、昭和二十年の大空襲で府内が焼け野原になった年に一度だけ供養料を納めることができなかった。年が明けて、母と姉が女陰を破られ、かんたん港に浮いた。絶望した父はその年の供養料を納めて自害したんだ。その時、私は十五歳だった」
「翌年からの供養料はどうやって工面したのですか?」
「工面はできなかったよ。東院と下市からの上納米をそのまま三社に渡して勘弁してもらった。戦後の混乱期だったし、供養料が届かなくても三社は祀りを続けていた。それに彼等は母と姉の死の原因を知っていた。『過去に何度か供養が疎かになり一伯公が現れて府内を混乱に陥れたと年寄りが伝えております。ですから供養を絶やさないようにしなければなりません。それが日根野家の使命ですぞ』熊野神社の氏子総代はそう言ったんだ」
上納米とは、吉明が開削した初瀬井路に感謝して、東院と下市集落の農民が四百年近く日根野家に納めている歳暮のことである。
岳に電話が掛かって来たのは、一月も終わりの頃であった。男は結城文誉と名乗り、浄土寺の住職だと告げた。
「先代が突然他界して寺を継ぎましたが、一伯公廟の様子がおかしいのです。こんな事初めてです。私は寺の経営に専念していたので、仏事について父親から何も知らされていないから困っています。力を貸して貰えませんか?」
一伯公廟は松平忠直とその愛妾お蘭、娘おくせの三人を供養する入母屋造妻八桟瓦葺の霊廟である。
「寒い日が続きますね。毎年、多額の供養料をお収め頂きありがとうございます。理由は分かりませんが、昨年の秋頃から霊廟が震え始めたのです。勿論、毎日ではありません。しかし、私を含めて何人かがそれを見ております。初めは、夜間に国道を乱暴に走るトラックの影響やビル風を疑いました。廟が振動を始めると寺僧を動員して調べましたが、原因が解りません。先代が存命であればその対処の方法もあったのでしょうが、私は読経しかできません。それで貴方に御足労をお願いしました。今から中を覗いて見ませんか?」
住職は三十を超えたばかりであろう。寺が経営する幼稚園や八角三重納骨堂の建設に忙しくて、寺務にはほとんど関わり合って来なかった、と言う。
外観からは霊廟に何の異変も感じられない。住職は少し緊張した面持ちで観音扉を開いた。墓石の前には花が手向けられ、掃除は行き届いていた。三つ並んだ墓石の真ん中が忠直公の生前墓で、左がお蘭様、右の少し小さな墓石がおくせ様である。八角柱を輪切りにした大小の石が五つ縦に積まれた形も以前のままである。岳が振り向くと、住職は廟の外から気味悪そうな顔をしてこちらを覗いている。
「変わったことはないようですね」
岳は間合いを外された気色になっていた。
海風の通り道を塞ぐので、冬になると碇山全体が寒風に晒される。山には背の高い針葉樹は存在しない。植わっているのは広葉樹が大半である。熊野神社の一の鳥居をくぐって直ぐ、岳は参道の脇に置かれている石塔に眼を遣った。そのまま登り続けると六角堂が見えて来た。堂の扉がバタバタと音を立てて開け閉めを繰り返している。中を覗くと、一伯公の墓石が倒れたまま放置されていた。
社務所の土間に立って神職に声を掛けるが、冷えた空気が震えるだけである。人気のない室内の上がり框にはうっすらと埃が溜まっている。居住している筈の神職が見当たらないので氏子総代に連絡を取ったが、彼も心当たりがないと言う。
(浄土寺は供養をしていた。なのに、なぜ一伯公廟は震えるのか?あの時、一伯公は『供養を止めてくれ。そうすれば、黄泉の国に住むお蘭とおくせが出国して、余と逢うことができる』と言った。言う通りにしたのにも拘わらず、彼は妻と娘を犯し殺した。彼は日根野の家を根絶やしにする心算かも知れない。私は守るべき家族を失ったから、憑き殺される覚悟で供養を続けた。あれから十五年を経て私はまだ生きている。祖父と違っているのは、私には跡継ぎが居ないことだ。このまま三十年ほど放置すれば、彼を供養する家は完全に絶えるのに、なぜ彼は現れたのか?
沖から打ち寄せる波が堤防を直撃して、波頭はそれを越えて漁船に降り注いでいた。私が駆けつけた時、妻子は堤防下のコンクリートの通路に引き揚げられていた。その姿が無残であったので、近所の人が二人に毛布を掛けていた。
世話する人が居て、二人の遺骨を三福寺の納骨堂に納めた。私はその傍に家を建て、二人の弔いをしながら長い余生を送り始めた。私が妻子の供養を続けるのは、二人にあの世で幸せに暮らして貰いたいからである。あの世の入り口で立ち往生などして、一伯公に関わり合うのを恐れたからだ。言い伝えに寄れば、彼は関わり合う全ての者を狂気に導いている。例外は日根野家だけであったが、今となってはそれも風前の灯だ)
豊後市では謎の強姦事件が横行していたが、犯人の逮捕に至らないので、それを真似る者も出て来た。捕まえてみると、彼等の大半は職に就いていない者か、就いていても待遇に満足していない者であった。彼等は経済的な理由だけでなく、心の問題も抱えていた。地元のマスコミは人権の重要性と警察の無策、女性自身の無防備を書き立てるが、事件の発生を防ぐことができないのは明らかである。
(一伯公が再び現れたのは確かだ。ストレスに耐え切れなくなると、彼には女性を苛む性癖があった。その癖、正面から堂々と戦いを挑む者には心を縮ませて臆してしまう。家伝の書にはそう書いてある。
多恵に関りを持ったのは、私の油断だ。容貌が亡くなった妻を想わせたから、彼女を捨てて置けなくて、結果的に彼女をもっと不幸に陥れたのかも知れない。これ以上、私の宿命に他人を巻き込む訳には行かない・・いや待て。多恵は瑠璃子に『この身体が御館様をお慰めするのは許さない』と言ったらしい。多恵に憑いているのは誰だ?
一伯公の愛妾お蘭様の記録はほとんど残されていない。萩原には、夕餉に人の生首が添えられていないと食欲が湧かないくらいお蘭様は残虐を好んだと伝えられている。しかし、その逸話は津守にも伝わり、彼女が暮らしていたかのように伝承されているから、真偽のほどは疑わしい。なぜなら、彼女は津守に引っ越す前に他界したからである。
多恵に憑いているのはお蘭様だ。成仏している筈の彼女が、なぜ今頃になって現れたのか?いずれにしても、私が背負う宿命に他人を付き合わせる訳には行かない)
岳は家に閉じ籠り、テレビも付けず、新聞も読まなかった。情報を得るのはインターネットのみである。老人ホームへの訪問を止め、何度か掛かって来た瑠璃子からの電話も放置した。兎に角、極力、人に関わり合わないように過ごしていた。
(私に関りを持つと、他人が不幸の連鎖に巻き込まれる。家の宿命は家の内で片付ける。その内に彼が現れ、私を殺害するだろう。私には、黄泉比良坂で彼と戦い、彼を道連れにして地獄に落ちる覚悟はできている。妻子と二度と会えないのは辛いが、今だって会えている訳じゃない。思い出に引きずられているだけのことだ)
その一方で、まだ知らない事情があってそれを知れば怨霊が動き始めた理由が分かるかも知れない、と生への未練を断ち切れずに居るのだ。
真夜中にチャイムが鳴り、ドンドンと玄関の戸を叩く音がした。岳がベッドから降りてダイニングのモニターを見ると、そこには瑠璃子が立っていた。戸を開けると彼女は大声を上げた。
「なぜ私を無視するの。母があんなことになったから、私を避けて居るの?ハッキリ言って頂戴・・」
岳は彼女の口を塞いで家の中に引き込んだ。
「真夜中にそんな大声で話したら近所迷惑だよ。それよりどうしました。何かあったのですか?」
瑠璃子は玄関のタイルにしゃがみ込み、声を上げて泣き出した。何を尋ねてもただ泣きじゃくる彼女をダイニングの椅子に座らせた。そしてレモン果汁と砂糖をたっぷり入れたダージリンを手渡した。泣きながら、それを半分近く飲んで、漸く落ち着きを見せ始めた。
「独身男性の家を、真夜中に独りで訪ねて来た訳を訊きましょうか」
彼女は大きな眼を見開いたままポカンとしている。やがて、そんな言い方は岳さんには似合わない、とばかりにその口元をきつく結んだ。泣き尽したのか、彼女は少しお高く留まった風のいつもの冷静さを取り戻していた。岳は顔を少し傾けて、訪問の理由を話すように促した。
「こんな時間に訪ねて来てごめんなさい。娘が帰って来ない。もう二日目になる。こんなことは一度もなかった」
「警察に連絡しましたか?」
瑠璃子は、岳の中の只ならぬ気配に気付いた。
「はい。十日ほど前、絵里は学校を休んで美由ちゃんを探していました。それを警察と学校から注意されて一度は中断しました。でも一週間過ぎても美由ちゃんの行方が分からないので、再び探しに出たのだと思います」
「絵里ちゃんが最後に会った人が誰だか、分かっていますか?」
「美由ちゃんの従兄で竹中重樹って人が最後らしいのですが、生石の浄土寺の裏でイタリアンレストランを経営しているそうです。美由ちゃんはそこで金曜と土曜日にアルバイトをしていました。先々週の土曜日の夜に仕事を終えて、彼女は帰宅したらしいのですが、それ以降、消息を絶ってしまったのです。警察の話では、絵里もそこを訪ねていました」
竹中重樹が経営するイタリアンレストラン洋々亭は、別府市との境に鎮座する四極山から東南に伸びた稜線の麓に在り、外壁を白く塗り茶赤色のスパニッシュ瓦で葺いた寄棟屋根を持つ洋館風の建物である。洋々亭は崖の真下にポツンと建っていた。崖は垂直に切られており断面は黒緑色の苔に覆われている。その所々で薄茶の地肌が晒されて、寂れた印象を与えている。蜜柑の栽培に利用するしかなかった崖上の丘陵は開発が進んで、今では市街地を見下ろす大規模住宅団地に変貌していた。
車から降りた瑠璃子はそびえ立つ崖を見上げていた。
「この崖、怖いわ。上から岩が落ちて来ないのかしら?」
「皆、そう思っていたからずっと土地が空いていた。それで一時期、引揚者住宅が建っていた。ほら防空壕の入り口を見てごらん。石がギッシリ詰まっているだろ。危ないから、住宅を建てる時に埋めたんだ」
本格的なイタリア料理を食べ終えて、二人はコーヒーを飲み始めた。窓際の席から望む浄土寺の屋根瓦と八角三重の納骨堂に挟まれた空間には、濃藍色の海が白い波を立てていた。子供の頃、海岸への視界を塞ぐ建物は浄土寺だけであったが、今ではビルが建ち並び、海が見えるのは寺の方角だけである。
「お待たせしました。竹中です。絵里ちゃんのお母さんですね」
髪と髭は自分で手入れをするのだろうか。竹中重樹は短めに刈ったボサボサの髪の下に上唇を覆う口髭を生やしている痩せ気味の三十半ばの男である。岳は、数組の客しか居ない店内に違和感を覚えていた。なぜなら、パスタに歯ごたえがあり、青いオリーブの香りとデュラム小麦の風味がするペペロンチーノが絶品であったからだ。
「私も困っています。警察から何度も事情聴取を受けました。半ば強制的に中央署にも出頭しました。でもね。いくら店でバイトをしていて、その帰り道に美由の行方が分からなくなったにしろ、警察に商売の妨害をする権利がありますかねえ。『店を休む訳には行かないから、これ以降は店での昼休みにしか聴取に応じられない』と言ったのが気に障ったのかも知れませんが、稼ぎ時の昼の二時丁度にあいつらはパトカーで乗り付けて来たのです。昼休みですか?三時から五時までです。女性客が大半ですから、落ち着いて食事もできなくなるし、店の評判もガタ落ちです。警察は補償をしてくれますかね」
重樹の声は曇っていた。
「それは大変でしたね。美由ちゃんを探していた絵里ちゃんの行方も分からなくなりました。彼女はここにも来ましたか?失礼。自己紹介が遅れましたが、私は日根野岳と申します。大津留さんと一緒に彼女を探しています」
「ええ。来ましたよ。警察から聞きましたけど、絵里ちゃんの行方も分からなくなったそうですね」
彼はあからさまな迷惑顔をしていたが、降って湧いた災難に戸惑いを隠せずにいる。視線に気付いて岳が厨房に眼を遣ると、その女性は眼を伏せた。重樹がそれに反応して声を掛ける。
「真紀ちゃん。こちらに来て貴方からも説明して下さい」
女性は首藤真紀と名乗って、二人のコーヒーを淹れ直した。彼女も三十を過ぎているだろう。細面の美人だが、彼女も料理人だと言う。重樹は彼女を共同経営者だと紹介した。
「先々週の土曜日は忙しかったので、美由ちゃんは後片付けで遅くまで残りました。私が次の日の仕込みを終えて自転車に乗ったのは十二時前でしたけど、その時には彼女の真っ赤な電動バイクは駐車場にはなかったです。絵里ちゃんは確かに三日前の三時過ぎに来ましたけど、新しい情報がなくてがっかりして帰って行きました。やはり赤いバイクに乗って前の坂道を下って行ったのを覚えていますから間違いありません。『バイクの色までお揃いなの?』って、私が二人の仲の良さを揶揄うと『赤は私達のラッキーカラーなの』って答えていたのに、二人とも居なくなるなんて・・」
真紀は少し怯えた反応をする。
美由は独立を果たした従兄に憧れて、洋々亭を訪ねていた。彼女は進路について重樹に相談していたという。
『親と学校の承諾が取れたらアルバイトとして雇うよ』
そういう方法で、重樹は従妹の次のステップの準備に協力していた。彼女は接客の仕事を覚える為に骨身を惜しまず働いたので、彼等に取っても得難い働き手であったらしい。そんな彼女のバイト先を絵里も時々訪ねたので、顔見知りになっていた。
「彼女は背が高いし、ハーフ独特の雰囲気のある美貌だから、美由と一緒に上京してモデルを目指しても成功すると思っていたのに・・」
重樹の発言に瑠璃子は当惑した。娘が大学に行かずに自立を考えていたのを初めて知ったからである。彼女は塾の運営に精力の大部分を費やして、娘や母親とコミュニケーションを余り取って来なかったのを後悔した。それが娘の失踪の原因であるかも知れない、と自分を責め始めている。
彼等に誘拐事件を起こす理由などなかった。それどころか、事件が起きて、店も被害を受けていた。警察のやり方に強い反発を見せた彼等は、瑠璃子に同情を寄せ、自分達が解決の役に立たないことに後ろめたささえ示していた。
シベリア寒気団が南下して九州の北半分の上空を覆っている。自宅に戻ると、そのまま座敷の縁側を開け放して瑠璃子は埃取りブラシを掛け始めた。湿気た空気が吐き出されて、冷たく新鮮なものと入れ替わる。澱んだ空気の底に沈殿している埃を見て見ぬ振りをしている自分に、我慢ができなくなったのだ。掃除機で埃を吸い取り、並んだ机と畳と縁側を拭き終えるとスッキリした。瑠璃子は筋肉を酷使して、挫けそうになる気持を払拭しようとしている。
瑠璃子は、東京の何校かのファッションモデルの専門学校に問い合わせしたが、絵里が入校の手続きをした形跡はなかった。高校を訪れて同級生に訊き回ったり、美由の自宅を訪問したが、新たな情報は何一つ得られなかった。
(美由の父親は四十の半ばと聞いていたが、髪が白く染まり、身体から酒の臭いを発散していた。その話し方や身なりは自暴自棄と言って良いくらいだ。彼の血走った視線は私の身体を舐めるように這っていた。彼は、娘のことを話題にしたくない風であった。
『二か月前に妻が家を出て行き、娘とも連絡が取れなくなった。私も娘のアルバイト先とか学校を探したけど、娘の行方は掴めない。お宅を訪ねようとした矢先に貴方の方から訪ねて来た。捜索届は警察の要望で提出したが、娘が事件に遭ったとは考えていない』
絵里から、美由の両親が不仲であることは聞いていた。私が彼の妻の立場なら、とっくの昔に娘を連れて家を出る。あのように崩れた男とは一時も暮らせない)
縁側の向こうでは、世話をする者が居なくなった枯れた草花が寒風に震えている。雨に濡れ、枯葉を茎に纏わり付かせた鶏頭を眺めながら、瑠璃子はそう思った。
吹き荒れる北風から逃れて、宇和島の漁船が避難した先がかんたん港である。船泊の真ん中で停泊していた船の碇に引っ掛かり、赤い自転車が浮き上がった。確認の為に呼ばれた瑠璃子が娘が乗っていたものだと証言すると、捜査員の表情が険しくなった。中央署が赤い電動自転車を引き上げたのは、その翌日である。
警察が公開捜査に切り換えたのは事件解決への進展がないからです。私が洋々亭から海を眺めていたのを覚えていますか?あの席に座っていて、直感のようなものが閃きました。それがただの勘違いかどうか、今夜から調査します。ですから、暫く私から貴方に連絡を取ることはありませんが、何かあったら携帯に連絡して下さい。
岳はメールを送信して、瑠璃子の前から姿を消した。
洋々亭の玄関は道路に向かって一間ほど突き出している。ドアを開けると、赤いマットが敷いてあり、雨の日には客はそこに濡れた傘を置く。その先のガラスが嵌った格子ドアの向こうは、十のテーブルが並ぶレストランで、奥に向かう通路を挟んで海側が厨房、崖側には洗面所と食糧庫が並んでいる。その奥は重樹が居住するスペースだが、余り広くないようである。彼は厨房での仕事が終わると、部屋に戻って眠るだけである。食材は朝九時頃に配達され、彼が店を空けることはほとんどない。彼のストイックな生活は独身を貫く覚悟と大きな夢がなければ不可能である。パートナーの首藤真紀も似たような生活をしていた。
洋々亭は夜九時に店を閉める。後片付けと次の日の準備をしているのであろう。レストランの照明が消えると、外には厨房の明かりが細々と漏れていた。真紀が自転車に乗って坂道を下って行ったのは十時前である。絵里と美由の行方には竹中重樹が何らかの形で関与していると直感していたが、見張りを始めて一週間が経っても彼は動かない。岳は、浄土寺の斜向かいのビルの八階の空室から赤外線スコープが付いた望遠鏡で彼等を監視していた。そのビルは岳の所有である。
洋々亭の休業日は月曜である。その日、真紀は昼過ぎに起きて、ダウンのジャケットにジーンズを履いてウインドウショッピングを楽しんでいた。口紅こそ付けているが、お洒落には金を掛けない主義らしい。お腹が空いて来たのだろう。彼女はうどん屋の暖簾をくぐった。
「首藤さん。意外な所でお会いしますね。相席して良いですか?」
「あら。日根野さんもお一人様ですか?」
「ええ。先日、店で頂いたペペロンチーノとカンノーロは絶品でした。貴方の調理ですか?」
「カンノーロは私ですが、パスタは竹中です。私のイタリア菓子は日本では馴染みがなくて、褒めてくれたのは日根野さんが初めてです」
真紀は菓子を褒められて、嬉しいようだ。
「貴方は料理をしないのですか?」
「洋々亭では致しません。私のことを共同経営者と彼は言ったけど、私は傍にいて、彼のテクニックを学んでいるのが実情です。兎に角、彼は凄いんです」
「テクニックが身に付いたら、独立する心算ですか?」
「ええ。その心算で貯蓄に勤しんでいます」
「貴方のデザートは、それだけでもやっていけると思いますが、評判が広がるまで苦労するかも知れませんね。でもその時は声を掛けて下さい。応援しますよ。
あれから随分探したけど、二人の行方が全く分かりません。もう半分諦めていますが、瑠璃子さんの気持を考えると迂闊には口に出せません。先日、二人の自転車がかんたん港に浮きましてね。私は夜遅くまで港の周辺を歩き回っていたのですが、目の前を、貴方が颯爽と自転車で通り過ぎました。その後、洋々亭を訪ねて窓ガラス越しにレストランを覗くと、竹中さんが厨房で何かを作っていました。季節に応じたメニューの試作は貴方が帰った後にするのですね」
「それはないと思いますよ。彼はそんなことをしなくても、提供する料理のバリエーションに不自由しないし、厨房でいつも真剣勝負をしているから腕も落ちません。ただ、体力的にキツイ仕事だから、彼が夜食を食べているのは知っています。私が出勤すると、洗った丼が並んでいることがありますから」
昨夜は帰りが遅くなった。真夜中に赤外線スコープを覗いていると、レストランの壁に身を寄せて中の様子を窺っている男に気付いた。その男を付けてみると、男は瑠璃子の家の前で一旦停まり、車の中から暫く家を見上げていた。そして、近くの住宅に入って行った。表札には竹中と書かれていた。何のことはない、美由の父親である。彼も娘を探していたのだ。
昼前に目覚めると、熱いシャワーを浴びてキャリーバッグから戦闘用の衣服を取り出した。アイロンを効かせた白いワイシャツの襟元をアルマーニのストライプ柄のネクタイで固め、グレーのスラックスにタリアトーレの濃紺のブレザーを身に付ける。近頃は殆ど履くことのない革靴でエレベーターに乗り込むと、金を掛けた服装と法律知識で身を固めて業者に舐められまいと見栄を張っていた若い頃を思い出した。
(何を着ていても中身は同じだと思っていたが、どうやらそれは誤解のようだ。服装は着る者の心境を反映している)
ほど良い緊張感が思っていた以上に心地良いのに、岳は驚いている。
車から降りた時に水溜りに靴を浸けてしまう。駐車場が未舗装であったのを忘れていたが、何食わぬ顔で洋々亭の玄関に向かった。二つ目のドアを閉じて店内を見回すと、中央の席しか空いていない。どうやら客が戻り始めているようだ。厨房に目を遣ると、二人が顔を上げて会釈をする。
「日根野さん。ベルルッティが台無しですよ」
湿らせた雑巾を、真紀は笑顔で差し出した。足元を見ると靴が泥まみれになっている。振り向くと、足跡が入り口のドアから続いていた。
「ありがとう。ニョッキのホワイトソースとサラダはパーニャカウダ、デザートはティラミスでお願いします」
「いつもの通り、コーヒーはデザートと一緒で良いですね」
靴の泥を拭い終えると、岳は厨房に向かった。
「首藤さん。モップを貸して下さい」
「泥なら私が後で拭きますから、気にしないで・・」
「そうは行きません。他のお客さんが良い気持ちがしませんし、私の仕業ですから」
重樹は、美味そうに料理を平らげてしまう岳に笑顔を向けていた。
「お客様に掃除までさせてすみません」
「イタリアだったらチップでそれを済ませただろうけど、私はケチだから」
重樹が苦笑する。彼の笑顔は若い女性を惹き付けるだろう。
「さっき、首藤さんが私の靴のメーカーを当てたけど、彼女は靴好きですか?」
「私は料理専門で修業したけど、彼女はデザートとソムリエの修業が長かったようです。それで男性の服装に詳しいのです。現地では、服装で懐具合を察して客に料理やワインを勧めますから。レストラン経営と言う意味では、私より彼女の方が有能です」
「料理も美味いけど店の造作も立派ですね」
「修行したミラノのレストランに倣って造りました。お陰で返済が大変です」
「コトレッタが本格的だったので、ミラノで修業したのではないかと思っていました。でも少しアレンジしていますね」
「ミラノの味付けのままお出しすると、重くしつこい味と感じる人が多いので少し淡白にしてお出ししています。乳製品がソウルフードの北イタリアと日本では味覚が違いますから・・」
レストランの煤けた梁や柱を重厚な漆喰の壁が囲んでおり、高い天井からアンティークの傘を被った電燈が何本も下がっていた。
「オーナーから新しいシェフが見つかるまでと懇願されて、帰国が一年遅れましたが、その間にアンティークの調度を現地で調達することができました」
岳は奥に向かう通路から左手の洗面所に入った。そこは三畳ほどの空間で、余り高くない天井から小振りの真鍮のシャンデリアが下がり、アンティーク調の電球が金色光を放っている。床は黒と鼠色の角タイルが市松模様に張られており、壁は薄墨の漆喰荒仕上げだ。レストラン側の壁には入り口から白い洗面器と便器が並んでおり、鏡は楕円の真鍮で縁取られ唐草の装飾がなされている。採光は、崖側に切られた赤・黄・緑の三色をモザイクに散りばめたステンドグラスのみである。岳は便座の向こうに回り、ステンドグラスを嵌めた窓のノブを下ろした。
澄んだ空気が岳の足元を凍えさせている。真下に見える漆黒の屋根の下からレストランの光が暗闇に向かって飛び出している。首藤真紀がその日最後の客を見送って照明を落とすと、辺りは急に暗くなった。寄棟の屋根が闇に沈み、その上に浮いているかんたん港の灯光が輝きを増していた。日中とは真逆に、団地への進入道路を車が一台も通らないのが不思議である。外気に晒された鼻の先が凍えて痛いが、道路脇の枯れた草叢に身を潜ませたまま我慢を続ける。真紀が自転車に乗り坂道を下って行った。立ち上がり腰を伸ばした。固まった関節を解しながら、岳は坂道を下り始める。
黒鉄の格子を押すと、ステンドグラスが填まった窓は音も立てずに内側に開いた。岳が洗面所から通路を窺うと、厨房のドアを開け放して竹中重樹が調理をしている。彼の背中には昼間の精気が見られない。負けが決まった試合のマウンドに立つピッチャーのように、淡々と慣れた作業を繰り返している。調理が終わり、フライパンがシンクの中で音を立て蒸気をあげた。
重樹が岡持を下げて隣の部屋に入って行った。中でガタガタと音がして、木の擦れる音が聴こえる。やがて物音一つ聴こえなくなり、静寂が建物全体を包んでしまう。
零れた小麦粉が食糧庫の床板の所々を白くさせていた。洗面所側の壁の鋼製棚にはイタリア語で書かれた十を超える種類のパスタの袋やトマトの缶が整然と並べられ、その下に種類の違う小麦粉が入った大きな袋が置いてある。向かいの壁の木製の棚にはワインや調味料の瓶が並んでいるが、使われていない部分と床の擦れた跡が、棚を装ったドアの所在を示していた。それを引くと木製の階段が下りていた。地下の深くに輝いている裸電球に向かって木の階段を下り始めた。
防空壕の内部は、昔の図書室の造りであった。凝灰岩の壁を背に並べた書棚の前に机が在り、その上に、今では見ることのできない真空管ラジオがポツンと一つ置かれ埃を被っている。書棚には本や巻いた地図が乱雑に置かれていたが、年月を経ていることは明らかである。その至る所に蜘蛛の巣が覆い灰色の埃が溜まっていた。部屋の主はワインの愛飲家でもあったようだ。書棚をラック代わりにしてワインの瓶が何十本も横に重ねられている。そのラベルから、バルバレスコやバローロ等イタリアの銘柄だと分かったが、それが飲める物かどうか判別が付かない。
饐えた臭いに気付いて振り返ると、そこには白地の軍服の詰襟に汗を滲ませた若者が立っていた。中背の鍛えた身体付きのその男の背筋は伸びていて、目深に被った軍帽の下から張り詰めた空気が漂っている。
「教えて下さい。私は無駄死をしたのでしょうか?」
返事ができずに黙っていると、その若者の背後の凝灰岩がいきなり消滅した。隣の部屋の中央は鉄格子で遮られており、岡持を地べたに置いて重樹が鉄格子の向こうを眺めていた。そこには絵里と美由が飢えた犬のようにスパゲッティを貪っていた。服は垢と土に塗れ、部屋の隅に被せたビニールシートの隙間から臭気が漂って来る。
「二人を解放して下さい」
岳が大声を上げていた。
「駄目じゃ。娘達はかんたん港に沈める」
重樹が振り向いたが、その声は一伯公の少し甲高い声である。
「誰かがお主の家の周りに結界を張り巡らせていたので、近付けなかった。それでお主をここに呼び寄せたのじゃ。
お蘭は余を謀っておった。彼奴をいくら呼んでも黄泉の国から一歩も足を踏み出さぬ。そればかりか、彼奴の死後に殉死を命じた十二人の女中が余を取り囲み非難を始めた。
『御館様。お蘭様は、貴方様が殺めた私共や日根野家の方々の顔を見る度に、悲しそうな顔をなさいます。幾ら人を殺めても、そこには行かぬと申されております。無駄な殺生を止めて浄化なさいませ。そうしないと貴方様は永遠に黄泉の国に入国できませぬ』
『お蘭に伝えてくれ。そこから出て来ぬと、豊芦原中国から毎年十人の亡者を出すとな』
お蘭の声が頭上から響いて来た。
『われは二十人の子を産ませまする』
お蘭は貧しい百姓出の女子であった。口減らしにされ、美濃の茶店で働いておったのを余が拾ったが、生前、余に逆らうことなど一度もなかった。彼奴は生きる為に余を謀っておったのじゃ。往生して本性を現したが、黄泉の国でも心の痛みは在るらしい。彼奴は、一度は契りを結んだ余が人を殺めるのに心を痛めておる・・痛っ」
叫び声と共に重樹が崩れ落ち、地べたに全身を投げ出してしまう。そして身を折り曲げて苦しみ始めた。岳を見上げる彼の目が引き攣り、眉間に皺を立てて苦痛に耐えている。岳がそれを見ていたのは十五分程度であったが、重樹は何事もなかったように立ち上がった。
「腹の虫が腸を食い破り始めると、このように三日三晩も続くのじゃ。余にはそれが十日余りに思えるのじゃ。日根野には何日と映ったか?」
「小半時もなかったかと・・」
彼はニヤリと笑った。歪んだ口から零れた息は腐臭がする。
「黄泉比良坂には時間が存在しない。そこには慰められぬ魂を抱えた少なからざる者が漂っておるだけじゃ。平将門や菅原道真とも擦れ違った。その中で余が身を潜めて避けるのが崇徳院じゃ。彼奴に関われば地獄に突き落とされる。彼奴の恨みは深くて、気に食わぬことがあると豊芦原中国に疫病を撒いたり地震や台風を起こしたりする。その力は余の及ぶところでない。
そこに立っておる大津留吉雄とは黄泉比良坂で巡り合った。吉明と同じように武人の魂が惹かれ合ったのじゃ。彼奴はイスパニアやポルトガル国の何十倍もの領地を持つアメリカ国と戦い、武運拙くして敗北したと言うではないか。彼奴は仲間への罪の意識に苛まれて黄泉の国への入国を拒絶しておる。彼奴は『自分には靖国の英霊に会う資格がない』と嘆くばかりじゃ。
じゃが、彼奴の初心な心根が、余の抑えきれない我欲をズタズタに切り裂いて、その傷口が地獄の炎に晒される。先ほどお主が見た如く、傷口が修復されるまでその痛みが続くのじゃ。日根野。お主はここから離れられない彼奴の魂を慰められるか?彼奴は自分の死に得心ができずに、余と共に彷徨っておる。彼奴こそを黄泉に入国すべき男で、そうさせたいと願うておる。彼奴を成仏させることができれば、娘達をお主に返そうではないか」
昭和二十年八月十五日深夜、大津留吉雄大尉はこの部屋で自刃したと言う。
「特別攻撃に挙手した者は私を含めて二十三人でした。玉音放送の後、宇垣中将以下二十二名の特攻隊員は十一機の彗星に搭乗して、沖縄に向けて豊後海軍航空基地を飛び立ちました。くじ引きに外れた私は、彼等を見送った後にこの防空壕に駆け付けました。
大型トラックのエンジン二基を載せた漁船が旅順港を出発して一晩でかんたん港に到着し、それに積まれていた十四トンの金塊が夜明け前にここに運ばれて来ました。終戦の半年前に引き上げて来た関東軍の瀬島何某が隠匿した金塊を海軍は苦々しく思っていましたが、口出しすることができなかったのです。
『大津留には、私からの特別命令がある。貴様ならこの役目を果たしてくれると信じている。私は国体護持の為に散華するが、貴様は国の再建にあの金塊を役立ててくれ。断じて陸軍の好きにさせてはならんのだ。私達は戦後日本の再建に一死を捧げる同士で、その目的は同じである』
宇垣中将はそう私に命じたのです。
私がここに踏み込んだ時、金塊は既に持ち去られていました。それで自刃を決意しましたが、靖国で仲間に会えるかどうか不安になりました。思い悩み、悶絶して、決行したのは皆が散ったと思われる夜更けでした。恐れは的中して、私は靖国に辿り着けなかったのです。死した私の前には、呆然と荒野に立ち尽くしている一伯公の姿がありました」
「貴方はなぜ成仏できないと考えますか?」
岳が静かに問うと、大津留大尉はさめざめと涙を落とし始めた。
「米軍は体当たり攻撃に恐怖を覚えた筈です。その行為がアメリカの戦後処理を変えた筈です。日本国民の扱いを誤ると、七千万人が竹槍を持って占領軍に向かって来ると恐れた筈です。
私は宇垣中将の命令を実行できませんでした。金塊がいつ持ち去られたのかも明らかでありません。私は死ぬことで中将に詫びましたが、国全体のことを思えば所詮、犬死です。金塊を手に入れられなかったけど、中将の命令通り、新生日本の建設に寄与すべきだったのかも知れません。私は今でもそのことを迷っています」
「大尉は戦後の日本を御存知ですか?」
「はい。意識がここに縛り付けられているので、ラジオを聴いて大体のことは分かります」
特攻隊のことは読み物で知っていたが、彼の純真無垢な魂を慰める方法など思いつかない。加えて彼は戦後の日本を知っていると言う。彼が、現在の日本人に愛想を尽かせているのは間違いない。引き揚げ軍人の中には、変貌した日本社会に呆れ果て、ブラジルに移住した人も居たくらいだ。
「国に一命を捧げた貴方にこんなことを申し上げるのは心苦しいのですが、仮に貴方が特命を成功させたとしても、国の将来に影響があったとは思えません」
軍帽のつばの下の眼は、怒りで震えていた。
「貴様は、私が生きていても何の意味もなかったと言うのか。あのような売国奴よりも劣っているとでも言うのか」
「貴方自身は意義ある人生を送れたでしょうが、国家経済の大勢に影響を与えることはなかったでしょう。金塊は持ち去られて東京の郊外に運ばれました。御存知かも知れませんが、瀬島何某はそれを元手に東京郊外の不動産開発を始めたのです。彼は立派な軍人ではなかったけれど、商才ある起業家でした。彼はその財力をバックに、戦後の政財界や裏社会に影響を与えました。
私は、彼の行動が人として正しいと申しておるのではありません。経済活動を道徳の善悪で判断するのは経済の本質から外れていると、言っておるのです。貴方が金塊を世の為に使おうが、瀬島何某が飲食に使おうが、国内で消費する分には同じであると申しております」
彼は感情を爆発させた。
「貴様は帝国軍人の命と誠を、悪銭で財を成した売国奴の如きと比べるのか?不逞の輩が国家の財産を私用して、戦後政治を裏から操るなど許されんことだ。私の仲間は、貴様のような米帝資本主義の垢に塗れた子孫の為に一命を捧げたのか?」
「金塊は大満州帝国の所有物ですよ。それを盗んだ者から再び盗むなんて、泥棒の上前を撥ねる行為です。貴方は軍人の命と誠を絶対的なものとして国家の再生を言挙げする癖に、国家全体を俯瞰する視点に欠けています。感情が経済理論を無視しています。日本人らしいと言えばそれまでですが、それでは国家運営の役には立ちません。そもそも貴方方軍人は日本人の為に戦争を始めたのですか?それとも天皇陛下の為ですか?」
いつの間にか腹の底から大声を張り上げていた。その勢いに、一瞬、大尉は息を止めた。
「馬鹿なことを訊く。軍人は陛下に誠を捧げるものである・・」
「その通りです。軍人の本分は陛下に誠を捧げるものです。ポツダム宣言受諾の立役者である阿南陸軍大臣もそう遺して割腹自殺しました。だから軍人は経済のことなどに手を出すべきでないし、ましては政治に口を挟んではならんのです」
「アッ・・」
大尉は膝から崩れ落ち、地べたに被さって呻き始めた。慟哭が壕中に響き渡っている。
夏休みを利用して、メイ・オマリーは前触れもなく瑠璃子の前に現れた。背格好や顔立ちは絵里と瓜二つであるが、与える印象は随分異なっている。彼女は丸いレンズが嵌った銀色のフレームの眼鏡を掛けて、デニムのシャツと脛下まで伸びたデニムのスカートを身に付けていた。兎に角、地味な印象を与える娘であった。
「マミー。会いたかった・・」
メイは母親に抱き付いた。瑠璃子は娘を抱いたまま涙に震えていた。それは絵里が焼き餅を焼くほど長い時間であったという。
彼女が母親と別離したのは三歳の時である。それ以来、祖母の手で育てられたが、思春期を迎えて娘と父親は互いに口にし難い現実に直面した。彼女は祖母の勧めに従って母親の元を訪れたという。
父親は他の上流家庭がそうするように、英才教育を受けさせる為に芽衣を寄宿学校に入れた。将来は娘に会社の投資部門を任せようと考えていた。時代が変わり、投資が彼の会社の命運を握ると確信していた。そのことは芽衣も理解していたが、彼女は数学が苦手であったし、IT技術などに興味も湧かなかったのだ。何より祖母と暮らせない日々に不満を抱いていた。
芽衣はルーシー・モード・モンゴメリに憧れていた。祖母とニューヨークの郊外に住み小説を書いて暮らす生活を、彼女は切望していたのだ。
『お祖母ちゃん。私はアメリカのモンゴメリと呼ばれたい。この国の文学は、ルーツ探しの旅から離れられず、我欲を肯定する為に理屈を重ねている。しかも心の根幹は聖書に縛られている。私はお祖母ちゃんが話してくれたアイルランド神話や日本の神話の研究をして、将来はアメリカの保守層から支持される小説家になりたいのよ。そうすることで、アメリカの新しい思想の醸成に寄与できれば、と考えている』
彼女は眼を輝かして祖母に夢を語るのである。
『ロバートがそれを聴いたら悲しむから、彼の前では黙っていなさい。エミーを瑠璃子に渡した私が悪いのよ。貴方にだけ重荷を背負わせている。でも私は貴方の味方よ・・』
芽衣は庭に実った林檎を収穫したり、祖母と並んで料理を作るのが楽しいと言う。料理は祖母も舌を巻く腕前になっていた。
庭のモミジは新緑の時期を過ぎて青々とした葉を茂らせている。梅雨時期に一度刈り込んだ青紫蘇とミントは再び勢いを取り戻していた。掃き出し窓から入り込む微風が心地良い。岳はコーヒーを淹れ始めた。
昨日から娘二人が関西旅行に行って瑠璃子は急に暇になった。母親の病気も落ち着いて、以前のように切れることもなくなったと言う。
「私に似たのかしら・・」
「何か言ったかい?」
「芽衣のことよ。理科と数学の試験の結果が悪くて、落第しそうなの・・」
「へえ。君も理数系が苦手だったの?」
「そう。典型的な文系脳なの」
「じゃあ。彼女の国語や歴史の成績はどうなの?」
「それは完璧に近いらしい。ラテン語も日本語も読み書きできるし、近頃はアイルランド語の勉強も始めている」
「日本語は誰が教えたの?」
「絵里よ。二人は大分前から電話で話していた。電話代は義理の母が負担していたみたい。近頃はスカイプを利用している」
瑠璃子はテーブルに出されたコーヒーを口に運んだ。
「旅行から帰ったら岳さんに会いたいって、芽衣が言っていたわ」
「へえ。何だろう?」
「暫く連絡が取れなかった理由を絵里が説明したらしいのよ。絵里は殆ど覚えていないと言うけれど、芽衣は納得していない。防空壕で起きたことは悲惨過ぎるから、絵里を深追いしたくない。私は彼女が記憶を取り戻すのが怖いの。それで岳さんのことを芽衣に話したの」
誘拐犯を逮捕する気満々で、中央署の刑事は狭い階段を下りて行った。彼等が目撃したのは、被疑者と目されていた男と被害者二人が防空壕の真ん中で正気を失い、岳が誰かに語り掛けている姿であった。彼等はそこで不思議な体験をした。先頭の刑事が階段から下りようとしても、身体が動かなかったのだ。彼等が身体の自由を得たのは、岳が敬礼を終えて気を付けの姿勢を取った時である。
娘二人は病院に移送され、岳と重樹はその場で拘束されて中央署に連行された。警察の岳に対する取り調べは執拗であった。彼等も洋々亭を見張っていたから、岳が加害者でないことは分かっていたが、正気を保っているのは岳だけであったからだ。
「日根野さん。全てを話して貰いましょうか」
村角刑事は四十前だろう。険しい表情を作っているが、口元に若さを残している。彼は柔らかな物腰で促した。
(一伯公の話をしても、誰も信じないだろう。そもそも刑事訴訟法は死者を対象にしていない。私が守るべきは、娘二人の人格権と竹中重樹への懲罰である。三人は一伯公に操られていたに過ぎないのだ。しかし、どのように話せば警察が納得するのか?)
頭の中で様々なことを駆け巡らせていた。腹が決まり、岳が口を開いた。
「今から話すことは、全て洋々亭の竹中さんから聞いたことだと、先に申し上げておきます。私は彼が二人の失踪に関与していると思ったので、洋々亭に忍び込みました。その結果、事件にはある邪悪な男が関与しているのが分かりましたが、その男の姿を見た訳ではありません。声を聴いただけです。霊感の強い男で、死者とも交信できると豪語していました。その男が、事も有ろうか、美由ちゃんに良からぬ感情を抱きました。彼女はその男から逃げる為に従兄の竹中さんに相談して、彼は防空壕に彼女を匿ったのです。その後、それに同情した絵里ちゃんが彼女に付き添ったのです。私が話していたのは、その邪悪な男で、これ以上罪を重ねないよう説得していたのです。男はどこかに隠れていて声だけ聴くことができました」
「奇妙な話ですね。ですが、階段で金縛りに遭った私としては、嘘を言うなと今は咎める気になれません。でも貴方の容疑が晴れるまで留置します。一週間もすれば、被害状況も分かるし、竹中重樹の調書も取れるでしょう。貴方が虚位の供述をしているとすれば、それも直ぐに分かります」
村角は取り敢えず聞き置くという態度であった。
「分かりました。留置場では個室を要求します。それから大江弁護士を呼んで下さい」
弁護士を呼んだのは、読まずに部屋に山積みにしていた本を差し入れて貰うのと、事件に関係した者の状況を知る為である。彼は岳が所有する貸事務所の二十年来の入居者であり、中央署から歩いて一〇分ほどの距離に在る。
岳が釈放されたのは、留置された日から二十日後の昼前であった。弁護士と瑠璃子が中央署の一階で待っていた。
「大江さん。家の鍵を返して下さい」
「それは大津留さんが持っています」
岳は瑠璃子が運転する軽自動車に乗って一ヶ月ぶりに帰宅した。部屋の掃除は彼女がしてくれていた。岳が風呂から上がると、瑠璃子がコーヒーを淹れて待っている。
「岳さん。絵里を見付けてくれてありがとう。弁護士さんから聞いていると思うけど、絵里も美由ちゃんもまだ退院していない。少しずつ思い出し始めたけど、二人は防空壕での記憶を失くしている。私はこのまま記憶が戻らなくても良いと思っているの。
病院で同級生に会ったの。彼女はそこの看護師をしていた。彼女がこっそり教えてくれたけど、美由ちゃんはあそこに傷を負ったけど、既に経験済みだった。それも一度や二度じゃないらしい・・
それから三日前に美由ちゃんの父親が、事情聴取の帰りに広瀬橋の下で死んでいた。岳さんが洋々亭に忍び込んだ夜、彼は自宅に居なかった。彼も監視対象だったから、それは確認されている。彼は、娘への虐待の疑いで警察に厳しい取り調べを受けていたの・・」
「そうだったのか。絵里ちゃんは大丈夫だった?」
「ええ。検査の結果、絵里は無事だった」
「美由ちゃんの従兄さんはどうなりました?」
「彼も貴方の三十分前に帰された。首藤真紀さんが迎えに来ていたわ。警察が厳しく追求したらしいけど、彼も防空壕での記憶を失くしていた。DNA検査にもパスしたらしい・・ねえ。あの防空壕で何があったの?」
竹中重樹は中央署でこう供述していた。
「すみません。御迷惑をお掛けして。私が美由を匿っていました。でもそれは彼女を叔父から守る為でした。真夜中にかんたん港に二人の自転車を捨てたのも私です。修二は、彼女の父親であり私の叔父ですが、子供の頃、一緒に生活をしていましたから、彼の弱い性格と彼が秘めているチャイルド・マレスターを知っていました。自立する為にここでバイトをしたいと美由が懇願した時、それを確信しました。
あの夜、美由はレストランの床をモップで拭きながら大粒の涙を床に落としていました。いつも明るく振る舞っていた彼女が限界に達していました。助けを求めているのだと思いました。
『修二さんから乱暴されているのか?』
『お母さんが家に戻って来ない。私の所為なの。私も家を出たい・・』
私の問い掛けに答えず、彼女はポツリと言いました。私は彼女に鍵を渡して、裏口から私の部屋に入って待つように言いました。
その夜から彼女は私の部屋で寝起きを始めましたが、何かが起こったら、食糧庫から地下に逃げろと伝えていました。防空壕ですか?レストランを建てる時に発見しました。基礎を掘っていた時に通気口が七十年振りに口を開けたのです。普通なら、黙って穴を埋めたのでしょうが、防空壕で百年前のイタリアワインを見てしまい、私はそれを占有する誘惑に勝てなかったのです。
案の定、修二は店に現れました。私はスマホで美由に合図を送り、彼にコーヒーを勧めて時間を稼いだのです。それ以降、美由は防空壕に出入りするようになったのです。そのような生活でも、彼女は『幸せ。ぐっすり眠れる』と言うのです。
想定外は絵里ちゃんでした。彼女は美由が立ち寄りそうな場所を探し尽して、再び現れたのです。私が『美由からまだ何の連絡もない』と言うと、事もあろうか、修二に会って来ると言い出したのです。それを美由に伝えると、『絵里を防空壕に入れても良いか』と訊くのです。『絵里が家を訪ねた時、あの獣が居たらって想像すると、仮に私が自由になれたとしても一生後悔しながら生きて行くことになると思う』そう言うのです。引き返して来た絵里ちゃんは美由の告白を聴いてショックを受けていました。そして彼女の身の振り方が決まるまで一緒に居ると言い張ったのです。
私は電話で美由の母親と交渉を始めました。
『父親とは暮らさない。東京の美容専門学校に行きたい、と美由は希望している。二年分の学費を出してくれませんか?』
しかし、彼女はそれに応じなかったのです。私は彼女の背後に新しい男の気配を感じました。
『私は家族に裏切られたのよ。なぜ私が学費を出す理由があるの?ホテルの経営が上手く行っていないし、私にも生活がある。修二に出させれば良い』とさえ言うのです。しかし、そんなことを修二に言える訳がありません。手負いの熊みたいに彼はレストランの周りをうろつき回っていたのです。どうやら彼は仕事を辞めたようでした。
修二は私が娘を匿っていると疑って、酔って度々店に現れました。彼は父の一番下の弟で、子供の頃は良く遊んで貰いました。優しい人だったのに、私が修業を終えてイタリアから帰って来るとすっかり変わっていました。なぜ修二の異常な性癖を知っていたのかって?遺伝子だと答えて置きます。私の戸籍を調べて貰えば想像が付きます。私が結婚しないのはそれが理由です」
書棚に置いてあった骨壺と錆びてボロボロになった日本刀と拳銃のことを訊くと、
「ああ。あれは防空壕の真ん中にありましたが、ネズミから食われたのでしょう。骨は原型を留めていなかったし、刀や拳銃もあの通りでした。私が供養して書棚に置きました。随分古い物だったから別に怖くはありませんでした。それよりもワインへの誘惑の方が勝っていたのです。値段ですか?さあ。分かりません。フランスワインより安いでしょうが。存在そのものが価値なのです。試飲することなど考えられません。まさかワインを勝手に動かしてはいないでしょうね」
警察は美由の母親である竹中直美からも調書を取っていた。それによると、直美は十年前に相続したラブホテルを経営しており、自宅も父親から相続した。経営が思わしくなく人件費を節約する為に、近頃は夜自宅に戻ることは殆どなかったという。
「父親の暴力に怯え、母親に知られるのが怖くて、娘は耐え続けていた、と甥に話したらしいけど、私はそれを疑っているし、寧ろ二人に騙されていたと思っている。汚れた自宅を売り払ってホテルの借金に充当するわ。フン。いい気味よ」
美由と絵里は、夫々の病室で警察の聴取に応じた。
「私。小五の時、学校と警察に相談した。その時、先生と交番のお巡りさんは馬鹿を言っていないで家に帰りなさい、と私を叱った」
美由の証言に警察は揺れた。その後の聴取でも、『防空壕での出来事は何も覚えていない』の一点張りで、『岳と重樹のいずれからも監禁もしくは暴力等一切受けていない。寧ろ、親身に探してくれたし、獣から守ってくれた』と打ち合わせたように二人は同じ証言を繰り返した。
警察は任意で竹中修二を呼び出していた。全てを諦めて、彼は警察に対して従順な態度を取っていた。
「竹中さん。そろそろあの夜、何処に居たのか話してくれませんか?アンタが認めなくても、児童虐待の証言は取れているし、既に家族は離れ離れになっている。一体アンタは何を守ろうとしているんだい?」
「警察がそう言うのなら、それはそれで構わない。でも娘が助け出された夜のことは本当に覚えていないんだよ。美由は元気か?娘を傷付ける者を俺は許さない。娘に会わせてくれ」
娘を一番傷付けているのはお前じゃないかと村角は思ったが、口や態度には出さなかった。
(彼は日替わりで淫行を認めたり否定したりする。拉致監禁については不知の一点張りだ。こんな怪しげな自供しか取れないのでは公判が維持できない。しかし、私が防空壕で見た光景は明らかに監禁だった。美由の下着には修二のDNAが付着していたが、いつ付いたのか判別ができないし、傷付いた陰部からは何も取れなかった。叔父と甥は本当に繋がって居なかったのか?被害者と竹中重樹の供述は信頼ができるのか?)
警察が裁判所に逮捕状を請求する日の朝に、竹中修二が広瀬橋の橋桁に引っ掛かっているのが発見された。結局、警察は被疑者死亡のまま検察に送致して事件をウヤムヤに終わらせた。
美由はノックに反応せず、病室の窓から外を眺めていた。
「お加減はどうですか?日根野です」
彼女は不思議そうな顔をして岳の顔を見詰めていた。
「お母さんは見舞いに来ましたか?」
彼女は小さく首を振る。下腹部裂傷の回復を待つ彼女の退院は遅れるそうである。
「東京に親戚が居ます。そこに下宿して東京の高校に編入しませんか?貴方が専門学校を卒業するまで、私が学費と生活費を出します。絵里ちゃんも貴方と同様、防空壕での記憶が全くないそうですが、退院したら取り敢えず高校に通うそうですよ。『あしながおじさん』の提案を検討して下さい。東京で新しい人生を始めるのは、貴方の望むところではありませんか」
十七歳になったばかりの芽衣はみやげの生八つ橋を下げて岳を訪ねて来た。彼女は見掛けに寄らず大人びた話し方をする。
「絵里から防空壕の話を聴きました。それで幾つか疑問が生じて、日根野さんに直接、訊ねてみようと思いました」
「京都はどうでしたか?夏休みを楽しめていますか?」
「ええ。京都の歴史や日本の美を堪能しました。夕涼みに加茂川にも行きました。絵里は蛍を初めて見たとハシャイで居ましたが、私は胸が苦しくなりました」
「へえ。どうして?若者には人気のスポットの一つだよ」
「何万もの意識が取り囲んで私達を見詰めて居たのです。絵里はそれに気付いていない様子でした。この川で何万の人が殺され、流されたのだろう、と考えていました」
彼女はコーヒーを口に含んだ。
「美味しい。これに比べたらアメリカのコーヒーは唯の出がらしですね。砂糖とミルクなしでは咽喉を通らない飲み物です」
「向こうでは良くコーヒーを飲むのですか?」
「家では昔から紅茶です。コーヒーは友人と過ごす時だけ。質問しても良いですか?」
躾が良いのか、彼女は冷静に人と話す癖を身に付けている。話をはぐらかそうとする岳に動じない。
「防空壕で日根野さんは誰と話していたのでしょうか?」
岳はその質問に答えるべきかどうか迷っていた。
(それを聞いた彼女の神経は耐えられるのか?)
「日根野さんは迷っていますね。私は老人ホームで暮らしている祖母の背後の気配にも気付いています。それを感じ取れない感性では私が目指す小説を書けないし、真実を追求する態度は何より大切だと思っています」
お道化た眼鏡を掛けた娘の頭の中はクリアーでフル回転をしていた。人知の及ばない事象の小さな欠片さえ、彼女は見逃さない態度である。偽り続けるのは難しいと思った。
「私が話していたのは大津留吉雄大尉です。昭和二十年八月十五日、彼の仲間は特攻隊員として沖縄の海に沈みました。彼は、特命を受けて防空壕に隠していた十四トンの金塊の略奪を試みましたが、失敗して自害しました。ルース・ベネディクトの言う『恥の文化』を実行したのです。古事記に寄ると、死者は黄泉の国に行きます。当時、軍人はそれを靖国に行くと称し、信じていました。黄泉の国も靖国神社も同じ意味です。仏教に例えれば極楽、キリスト教ではヘブン、ヘブンを日本語では天国と訳しています。
彼はその金塊を使って戦後日本の再建に尽くすように命令されたにも拘わらず、作戦に失敗して自害しました。彼はそのことを悔やんで靖国に行くのを拒み、意識は防空壕に留まっていたのです。余りにも純粋です。
私は彼に向かって、戦後日本の再建など軍人の奢りだと断言したのです。特命そのものが、国民を支配しようとする軍事官僚の我田引水の行為だ。戦後日本の再建は生き残った人間に委ねれば良いし、軍人がそれに寄与しようとするのは不遜である、と切り捨てたのです。それに気付いて、彼は靖国に向かいました。
彼は軍人の敗戦責任と勝てる筈のない強大な国アメリカとの開戦に導いた責任を己に問い掛け続けていたから、私が不遜と指摘したことに直ぐに気付きました。当時の軍部は日本国民の開戦気分を高揚させ、新聞はそれを煽ったのです。陸軍は『生きて虜囚の辱めを受けず』と訓令しています。当時の軍人として自害は正統な行為です。彼の割腹は正しかったのです」
芽衣は深い溜息を吐いた。
「美しい。アメリカでは考えられない。当時でも、原爆投下を自分の責任だと考える人は居なかった・・でも大津留吉雄大尉と絵里の監禁とは、どう関係しているのでしょう?」
疑問から眼を離さずに、アメリカ人らしく彼女は焦点を的確に突いて来る。
「私は松平忠直公を祀る家系の末裔です。彼の荒ぶる魂を慰める供養は四百年近く続いています。だが彼の穢れは深くて、今も黄泉の国への入城を果たしていません。しかし、彼の愛するお蘭様は黄泉の国で暮らしているのです。彼は、日根野家が供養を止めればお蘭様が黄泉の国から出て来ると短絡に考えたのです。そして、私の家族は彼に憑き殺されて、今や私しか残っていません。
黄泉の国の外、すなわち黄泉比良坂で彼は大津留吉雄大尉と巡り合いました。武人としての魂が二人を結び付けたのです。でも大津留吉雄大尉の純真で熱い魂が、コントロールできないほど肥大した彼の我欲を切り裂いていたのです。その傷の痛みに彼は苦しんでいたのです。
絵里ちゃんと美由ちゃんは、その松平忠直公に監禁されていました。二人は、防空壕に私を呼びつける為の餌でした。大津留吉雄大尉を靖国に行かせるよう、彼は私に命じたのです。二人の命はそれと引き換えでした。説得に成功して、大尉は靖国に行き、二人は解放されました」
長い沈黙が続いていた。
「日根野さん。妹を守ってくれてありがとう」
「いえ。元はと言えば、私が原因ですから。それより、他に話があって私を訪ねて来たのでは?」
「すっかりお見通しですね。日本にはその環境がないから、妹はアメリカで数学の勉強をしたいと望んでいます。妹は数学やITに異常に強いから、父が求める能力を満たしていると考えています。日根野さんはどう思いますか?」
「貴方のプランに賛同して、瑠璃子さんを説得しろと?」
芽衣は岳を見詰めたまま、その問いに返さない。しかし、自分の意志を変える気はないと全身から気を発している。岳は椅子から立ち上がり、庭先に下りてミントの葉を摘み、それに熱い湯を注いだ。テーブルにミントティーとタルトタタンを置いて芽衣に勧める。
「険しい話で疲れたでしょ。神経を休めましょう。それに、もう結論は出ていますよ。絵里さんの人生は彼女が自分で決めるものです」
フランス製の鉄の鋳造鍋で炊くご飯が、岳は好きだ。夕食のおかずは塩サバを焼いたものと冷や奴とキュウリの塩揉みである。対馬の沖で採れたサバの塩漬けは絶品である。それをおかずにして、熱いご飯を食べれば恍惚に浸れる。
米を研ぎ終えると、外が急に暗くなり、横殴りの風が吹き始めてモミジ葉がガサガサと鳴り始めた。カレンダーでの秋を迎えようとする頃になって、この夏初めての夕立が訪れる。窓を閉め、エアコンのスイッチを入れると、庭の草木を大粒の雨が叩き始めた。
「岳さん。居る?」
いきなり玄関で大声がした。車椅子に依存しがちであった多恵が、左脚を引き摺りながらダイニングに現れた。
「どうしたの?連絡してくれたら迎えに行くのに」
「どうしたのじゃないわ。瑠璃子を独りにしないで」
「瑠璃子さんがどうかしたの?」
「娘をロバートに盗られて気落ちしているのよ」
「彼女は家で塞ぎ込んでいるのですね」
「いいえ。ここに連れて来ている。私が幾ら言っても車から降りないのよ。貴方が迎えに行って頂戴」
夕ご飯を炊く心算であった鋳造鍋に料理用の温度計を突っ込むと、瑠璃子がクスリと笑った。料理は理科の実験じゃないと彼女が思っているのは分かっている。それに知らぬ顔をして、味付けをして冷蔵庫で寝かせていた鶏の胸肉を百六十度に熱した米油に入れた。多恵が大袈裟に言うほど彼女は落ち込んでいないようだ。彼女が千切りにしたキャベツを大皿に盛って、その横に二度揚げした唐揚げを載せると、夕食を兼ねた飲み会の準備が整った。岳は冷蔵庫で越冬したビール缶をテーブルに並べた。
インターネットで覚えた唐揚げの味は予想を遥かに超えていた。肉もジューシーだが、衣が美味い。三人の大人が黙々と出来上がったばかりの唐揚げを食べ続けていた。最初に満腹した多恵が、油で汚れた指をティッシュペーパーで拭きながら口を開いた。
「貯金の残額が少なくなったから自宅を処分しようと思うの。絵里も居なくなったから、瑠璃子が新しい生活を始めるには良い機会だと思う。ねえ岳さん。瑠璃子を引き取ってくれないかしら?」
倒れたグラスから零れたビールがテーブルの上に広がった。ティッシュペーパーで拭きながら瑠璃子を見ると、度を超えた母親の無作法を咎めるのも忘れてグラスを握ったまま固まっていた。
「良いですよ。瑠璃子さんには座敷を提供しましょう。家事を手伝って貰えば私も助かります」
多恵の病気が出たと思った。逆らえば、怒りはもっと酷くなる。
「日根野さんが快く受け入れてくれたので、これで決まりね」
彼女の改まった言い方が気になったが、その時は黙っていた。
後片付けが終わり、瑠璃子が代行運転を呼ぼうとすると、強い語調が多恵の口から飛び出した。
「老人ホームには、今夜は自宅に泊まると届けている。瑠璃子は風呂の準備をしなさい」
「お母さん。何を言っているの。老人ホームに送って行くわ」
「先ほど日根野が承諾した時に、お前は黙認した。今から二人には契りを結んで貰う。お前は風呂で身を清めなさい」
多恵が凝視を続けていると、握ったスマホを調理台に置いて瑠璃子はダイニングを出て行った。やがて湯が落ちる音が聴こえた。
「多恵さん何を・・」
多恵の眼の光は岳の自由も奪っていた。
「日根野。その方は、先ほどわれと約定を交わしたでないか」
「・・」
「御館様が竹中修二を豊後川に沈めたから、豊芦原中国にその倍の命を授けなければならない。それに日根野家の血筋が絶えると、われとおくせの供養をする者が居なくなる。仮にそうなれば、御館様の前に引きずり出されて、また苦行が始まるのじゃ。
われは腹を満たす為に美濃の茶店で春をひさいだ。腹一杯食わせてくれるお方なら誰でも良かった。越前では、御館様が長久寺の門前で人を殺めても気にならなかったし、田圃の畦道で人の嫁を犯したと聴いても何の感情も湧かなかった。ひもじさや親に身売りされた子は、人の心を失くしてしまう。死して、われは初めて人の心を得たのじゃ。あの御方が人を殺めたと聴けば、われの所為ではないかと気が病み、心が痛む。じゃが、二度とあの御方の前に出ぬと、われは黄泉の国の神々に誓約した。日根野。これを見よ」
多恵が椅子から立ち上がり、ブラウスのボタンを外し始めた。瞼を閉じようとするが、お蘭は瞬きさえも許さない。腰から上のものを脱ぎ捨てた多恵は自分の美貌を誇るかのように白い肌を晒した。七十を超えた多恵の乳房は満ち満ちており、その肌は皮脂に溢れてシャンデリアの光を跳ね返している。岳は、以前、瑠璃子が打ち明けたことを思い出していた。
彼女が背を向けると、岳は声にならない声を上げた。背中には無残な傷跡が残っていた。甚振りは何度も繰り返されたのであろう。傷の上に新たな傷が刻まれて深い溝を掘っていた。その溝は、白い背中の至る所を這い回している。
「御館様が真田栗毛を鞭打つことはなかった。あの御方の鞭はわれの背中を打つ為の物じゃった」
多恵の傷だらけの背中が震えていた。
「われがなぜ多恵に憑いたと思うか?」
ブラウスのボタンを留めながら、お蘭が訊いた。答えられずに黙っていると、彼女は話し続ける。
「お主の妻子が亡くなり、御館様を慰める力が弱まった。彼の気鬱の病は肥大して、怒りの拳が黄泉の国の岩戸を叩き続けたのじゃ。
『お蘭。出て来い。出て来ぬと岩戸を破るぞ』
その音と彼の邪悪な声が黄泉の国中に鳴り響いた。安息を得られなくなった神々がわれに苦情を申し立てたのじゃ。
『お蘭殿。一伯殿の怒りを鎮めなされ。このままあの穢れた音と声が続けば、我等は神無月を待たずに出雲に参って暫くは戻って来ぬ所存じゃ』
神無月以外の月に、神々が黄泉の国から居なくなることなど、イザナギとイザナミの神が豊芦原中国を産み落として以来、一度もなかったことじゃ。それがどのようなことになるのか、誰にも分からないのじゃ。
一年半後に日根野家の跡継ぎを産むべき女子を探し出して、その無事を確かめた時、われは胸を撫で下ろした。しかし、その安堵も寸時のことであった。あの御方の眼が座敷の天井板に張り付いていたのじゃ。その視線は、塾生の英語の発音に耳を澄ませている瑠璃子の身体の線に釘付けになっており、しかも身に付けている布の下を透視していた。この家と同様に、われは直ちに結界を張り巡らせ、多恵に憑いて瑠璃子を見守ることにした。彼は瑠璃子の尻に気を取られて、われの存在も結界にも気付かなかったのじゃ」
その語気には口惜しさが滲んでいた。人の美醜は時代により変遷したが、彼女の眼には瑠璃子の顔立ちや体型が南蛮人のように映っているだろう。それに惹かれるかつての伴侶を、同じ眼が非難していた。
一伯公廟の震えが治まったとの報告があったのは、春のうららかな日であった。岳は瑠璃子と連れ立って老人ホームを訪れていた。
「貴方が片付いて私も安心した」
多恵が笑顔で二人を迎える。一時は混迷したまだら認知症も一段落しているようだ。
「そうそう。芽衣に訊かれて知らないと答えたけど、家の売却で戸籍を取ったらこんなものが出て来た」
彼女はベッド脇の引き出しから戸籍を取り出して、娘に手渡した。
「・・」
瑠璃子の眼はそれに釘付けになっている。付箋を貼っている蘭には、長男・吉雄と書かれており、彼女の父親の蘭には次男と記されていた。
「司法書士さんの話だと、戸籍上、吉雄さんは今でも生きている。芽衣と連絡が取れたら、それを伝えて欲しいのよ。でも、親族でも覚えていない終戦直後に行方不明になった大伯父のことを、彼女はなぜ知りたがるのかしら?」
帰り道、近所の塀の前で、二人は棚から垂れる薄紫色の花弁の群れを見上げていた。強い光が日傘の布目を通り抜け、瑠璃子の顔に斑点を作っている。
「今年も藤の花が綺麗に咲いたわ。美由ちゃんには申し訳ないけど、貴方と伯父さんが絵里を守ってくれた。絵里もこの子も運命の必然で結び付いている」
お腹を摩りながら、瑠璃子はそう言った。
豊後県警中央署の村角刑事はパトカーの助手席に乗り込もうとしていた。彼は聞き込み捜査に志願したことを後悔していた。彼の経歴なら、真っ先に被害者の夫から事情聴取をして、犯人の特定に向けてリードする立場であるからだ。昨日一日掛けて、かんたん港の周辺を聞き込みしたが、何一つ新たな情報が得られなかったのだ。秋になっても、流れた汗が時間を置かずに結晶するほど、陽射しが強く乾燥していた。
携帯が鳴った。
「村角君。被害者の夫が失踪した。そっちの捜索に回ってくれないか。聞き込みは若い者に遣らせるから」
昨日の内に事情聴取しなかったことを、彼は再び後悔した。彼は被害者とその夫に面識があった。昨日の早朝、日根野瑠璃子と一歳になったばかりの長男がかんたん港に浮いているのが中央署に通報されたが、岳の気持ちを慮ったのだ。
三福寺の手前で、夫発見の連絡が入る。ハンドルを切り返して広瀬橋に向かった。村角が案じた通り、夫は豊後川に浮いていた。河川敷に下りると、救急救命士が彼を担架に乗せようとしていた。二年前と違っていたのは、彼は水を吐き出し、再び呼吸を始めていた。日根野岳のキラリと光った眼を見て、村角刑事は背筋が冷たくなっていく感触を味わっていた。