ツルオン
「なぁ、鶴の恩返し、って知ってるか?」
いやはや、溜息混じりに、とんでもない問い掛けが出たものだ。ここは居酒屋なのだから、話題などコロコロ変わるものだけれども……昔話とは、先輩もなかなかのチョイスをしてくる。しかも、さっきまでは、重たい仕事の話しをしていたっていうのに。
「まぁ、大体の内容は知っていますけど……」
私の声が耳に届いているのか、いないのか、先輩は肩ひじを付いてビールジョッキをチビチビと傾けている。いつもは、あおるように豪快に飲む人なので、やはり今日のことは相当こたえているようだ。
魂が一服してきたかのような長い間の後、やっと先輩から声が聞えてきた。
「本当に、あれは何とも悲しい話だよな。鶴がさぁ、夜な夜な自分の羽を――」
ねえねえ、おしぼりを見つめながらのマジ昔話が、どんより空気をまとって始まっちゃったよ。っていうか、あれって悲しい話? 鶴が飛び去っちゃうから、悲しいっちゃ悲しいか。まぁ、どうでもいいんだけど。
とりあえず、「愚痴でも何でも聞きます」って飲みに誘ったのは私だし、聞くしかないか……。
☆
与平は家にある金をかき集めて町に向かった。そして、反物店へと飛びこんだ。だが、目当てのものは見つからず、逆に問い返されるのである。
「あの白く輝く布は、もうないのかい?」
与平は首を横に振り、がくりと肩を落として店を出た。
背中越しに店主の、「あれなら、いつでも高値で買い取るよ」という声が聞えてくる。
とぼとぼと道を歩く与平。
いくばくかのお金のために、全ての生地を売ってしまった自分が恨めしい。目を閉じれば、あたたかな笑顔が浮かんで見える。会話をしながら食べるごはんが、あんなに楽しく美味しいものだと教えてくれた彼女。ただ真面目に働くだけの毎日を、おはよう、から始まる充実した一日に変えてくれた彼女。
だけど、彼女はもういない。
彼女がいた時には仕事帰り、家へと向かう足は弾むように軽かった。だが、今は米俵を背負っている時よりも遥かに重い。
あたたかだった家はもうない。心の中まで、隙間風が吹き抜けていく家があるだけだ。何にもない家。彼女との想い出のものだって、何ひとつ残ってはいない。彼女が身を削って作ってくれたものさえも。
与平は手にしている金を、ぐっと握りしめた。涙とともに溢れ出してくる彼女への思い。彼は向きを変えて走り出していた。
町に戻った与平は誰かれ構わず声を掛けた。
「白い布を知りませんか?」「鶴の羽で織られた輝くような白い布を知りませんか?」
彼が売った布は町で評判になっていた。だから、その布のことを知っている人は多かった。だが、持っているという人はなかなか現れてくれない。それでも彼は諦めることなく毎日町へと通い、鶴の羽で織られた布を知りませんか、と尋ね続けた。
☆
「へぇ、そんな続きがあったんですね」
話し終えた先輩に、そう声を掛けると、今日何度目かの大きな溜息が返ってきた。そして、細い息のような呟き声が漏れ聞えた。
「悪気のない言葉だけに辛いよなぁ……」
その言葉は、音楽コンサート終了時の静寂の中、楽器の余韻がゆっくりと胸に滲みこんでくるように、私の胸に広がった。
そこでやっと分かった。先輩が何故突然こんな昔話を始めたか。
確かに、今回のことは先輩のせいではない。いや、直接担当していたのは先輩だから、やはり責任は先輩にあるというのだろうか。たとえ、今回のプロジェクトが他社に先を越されてしまったのは部長の余計なお節介、部長の売り込みのせいで、情報がもれていたかもしれないとしても……。
部長は悪い人ではない。部長になれたのも、先輩という優秀な部下がいたおかげだと、ちゃんと自覚しているし、部下に気を回せる、いい上司なのだと思う。今回のことだって、よかれと思ってしたことなのだろう。
部長の悪口ひとつ言わない先輩。でも、ふとこんな昔話を始めた胸のうち。
顔を上げた先輩が、残っていたビールを一気にあおり、「ビール追加で!」と声を張り上げた。何かをふっ切るかのような大声で。
私も続くように、「今日はガンガン飲んじゃいましょう」と一気にビールを飲みほした。
☆
与平が持ち込んだ素晴らしき布の正体がなんであったのか、それは瞬く間に町中に広がった。
そして山から鶴が消えた。