哀愛傘 ー香奈恵ー
閉店後の明かりを落とした店内で、トントンと言う包丁の音がキッチンに響いていた。
でも、弁二や海斗のような軽快なリズムではない。
キッチンの端に立っているのは徹だった。
まな板には野菜の切れ端のようなものが置いてあり、どうやらそれで包丁の練習をしているようだ。
手を切るんじゃないかと思うくらい野菜が小さくなっても徹の包丁は動いていた。
そんな切れ端では練習になってないのはないかと思いながらも佳奈恵は微笑ましく思った。
「徹くんもう帰りなー」
香奈恵は坊主頭の後ろ姿にそう言った。
そして、徹の努力を伝えようと、弁二のいる裏の倉庫のドアを開けた。
倉庫の角にしゃがみ込んでいた弁二が険しい顔で振り返る。
弁二は段ボールに入っている割れた酒壺を指差してゆっくり、低い声で言った。
「なんであいつに酒壺触らせたんだ。」
そして酒壺破片の一つを拾い上げた。
「こういうもんの掃除はおまえがやればいいだろうが!」
また怒らせてしまった。
香里奈の体が弁二の声に反応して固まる。
「おまえはこの店を大事にしようという気がないんだろ!そんなんでこの店やってけると思ってんのか!」
佳奈恵は目を瞑る。
「やっていけません。」
反省の言葉に聞こえただろうか。
本当に佳奈恵が言いたかったのは、「あなたとはもうやっていけません。」だった。
気づかれないようにしてたが佳奈恵と弁二の関係にはヒビが入っていた。
壊れてはいなけど、弁二が怒鳴る度に見えないヒビが入っていく。
いつか壊れてしまうのではないかと不安になることがある。
弁二は店のこととなると人にも自分のも厳しい。
短気な弁二は、人が自分の思うようにやってくれないと、感情丸出しで怒鳴る。
2歳の娘の里奈が癇癪を起こすのと似ている。でも35歳の大人の癇癪はたちが悪い。誰も弁二をしかる人がいないし、お菓子やテレビで機嫌を取るわけにはいかない。
子供が3人いる佳奈恵の友達、静香は「子供は自分の要求がどれだけ受け入れられるか試してるの。そういう時は、おさまるまでほっとけばいいのよ。」と言っていた。
だから佳奈恵はそうすることにしている。
「土砂降りだな。」
倉庫から戻って来た弁二はいつもの弁二に戻っていた。
弁二は何事もなかったようにいつものように火の元点検をして店を閉めた。
弁二は店の鍵を締めてから1つしかない傘を開いて、こっちへ来いと言うように傘を少し上に持ち上げた。
二人は雨の中を黙って車まで歩く。
傘の中が少し息苦しく感じるのはぬるい雨のせいではない。
弁二は傘を佳奈恵の側に傾けた。
こういう時にこんなさりげない優しさのようなことをする人なのだ。
弁二なりに怒鳴って悪かったと思っているのだろうか。
香奈恵はさりげなく弁二を伺き見た。
弁二は何か考えこんでいる様子で下を向いていたが、急に「おい。」と言った。
「はい。」
「さっきのことだけど。」
さっきのこと?
「やっぱりお前がさっき言ってたそのあぶりサーモンってのやってみるか。」
あーそのことですか。
弁二はヒビが入っていることになど気づかない鈍感な人なのだ。
夫婦で自営業をやっていると、たまに息が詰まりそうになる時がある。
でも、そう思っているのは佳奈恵だけなのかもしれない。
短気な人というのは自分の気持ちにを人にぶつけてその後は以外とけろっとしている。
不満を吐き出してスッキリするからなのかもしれない。
そんな弁二が羨ましく思った。
佳奈恵は弁二に反抗することも言い返すこともしない。
弁二のようなプライドの高い人に反抗など出来るわけがない。
弁二を立てて支えるのが佳奈恵の役目だと思っている。
我慢、我慢、笑顔、笑顔。
また明日も笑顔で店に立たなければいけないから。
弁二が隣で寝てしまった頃、いっぱいになって溢れ出した我慢が佳奈恵の頬を流れ落ちる。
弁二が不満を吐き出すように、佳奈恵は涙で不満を流し出す。
ーカウンター席の客ー
「ビールもう一杯ずつおかわりお願いしまーす。」
私達はカウンターの席に座ってたから、前にいた店のオーナーさんに言ったんです。
そしたら、「おい。」ってオーナーの奥さんに向かって言ってくれたんですけど、奥さんは奥のテーブルのお客さんと何か話してて聞こえなかったみたい。「おい。」「おい。」って声がだんだん苛立ってきてる感じだったから、それを見かねた幸子が「すみませーん。」って大きい声で言ったの。そしたら奥さんはすぐ気付いて来てくれたんですけど。。その後キッチンの奥の方でオーナーさんと奥さんが話してるのが見えたんです。あれはどう見ても奥さんが叱られてる感じでした。ここのオーナーさんの握る寿司はすごく美味しかったんだけど、その時の奥さんの表情の方が忘れられなくって、少し心配になってしまったんです。
うちみたいに暴力振るわれていなければいいけど。




