醜いキャベツ ー美奈ー
開店まえの居酒屋弁二は炊きたてのご飯と甘いタレとだしの混ざった匂いがする。
美奈はそれを吸い込みながら仕事の始まりを感じた。
そして「また今日一日頑張るか」のため息をついた。
仕込み作業中のキッチンで「おい」という攻撃的な弁二の声が響く。
美奈と徹と海斗は手を止める。
3人は同時に弁二の目線を追う。
弁二はいつもみんなの名前を呼ばず、「おい」でみんなを呼んでいる。
目線だけで誰に言っているかを判断しなければいけないのだ。
おいは徹に向けられていた。
弁二は「こんなもん食えるか!」
という言葉と一緒にキャベツの千切りを投げ捨てた。
キャベツの千切りが宙に舞い、無残にキッチンのタイルに散らばる。
確かに不器用な千切りだと美奈は思った。
「ほら、この海斗が切った部分見てみろ。」
弁二が別のタッパーから海斗の千切りをつまみあげた。
海斗がいつも言う「ふわふわ千切り」はタイルに落ちても繊細なままだろうか。
美奈はなんとなくそう思いながら醜いキャベツを見ていた。
徹は泣くのを堪えるように下を向いて歯をくいしばっている。
美奈には徹の気持ちが手に取るようにわかった。
美奈も前のバイトでかなり叱られてていた。どんなに努力しても、気をつけても、ミスするときはしてしまう。不器用な人はいつまでたっても不器用だし、仕事ができない人はいつまでたっても仕事ができない。
海斗は手を止めてチラッとそのやりとりを見た後に、何事もなかったように自分の仕事に戻った。
海斗は真剣な顔で半身の鮭に包丁を入れている。
真っ直ぐな目をしている海斗には迷いがない。
「将来、自分の店を持ちたいんですよね。フュージョン料理のレストランで、モロッコ風の内装にしたいんですよ。ソファーにカラフルなクッションとかたくさん置いて、なんか、こう、エキゾチックな雰囲気ですよ。」とそれが実現するかのように話していたけど、美奈には違う世界の話にしか聞こえなかった。
美奈は自分の無様な人生を思った。
友達がみんな就職する中、自分は何にも向いてない気がして、結局コンビニと本屋と居酒屋バイトで今までやってきた。
仕事があるということはそこに自分の居場所があるということで、たとえそれが居酒屋でも美奈にとってはどこかに属しているということに意味があるのだ。
美奈には7年間付き合った彼氏がいた。
「ねえ映司〜聞いて〜。」
映司は美奈の居酒屋での愚痴をいつも聞いてくれた。
「それ最高だな。」とか「やだって、はっきり言いってやれよ。」とか美奈の欲しい返事を返してくれていた。
この居酒屋で働いてるのはそんな愚痴を映司に言いたかったからかもしれない。
居酒屋弁二ではいつも何か話題になるようなことが起こる。
弁二が佳奈恵に「おい。」と言ったのにカウンターのお客がそれに反応して「すみません。醤油つけすぎました!」と謝った事件。
弁二が徹にお茶の意味で「アガリで。」と言ったら徹が自分の仕事があがりだと思って帰ってしまった事件。
どれも大した事件ではないけど、それが美奈の毎日なのだ。
美奈子はここの居酒屋のウエイトレスとして客の注文をとって料理を運ぶ。何の難しいこともない、単純なその作業を繰り返しているだけなのだ。
趣味も特技も資格もないから仕事と映司が美奈の全てだった。
映司の最後の言葉が美奈の人生を的確に、残酷に表している。
「おまえといても刺激がないんだよ。」
申し訳なさそうに言った映司が気の毒にさえ
思えた。
大して見た目もよくない居酒屋で働く34歳に刺激などあるはずがない。でも映司は一体どんな刺激を求めてたんだろう。
泣きはらしたあの時から一カ月たって彼氏なしという更に刺激のない毎日はただ過ぎていく。
「お疲れ様です。」
美奈は佳奈恵に言って店を出る。
美奈は暇だから帰っていいと言われいつもより早く帰ることになった。
10時過ぎだった。
一カ月前まではこういう時すぐに映司に電話して一緒に夜景が綺麗に見える丘に行っていたのに。。。
居酒屋弁二から車で5分くらいの所に知る人ぞ知る夜景スポットがある。
美奈と映司はベンチに座ってただ夜景を眺めた。
見上げると星が一面に輝いていて、ずっと見ていると流れ星が流れる。
「あっ、今見た?」
と言って美奈と映司とは顔を見合わせる。
その瞬間が美奈の幸せの瞬間だった。
今は仕事が終わってから空を見上げると、星は見えても、流れ星は流れない。
流れ星は夜景が綺麗に見える丘に行かないと見えないのだろうか。
それとももう流れ星は流れなくなってしまったのか。
美奈は黒い空をしばらく見上げていたこと
(男性客)
昨日たまたま寄った居酒屋でね、若い男の子が叱られててね。大将がすごい顔してナイフ持ってたもんだからね、そのナイフでぐさっといくんじゃないかと思って気が気じゃなかったんだよ。居酒屋殺傷事件。って新聞の見出し想像しちゃってさ。いやーもちろん何も起きなかったんだけどね。




