玉子 ー達也ー
達也は脇に汗をかいている自分に気づいた。
「何でも聞いていいぞ。」
弁二がそう言った。
達也は以外にも取材に協力的な弁二の対応に戸惑った。
今日は取材に来たわけではなかったから、何の準備もしていない。
大衆居酒屋の企画については言えなかった。
基本的なことを聞こう。
「ここのお店は初めてどのくらいたつんですか?」
「今年で10周年になるね。」
「そうですか。ここの一押し料理は何ですか。」
「よし。」
弁二はそう言って答える代わりに手を動かし始めた。
弁二は寿司を作っていた。
「ここは昔寿司屋だったんだ。この寿司はうちの爺さんの味だ。」
弁二はそう言って素早く5種類の寿司を寿司下駄にのせて出た。
大トロ、まぐろ、いくら、甘エビ、玉子。
達也は迷うことなく玉子から手をつけた。
優しい玉子の旨味がストレートに口に広がる。
初めて玉子を食べたような新鮮な感覚だった。
だしの味や調味料の味付けのか味があまりしなかった。
達也が今まで食べた美味しい玉子はだしの味やとろける食感が特徴的だったがこの玉子は味付けがあまりされていないようでなんと表現すればいいかわからなかった。
塩とか醤油とか砂糖とかそういうシンプルなものかもしれないけど、達也はそれ以外に何か特別なものが入っていると思った。
「この玉子の隠し味は何ですか?」
達也は聞かずにはいられなかった。
「隠し味なんてないぞ。あんたが今食べて感じた味が全てだよ。」
「特別な卵を使っているんですか?」
弁二はふと笑顔を見せ、
「梶峰ファームの「光輝」っていう一個500円の卵。」
と言った。
「一個500円ですか!」
達也は今食べた玉子の後味に意識を集中させた。
達也は微かに卵の黄身の甘みとこくを感とった。
急いでノートとペンに「梶峰ファーム 、光輝、一個500円」とメモをした。
弁二が達也のことをじっと見つめている。
「本当に高い卵の味がしたかい?」
達也は自分が騙されていることに気づいた。
「今言ったのは嘘だ。うちが使ってるのは普通の卵だ。」
そう言ってキッチンの奥に行ってしまった。
達也は自分の顔が赤くなっているのを感じた。
その様子を見ていた美奈が達也に近寄って来た。
「隠し味はね、弁二さんの手の汗なんす。」
美奈が秘密を教えるように達也に言った。
一瞬、達也はギョッとした。
美奈が達也の反応を見て笑い出した。
キッチンからその様子をじっと見ていた徹も笑いを堪えていた。
そりゃ、冗談に決まってる。達也はつられて苦笑いをした。
はっきりいってここの寿司は美味かったけど、特別な美味しさではなかった。達也はもっと美味しい店をたくさん知っている。
それに「街角グルメ」のターゲットである若い人達はこういう店に魅力を感じないだろう。
でも達也にはあの玉子の味だけが印象に残っていた。
メニューに「厚焼き玉子」があるのを見つけたから、また今度来た時に食べてみようと思った。




