手ぬぐい ー弁二ー
(若い女性客)
あそこの居酒屋の親父ってまさに頑固親父って感じだよね。でも以外とそんな年とってなかったりして〜でもあのねじり鉢巻き〜絶対あれ洗ってないよね〜何色って言うんだろあの色。汚い赤。ははは〜
頭に鉢巻きがないと気合いが入らない。
いつもしている鉢巻きを捨ててしまったのだ。
あれは仕事復帰して最初の日だった。
調理道具がいつもとは微妙に違う位置に置かれてあった。
常連客の一人が
「弁ちゃんいない間、海斗なかなかいい仕事してたぞーおい、もう世代交代か〜?」と言われて腹がたった。
皿を投げ付けたいような衝動に駆られたが、その衝動を抱えたまま裏戸から雨の降る外へ出た。
周りに感情を当たりつけれるものが何も無く、「ちくしょう!」と言ってねじり鉢巻きを地面に投げ付けた。
雨は容赦なく弁二に強く当たっていた。
小さな水たまりというか泥水に浸ったねじり鉢巻きはもうゴミにしか見えなかった。
泥がついて泥水が滴るそれをつまみ上げゴミ置き場の壁に投げ付けた。
弁二はその自分の衝動的な行動を後悔していた。
頭に締まりがないからか、今日は全く仕事をやる気がしない。
それでも弁二のやる気などと関係なく、体はいつものように動く。
弁二はキッチンのベンチに綺麗に畳んだ手ぬぐいが置いてあるのを見つけた。
確かに、あの時の捨てたはずのねじり鉢巻きだ。
なぜ、捨てたはずのものがここに。
洗って 広げられた手ぬぐい。
そうだ。はじめはこんな色だったと思い出す。
「この色 紅の八塩って言うんだ。」
祖父弁二は深みのある真っ赤な紅色の手ぬぐいを手に持っていた。
「紅花の染め汁に何度も何度も浸して染められた色なんだぞ。」
そう言って手ぬぐいをねじって弁二の頭につけた。
満足そうに微笑む祖父弁二の頭にも同じものがついていた。
弁二はその時、重い責任を背負った気がした。
弁二は祖父弁二の名前を継いだだけでなく店も継いだのだ。
この店は寿司屋ではないけど、弁二は祖父弁二が立っていたこのカウンターに立って、祖父弁二に教えられたように、寿司を握っている。
本当は居酒屋ではなく寿司屋としてこの店をやりたかった。
海斗の言うようにそろそろメニューを変えるべきかもしれないが、そうすることで元の寿司屋の姿からだんだん離れていくことに焦りを感じていた。
今までと違う新しいものをつけるような新鮮さで、手ぬぐいをゆっくりねじってみる。
くたびれた紐じゃなく、紅の八潮の手ぬぐいの感触を額で感じた。
祖父弁二は、「気合いが入っとらんと、寿司にも現れるからな。」と言っていた。
そんなわけはないと弁二は思っていた。
自分の手はどんな精神状態でも同じように寿司を握る自信がある。
でも、今の弁二には「気合い」が必要だった。
弁二は紅の八潮の手ぬぐいを頭にぎゅっと結んだ。
かかっているとは気づかなかった頭のもやが急に晴れたように、弁二は何かが見えた気がした。
その時、弁二にある思いが降りて来た。
どんなに店が変化しても、自分のスタイルは変わらない。
「おい」海斗。
弁二は海斗に向かって叫んだ。
前向きなおいだった。
「おまえに今日の御通し任す、なんでもいいから作れ」
「はいっ」海斗はキレのいい返事で答えた。
海斗は冷蔵庫からキャベツ千切りと書いた大きなタッパーを出してきた。
「弁二さん、この千切り太過ぎるんで、俺これ使ってなんか作ります。」
徹が切ったキャベツの千切りだった。
弁二はいつまでたっても包丁で千切りが上手く出来ない徹を思った。
キャベツは包丁で切るからこそ美味しい。という自分の信念を突き通すのはただの頑固なのかもしれない。
弁二はしまってあったピーラーを出してきて徹のまな板の上に置いた。
徹はもうすぐ出勤してくるはずだ。
「徹はこれでキャベツの千切りやればいいから、お前、見てやってくれ。」
弁二は海斗にそう言っていつものように仕込みに取り掛かった。
全てが祖父弁二に教わった通りじゃなくてもいいだろう。
弁二は気が楽になった気がして、これから御通しは全部海斗に任せてみようか、とまで考えた。
少し妥協するだけでこんなに心の余裕が出来るもんなんだなぁ。
弁二のシャリを切る手がリズミカルに動いていた。