後編
協会はジャミングヒューズという町にある。図書館が一つの町になったような印象のある場所。見渡す限り本屋ばかりで数十軒もの店舗が集中して存在している。周囲の露店商でさえ本しか売られていない。まさに本好きの本好きによる本好きのための町と言えよう。大人も子供もお姉さんもたくさんの知識を求めて、たくさんの人々が行き交う、たいへん栄えた町。
「ん?」
僕は気になることを発見する。
「町の人はどうして様々な色のリボンを付けているのですか?」
そう。町のほとんどの人がどこかしら目立つ場所にリボンを付けていた。赤組白組青組など様々な色分けがされている。
「あぁ。あれは探してる本のジャンルを示すシンボルカラー。商売人たちはリボンの色を見て売りたい本を勧めたり、本屋にも取り扱うジャンルのシンボルカラーを飾ってあるよ」
「なるほど。これだけの本があると便利ですね。あの桃色はどういうジャンルですか?」
「ウソだけど、あれはエロ本求むね」
「……じゃ、じゃああの紫色は?」
「ウソだけど、あれはセクシー心理学関連の本を探していますのカラーね」
「……」
こんなに脱力してしまう説明は初めて聞いた。
「ほらほら。ツッコミちょうだい」
どうやらボケたつもりだったみたい。チカチョはカモンカモンと手招きをしていた。いつものようにイジワルをしてるつもりなのだろう。
「……ウソなんかーい(棒読み」
「うへへっバレちゃった?」
妙にご機嫌なチカチョだった。これはこれで会話しにくいったらありゃしない。
「やっぱりこれだけ本があると知識欲が刺激されちゃうっていうかね。ここなら変な魔女狩り狂の出入りもないからゆっくり羽も伸ばせるし」
レディの隠れ家もそうだったが、特別な結界が張られてあり、許可無き者の立ち入りは出来なくなっているらしい。世の中魔女狩りが頻繁に行われており、本物の魔女は身を隠して生活している。その中でもこの町は特別なのだが。それにここは魔女率が非常に高い町。何百の魔女が集結するのだから、その全ての魔女を敵に回そうという愚か者はいないだろう。それは猛獣の群れに単身手ぶらで乗り込む羊のようなものだとチカチョに教えてくれた。
「あっ。ここね。着いたわ」
それは町の中央にそびえ立っている、協会を象徴する立派な塔が僕たちの目の前に現れた。あそこで筆記試験が行われるのだとチカチョは言った。僕たちは早速試験会場へ向かった。
「で、何故僕が魔道書を読むことになっているのでしょうか?」
塔の中に入ると話はすでに伝わっており、協会受付のお姉さんに筆記試験会場へ真っ直ぐに通された。
そこで僕は牢屋のような密室に閉じ込められた。石壁で囲まれた部屋に鉄の扉。かなり頑丈な作り。防音もしっかりされていて、音ですらここを出ることは困難だろう。
そして牢屋の中央には、机の上に乗せられた一冊の分厚い本が置かれている。見るからに怪しい本。あれが魔道書なのだと僕は直感する。
「ソレデハ筆記試験ヲ開始シテクダサイ」
「いや、ちょっと待ってください!説明が無さすぎて混乱しております!」
「そこは私との主従関係でツーカーでちょちょいのちょいでパッパッパと行きましょうよ」
チカチョの声が部屋の中で響く。
「とにかく席について。説明するから」
「……」
僕は不信感を抱きつつ、この席に座ると後戻りが出来ないような気がした。案の定座ると椅子から革ベルトが飛び出し、席から立てないように捕縛された。嫌な予感しかない。こうなってしまえば仕方がない。逃げるわけにいかないので僕は説明を待った。
「今からバトーを遠隔操作して、トラップワード・セキュリティーワード満載の試験用魔道書を読み進めていくわ」
「何故僕が遠隔操作されなくちゃいけないんですか?」
「トラップ回避のためよ。私に何かあったら困るでしょ?ミスってもせいぜいバトーの頭が吹き飛ぶくらいだから気楽に行きましょう」
「僕の頭が吹き飛ぶ程度なら気楽にいけますね、いけませんよ!やめてください!」
「それがノリツッコミってやつね。面白いわ。覚えておくわね」
「いや、そうじゃなくて。頭を吹き飛ぶレベルを気楽とは言いません!」
「言葉って難しいのね。ニュアンスの違いってやつかしら?」
「ソロソロ試験ヲ開始シマスヨー」
「あっ、ハーイ。いつでも準備オーケイです」
「いーやーですーっ!助けてくださいってば!」
「あらあら。そんなに可愛い声で鳴かれたら試験中なのに興奮するじゃない。イジワルな私へのご褒美かしら?」
嫌がる僕が楽しくて仕方がないといったチカチョだった。何を言っても無駄な抵抗なのだろう。むしろ嫌がれば嫌がるほどチカチョを楽しませるだけだ。この町に来てテンションは上がっていたが、ますます声が弾んで楽しそうだ。
「安心しなさい。私がミスするわけないじゃない」
その自信に救われる。少しはチカチョのことを信じても良いかな。
「……多分」
前言撤回。
試験開始と共に遠隔操作で身体が勝手に動いていく。僕はトラップワードに引っかからないように祈るだけだった。ときどき聞こえてくる「これ大丈夫かな?賭けだけど当たって砕けろよね」という言葉に戦慄を覚えながら。まるで生きた心地のしない地獄のような時間だった。試験の時間が長く長く感じた。終了を告げる試験官コウモリの声が天使からの贈り物のように聞こえた。僕の頭は無事だった。
ミスもなく無事に筆記及び実技の試験を合格したチカチョ。目的の書を解読することが許可されることなった。
書は塔の最上部、封鎖された部屋にあった。これよりチカチョ自ら解読作業に入る。さすがに試験とは違って、世界にたった一つだけの書だ。本人の解読以外は認められないし、厳重な管理が敷かれる。
「というわけで私はこれより解読作業に入るから。その間はMンスターたちには書について情報収集して来てほしいの。書の名前はゲッケイジュの書よ。最も有益な情報を手に入れたMンスターにはご褒美を上げるから頑張って来てちょうだい」
「はーい」
Mンスターたちの心地の良い返事に満足するチカチョ。よろしくと言い残し、チカチョは解読専用に用意された部屋へ向かう。数名の係員に連れられて、チカチョが入っていった部屋は再び封鎖された。
部屋の前に静けさが訪れる。ここにいるMンスターたち全員でチカチョの成功を祈らずにはいられなかった。
「頭を吹っ飛ばされそうになったんだ。上手く行ってもらわないと困るよ」
「私だっておトイレをずっと我慢してたんですから!」
「知らんがな。マーキンはすぐにトイレに行っといれ」
マーキンの青ざめ方が半端なかった。トイレ行かない願掛けは膀胱炎になりそうだから、今後やめるように注意しておこう。
「さぁこのキンタ様が核心に触れるような最高の情報をゲットして、チカチョ様のお役に立つぞ!ウォッホーツックーゥ!」
キンタは一番に勇んで走っていった。情報収集に気合い十分だったが、途中でピピピー!と鳴る笛に止められていた。そして屈強な男たちに取り囲まれ、どこかへ連行されていく。まぁ裸で騒いでいたら自警団の方たちが連行するのは当たり前のことだろう。自警団がちゃんと仕事していることを確認出来た。この町の治安は良いほうだろうということが分かった。
「……」
僕はマスゴッドにローブを羽織らせる。そこの売店で買った安物だが全身を包むにはちょうど良い。
「何や?わてにプレゼントか?惚れられても困るんやが……でもお前のその気持ち。しぃっかり受け取ったで!わては男でも全然構わまへんし!結婚しようや!スケベしようや!」
「今の見てただろ?裸で飛んでるおっさんなんてキンタの二の舞だぞ。あと頬を染めながらこっち見んな」
残ったのは僕とマーキンとマスゴッド。このメンバーで情報を収集することになった。
まずどこから調べたら良いのだろうか。本の町だから闇雲に探すと、大なり小なり情報量が多すぎて整理し切れなくなりそうな予感がする。ある程度ピンポイントで攻めたほうが良いだろうか。書についてのシンボルカラーは何色なんだろう?
「あの。バトーさん聞いてますか?」
「え?あぁごめん。マーキンか。考え事してた。それで何か用?」
「あの。その……」
歯切れの悪いマーキン。いつ戻ってきたのか気付かなかった。ただ様子がおかしいことには気付いた。トイレが見つからなかったのか、股間を押さえてプルプルと震えていた。
「ちょっと良いか?」
先ほどキンタを連行した自警団の男たちが、いつの間にか僕たちを取り囲んでいた。
「お前、この女の子に何かしたんじゃないのか?ちょっとそこまで話を聞かせてもらおう」
「え?ええっ?」
哀れ。僕たちまでもキンタのように屈強な男たちに連行されてしまった。もしかしてマーキンのおしっこ我慢がいらぬ誤解を与えてしまったのか?
自警団内の牢屋。ジャミングヒューズに来て牢屋へ入れられたのはこれで二度目だ。石壁に囲まれて、鍵付きの鉄柵で閉じられている。なかなか広く大人数を収容できるような場所だ。軽犯罪や一時的な収監を目的としたの部屋なのだろう。
「届け出もなくMンスターを町中に放つことは違法だ。特に罰則はないがマスターに確認を取るまで大人しくしておけ」
とのことだ。慌ただしかったので、チカチョに見落としがあったみたいだ。捕まった理由はすぐに誤解は解けたが結局牢屋に入れられることになった。
「ご、ごめんなさい。私のせいで……」
マーキンは岩壁にもたれて座っている。僕も静かに隣に座った。
「マーキンのせいじゃないだろ?特に罰則もないみたいだし、すぐに出れるよ」
「……うぅううっ」
「責めてないから泣くなよ」
「ううぅっ。だって」
「大丈夫。怒ってないから安心しろって」
「だって漏れちゃいましたよ?」
「そっちで泣いてたのかよ!」
やれやれ。まさか牢屋の中をマーキングしなくても良いのに。仕方がない。看守に頼んで拭くものと着替えを用意してもらおう……と立ち上がった瞬間だった。
「……危ないです」
「?……ぅおぅっ!」
マーキンの周囲から罠が飛び出す。無数の細い槍状のものが地面から生えてくる。その中の一本が蜘蛛らしき黒い生物を貫通していた。蜘蛛は生にしぶとく、足をバタつかせていた。
「おやおや。気付かれてしまいましたか」
牢屋の奥から一人の男が現れた。
男はトゥ=サツマと名乗った。
「突然失礼しました」
全く気配がなかったのはトゥが姿を消していたからだと説明された。こいつは間違いなく魔術師だ。
「貴方たちよりも少し前に入ってきたラオが気持ち悪くて寝てもらっていたんですよ。魔術使用がバレるのも面倒だったので隠れてしまいました。確かラオの名前はキン=タマッケリーと名乗っていました。お知り合いですか?」
「知り合いじゃない。そんなアウト判定な名前の奴は知らない。あと裸男をラオと呼ぶな」
「そうでしたかそうでしたか。こちらが早とちりをしてしまったようで申し訳ないです」
トゥが指を鳴らすと黒い蜘蛛は姿を消した。
「失礼ながら立ち聞きしてしまいました。お二人はMンスターですよね?マスターはどなたになるのでしょう?」
特に隠す必要もないだろうと思い、僕たちはかくかくしかじかと経緯を話した。
「あぁ。チカチョ様でしたか。もっぱら噂になっておりますよ。彼女もゲッケイジュの書に挑戦なさるとか」
「噂?」
「えぇ。まぁこの時期になるとこの話題で持ち切りになりますから。一種の一大イベントとして取り扱われています」
トゥはニタニタと笑う。その様子に気付くことがあった。
「目が見えないのか?」
トゥの視線が外れている。コミュ障で目を合わせられないというわけでは無い。
「え?あぁ。そうなのですよ。私はあの忌々しい書の解読に失敗してしまいましてね。目をやられてしまったんですよ」
トゥは僕たちの位置を耳で把握しようとキョロキョロしていた。
「ですが心配ご無用。黒き蜘蛛は私の第二の目。それを串刺しにされて視覚を失ったも同然。今の私は目の見えぬ男。何も出来ません」
「それは悪いことをした」
「いえいえ。いつものことですから、お気に無さらずに。それに私の目はあの一匹ではありませんしね」
トゥが手の平をかざすと新しい黒き蜘蛛がどこからともなく手品でも使ったように現れた。数十匹とワサワサと八本の足を器用に動かしトゥの足元に集まってくる。大量の蜘蛛を見るとさすがに気持ちの良いものではない。
「この蜘蛛たち一匹一匹が私の目になります。私は自分の目を失った代わりに得た千匹の目」
「あの……気持ち悪いです。えいっ」
ズビャァアアッ!
「うわぁ!私の目たちが!」
マーキンの罠が再び発動し、仕掛けていた槍は次々と黒き蜘蛛たちを一掃していく。まるで箒でゴミを掃くように。哀れ。たくさんいた蜘蛛たちは一匹残らず駆除された。
「うおおおおっ、わ、私の目たちがあああー」
トゥはひざまずいて目たちの消滅を悲しんでいた。
「お、おい。マーキン。謝った方が良いんじゃないか?この人泣いてるぞ」
僕はマーキンに耳打ちする。マーキンはピリピリしているというか敵対心をトゥに向けていた。その目が鋭く光っている。
「……この黒い蜘蛛。女子トイレでも見かけました。そのせいでトイレに間に合わず……だからこの人悪い人です」
……場が凍る。なるほど。そういうことだったのか。だからトゥは牢屋に入れられているのだろう。
「ウォッホン!ウォッホン!ウォッカヒョンッ!さてここで取引をしませんか?情報交換ですよ。欲しいでしょ?命令されたんでしょ?書についての情報を。私の千匹の目があればどんな情報だって手に入りますよ。本当はね。私は魔術師やめたら情報屋やろうかと思ってまして。えぇ良いお値段で取引させていただきますよ。どうでしょう?」
明らかに話を逸らした。そして矢継ぎ早に口数が増えているところを見ると疚しいところがあると暴露してるのと同じだ。今更だがトゥを信用すべきか天秤に掛けなくてはいけない。
「もしかして、女子トイレにも黒き蜘蛛を配置させていたことを気にされているんですか?はははっ。もちろん情報収集にはどんな場所だって目を向けるものです。これは必要悪なんです。情報は常にフリ-。先ほど試験会場でお見かけしたマーキンさんの下着の色は白でしたよね?」
よし。信用しよう。トゥは最高の情報屋だ。僕はトゥとしっかりと手を握った。マーキンは白だ。ありがとう。
「わ、わわわ私は白じゃありません!ってやっぱり覗いてたんじゃないですか!この人は女の敵です!」
「……トゥのおバカ!」
「ギャンボ!」
危うく騙されるところだった。やはりただの盗撮魔を信用することなんて出来ない!いや、トゥ=サツマだったな。
僕を騙そうとしたトゥに一発拳をお見舞いしてやった。見事不意打ちは決まり、トゥは吹っ飛んだ。ウソつきは滅びるべし。そしてマーキンは白じゃない。別の色だ!多分赤かな黒かな。
「待ってください!あれは確かに白でした!見間違いなどしていません!白以外にない!」
「ち、違います!それに白、白と言わないでください!」
「違わないです!白です!命懸けても良いですよ!」
「違います!」
急に子供っぽい言い争いになる。そうだそうじゃないの掛け合い。
「だったら何色だって言うんですか!あれは白でした!白に間違いありません!……さてはバレたのが恥ずかしくてウソを言いましたね?ウソつきはそっちではありませんか!」
「わ、私はウソつきじゃないです!だって今日は白じゃなくて……」
「白じゃなくて?」
「し、白じゃなくて……って何を言わせようとしてるんですか!この変態覗き見男!」
「……フッ。これがトゥ=サツマの情報収集術。千匹の目とこの話術があればどんな情報だって手に入れるということですよ。どうです?これで私がどれだけ信用における人物だということが分かりましたよね?」
「いや、全然。聞き出せてないじゃないか」
とうとう開き直ったか。トゥには悪いがミッションは失敗している。これで何色か永遠に闇の中だ。トゥには失望したよ。
「ぐぅぅぅ!ともかく私はこの目を潰してくれたあの書をどうしても解読したいだけなんですよ!頼みます!協力してください!この通りです!」
トゥはとうとう土下座までして僕たちに頼み込む。土下座スタイルに馴染みはあったが、プレイ以外でこの姿を見るのは初めてだ。なんだか申し訳ない気分になる。
「分かったから。頭を上げてくれ。とりあえず話だけは聞くから」
「あぁ!ありがとうございます。それで充分です。こちらからの協力は惜しみません。何か気付いたことがあれば、私に教えてください。内容は何でも良いのです。あの書は難攻不落すぎて手詰まりになっている状態なのですよ」
「手詰まり?なんでまた?」
「ゲッケイジュの書。それは死者を蘇らせる禁断の書だからです」
「ゲッコウチョウ?聞いたことがない名前だな」
「聞いたことがないのではなく、聞き間違いですね。ゲッケイジュの書です。ただ蘇らせると言いましても、Mンスターのような不完全なアンデッドではなく、純生体として生きている状態に戻すこと……つまり死ねる身体に」
「……」
トゥが何を思って死ねる身体という言葉を付け足したのかは分からない。だけど僕はその言葉に何かを感じなければいけない予感がした。
「禁断の書。神の摂理に反する冒涜行為に等しいのです。だからこそ、そう易々と出来るものではありません。これは神への挑戦。魔術師の意地とプライドを賭けた壮絶な戦いなのです!」
トゥはそう力説する。その力の入れようが尋常でなく、本気だということが痛いほど伝わった。
「実はこの書に記された魔術は一度も発動されていません。未遂は一度だけ。しかもこの書の著者だけなのです」
「未遂?どういうことだ?」
トゥはよくぞ聞いてくれましたという顔をする。
「この書の著者。マッザコという魔術師がいました。マッザコは重度のマザコンで親愛なる母を亡くした時、ひどく落ち込んでいたそうです。どうしても母の愛を忘れられずにこの蘇生魔術を完成させたと言われています」
重度のマザコン。ここはツッコミを入れて、さらに話を広げるべきか……いや、話が長くなりそうなので僕は黙っておくことにした。
「死者を蘇らせるために必要なのはゲッケイジュという大木の力。マッザコはそれに繋がる道を発見したのです。だがいざ魔術を発動させようとした手前に止めてしまうのです。それは彼の母が反対したためです」
「どうして母は蘇ることに反対したんだ?」
「母は天国が気に入ってたそうです。一番綺麗だった頃に若返り、若かった頃の父と一緒に楽しく暮らしたいんだから現世に戻りたくないと」
……。
「まぁ天国とはそういう場所ですから、彼の母を責めるわけにもいかないでしょう」
罪があるなら愛しすぎたマッザコのほうか、愛させすぎた母親のほうか。
「マッザコは母と過去の自分と決別するために、後の生涯をかけてゲッケイジュに繋がる道を封印したのです。その封印は堅く堅く閉ざされました。おかげで未だにゲッケイジュに辿り着けた魔術師はいません」
「後の生涯をかけて……か。それってなかなか決別出来なかったから、後の生涯まで時間がかかったってことか」
「……そう、ですね。そうとも言えます。ただその執念がゲッケイジュの道まで辿り着かせたとも言えます。彼以上でも以下でもゲッケイジュまで辿り着けた魔術師は存在しません」
どんなものにもメリデメリはあるが、今回はメリットだったと言えるだろう。魔術師にとっては。
「ゲッケイジュの書には今年も数百人の魔術師たちが挑戦することになっています」
「えっ!す、数百人だって?」
魔術師がそんなにいることも驚きだが、それだけの人数が挑戦しているなんて思ってもみなかった。規模が想像以上だ。
「それだけ注目度が高いということですよ。初参加のチカチョ様がジョーカーとなり得るのか。きっとゲッケイジュに繋がる道の捜索や開かずの扉の攻略にも秘策をお持ちなのでしょう?」
「開かずの扉?」
また新しいワードが飛び出してきた。
「開かずの扉こそ最終関門。マッザコ本人が閉ざした自身の罪。運良くゲッケイジュに繋がる道を発見した者をあざ笑うかのように配置された最後の難所。ここだけは誰も突破した者がいないのです」
「開かずの扉か。厄介そうだな。チカチョはどうするつもりなんだろう?」
「情報交換としてチカチョ様の作戦をお聞きしたかったのですが……さすがに聞いていませんよね?」
「分かってるじゃないか。その通りだ」
トゥの話術。下手だな。僕からチカチョの情報を引き出そうとしていたのかもしれないが。もともと知らないのだから引き出せるものなんてない。
「では私の目を一匹お持ちください。こちらの情報も提供出来ますし」
黒き蜘蛛一匹が僕の肩に乗っかる。小さいサイズなので目立ないが気持ちの良いものではない。やっぱり。
それからトゥは成功者がいないので、あくまで失敗例としていくつか話をしてくれた。ゲッケイジュに繋がる通路の最奥には開かずの扉があり、約十分程度の時間をかけて進入者を押し出すように迫ってくる。この通路には試験であったようなコスト制限があり、この制限の中で扉を打ち破らなければならない。
今までの数々の魔術師たちが挑戦してきた。最大最強と思われるMンスターや魔術をぶつけてみても効果なし。扉の進行を止めるような魔術も効果なし。抜け道も作れる隙がない。押してもダメなら引いてみても持ち上げても開けゴマと叫んでも開きはしない。どれも成果はなく、失敗に終わっていた。
奇跡でも起きない限り、あの扉を打ち破ることは難しいのではないでしょうか。そんな言葉でトゥは話を締めた。
あれからチカチョの解読作業も無事に終了し、僕たちも牢屋からようやく釈放された。
「あのバトーさん」
マーキンが声かけてくる。トゥの話を聞いて不安になっているのかもしれない。チカチョが挑む壁はとても厄介だった。
「言い出すタイミングが無かったのですが着替えは……」
「そっちの話か!」
トゥの登場でコロッと忘れていた。僕たちはチカチョのところへ帰る前に衣服屋へ立ち寄ることにした。
「ねぇねぇ外で待ってるの、あれ彼氏さんでしょ?カッコ良い人捕まえたじゃない」
「え?あのそういうんじゃ……」
「みなまで言わなくても分かってる!彼氏のおギンギンがギーンとしちゃうような勝負下着をお姉さんが選んであげるから任せなさい」
「いえ、あの、だから……ひやぁああっ」
衣服屋での一幕である。さすがに下着売場に男が入れないので僕は店外で待っていた。すると店内からマーキンと慣れ慣れしいお姉さんの店員さんが会話しているのが聞こえてきた。ギーンとしちゃう勝負下着とは一体どんな形状なのか。想像が膨らむ。
「んー貴女の雰囲気なら、かなり攻めちゃったほうがカッコイイっしょ。じゃあ際どいコレと布面積最小のコレとアニマル柄かな」
「ひ!そ、そんな派手なの無理ですよ」
「そんなこと言ってちゃダメ!時代は肉食系女子なんだから」
店外まで聞こえる二人の声。僕は平静を装い聞いてない素振りをしつつ、しっかりと聞き耳を立てる。
「それじゃあ、ちょっと試着してみよっか。はいこっちこっち」
「あわわわぅ……って、どうして一緒に試着室に入ってきてるんですか?」
「着け方分からないかなと思って。私が着せてあげるから、ほらほら脱いで脱いで」
「や、やめ」
ゴソゴソゴソと布が擦れ合う音声が拾えた。マーキンの衣服が脱がされている音だと思う。店員の手際の良さに感心する。
「あら?可愛い下着着けてるのね。彼氏の趣味?」
「ち、ちが……」
「彼氏は紐パン好きっと。だったら、この紐リボンに決定ね」
僕はこの言葉を聞き逃しはしなかった。闇に葬り去られたと諦めていたマーキンの下着の正体は紐パンだということが判明した!馴れ馴れしい店員さんグッジョブ!ありがとう!トゥより数千倍腕は立つ。
そして紐リボンという甘美な言葉に悶々としていると買い物が終わったマーキンが下着売場から出てくる。マーキンは僕と顔を合わせるや否や、顔を真っ赤にしてどこかへ走り去ってしまった。当然か。しかしマーキンもあんな恥ずかしそうな表情をするんだなと僕はホクホクとした気持ちになった。最初に出会ったときとイメージは違うが、これはこれで。
日は傾き、町が夜の入り口に足を踏み入れた時刻。宿で僕たちは落ち合った。
「あら?バトー、肩にゴミが付いてるわよ。ペイ!」
スパァン!と心地良いムチの音。チカチョと出会い頭にトゥの目は粉々に散らされてしまった。
「……まぁ良いか。さようならトゥの目」
今なら下着売場の店員さんのほうが僕の中では評価は高いから。それはさておき、僕やチカチョ、マーキンたちは宿の一室で集合していた。ザ・スゥイートルーム。この宿で一番お高いお部屋。広いくつろぎの空間に静かな寝室。そこまで必要なのか?と言いたいほどの設備。音漏れの心配がない防音壁に囲まれた調教室に数々のグッズを取り揃えた地下拷問室。怪我をしても安心な医務室も隣接に完備。
「何故宿に地下拷問室なんてものがあるのですか」
「いや、あるでしょ普通」
「どちらの普通でしょうか?僕の中の普通には含まれてませんね」
「出来の悪いMンスターがいるんだから仕方ないでしょ。主人が解読作業本番で神経擦り切れるくらい大変な思いをしてたって時に、牢屋でおしゃべりに興じたり、キャッキャッウフフと仲良くお買い物してたっていう恐ろしく優雅なご身分の方がいたみたいだし」
「あふん!ごめんなさいチカチョ様!そんなに打たれると漏れちゃいそうですぅ!でもやめないでくださいぃ」
ピシィピシィンピシン!とムチの音が今宵も響く夜。本当は許可も取らずにチカチョが僕たちMンスターを町中に放ったのが原因なのだが。打たれている側が喜びに感極まっているのを見て、僕は訂正することをやめた。Mンスターにとってお叱りなのかご褒美なのか分からないからだ。ここで止めると僕が恨まれそうだし。
「それで?マーキンにおニューの下着を買って上げたんだって?デート気取りかよ。マーキンに身に着けてほしい下着をプレゼントしたの?」
「そ、そんなつもりはないですぅ。あぁお許しください。でもやめないでくださいぃ」
「フン。ダメよ。許すわけにはいかないわ。それで?どんな、はしたない下着を買ったのか、ここで見せてちょうだい」
ピーン。チカチョグッジョブ!僕はチカチョの言葉を聞き逃さなかった。ここで見せて、だと?マーキンはチカチョの言葉に逆らえない。ならばもしかすると例の紐リボンが拝めるかもしれない。神はどんなとんでもない罪作りなものをお作りになられたのか。紐なのかリボンなのか。ピンク色の想像が僕の頭の中で駆け巡る。これはしっかりと見届けなければならない。
「……やっぱり止めた。そこで鼻の下が伸び切ったマントヒヒみたいな顔した変態がいるから」
「……ッ!」
チカチョの視線が僕をじっと睨んでいることに気付く。こ、このままでは神の罪作りを拝めないどころか、このコミュニティの中で僕は変態というレッテルを貼られるかもしれない。それだけは阻止しなければ……ならばこの方法しかない。
「キリッ」
「……キメ顔してるけど、何か意味あるの?それとも変態認定されたことがそんなに嬉しいわけ?」
「ち、違います。これは変なことは一切考えていない紳士証明の顔です。キリッ」
「うるさい。変態証明の顔」
どうやら変態証明はとっくにお済みのようで。ムチに十分な運動を与えたところで快楽に悶絶しているマーキンをカードに仕舞う。結局拝むものも拝めぬまま。大変残念である。チカチョは他のMンスターも片付ける。ほとんど役に立った者はいないのでチカチョのムチも過労なことだろう。
あれだけ阿鼻叫喚だった宿の一室も二人きりになるとシンと静まり返る。二人きり……。
「二人きりですか!」
「何?急に大きな声出して」
「ふ、二人きりだと思いまして」
「私と二人きりだと嫌なの?」
「そうじゃありませんが、心の準備というか……」
チカチョは今までたくさん運動をして汗を流していた。頬は赤く染まり、息も荒く、全身が火照っている。女の汗の香りは男の催淫効果を促す。視覚、嗅覚、聴覚が目の前のチカチョを捕らえて離さなかった。
「……二人きりにしたのはゲッケイジュの書について大事な話があるからなんだけど……バトーは興奮しててそれどころじゃない。そう言いたいわけね?」
目は口ほどにモノを言う。チカチョは僕の視線と興奮を見逃さなかった。
「滅相もございません」
五感が疼く中で僕はグッと堪える。
「そう。良かった。でも事が済めば、特別にご褒美くらいあげても良いけど」
「ほ、本当ですか!」
「えぇ。とびっきりのやつを。ね?」
とうとう僕の本気を見せるときが……来・た・か!胸が熱くなる!思えばご褒美という言葉に踊らされてはいないだろうか。だが今では、それが良い。
「ふふっ。やる気も出てきたところで綿密な作戦会議を始めるわよ。失敗は許されないのだから」
チカチョは雰囲気を切り替える。その瞳に情熱が宿る。僕も相乗効果で今にも爆発しそうなくらいの高まりを感じる。
「じゃあそこに座りなさい」
チカチョの指さすほうには椅子がある。僕は椅子に座った。……ドスン!
「あっ痛ててっ!何だ?」
座ったかのような気がしたが椅子はチカチョによって引かれ、僕はそのまま倒れて尻餅を付いていた。座る瞬間に椅子を引く単純なイタズラにまんまと引っかかっていた。その椅子にはチカチョが座る。他に座れそうな椅子は一つも無く、結局僕は地べたで正座スタイルでチカチョの前に座った。
「発情した雄ほどみっともないものはないわね。隙だらけじゃない。少しは落ち着いたらどう?」
「も、申し訳ありません」
全く面目ないことだ。浮かれポンチもいい加減にしないといけないと反省する。
「まぁ。そこまで喜んでもらえるなら、こっちも嬉しくなっちゃうけどね」
よもやチカチョの口からそんな言葉が聞けるなんて。最初出会ったときはトンデモないやつだと思ったけど、今はギャップというか丸くなったというか。チカチョも可愛い表情をするようになった。そんなチカチョと一緒にいられて楽しさを感じ始めている。
「何ニヤニヤしてるのよ。気持ち悪い。そういうところが変態だって言ってるの」
……そんな気がしていたが、気のせいかもしれない。チカチョのドン引きした表情を見て、そう思った。先ほど可愛らしい表情はどこへやら。あの頃のチカチョに戻ってほしいと今では思う。
「どこまで話したっけ?そうそう。大事な作戦会議だったわね。誰かのせいで脱線転覆汽車ポッポじゃない」
「申し訳ございません」
僕は反射的に土下座スタイル。気になったが、脱線転覆汽車ポッポって何だろう?
「うんうん。調教の賜物ね。だいぶ身体に馴染んで来たみたいじゃない?その土・下・座・姿」
やっぱりトンデモないやつだよチカチョは!
「それで作戦会議だったね。ゲッケイジュの書の最大の難関は二つ。一つ目は濃霧の夜にしか出会えないゲッケイジュに繋がる通路の発見。二つ目は開かずの扉ね」
ゲッケイジュに繋がる通路は濃霧の夜という特殊な条件のもとに現れる。この通路に出会えなければゲッケイジュのある場所まで当然行けない。こればっかりは運の要素が強いらしい。毎年数百人という魔術師が探し回って、一人出会えるかどうかという確率だと言われた。何らかの法則性はあると思われるが、未だそれは解明されていない。だが何かしら法則性はあるはずだとチカチョは語る。
次は僕にも大きく関わる第二の関門。無事に通路を発見したとして、奥に進むと現れる開かずの扉だ。僕はこの扉を開かねばならない。
「バトーも聞いてると思うけど、この扉は一度も開いたことがない。著者マッザコですら扉を閉めただけ。それが本当に扉かどうかも分からず、もはや鉄壁に描かれた扉。バトーならこの扉をどう開けば良いと思う?」
「……え?それは僕に聞いてるんですか?」
「もちろん。困らせてやろうと思って」
イジワルが過ぎる質問だと思う。自分はすでに答えを持っているかの素振りを見せつつ、アイディアを要求するのだから。僕には皆目検討も付かない。
「奇跡を信じるしか方法はないと思います」
「奇跡?」
チカチョはキョトンとする。何を言ってるの?奇跡とかバカなの?そういう非現実的な回答なんて求めてないんだけど?という文字が顔に書かれているような気がした。今更余計なことを言わなければ良かったと後悔する。
「正解」
「……え?」
「正解って言ったのよ。私たちは奇跡に賭けるしかない。そしてこれが私たちが賭ける奇跡よ」
チカチョは一枚のカードを僕に見せる。そこには岩に刺さった剣のイラストが描かれていた。
「聖剣エクスカリバー。開かずの扉攻略に私が用意したキーアイテム。長い歳月をかけて、ようやく手に入れた最大の切り札」
聖剣エクスカリバー。伝説級の剣。アーサーが王となった証であり、王以外の者には引き抜くことは絶対に出来ない剣。
「開幕このカードを召喚するから、バトーはこの剣を絶対に引き抜いて。何が何でも」
「えぇ!本当に引き抜けると思ってるんですか?伝説級の剣なのに」
僕なんかがいくら引っ張って、すんなりと抜けるなんて到底思えない。それこそ奇跡に近い。勝率一パーセントにも満たない賭けだ。限りなく負けに近い。
「聞こえなかった?私が絶対って言ったら、絶対に抜くこと。わかった?」
チカチョはそういう性格だった。やるかやらないかではなく、やれ。
「……うぅ。善処します」
「は?善処します?国のお偉い連中みたいな言い方をするのね。私が欲しい返事ではないわ。もしかしてムチで言ったほうが分かりやすかったかしら?」
一瞬でも可愛いと表現した僕をとことん殴りたい。イエスを強要されている。今にもムチが声を上げそうだ。
「わ、私に任せてください。か、必ずこの聖剣を抜いてみせましょう」
「ふふふっ。よく言ってくれたわ!期待してるから!」
無責任な返事してしまったけれど、本当にこれで良かったのかと今更後悔し始める僕。重い重い責任がズッシリと僕に圧し掛かる。
「それにバトーは変身を一回残してるんだから、きっと大丈夫よ」
「……?」
チカチョには何か考えがあるみたいだった。
それから濃霧の夜を待ち、霧の出た夜には数百人の魔術師がランプ片手に夜な夜な出歩く。これはちょっとしたホラーだった。霧で視界は狭まれた中でたくさんのランプの炎のゆらめきが行ったり来たり。まるで冥府で迷う魂のようだ。
そんな中、僕たちも濃霧の夜を出歩く。地上は白い霧の中に沈む。空気中の酸素に色が付けばこんな感じに充満してるのではないだろうか。濃霧の独特な臭いを肌に感じる。
周囲は霧に覆われて一寸先が全く見えない闇の中を進んでいく。闇雲に歩いていると辺りに異変を感じた。いつの間にかどれだけ真っ直ぐに進んでも何もぶつからなくなっていた。町中であれば本屋の一軒や二軒にぶつかってにおかしくないのに。
きっとゲッケイジュに繋がる通路に足を踏み入れているに違いない。進めど進めど、あいかわらずの濃霧の中。真っ直ぐに進めているのか、戻っているのか、どこへ向かっているのか検討も付かなくなる。
「しかしこんな簡単に迷い込めるとは」
トゥの話によれば数百人の魔術師が毎年探し回っているというのに。
「魔道書は著者の主観が多分に含まれる。もちろん正確性に欠くものであったり、イタズラに混乱させる悪質なものであったり。
この書はマッザコの母が蘇りを拒否した後に書かれたもの。愛憎一体。愛が深ければ憎しみもまた深い。重度のマザコンだったマッザコの母への思い出が、あの書にたっぷりと記されていたわ。本当に気持ち悪い内容だった」
……気持ち悪かったのか。
「四十五十過ぎたおっさんがママに甘えちゃってさ。ママと手を繋がないとお買い物出来ないとか、毎晩頭を撫でられながら寝ているとか。そんな内容ばっかり記されていたわよ」
チカチョの苦労が身に染みる。思い出しただけで身はゲッソリと縮んだように見えた。
「魔道書とは一体何なのですか?何故そんなことを記す必要があるのですか?」
「本来魔術は自然界の法則をねじ曲げて実現するもの。火のないところに火を灯すとか、水のないところに水を流すとか。でも自然をねじ曲げすぎると自然破壊に繋がってしまうの。その代償に砂漠化した土地はいくつかあるわ。だから魔術を安易に扱わせないように、歯止めの一役を担っているのが難解な魔道書ね」
「つまり自ら枷を作っているわけですか」
試験や開かずの扉がコスト制なのもそういう理由で、自然破壊にならない限度値なのだろう。
「それで苦痛でしかないマザコン日記を追体験していけばある形状が隠されていたってわけ。この濃霧の中をママとの思い出の場所を正確な道順で辿れって困難極まる苦行だったわ」
チカチョは適当に歩いているようで、やはり法則性に従って歩いていたようだ。魔道書を読んでいない僕には何のこっちゃだが。ただ数百人の魔術師が挑戦しているのだ。その難易度の高さは予測出来た。
「今回マーキンのマーキングに頼って歩いてみたんだけど、成功したみたいね」
確かに視界の悪い中で目印は役に立たない。だからさっきから気になっていた臭いの正体はそれだったのか。
「ところでマーキンと言えばバトーを避けているみたいだけど何かした?様子がおかしいようだけど」
「僕は何もしていません」
強いて言うならデリカシーのない下着売場の店員さんに言ってほしいところだ。
「ふーん。聞いた話によるとデート中、嫌がるマーキンにエッチな下着付けさせてニヤニヤ見ていたらしいじゃない?」
「誤解です!そこは強く主張したい!僕は何も見ていませんし!」
誰に聞いたんだそんなデマ。紐リボンを付けている姿なんて見たことはない。チャンスはあったのにフラグをへし折ったのはチカチョ自身じゃないか。
「見ていません……か。まぁ良いわ。ところで私も同じ下着を買って付けてみたんだけど」
「え?あのおギンギンがギーンとなっちゃう紐リボンの勝負下着をですか?」
マジか。下着売場の店員さんおススメのあの下着を?
「あら?見ていないのに紐リボンだなんて、どうして分かるのかしら?まるで見てきたような言い方よね?説明してちょうだい。何故それを知っているのか?」
「……」
何だかハメられた気分だ。何故紐リボンとポロリと言ってしまったのかなバカな僕。後悔先に立たず。
「全く。エッチな下着がそんなに見たいなら、私が見せてあげるわよ」
チカチョはそう言って顔を背ける。はっきり聞こえたのに自分の耳を疑ってしまう。あまりにも唐突な言葉だったので、こちらが困ってしまう。
「な、何か悪いものでも食べたんですか?」
「なんでよ」
「そんなこと言うなんて天変地異の前触れでしょうか?もう世界は終わってしまうのでしょうか?」
「それがお望みなら吝かではないけど……天変地異がほしいの?どれくらいの規模で?」
「いえ、失言でした。天変地異は遠慮しておきます」
規模を聞いてくるなんて、範囲指定まで出来るのか。冗談なのか冗談じゃないのか。いやそんな話ではない。そんな話をしている場合じゃない。
「でも今回の頑張り次第かな。私の下着姿はお高いから簡単に見せるわけにはいかないし」
イジワルそうにこちらに視線を送ってくる。急にドキドキしてテンションが妙に跳ね上がる。
「それはつまりこの戦いが終わったら見せてくれるということですか?」
「何それ。この戦いが終わったら私に下着姿見せてもらうんだってこと?バトーにはぴったりな変態死亡フラグだこと」
そんな死亡フラグは嫌だ。なんて不吉な。
「もちろん死んでもらっては困るけど。でもそれでやる気が出るなら一肌でも二肌でも脱いであげるわよ。バトーにはそれだけ期待してるんだから」
……なん……だと?今なんと言ったんだチカチョは。
「ぬ、脱いでくれるとですか!」
「ちょっと待った!誰も全部脱ぐとは言ってないわ。あと変な口調になってるから」
「え?え?じゃあどこまでどこまでがラインですか?おっぱいは?……おっぱおゲボバッ!」
ドガン!
「落ち着きなさい」
チカチョの右ストレートが僕の鼻をへし折った。
「お楽しみは後でね?」
「……は、はい。ずびばせん」
鼻血を出して血の気が引いた。おかげで少し冷静になれた。
僕とチカチョは再び歩き始める。絶対にはぐれないように手を繋いで慎重に進んだ。それは長い旅路だった。道無き道を進んでいく。
チカチョの手のひらは僕以上にしっとりとしている。極度の緊張にやられて肉体的にも精神的にも疲労が溜まっているのかもしれない。これ以上無理させるわけにはいかないと僕は思った。
「おんぶしましょう。乗ってください」
「え?何?何か言った?」
僕は黙って背を向けてしゃがむ。
「体力に余裕があるので、どうぞ」
「な、何を言ってるのよ。バトーには聖剣を引き抜くという大役が残ってるでしょ?体力を温存しておかないと」
鼻をへし折ったくせに、その気遣いは今更だと思うけど。
「その前にチカチョ様が倒れてしまってはいけませんから」
「……バカ。余裕ぶったことを後悔させてあげる」
チカチョは静かに僕の背に身を預けてくれた。僕はチカチョをしっかりと支えて歩を進めた。
迷路には二種類ある。入り組んだ道を作り、進入者を迷わすもの。もう一つは何も遮るものがなく、同じ景色が永遠かと思うほどに続いて、ちゃんと前に進めているのか不安にさせるもの。砂漠や大海・深い山での遭難者なら体験したことがあるだろう。僕たちは後者の迷路に迷い込んでいる。
だが一人では進めなかったこの迷路もチカチョをおんぶしていることで不安を感じることなく進めた。この先にチカチョが求めるものがある。そう信じるだけで足は自然と前に出てくれた。
「あれ……ではありませんか?」
僕たちの前に鉄製の重厚な扉が、その姿をお披露目した。霧が少し晴れる代わりに扉の重々しさが強調されて目に映る。
「ようこそ。ゲッケイジュを求める者よ。この扉を開くことが出来ればゲッケイジュへ続く道が自ずと開かれよう……って私の話を聞いておるのか?」
チカチョは臨戦態勢に入り、カードの詠唱を開始している。
「うるっさい!マザコンが偉そうに。何様のつもりで上からものを言っているのかしら?」
「何だと!おのれ小娘!こういう戦い前のお約束は必要なんだからよく聞けよ!」
開かずの扉が怒っていた。戦い前のマナー違反をくどくど注意してくる。
「良いのでしょうか?そんな口を利いても」
チカチョを心配して声をかける。
「だってこの扉、偉そうなんだもん」
「偉そうって……」
叱っているのによそ見してしゃべるチカチョの姿に堪忍袋の尾が切れる開かずの扉。感情的な扉だった。
「ぐむぅ。ルール説明は一切なしだ!何も分からないまま追い返してやる!舞台は開幕する!」
まぁルール説明と言って、僕たちが得た情報そのままだったので聞かずとも分かっていた内容だったが。
舞台は切り替わり、扉を前にした一本道に立たされていた。扉はぴっちりと通路のサイズに合わさっている。隙間は当然見当たらない。通路も傷付けられるような素材で出来てはいない。素材自体は分からないが、黒色の大理石のような手触りだった。扉の反対側は闇に覆われている。きっと押し出されるとジャミングヒューズへ帰還することになるだろう。
「さぁこれより聖剣エクスカリバーを召喚するわ。バトー準備は良い?それを全力で引っこ抜いて、扉を破壊するのよ?」
「わっかりました!」
「行くわよ!聖剣エクスカリバーを召喚!」
周囲は光に包まれて聖剣エクスカリバーが突き刺さる岩が通路のど真ん中に鎮座した。その壮大な佇まいはあるだけで緊張感を生む。
「召喚ありあっシャーイーン!……んべっ!」
「悪いな。マスゴッド。今は構ってやれる暇はないんだ」
僕はボーナスついでに召喚されたマスゴッドを押し退けて聖剣のもとに登った。岩の頂上で静かに抜かれる人物を待っている聖剣エクスカリバー。
「ふぅ……」
一度大きく深呼吸。僕は持ち手をしっかりと握って渾身の力で引っ張った。僕はアーサー王ではないが、こいつを抜く必要があるんだ。自分にそう言い聞かせる。絶対に引き抜くんだ!
「ふっ!んぎ!ぎぎぎぃッギニャィヤーァスァシャーっ!」
全くもってビクともしなかった。
「あひゃひゃ。んびびびっ美乳好っきやっでっしゃーだって。何やねんそのかけ声は!びゃはははっ」
「笑ってないで、マスゴッドも手伝え!」
「ふっふっふっ。仕方がないなぁ。そんなもやしみたいな剣。わてがひょひょいのひょいと抜いてやるで!」
マスゴッドも加わり、二人で引っ張ることになった。
「んっとこしょ!どっこいしょ!んっとこしょ!どっこい……ンギャッボ!」
「どうした?マスゴッド!」
「腰がああぁ!ギッグ!と言いよったあぁ!ギッグリ腰やああぁ!あとは任せたで。わての屍を超えていけ。ガクリ」
マスゴッドの腰が悲鳴を上げた。蓄積された腰への負担が突如爆発し、強烈な痛みに見舞われる。こうなってしまえば、しばらく使いものにならない。マスゴッド即脱落。Mでも腰の痛みには勝てないようだ。
ピシャヒン!ムチの音が鳴る。
「さ。そろそろこいつの出番ね。よく聞きなさい、バトー。これから貴方の絶頂モードを私が引き出してあげる。恥も知恵もプライドも何もかも捨てて、私を受け入れなさい。私だけを感じなさい。私が必ず貴方を導いてあげるから」
僕の絶頂モード。これがチカチョが言っていた変身のことか。ならば僕はチカチョを信じて何もかも預けた。何も考えず何も感じず、ただひたすらチカチョだけに集中する。
ピシャンピシャン!背中はムチの踊り食い。痛みが痛みを越えていく。初めは耐えられなかったこの痛みも今となっては……まぁやっぱり痛いのは痛いのだが。しかし徐々に緩和されていく。バトルハイ。命の危機に晒されると呼び起こされる種保存の本能。身体能力と性欲とマゾヒズムが通常時よりも格段に強くなる。僕の欲求は無限に広がっていく。身体中が熱くなる。特に下半身辺りが。
僕はその間も必死で聖剣に手をかけていた。地に根を張る大木のように根強く存在する聖剣は一ミリも動く気配を見せない。
「どうして抜けてくれないんだ。僕たちの願いはこの聖剣には届かないのか……いや、そんなことはない!僕がきっと届かせてみせる!ンニャゴランチョチョメェーッ!ってんだチクショーッ!」
僕はビクともしない聖剣を再び引っ張った。引いても、押しても、捻っても、叩いても、蹴飛ばしても、キスしても、体当たりしても、くすぐっても、恋人のように腕枕しても、突き刺さった岩を掘ろうとしても、動かなかった。
「どうなってんだ!ンギャーッ!」
刻一刻と開かずの扉は迫ってくる。もう時間がない。
「ふひひひー。よくも私をコケにしてくれたな。お前たちは特別ペッチャンコにしてやるかんね」
ガコンガコッンゴ!
「なんだ?」
通路内が大きく揺れる。体勢を崩さないように揺れが収まるまでじっと待機する。
「ふへっへっへ。本来なら押し返すだけだが、行きも帰りも扉で塞いでやったぜぇ。これでお前たちは逃げも隠れも出来ずにサンドイッチだずぇ」
後方に扉が追加された。こちらも前面と同じ重々しい鉄の扉だった。
「何故このタイミングで扉を増やしたんだ!」
「なっ!……お、お前たちが俺の話を聞いてないからだろ!ンギャーンギョーとうるさいし!さっきなんて言ってたのか聞いてたのかよ!」
何故か開かずの扉が怒ってるみたいだった。
「……サンドイッチだずぇのところか?」
「もっと前だ!」
「……チャンコをやるから僕の家に来てね。待ってるから。だっけ?」
「全然違うわい!全く人の話を聞かないやつらだな!もう許さない!謝っても、だ!ぐおおおおーっ!絶対にペッチャンコにしてやるぅ!」
確かに聖剣に集中しすぎて開かずの扉の話は全く聞いていなかった。それに怒って開かずの扉はスピードを上げて前後から迫ってきた。
「くそっ絶体絶命か。やっぱり、ダメなのか……シャベボン!」
ピシャン!とムチ。
「諦めるなんて私のお許しも無しに選択出来ると思ってるの?ちゃんとやるべきことに集中しなさい!」
「わ、わかりました。わかりましたよ!フンフンフーンッ!」
だけど一向に抜けなくて。
「くぉー!」
迫る扉はもう目と鼻の先。そろそろ聖剣が刺さる岩を挟み始める。
「も、もうダメだーっ!……んおっ!」
ガッゴォンッ!と大きな音が鳴った。聖剣が刺さる岩を前後の扉が挟んだときに出た大きな音だった。
ガガガガギギギギィッ!
「バトー。耳栓よ」
「あ、ありがとうございます」
投げられた耳栓をすぐに装着する。耳栓をしていても聞こえてくる大音響。金属と金属が引っかかって鳴り響く不快音。耳栓無しでは、その激しい音に耳が潰れるだろう。
「み、耳が!耳が!あべべべべべっ」
マスゴッドは耳から血を吹き出していた。なるほどこうなっていたわけだ。しかしそのおかげで扉の進行はそこでストップ。岩で突っかかっている。少しの間なら時間的猶予が出来たはずだ。
「バトー!今のうちよ!」
「わかりました!」
僕は再び聖剣を掴む。このラストチャンスを逃すわけにはいかない!
「ぐぶるぅあ!」
手応えを感じる。扉が岩を挟んで圧迫し、小さな亀裂が生まれ始めていた。
「聖剣よぉ。抜けろおおおおおーっ!くぁああああぁーっ!」
……ズバァーンッ!
「抜けた?抜けました!チカチョ様!」
「……違うわよ。バトーのズボンが弾けた音よ」
「……うわあああああぁーっ!」
なんと力みすぎてズボンのお尻が真っ二つに割れていた。僕の下半身は丸出しになる。
「ぐぉおおあああーっ!お、おおおお尻がああっ!恥ずか……シャイイイイイーンッ!」
聖剣が抜けたと思ったのにズボンが破けただけという勘違い。恥ずかしすぎて死にたくなる!
そのせいで僕は発光した。自分でも不思議なくらいに発光しまくった。
「よ、ようやく来たわね!絶頂モード。バトーは恥辱に快楽を感じるタイプだったのね。道理でいくらムチ打っても絶頂しなかったわけだ」
「ひぃいいっ!お尻が!レフトヒップとライトヒップが顔合わせ!」
「あー!もうっうるさいわね。バトーのお尻がナンボのものよ!」
「で、ですが!……ヒップ!」
ピシャン!とムチの衝撃で尻肉が波打つ。
「こうすれば真っ赤なモンキーヒップの出来上がりよ!どうよ?恥ずかしいでしょ?」
「ひゃああああーっ!シャイーン!」
あまりの恥ずかしさにまた絶頂を迎える。チカチョの前でこんな痴態を晒すことになるとは!しかも発光色が真っ赤に染まる。顔も尻も絶頂光も赤一色に統一されて輝いた。身体中が燃えるように熱い!
「そこの赤いオケツ!そのまま行きなさい!」
「僕は赤いオケツではありませんんんっ!」
あぁっ!お尻丸出しで僕は何をしているんだろう!
「うわぁおおおーっ!」
ガッガガガガンッ!ガッシャン!
前後を挟む扉の力が岩に大きな亀裂を入れる。そこに僕の絶頂モードの力が加わり、とうとう聖剣は抜けてくれた!
「……ぬ、抜けました!抜けましたよ!せ、聖剣がシャ……シャイーン!」
感動でさらに真っ赤に光る僕。
「いちいち光るな!」
「さすがわての弟子やで。教えた通りのシャイーンを身に付けるとは……合格やで。バトー!お前にもう何も教えることはない!」
いつの間にか復活していたマスゴッドのサムズアップ……からのチカチョパンチ。
「アンバレロンデス……シャイーンッ!」
ドゴッ!殴られて倒されて落ちたマスゴッドの頭を踏み付けるチカチョ。いつもの流れで絶頂モードの輝きを放つ!
「何余計なことを教えてくれているのよ。とにかくおケツ赤いマンは早く!岩が崩れて前後の扉が狭まってるから!」
「おケツ赤いマン……うぐぐっ!必殺!抜けたよエクスカリバー記念斬りィー!早く終われえ-っ!は、恥かしいいいっ!」
開かずの扉に挟まれた通路はまばゆい光に包まれた。開かれた扉の隙間から光が元気良く飛び出していく。終わった。これで本当に終わった。
ゲッケイジュの書攻略はこうして僕たちの勝利で終わりを迎えることが出来た。
「これで僕もバトー=ラー=アーサー王を名乗れますね」
「調子に乗るな。開かずの扉の力も加わって抜けたも同然でしょう?なら無効よ。ノーカウントよ。バトーなんかバトー=ラー=恥ケツ王ね」
「ひぃぃいいいいいっ!シャイーン!」
頭から噴火寸前まで真っ赤に怒張する。恥かしすぎる。あんな情けない姿を見られたことに。恥辱だ!
「そんなに照れなくても良いのに。可愛いお尻だったわよ?」
「ううううううっ……シャイーンリターン!」
ボゥ!ボゥ!と僕は真っ赤に発光する。自分でもコントロール出来ないほどに絶頂を繰り返す。あぁ熟れたトマトのように顔がパツンパツンになる。
「バトーは恥辱責めに弱いと。ふふふっ。弱点を手に入れられたわ」
チカチョは悪巧みする悪い顔をする。知られてはマズい相手にバレた。弱点をネタにいじられる予感しかしない。
「それにしても驚くべきことは聖剣が刺さる岩に亀裂を入れた開かずの扉ね。こちらも伝説級の力だったってことよ。マッザコって一体何者かしら?」
「マザコンであることしか情報がないですね」
「……まぁどうでも良いか。私たちはそれを突破した。その事実だけで充分だわ」
「はい!」
チカチョの言葉で実感が持てるようになった。そう。僕たちは誰も成し遂げることが出来なかった開かずの扉を攻略したのだ。その偉業達成に心が躍る。身体の疲れも一瞬で吹き飛ぶというものだ。
「行きましょう!ゲイゲイジュツのもとへ!」
「ゲッケイジュね。ゲイ芸術って何よ。最後まで締まりの悪い男ね」
細かいことは気にせず、僕はチカチョの手を掴んで走り出した。扉の向こう側へ。
誰にも成し得なかった扉の開放。僕たちは閉ざされていた通路を抜けると、そこは夜空に綺麗な星たちが泳ぐ空の海が広がっていた。そこに一際大きくて青い惑星が浮かんでいた。
「大きな星ですね」
「あれは地球よ。私たちが立ってるこの場所は月だから」
僕は周りを見渡す。地面の表面は荒めの白い砂地が広がっていた。これを月の色と言われれば、そう見えるかもしれない。
「またまたご冗談を。月まで歩いてきたというのですか?」
「前半は本当だから不正解。後半は正解」
「……本当ですか?」
青い惑星を再び眺めてみた。美しい星。その表面には大きな海。白い雲から時折稲妻が鳴り響く。壮大すぎて言葉を失う。当たり前だがこんな風に地球を眺めたことなんてないのだから。
「……」
「感動するでしょ?」
「これは……すごい。すごすぎます」
あまりにも自然の偉大さにそんな言葉が出てくる。いや、他にこの感動を言葉にすることなんて出来やしない。僕はしばし青い地球を眺めていた。パワースポットとして、その力を充分に浴びた。月光浴ならぬ地球光浴。たくさんの地球力をもらったような気がした。
「ゲッケイジュ。月の大樹。別名は生命の樹。月は女性を象徴し、女性は生命を宿す」
チカチョが指さすほうへ顔を向ける。
「こ、これは……すごい」
僕たちが立つ月には、この世で見たことがないくらい青々とした瑞々しい大樹がたった一本、力強く月の地面に根を伸ばしていた。生命の神秘と称する他にないほど、ここに立っていられることが奇跡だと、自然にそう思えるほどの感動を受ける。月樹とはそんな大樹だった。
「生命が終われば土に還る。土に還った生命は樹によって吸い上げられて、新たな生命の糧となる。
このゲッケイジュに死んだ生命を吸わせると新たな生命の糧に変化してくれる。ゲッケイジュの書にはその糧を目的の母体に宿すことが出来るの。死者再生の秘術ではなく、再誕の秘術ね。完全ではないけど、今の記憶を保ったまま再び誕生することが出来る。
そういうわけでバトー?」
手を握るチカチョの手に力が入る。真っ直ぐな瞳を覗き込むと僕の顔だけを映していた。決心と共にチカチョは口を開いた。
「私は貴方を再誕させたい。貴方の魂をゲッケイジュに吸収させて、雫を生み、それを私が飲むことで貴方は再誕する。私の子供として」
「え?」
寝耳に水だった。何を言っているのか分からなかった。何故そんな提案をするのか。チカチョが蘇らせたい相手は僕だったというのか?確かに誰を蘇らせようとしていたのか全く聞いていなかったが、どうしてだろう?
「だってバトーは私のお兄ちゃんだから。今まで黙っていたけど私が妹のチカよ」
「え?ええええええーっ!」
寝耳に水。二滴目である。一滴目よりも心臓が飛び抜けてしまいそうなくらい驚いた。
「チカチョ様のほうが年上では?」
見た目からしてそうだった。百歩譲っても同年代だ。
「お兄ちゃんは長い間眠っていたから……お兄ちゃんの時間が止まっている間に私だけが成長していたって言えば納得出来る?」
「あ……」
簡単なことだった。死んでいる僕の時間は止まっていた。生きていた時間がない。当然身体も成長もない。代わって本来の時間の流れに生きてきたチカが僕より成長するのは当たり前なんだ。
「それならそうと先に言ってくれれば良かったのに」
「うん。でも今の私をお兄ちゃんが受け入れてくれるか不安だったから」
今でこそ受け止めることが出来るチカチョだが、出会った当初はどうだっただろう?妹として素直に受け止めることが出来ていただろうか。……いや、そんな自信はない。僕が抱く小さい頃の妹と今の成長像とはかけ離れている。きっと不信感を抱いていたに違いない。一度付いた不信感はそう簡単には拭えない。
「とりあえず事情は分かりました。しかし一体今まで何があったんですか?」
僕はチカチョ……もといチカの経緯を知りたかった。僕がいない間にどんな人生を送っていたのか。こうして生きていてくれただけでも充分感謝しなければならないのだが。痛い目や怖い目に合っていないか心配で仕方がない。
「あの後、お兄ちゃんが殺されて私が連れ去られそうになったとき、レディはすぐに助けてくれたの。だから私は大丈夫」
「レディが……そうか。それは本当に良かった」
レディには返し切れない恩が出来てしまったようだ。
「レディには感謝しているの。私を魔女にしてくれた。お兄ちゃんを生き返らせる方法を教えてくれた」
「僕を再誕させるために魔女に?どうしてそんなことをしたんですか?」
チカチョ改めチカは首を振る。
「うぅん。私は自分の選択に後悔なんてしていない。お兄ちゃんを再誕させるために魔女となって、ここまでやって来たの。その意志は今でも一欠片も変わってない」
チカはそう訴えかけてくる。必死に。
「私はお兄ちゃんを蘇らせたい。それだけ。それ以外に何も考えていなかった。それが今日叶う」
ぐぐっと接近してくる。その思いの強さは身体を通じて溢れ出ている。チカという滝に身体が浸っていく。
「うぅっ。わ、分かりましたから。少し落ち着いてください」
「あっ。ごめんね」
熱く語るチカは身を乗り出して迫ってくる。そのために僕は下で支えなければいけなかった。このまま押し倒されそうになる。それに気付いたチカは立ち位置を正して、コホンと一つ咳払い。再び僕に向き直った。
「それで……私が聞きたいのはお兄ちゃんが私の子供として生まれくることについて、どう思っているのか。お兄ちゃんの気持ちを聞かせてほしい。本当にそれで良いのかどうかなのを」
妹が僕を生む。妹が僕の母親になる。なんて特殊というかマニアックなシチュエーションだろうと思った。
「いきなりそんなことを言われてもピンと来ませんね」
「ゲッケイジュからお兄ちゃんの命の糧を私の卵子に受精させ、私の胎内の羊水で浸して成長させて、私とへその緒で繋がって養分を吸いつつ、最後は私の産道を通って再びこの世に産み落とされる。それで再び新しい人生が始まる。私と母子の関係でね」
ピンと来ないとは言ったが具体的に説明されるとリアルすぎて生々しい。
「脳が成長し、意識が目覚める頃には記憶も戻っているはずですよ」
大体の流れは理解出来たと思う。しかし何というか、大事なことをお座なりにしてトントン話が進みすぎてはいないだろうか。
「僕は……チカ様はどうなんですか?僕を生むことに。抵抗とかないんですか?」
「私は全くない。私は最初からそのつもりで今まで生きてきたんだし、今さら迷いも後悔もない」
「あ、そう……ですか」
チカの固い決意に揺らぎは一切ない。聞いた僕が空気読めてないみたいにはっきりとした口調でそう断言した。
「どうしてそこまで……」
チカが僕にどうしてそこまで執着してくれるのかが分からなかった。チカが人生をかけてまで責任を負う必要は全くないのに。僕が死んでしまったのは自業自得の力不足のせいだ。あの頃の僕はひ弱な子供だった……今も大して変わらないのだけれど。
「ぷっ……あはははははっ!あははははっ」
「え?何?なんですか?」
急に笑い始めたチカ。笑うポイントなんてなかったはずなのに。僕は分けも分からずに戸惑ってしまう。
「どうしてそこまでって。逆にここまで来て、今更辞めるなんて考えられないじゃない?まさかお兄ちゃんは私の気持ちを知った上で何もせずに帰るつもり?ねぇ?辞めるつもりなの?私がどれだけ苦労してここまで来たのかを知ってて」
チカはいきり立って僕に掴みかかってくる。首根っこがキュッと締められて、全身に緊張が走った。ぎりぎりぎりと気道が狭まって息が出来なくなる。頭に心臓からの輸血が間に合わず、また頭から心臓まで止血されて流れなくなる。頭がギンギンと鳴り、血管の中に針が流れてところどころ刺していくような痛みが続いた。
「あががっ」
プクプクと口の端に泡が溜まっていく。これはやりすぎだとトントンと手で叩いてタップアウトをするが、チカの手が緩むことはなかった。
「……がっくり」
「はぁはぁはぁ……っ。私はMンスターと関わりすぎて、こんなことで楽しくなる変態さんになっちゃったの。苦しむ表情を見てると堪らなくなる。イジメたくなる。それを知ってお兄ちゃんは私のことを軽蔑しないか嫌いにならないか、ずっと心配だった。こうしてお兄ちゃんを気絶させて喜ぶ自分を見てもらうのが怖かった。黙っておいても良かったのだけど。でもお兄ちゃんを蘇らせるためには本当のことを話しておきたかったの。お兄ちゃんには後悔してほしくなかったから」
僕に寄り添うチカ。チカの気持ちは痛いほど伝わってくる。苦しいほど伝わってくる。僕のためにここまで身を削ってくれたことを。きっと魔女になってここまで来るのに相当の苦労があったに違いない。
「僕は……どうなんでしょう。チカ様の無事も確認出来ました。僕が蘇る理由は……あるのでしょうか」
実は僕もチカに会うのが怖かったのかもしれない。僕はチカを守ってやれなかった。こんなダラしのない兄に幻滅しやしないかと。僕はチカに……。
「面目ないです。あのとき守ってあげられなくて」
「そんなのいいよ。仕方なかったよ。あのときは。私だってお兄ちゃんを助けられなかった。私のほうこそ、ごめんなさい」
「そんな。チカは何も悪くありません。……ただ守ることの出来ない僕が再びこの世に誕生したところで……何が出来るのでしょうか」
僕に蘇る資格なんてないんじゃないか。そんな不安に襲われる。
「だったら。私のために蘇ってよ。そして昔みたいに一緒に暮らそう?今まで私はお兄ちゃんのために生きてきた。なら今度はお兄ちゃんの番だよ。お兄ちゃんが私のために、私を幸せにするために生きてよ」
「僕が……チカ様を幸せに?……僕に出来るのでしょうか?」
「ふふっやるかやれないか、じゃないでしょ?」
「……やれ、ですか。幸せにする選択肢しか選べないのですね?」
「そういうこと」
僕は可笑しくて笑ってしまった。
「な、何を笑っているのよ」
強気なのか弱気なのか。我が儘なくせに、人一倍気を使う怖がり。これがチカが持つギャップであり、魅力なのだろう。今も感じている。チカは小刻みに震えているのを。不安に押し潰されそうになっているのを。そんなチカが愛しくて仕方がない。僕は迷わずこう返答していた。
「僕を……生んでほしいです。チカ様に」
単純にチカがそう望むのなら、それで良いのかもしれない。チカが幸せだと言うなら、ただそれに応えたいと叶えたいと思っただけだ。他に余計な言い訳は必要ない。
僕の返事を聞いたチカはこう答える。
「……絶対変なこと考えてから決めたでしょ?妹が母になるとかマニアックなシチュエーションだと思って興奮してるんじゃないの?相変わらず変態ね」
時間差で的確な指摘。そこでそのツッコミが入るとは思ってもみなかった。
「なっ!そんなこと!め、めめめ滅相もございません!」
「もう。お兄ちゃんは仕方ないなぁ。私が真っ当な人間になれるように、ちゃんと小さい頃から英才教育をしてあげなくちゃね」
「お手柔らかにお願いします。あっそれとこれを」
僕は懐から一枚のしおりをチカに手渡した。
「十歳の誕生日に渡せなかったプレゼントです。以前採ったタンポポを押し花にしてしおりを作ってみたのですが」
ジャミングヒューズは本の街。しおり作りの職人に頼んで見栄えの良いものを作ってもらっていた。
「……」
「気に入っていただけませんでしたか?」
「バカ。嬉しくないわけないじゃない。ありがとう」
「それでチカ様は何歳に……グェッ!」
「女性に年齢を聞くような無粋なマネしないわよね?本当に躾のなってないお兄ちゃんだこと!」
チカのボディブロー。全く無防備だった僕の腹を抉られて悶絶する。
「ぐふぅ……も、申し訳ございません」
「魔女には年を取らない秘術もあるから、正確な年齢なんてとっくの昔に忘れたから」
「あぶふ……は、はびぃ」
「でもプレゼントはありがとう。大事にするから」
生命の樹の側で横になると、僕の魂はじんわりと大樹に吸収されていく。根から葉に移り、滴となって滴り落ちる。その滴をチカは両手で受け止めて、こくりと喉を鳴らして飲み込んだ。僕はチカの中へ沈んでいく。ここで僕の記憶は終わるのだった。
次に目覚める頃には母になったチカと新たな生活が始まっているはずだ。それまでおやすみ。妹であり、僕の母となるチカへ。