3
このときの僕は、まったく心の準備ができていなかった。
このすこし前に僕の心は、――とっくに園にある僕の館の仕事場に舞い戻ってしまっていたのだから。
目の前に忽然と姿をあらわした噂の戦男神に、僕は仰天をかるく通りこして、ただただ目を瞠ることしかできずにいた。
――――しかも、やたら近いし!
そこで愚かしくも、やっと僕は気付いたのだ。
『破壊の神』に抱っこされているという、……ありうべからざる現実に。
理解したとたん、最前まで熱くてたまらなかった僕の体から血の気がひき、冷たい汗が背筋を伝った。
……リプエ神のほうでも、僕をじぃぃっと見ている。
――――そんなに見つめられたら。
あ、穴があいてしまいます。
目……目を逸らしたいけど、逸らせない……。
僕は完全に固まってしまっていた。
なんで、こんなとんでもない事態に陥ってしまったのか? さっぱり頭がまわらない。
けれどそんな状態でも目が慣れてきたらしく、影になっているリプエ神の相貌が見えるようになってきていた。
――この場合、できれば見えないままだったほうがありがたい、……んじゃないだろうか?
…………美形だ……。
とりわけ強烈な印象を放つ榛色の瞳にばかり目がいってしまうけど、吹き過ぎていった風にゆれる癖のある髪は綺麗な鳶色をしていて、精悍な顔立ちは意外なほどに整っている。
…………。
もっと、凶悪な面相の神を想像してた。……って、あわわ!
リプエ神の、ただでさえ眼光の鋭い目が細められる。
――――!
……なに? このタイミングで?
戦神は、こちらの心が読めるのか?
――総毛立つ、とはこのことだろう。
束の間気が遠のいて、全身の力がぬけた。
僕を抱える腕に、今までよりさらに強く力がこめられる。
はずみで、ひぃっ! と身をすくませた僕の顔は、ぶ厚く固いものにぶつかった。
…………。
熱い。それに、この臭い……。
……。
不快ではないけれど、ティリア様や姉様や、ほかの女神様達とは異質の臭い。
――力強い心臓の音……。
早鐘を打っている僕の鼓動とは、まるっきりかみあわない。
不協和音に息苦しくなり顔を持ちあげようとするのに、ふれている肌からじかに響くリプエ神の規則正しい音にひきずられるように、しだいに僕の鼓動が同調していく。
僕の体は、顔から熱さを取り戻していった。
そこで、ちょっと自分を取り戻す。
この状況は――――?
…………もしかして、失神しそうになった僕を、助けてくれた?
で、さらにもう一回、気を失いそうになってたよね、僕……。
もしかしなくても。……僕、とおぉっても、ご迷惑をおかけしてる?
僕がこれまでこんなに密着して接する機会のあった男神は、クリエ様くらいだった。
でもって、男神として標準の体型をしておられるクリエ様より、リプエ神はずっと大きい。
……こ、コワい……。
たどりついた結論に青くなった僕は、無意識にリプエ神の纏うキトンの胸元を両手で握りこんで引っ張っていた。
ややあって、それに気付いてますます慌てる。
もう。負の連鎖が止まらない!
「あ、あの……」
おろしてください……続けるはずだった僕の言葉は、おりてきた影に留められた。
なに? なんで暗くなった? どうなってんの……?
…………。
おそるおそる、僕は影をつくりだしている主を見上げる。
視線がかち合い、件の言葉は口をついて出る前にリプエ神に撃ち落とされた。
リプエ神の顔に、わずかだけど苛立ちが過ぎる。
彼は僕を抱きかかえたまま、大きく足を踏み出した。
ぐにゃり。
周囲の景色が歪む。
でもそれはほんの一瞬の出来事で、僕達は先ほどまでいた林道からまったく別の場所に移動していた。
視界に飛び込んできたのは、大きな樹影とその先に広がる清冽な水の煌めき……。
――空間転移?
話に聞いたことはあったけど、実際に体験するのは僕初めてだったりする。
なんでも相当エネルギーを消費するとかで、興味はそそられたけど体力に余裕のない僕には無理だ~っと思ってたから。
すごい! ほんとにあっという間に移動できちゃうんだ。
げんきんなもので、今度は僕は驚嘆の眼差しでリプエ神を見つめていた。
リプエ神の上体が僕にかぶさってきた。
……え?
すぅっと落ちる感覚のあと、足が、ついで腰が地面につく感触があって、僕は大樹の陰になっている草むらの上に静かにおろされた。
僕の頭のすぐ上にリプエ神の顎がある。
すこしでも僕が動いたら、ぶつかってしまう?
身動きできなくて、いたたまれなくて、目を彷徨わせる。
そうするうちに僕の目は、泉の青に吸い寄せられた。
瑠璃の宝石を溶かし込んだような深く澄んだ水の色。燦燦と降り注ぐ陽の光は、泉を囲む木々と水面の鏡に映りこむ緑を、あたかも紗をかけたかのように照らし出している。
ぬっと大きな掌が伸びてきて、僕の額にあてられた。
………………。
こ、今度はなに――?
体温がまたしても上がっていくのがわかる。
ここに来てからの忙しない体温の上昇と下降に、僕の体は悲鳴をあげていた。
大きくて厚い掌がはなれていき、それと同時にリプエ神は立てていた片膝を伸ばして僕の隣に座り直した。
彫りの深い横顔から伏し目がちにちらりとこちらを見ただけなのに、リプエ神の視線はほんとに心臓に悪い。
とにかく、お役目を果たさなくちゃ。
「あの、リプエ神ですよね。お初にお目にかかります。わたし、ミシュアと言います」
――あ。先に助けていただいたお礼を言うべきだった!
なんたる礼儀知らず。これじゃ話をきいてもらうどころじゃない。
僕は、急いで言葉を継ごうとしたのだけど――。
一瞬早く、リプエ神が勢いよくこちらを向いた。ずいっとリプエ神の顔が僕に近付く。
――――!
思わず後ずさろうとして、僕は自分の手にお尻をひっかけてしまうという大失態を演じた。
するとどうなるか?
バランスを崩して、後ろへ倒れこむ。
今日これで何度目? もうやだー!
リプエ神にすごい力で左腕を掴まれる。
痛い!
悲鳴をあげそうになって、僕はすんでのところでのみこんだ。
……痛い痛い。
――何度も助けていただいて申し訳ないんですけど、腕すごく痛いんですけど~。
僕、リプエ神にすっごい顔を見られてる。
…………。
腕は離してくれたけど、リプエ神が今度は左肩を掴んできた。
手を離したらまた倒れる、と思われてるような……?
いくら僕でも、そこまで危なっかしくはないと思うんだけど……。
……で、やっぱりすこし痛かったりする。
戦男神だけに、力ありあまってる感、半端ない……。
顔、近くて緊張する。この体勢、ちょっと……。
「俺は、ミシュア神に会ったことがあると思うんだが……?」
「……えっ?」
――――そうか!
リプエ神は、姉様に会ったことがあったんだ。それで、僕をあんなに見てたんだ。
合点がいって、なぜだか僕は無性に恥ずかしくなってきた。
僕の前に『運命の女神』であられた姉様……。
姉様は身内のひいき目を抜きにしても、とても美しい。
それだけに、『運命の女神』であった頃の姉様を知るこの男神に、彼女の現在の消息を知らせることははばかられた。
――――あ!
困った。……ことになった。
僕達の『代替わり』のことは、秘密にしておかなければならないのに。
どうしよう?
僕は『代替わり』のとき、姉様の交友関係についても覚えさせられたけど。
そのなかに、リプエ神は入っていなかった、はず。
……。
今さらそんなこと言ってても、はじまらない。
どうしよう?
リプエ神も『旧き神』の一柱なら、『代替わり』自体は、たぶんご存じのはず。
『ミシュア神』が代替わりしていた事実までは、ご存じではなかったようだけど……。
だったら――――。
僕は、リプエ神の知るミシュア神が、僕の姉であることだけを伝えた。
彼の表情が、驚きから沈痛なものを滲ませて歪む。
…………。
なぜ?
ただ、会ったことがあるだけの神に対して。
あなたが、そんなにもつらそうな?
なんだろう?
もやもやとした何かが、ひっかかってる。
リプエ神が垣間見せた表情が、気になって仕方がない。
……。
周囲に知られていないだけで、実はもう少しおつきあいがあったとか?
…………。
イヤだ!
姉様が、……そんな。
感情がたかぶって、呼吸が急激に早くなった。
胸もなんかむかむかとして、……気持ち悪い。
僕はなかば強引に話題をそらした。
「ご挨拶もかねて、様子を見てくるようにと言われてきました。……お会いできてよかった。いったい何日ここに通うことになるのだろう? って不安になっちゃってたところだったので」
おしまいのほうの僕の精いっぱいの冗談は、リプエ神に通じなかった。それどころか、かえってよけいなことを言ってしまったようだ。
リプエ神は不機嫌に、僕に告げた。
「じゃあ、もうこれで用はすんだな。少し休んで気分がよくなったらさっさと帰れ」
姉様の話では、あんな顔を見せたリプエ神が……。
意外にも親切な方だと思っていたのが、いきなり、――突き放された。
羞恥で体が熱くなる。
さっきの。皮肉に聞こえてしまったのかも?
冗談のつもりだったのに。
僕はただ、重くなってしまった空気を変えたかっただけなのに。
僕、バカだ。今度こそ、怒らせちゃった。
ちゃんとお礼も、言ってないのに。
体だけでなく目までもじっとり熱くなって、……薄い膜の張った僕の視界を、膜のせいでふくらんだ清冽な煌めきがうめつくした。
「はい。ではそこの泉で水浴びをしてから帰ります。なんか体が熱持っちゃってるみたいで……」
僕はもう、限界だった。とうに限界を超えていた。熱くて、たまらない!
早くあの綺麗な水に飛び込みたい!
早くこの熱から解放されたい。
早く体を、頭を冷やしたい!
熱くて、僕が僕じゃないみたいだ。
もう一度最初から、一からやり直したい……。
――どんなに、気持ちいいだろう?
僕は力いっぱい地面を押して反動を利用して、泉の畔の緩やかに傾斜した斜面を滑り降りていった。
熱でうかされた僕の耳に、ぼんやりとリプエ神の制止の声が聞こえた。
あぁ。ここはリプエ神の守る泉だった。
僕、またいけないことをしちゃった……。
そう気がついたときには、僕の体はもう足から泉に飛び込んでしまっていた。
ひんやりと冷たい水と白い泡が僕の体を包んで上がっていく感触が心地よい。
清らかな水が、熱だけでなく僕のなかにたまっていたよくないものも一緒に拭い去ってくれるような心地がする。
頭がすっきりしてきた。
目に映る光景の、なんて美しいことか……。
僕は呼吸の続くぎりぎりまで、幻想的な水のなかの世界に浸っていた。
一度浮上して、またすぐ潜った。水のなかのほうが気持ちいい。
……あ。でも。
裾の長いキトンが足元にまつわりついてきて泳ぎにくい。
水を含んで重くなってる……。
わ。からまってきた。
これ、ちょっとやばいかも?
肩でとめていたピンを外して体を横に回転させながら、僕は自分でも感心するくらい器用に水中でキトンを脱ぎ捨てた。
じかに僕の肌にふれる水の感触は最高だった。
体だけでなく心まで、この清らかな水に洗われている気がする。
始原の、聖なる泉……。
リプエ神の守る……。
泉の水が大きく揺れた。水面から出たばかりの僕の顔に、飛沫がかかり波が寄せてくる。
波をやりすごしたあとで、さっきまで僕達がいた木陰に誰もいないのを認めて、僕は慌てて周囲を見回しリプエ神の姿を捜した。
巨木の辺りにはいない。
ぐるりと泉の畔を見渡しても、それらしい姿は見当たらなかった。
だとしたらさっきの波は、やっぱり?
怒って、僕を捕まえに?
……今度こそ、ちゃんと謝ろう。
勝手に泉にはいってしまったことも――
僕はいつリプエ神が僕の真横に浮上してくるだろうと、ひやひやしながら待っていた。
…………?
リプエ神が水面に上がってこない?
まさか、ね?
……まさか?
………………。
天然の天窓から射し込む光を浴びてしばらく待っていたんだけれど、待っていたから実際よりずっと時間が長く感じられたのかもしれないけど、僕はいてもたってもいられなくなって潜った。
リプエ神は僕からご自身の体三つぶんくらい離れた水中にいた。
苦しそうでもなんでもなくて、僕は安堵した。
自分で顔がほころぶのがわかる。
近づいていった僕は、不意に彼に左腕を掴まれ水上へ一緒に引き上げられた。
――――!
突然のことにもがいた僕の右手は、水上に出たばかりのリプエ神に思いっきり水をぶっかけていた。
リプエ神が目を丸くしている。手の力がゆるんだすきに、僕は彼から逃れた。
リプエ神が顔を振って、僕に水をかけてやり返してきた。
僕も水を避けながら、反射的に水をぶっかける。さっきよりも強く。
また水がきた。
子供のころ、姉様達と遊んだ楽しい思い出がよみがえる。
いつしか僕は夢中になっていた。
こんなふうに遊ぶのって、久しぶり!
姉様も笑って、僕も笑って、みんな笑って。
みんなで楽しく、なにも考えないで……。
「こら! いい加減やめないか! しつこすぎるぞ」
すっかり童心にかえっていた僕は、懐かしい水遊びに夢中になりすぎていたらしい。
僕をたしなめる声のあとに、リプエ神の一薙ぎで、とんでもない大波が僕におおいかぶさってきた。