カモミール・スパイ
あたしが正式なスパイとなったのは、中学三年生の夏休みのことだ。それまでの名を捨て、《スパイ・カモミール》となった。
あたしの住む六階建ての雑居ビルには、カルチャースクールが入っている。
――新しい趣味を始めてみませんか? 個性を伸ばす指導でメキメキ上達できます。
そのような謳い文句で様々な教室が開かれ、「陶芸」「社交ダンス」「着物の着付け」「手作り味噌教室」なんていうのもある。
そして、
《スパイ養成講座》
というものが誕生した。読んで字のごとくスパイを養成するもので、潜入、尾行、調査。ジェームズ・ボンドのあれだ。あたしはスパイに憧れていたこともあり、その講座に飛びついた。
少し考えてみればわかる。人は、生まれたときからスパイだ。この、住み辛く、息苦しい世の中に潜入するように暮らしていかなければならない。スパイの自覚のない者は、やがて社会に抹殺される運命が待っている。抗え。抗う。抗いたい。あたしは最後まで生き抜きたいとおもう。
あたしと同日にスパイ養成講座を受講したクラスメイトの男子がいて、偶然、あたしと席が隣り合わせになった。
「瀬木君……。こんにちは」
挨拶はしてみた。
彼の姿は、このカルチャースクールで度々見ていた。瀬木准一君。優男と言ったら悪口になるかもしれないけど、ジャニーズばりの好男子で、はにかみながらあたしの隣にちょこんと座っている。あたしはまったくときめかなかった。なぜなら、彼はすでにスパイであったからだ。とっくにこのカルチャースクールに潜入していた。
少し説明しよう。あたしは、ずっと学校へは行っていない。不登校というやつ。
『教室が無理なら別の場所へ……』
という、担任の女教師の勧めで、保健室登校は時々している。あの、世知辛い世の中の集合体、三年C組に行かなくて済むし、出席したことになるから卒業もできる。勉強は教科書があるのだから一人でも問題ない。
『学校の誰かが怖い?』
女教師はあたしがイジメられているとでも思ったのかそう言う。そうではない。しかし、外れているとも言えない。あたしは人と口を利くのが苦手で、全員からイジメを受けているとも言える。所詮、人の集団はスパイの集合体。それぞれが敵だから。
カルチャースクールには『月曜無料デー』というものが設定されていて、毎週月曜日には、どこかの教室が無料開放されて授業を受けることができるから、あたしはその無料デーを狙って授業を受けていた。その日は、スパイ養成講座の初日の上に無料デー。そこに三年C組の回し者、瀬木准一君が現れたのだった。
「や、やあ……。こんにちは」
隣に座った彼は、俯き加減で顔を真っ赤にしている。まるでゆでダコ。
「お腹でも痛いの?」
「……ううん。大丈夫」
恥ずかしいのか、あたしと目を合わせずに頷く。
彼はあたしのクラスの学級委員長で、クラスのリーダーだから、不登校を続けるあたしを登校させるために、このカルチャースクールによく顔を出していた。『月曜無料デー』にあたしが出没することを知っていて、偶然を装って、あたしと接触する機会を伺っていたのだ。そして、ついにあたしと隣り合わせになることに成功した。
「あたし、今更三年C組の教室になんて行けないよ。受験勉強だってあるんだから、あなたもあたしにかまわないで」
「そうだね……」
話がわかっているのかいないのか、彼は恥ずかしそうに頭を掻いている。
講師がやってきて、スパイ養成講座の最初の授業が始まった。少し緊張する。ついに本格的なスパイの一日が始まる。
一、チームワークの大切さ。
二、目立つなかれ。
三、タフであれ。
四、臨機応変の判断力。
講師が、そういう順番でスパイについての講義をする。無料デーというのは、道具の準備にお金を掛けない。授業は合計三時間。このスパイ養成講座も話ばかりだった。スパイというか、社会人のための常識みたいな話がほとんどで、《スパイ》を掴みにしているだけのくだらない講座……。あたしは、この講座に期待していただけにがっかりした。
しかし、最後の一時間に逆転劇が始まる。
「私の暗号名はターメリック」
と、講師が名乗ったのだ。
「ターメリックと呼んでください。敬称は身分がばれるので必要なし」
授業が二時間も過ぎてから自分の名前を名乗るとは、さすがスパイ講師。
そのターメリックと名乗った中年の男性講師は、ポケットからピッキングツールを出した。その針金のような工具を、キラリと頭上にかざしてあたしたちに見せる。次に、ドアノブの展示品のようなものを机の上にあげ、ピッキングツールを鍵穴に入れて開錠する。講座を受講した十人ほどの生徒は息を飲んだ。これは、スパイというよりは泥棒の技ではないか……。
「コツを掴めば誰でもできます。じゃあ、そこのお嬢さん、やってみる?」
ターメリックはあたしを指名した。名前も意味不明で胡散臭いけど、見た目も胡散臭い。四十二歳と自己紹介し、白髪の長髪。その白髪に真っ赤なベレー帽が乗っていて、画家のコスプレをしているような不思議な見た目だった。
「そうそう、手首を捻る感じで押し込んで」
ターメリックは、あたしの手を握ってコツを教えてくれる。最初は上手くいかなかったけど、力を抜いて彼の動きに身を任せると、ガチャリと鍵は開いた。
「うん。そんな感じ。今度は一人で」
「そんな……」
できるわけがない。しかし、やってみたら鍵はあっさり開いた。押し込んだ二本の針金にバネの手ごたえを感じ、それを押し込んで抑えるのがコツだ。他の生徒もターメリックにコツを教わって鍵を開けようとする。でも、だれも開けられない。そしてあたしが再度挑戦すると、鍵はガチャリと開く。なんて気持ちのいい……。
講義の最後に、ターメリックは参加した生徒の全員にコードネームを付けた。あたしのコードネームはカモミール。《スパイ・カモミール》の誕生だ。ちなみに、瀬木君のコードネームはサフラン。
「委員長……いいえ、サフラン、あなたも本当のスパイになったね」
あたしは可笑しかった。あたしを学校に引っ張ってくるつもりでカルチャースクールに潜入していた彼が、本当のスパイになった。
「僕、委員長じゃないよ」
「二年生のときは学級委員長だったよね? あたし、二年生の時もあんまり登校してないから、そういえばよく覚えてない」
「そうなんだ……」
さらさらとした前髪が瞳を隠すように揺れ、髪の間から見える大きな瞳がきらきら光っている。きっとモテるんだろうなあ、と思ったけど、女の子みたいな綺麗な顔で、間違って男に生まれて戸惑っているようにも感じた。彼は、そんな戸惑いの照れ笑いをいつも浮かべている。
「二年生のときは学級委員長だったよ。でも、あれは僕が学校を休んでいたら、勝手にそう決まっていたんだよ」
「勝手に決まってたの?」
「こまっちゃうよね……」
彼はあたしに見つめられて恥ずかしいのか、顔を隠すように額をぽりぽり。イケメンで優等生。当然、学級委員長も立候補。瀬木君……いいえ、サフランのことをあたしはそう思っていた。でも、ぜんぜんちがった。二年生から学校を休みがちだという。
「あたしと一緒?」
「もしかしたら、三年生でも学級委員長かもしれないけど、僕は学校に行ってないから、どうなってるかわからないんだよ」
「学校に行ってないの? 三年生になってから一日も?」
「三年C組なのは知ってるけど、君とまた同じクラスなんだね? ああ、君っていうか……カモミールだっけ、君のコードネーム」
彼は、照れながらも一生懸命な感じで話す。
さすがに驚いた。サフランの家はこのビルの裏のアパートで、極度の緊張症で口下手なため、それではいけないと、人と会って話しをする訓練でこのカルチャースクールの無料デーを狙って受講しているとのことだった。
「それじゃまるで……」
あたしと同じではないか……。
人との会話が苦手で、少しでも得意にならないかと考えてあたしはここにいる。せめて、高校生になるまでに少しは改善したい。ここは大人ばかりで、なんとなく安心感がある。それにしても、サフランが三年生になってから一日も学校に出席していないなんて。もう、夏休みではないか。二年生のときに学級委員長になったのも、イジメの一種のようだ。
「お母さんは僕に、『中学生の演技をして学校にいきなさい』みたいに言うんだけど、僕って大根だから……」
サフランは照れ臭そうに首を傾げて頭を掻く。その仕種が可愛くてドキッとした。
「今はもう、子役をやってないの?」
「……うん。あれは小学校までだったから」
サフランは、子役をしていたと聞いたことがある。教育テレビで体操のお兄さんの隣で踊っていたり、ドラマにも出演したらしい。
「子役時代はスタジオで大人相手に仕事をして、みんな優しかったから大人は安心できるんだけど、子供ってなんというか残酷で、『ヘボ』とか『調子に乗るな』とか学校で言われてさ。それから、なんというかその……」
「イジメられるようになったの?」
「そんなかんじ」
「ふーん」
色んな人生があるものだ。サフランの疲れた若い笑顔は、パッケージ変更のあった古いお菓子のような寂しさがあった。まだ消費期限は切れていない。けれど、周りの変化が飲み込めず、自分だけが古い衣をまとって戸惑っている。そんな感じ。
「このままじゃいけないとは思ってるんだ……。よかったら、三年C組のことを僕に教えてくれない? そのうち出席しても、どこに席があるのかもわからないし」
「……うん。出席するときは席を教えてあげるね」
とは言ったが、あたしも学校に言ってないから自分の席がどこにあるのかわからない。ただ、保健室登校はしてるし、C組の様子を担任にはよく聞いていたので彼よりは詳しい。担任から彼の元にもよく電話が掛かってくるようだが、母親が会話をするためにあたしとは情報量が違うようだ。
「ありがとう」
サフランは安心したような溜息をして微笑んだ。匂うような可愛い笑顔……。いちいちドキッとさせて、さすが役者である。……いいえ、元役者か。あたしのスパイとしての勘だけど、彼が女の子にモテて、それを気に入らない男子生徒が彼をイジメたのだろう。引っ込み思案の性格にも付け込まれたに違いない。
スパイ養成講座は週二回。あたしとサフランは、それからスパイ養成講座の受講生となった。
「中学生は珍しいから、一期だけ無料で受講できるんだよ」
受講するお金がないというので、あたしはスパイらしくサフランに嘘をついた。
「今なら、一期三ヵ月が無料。だから一緒にスパイ養成講座に行こうよ。あたし、このビルのオーナーの娘だから、他にも無理が利くし」
本当の話に嘘を織り交ぜた。本当は、そんな特典はない。あたしが陰で月謝を払った。無理をしたけど、学校に全く出席していないというサフランのことが放っておけなくなった。
「あの……あのさあ……なんというか、その……」
彼は、極度の緊張症のため、彼が話し始めると落ち着いて話せるようにあたしは笑顔で、縁側のお婆ちゃんが日向ぼっこをするような気持ちで気長に待った。最初はキョドる彼に「がんばって……」などと声援を送っていたが、そうするともっと緊張してしまう。どうしてこんなんで子役など務まったのかと思うが、こんなんだから務まらなくなって辞めてしまったのだろう。
ある日、
「潜入してみようか」
と、あたしは彼を学校に誘った。
「ねえサフラン、行ってみる? 勇気があればだけど」
「うん」
とは言ったが、その整った顔は見る見る青くなった。
「学校が怖い? 死刑台でも、上がるときには上がるのよ」
「う、うん」
彼の恐怖を量るつもりでオーバーに言ったら、今にも気を失いそうに口をぱくぱくさせている。そこまで学校が怖いのか……。付きっきりで守ってあげなければと思った。
約束の日の午前九時――。学生服を着てサフランは待ち合わせの神社に現れた。場違いな日光に二人は照らされている。授業中のこの時間に、外を歩いてる中学生などあたしたちくらいだ。
「サフラン、行くよ」
これは出席ではない。学校へ潜入するのだ。
サフランは死人のように青い顔をして小刻みに震えている。気持ちはわかる。二日三日学校を休んだわけではない。ずっと学校を休んで違和感ばかりの場所に顔を出すのだ。生徒たちの好奇や冷たい視線。どれもが怖い。
「なによ、臆病者」
と、あたしは言った。
彼の性格的に、応援されるとプレッシャーになるからだ。負けず嫌いなところがあるから、こういう声援の方が効果的だとおもう。……あたしはとっくに気付いていた。彼の性格はあたしとそっくりなのだ。それに輪を掛けて派手にしたような心の弱さを持っている。だから、放っておけない。
「いっしょに来たの?」
保健室に行くと、養護教諭があたしたちを見て不思議そうな顔をした。
「いいえ、偶然です……」
サフランは、はにかみながら答える。スパイは他人に任務を教えない。
こうして、彼の保健室登校が始まった。教室に行けない不登校の者は、このようにして出席日数を稼ぐ。何だかずるいようでもあるけど、一瞬でも学校の門をくぐれば、学校は出席としてカウントしてくれた。先生たちは優しかったり説教をしたり、どれも予想のつく態度だけど、生徒たちは予想がつかない。だいたいは、あたしたちのことを否定的に見ているのではないか。そういう視線が怖くて仕方がない。だから、休み時間に当たらない時間を狙ってあたしたちは保健室に登校した。
あたしたちは、お互いの家を訪問して勉強を教え合うようになった。ほとんどあたしが教師役だけど、彼は数学が得意で、それだけは教科書の問題をすべて終わらせていたので、あたしの数学の先生になってくれた。スパイはチームワークが大切というもの。サフランは、あたしとならば普通に会話ができるようになっていった。
「――こんなものを見つけたんだ」
随分早めに来たスパイ養成講座の教室で、彼がターメリックの机からある物を発見した。あたしたちは暇だから、いつも出席が早い。早めに来て、サフランと会話をするのがあたしの楽しみになっていた。
それは、くしゃくしゃの紙袋に包まれたピストルのようなもので、ターメリックの机が開いていて、これがはみ出していたという。
「重い……これってまさか」
本物のピストル? それを持ってあたしも驚いた。銃口がぽっかり開いて、黒々と不気味に光っている。
「置いてくるよ」
サフランは顔面蒼白でピストルを紙袋に詰めて机に戻す。その時のスパイ養成講座の授業は、その紙包みのことが気になって頭に入らなかった。授業が終わり、机に戻ったターメリックをこっそり観察していると、あの紙包みをあたりを見回して取り出し、黒のバッグの中に大切そうに仕舞った。いつもの優しい感じはその佇まいから消え、目を細めて凄みのある顔をしている。見てはいけないものを見てしまったようだ。
「後をつけよう」
どこにそんな勇気を隠していたのか、サフランは講義が終わると怖い顔であたしに言った。
「ターメリックを?」
正直、わくわくした。尾行の仕方も講義で教わった。二人組で距離を取って追えば、目立たず見失うこともない。街中なら絶対に尾行がばれない自信がある。
街中に出てターメリックを付けると、さすがにスパイの先生だけあって、道の角にくるたびに後ろを振り返ってなにかを警戒する素振りを見せた。そういう歩き方が癖になっているようで、さすが……と、あたしは思った。尾行を気にしながら歩くのは、あのピストルが本物であることを予感させた。
あるアパートの二階の一室にターメリックは入った。自宅だろうか。
「カモミール、どうする?」
アパートを壁越しに覗いてサフランは言う。
「もう、帰ろうよ」
これで終わりだ。ピストルなどどうでもいい。もしもビルで発砲事件でもあって警察に事情を聞かれたら、あの偶然見たピストルのことを話すかもしれないが、今はどうすることもできない。今、警察に通報して、あれがおもちゃなら赤っ恥だ。
がちゃりとドアが開く音が頭上でして、あたしたちはアパートの階段の裏に隠れた。カンカン足音を響かせて誰かが降りてくる。ターメリックの足が階段の隙間から見え、そしてターメリックはどこかへ歩いて行ってしまった。
「ねえ、どうする?」
「どうするってなに? ターメリックがいないうちに部屋に入るの? 入ってどうするのよ」
「変なものがあったら警察に言おうよ。あの人、ちょっとオカシイんだよ。ピストルとか本物を買う機会があったら絶対に買うと思う。スパイ養成講座だって、元は本当のスパイだからやろうと思ったんだよ。今も闇の世界と繋がっている」
「たしかにあの人はオカシイけど……」
それはあたしも否定しない。でも、オカシイのがあの人の魅力でもある。人に迷惑を掛けなければ、違法な物のひとつくらい持っていてもいい。そのくらいに寛容な気持ちがあたしにはあった。あの人は、あたしの勘だけど、人に迷惑はかけない。尾行をして家まで突き止めて、その家の中に侵入して警察沙汰にするのには抵抗があった。
「僕は、どんな悪でも許せない」
きらきら光る瞳でサフランはあたしを見つめる。一人で階段を上がって行くサフランの背中を追って、あたしも足音を鳴らさないように階段を上がった。
アパートは、築四十年はたっていそうな古い物で、使われていない古い洗濯機やガス台などの粗大ごみが通路の隅に放置してある。通路も古く、歩くとギシギシという不気味な音を立てた。
ターメリックの部屋はその通路の一番奥にある。表札に田伏と書いてあった。
「あの人、田伏っていうんだ」
そうあたしが言うと、
「偽名に決まってるよ」
と、サフランは笑った。少し嘲笑な感じが混じって、サフランは、ターメリックのことをすでに犯罪者のグループに仕分けしたようだ。
「この鍵……」
あたしは、自分の財布から針金で作ったピッキングツールを出した。この鍵は開けられそうだ。教室にある物と同じタイプで、自分用のピッキングツールを針金で作って何度も練習していた。
どきどきする胸を抑え、あたしは鍵穴に二本の針金を差し込んだ。
「ちょっと待って」
サフランは電気メーターを確認した。
「メーターはゆっくり回って待機電力しか使われていない。やっぱり誰もいないよ」
こくり、と頷いてあたしは針金に伝わる感触に意識を集中させた。サフランが壁にもたれてスマホで誰かに話すふりでドアノブの横に立つ。あたしの手元を隠している。
カコッ……と音がして鍵が開いた。時間にして二分ほど。早い時は三十秒で開けられるので、もっと練習が必要だと思った。ドアを静かに開けて顔だけ入れて聞き耳を立てる。生活臭が鼻をつき、人の部屋に忍び込む緊張感に襲われる。人の気配はない。
「サフラン、靴を脱いでね」
「うん。足跡を付けると侵入がばれるからね」
サフランは、真剣な顔でアパートの部屋を見回った。あたしも、念のためお風呂場やトイレを覗いて確認した。台所の食器を見れば一人暮らしだということがわかる。意外と綺麗だ。お茶漬けの素やカップラーメンが几帳面に揃えて置かれていた。
「なんだよ、これは……」
見てはいけないものをサフランが発見した。
箪笥を開けて、衣類の下にそれはあった。あの紙袋に入ったピストルだ。それだけではない。そのピストルと同じ場所に、ビニール袋に包まれた白い粉がでてきた。その砂糖の袋ほどの包みが、何個も出てくる。あたしは、ここにいてはダメだと思った。
「も、もう行こうよ。これは見なかったことにしよう。ピストルはおもちゃで、この白いのは砂糖かもしれない」
「砂糖のわけない」
「塩かも」
「調味料をこんなところに入れないよ。でも、確かめてみる」
怖い顔をしてサフランはビニールの包みの端を少し開いた。
「だ、だめだよ、破ったらばれちゃう……。それに、授業を聞いてなかった? 青酸カリとかならどうするの。舐めたらすぐにあの世行きだよ。覚せい剤みたいなやつでも、舐めたら身体が変になっちゃう。もう帰ろうよ。これは、警察に宅配便で届けよう」
「それは手遅れだよ」
「なにが?」
「さっき、警察に連絡したから。もう、来るんじゃないかな」
「さっき? あたしが鍵を開けてるとき、本当に電話してたの? 警察に?」
それは気の早い……。
そのとき、数人の足音が扉の外でして、三人の男たちが部屋に乗り込んできた。先頭はターメリック。部下のような男も見たことがある顔で、スパイ養成講座を何度か受講していた生徒だった。あの教室が悪者のたまり場になっていたのだ。ターメリックは懐からピストルを出してあたしたちに向けた。
「俺が尾行に気付かないと思ったのか」
にやり……と、不敵に笑う。
「こ……」
ターメリックがなにかを言おうとしたその瞬間、パトカーのサイレンがけたたましく聞こえた。
まさか、ここには来ないだろう……。
ターメリックがそんな顔をして、眉尻を下げてサイレンの音を耳で追う。サイレンの音がどんどん大きくなって、アパートの前で消えた。パトカーがアパートの前で停まったのだ。
「こんな危険もあるかもしれない。そう思って僕が通報したんだ。部屋の番号も警察に言った。もう、お前たちはおしまいだ」
正義感満載の顔でサフランが言った。
「にゃっ……」
ターメリックは悲鳴のような変な声を上げた。事態の急展開に対応できないように男たちは左右を見てあたふたする。
「にゃんだって……!? これは、ちがうんだ。警察なんて呼んだらシャレにならないだろう!」
蒼白になってターメリックは言った。そうだ、シャレなんかじゃない。弁解は警察で言ってくれ。
二人の警察官が、
「どうしました?」
と、部屋の扉を開けると、
「ちがうんです! ちがうんです!」
と、ターメリックたち大人はおろおろして警察に弁解を始めた。
「ちがうんです! ほんの冗談だったです。遊びなんです。ドッキリなんです。あっ……このピストルもおもちゃです!」
ターメリックは引きつる笑いを顔中に広げて警察にピストルを見せている。
……ああ、でもその慌てるターメリックの言葉で、すぐにあたしは事態が飲み込めた。スパイ養成講座で勉強したことを応用した仕掛けで、あたしたちが教室でピストルを見つけるところから、ターメリックのその仕掛けが始まっていたのだ。
種に気付くと、知っていたような気さえするから不思議だった。そうだ、あたしが開けることができる鍵なんてほんのわずかの種類で、それがこのアパートの扉に使われていることがそもそもおかしかった。尾行、ピッキング……。どれもあのスパイ養成講座で教わったものだ。あたしたちは、まんまとドッキリに引っ掛かったようだ。
「あはははっ!」
あたしは大声で笑った。とにかく笑って、警察にターメリックたちが叱られるのを防いでやろうと思った。サフランは、キョトン顔で事態がいつまでも飲み込めてないような顔をしていた。
この一件は、ターメリックたちが警察に呼ばれてこっぴどく叱られることで終了した。スパイ養成講座の楽しい卒業式の予行……のはずが、サフランの通報で大騒動になってしまった。でも、彼は全く悪くない。むしろ正義感と勇気の塊の彼に、あたしはさらに引き付けられていったのだった。
二学期の後半から、あたしとサフランは三年C組の教室に登校するようになった。
サフランを卒業させ、進学させるためにしかたがない。彼は出席日数が足りないから、あたしが彼に付いて卒業式まで面倒を見るしかなかった。スパイは仲間思い。
教室に登場したサフランを、クラスの女子たちが物珍しそうに囲む姿が毎日のように見られた。彼が女子に囲まれて、はにかんで笑う。意味がぜんぜんわからない。あの笑顔は、あたしだけに向けられるものではなかったのか。それに、スパイは目立つなかれ。彼はそれを忘れている。
「もう、コードネームで呼び合うのを止めない?」
放課後、一緒に帰るためにサフランの席に行ったらそう言われた。
「……そうね、クラスのみんなに潜入がばれたらまずいものね」
「そうじゃなくて、もうこんな遊びはお腹いっぱいかなって。だいたい、あそこで付けられたコードネームって、ほとんど料理で使うスパイスの名前でしょ? スパイの名前にスパイスってなんだか……」
サフランは、情けないような笑顔を浮かべている。
「うん。じゃあ、あなたは今日でスパイを辞めるのね。そうだ、いつかあなたの席を教える約束だったよね? はい、ここがあなたの席だから」
ぱん、とあたしは机をたたいた。
「しってるよ……」
あたしの剣幕にサフランはおろおろした。あたしがそれを聞いて笑うと思ったのだろう。名前なんて関係ない。人は生まれたときからスパイなんだ。馬鹿にしないで欲しい。
「僕だけスパイを辞める……?」
「あなただけ足を洗っても、べつに殺したりしないから安心して。あたしの中では死ぬけどね。さようなら……」
「えー? なんだか、一人で辞めるのは寂しいような……。僕も、もうちょっとだけ続けようかな」
「人は、生まれたときからスパイなのよ。そういう緊張感がなければ生きていけない。だから、あなたが辞めても、あたしは一人でスパイを続ける。あたしは、死ぬまでスパイ」
「あはっ、僕も辞めないよ。まだ作戦の途中だし」
「作戦?」
「君に好かれる作戦」
「あたしに……?」
それが告白なのか、あたしを鎮めるための意味のない咄嗟の言葉なのかはわからない。可愛い顔でサフランは笑っている。彼の笑顔は皮膚では受け取れない。身体の芯まで突き刺さってあたしの心を揺さぶる。彼は、すでにあたしの心への潜入に成功していた。