枇杷の木
私の住んでいた家の庭には大きな枇杷の木が立っていた。
不思議と他の木や花とは距離が空いた場所にそれはあり、五月の初めにはやや小振りながらも実をつける。
枝葉は手入れされていない為、伸び放題になっていて、庭の塀に重そうに覆いかぶさっていた。
父はよく、枇杷の木の下では遊んではいけないのだと幼い私達に言い聞かせていた。
中学校を卒業するころに父が他界したので、本当のところ、その理由は今も分らない。
だがなんとなく、庭の一角の光を遮り暗くしている枇杷の木に対して、私は嫌な感じを覚えていた。
母は、私と弟を女手ひとつで育てるために、近くの工場で働いていた。昼間は、私が弟の面倒を見ることも多くなり、それは私が京都の専門学校に通い出すまで続いた。
ある夏の晩、母が仕事でいなかったので、私と弟はリビングでテレビを見ていた。
部屋の窓をすべて開けると心地よい風が吹いてきて、暑さはまぎれた。
「お母さん、今日も遅いんでしょ」
と小学三年の弟が言った。
「うん、たぶん深夜になってからだって、だから先に寝な」
「まだいい」
弟はまだ、母と一緒の部屋で寝ていたので、私はそれで寝たくないのだろうと思っていた。
「一緒に寝てあげようか?」
「嫌だ」
テレビのボリュームを控えめに下げて、私たちは小声で話した。
「お姉ちゃんは怖くない?あの枇杷の木の下に幽霊がいるんでしょ」
私はなんとなく、嫌な場所だと思っていたので弟にはそう説明していた。実際に幽霊を見たことなんてなかったが、洗濯物を干しているときや、ぼんやりと庭を眺めていると、時折何かがそこに居るような気がしていた。
「大丈夫、あんたが何もしなかったらアレはそんなに悪いものじゃないって」
「でもね、さっき何かが居た気がしたんだ」
枇杷の実はすっかり地面に落ちて腐敗していたが、その香りは嫌でも風に乗って漂ってくる。
「気のせいよ、そんな事言ってると本当に何かが出るわよ」
弟が一人で眠るのが怖くて、そんな事を言っているのでは無いことは分かっていたし、私自身も何か不安を感じていた。
その時はテレビのボリュ−ムを上げて誤魔化したが、その気配は母親が居ないことによって増しているように思えた。
リビングに居るのが辛くなると、私たちは母親の部屋に籠った。二人で丸まってタオルケットに包まると母親の匂いがした。
それに母の部屋には仏壇があって、父親の写真と位牌もあった。
「お父さんが守ってくれるよ」
私がそう言うと、弟は少し安心して腕の中で寝息をたてていた。
私は不在の家と弟を守るつもりで、ずっと庭を睨みながら起きていた。
枇杷の木から何かが来るという予感はあった。それが何か分からなかったけれど、私は眠らないように努めた。
窓からは熟れ過ぎて腐り、虫の湧いた枇杷の甘ったるくて不気味な匂いがしていた。
しばらくすると、玄関の方でガタガタと扉の音が聞こえた。
内心、母親の帰りを待ちわびていた私は弟を起こさないように玄関に向かって
「お母さん」
と叫んだ。
しかし、何やら鍵をガサガサするだけで母親が入ってくる気配はない。
痺れを切らして迎えに出て玄関の扉を開けた。
しかし、そこに母親の姿はなく、表に出ても見当たらない。
私は、扉を開けてしまった事を酷く後悔した。
急に枇杷の香りが強くなり、あたりに濃厚な何かの気配が充満した。
しまった、弟が……。すぐに母親の部屋に戻ったが、そこに弟の姿はない。
弟が消えた事に対する恐怖よりも、弟を奪われた事に、そして目を離してしまった自分に腹をたてた。
靴も穿かずに庭に走り出て、枇杷の木を見た。
いつの間にか嫌な気配は消えていて、そのかわり弟も見当たらない。
「弟を返してください」
声を絞り出して、枇杷の木にむかって叫んだ。
「弟を返して」
すると空が僅かに明るくなり始め暗かった庭にも光が射した。
だが、枇杷の木の下にはどんよりと闇が広がっていた。
私は躊躇わずに両手を深淵に押し入れた、潰れた枇杷の果実の感触が不快だったが、朝日が私に力を与えた。
やがてそれは私の腕を飲み込み、肩まで達した。
手ごたえを感じて掴み、引きずり出す。そんな勇気がこの体のどこからくるのかわからないくらいに私は必至だった。それから弟を抱いて部屋に戻った。
母親が帰ってくるまでの間、私は何をしていたのか思い出せない。
弟は何も覚えてはいなかったが、枇杷の木を見ると酷く怖がった。
あまりに弟が枇杷の木を恐れるので母は業者を呼んでその木を切った。
それからすぐに、私は高い熱を出し病院で点滴を受け、その日のうちに家に帰ることができた。母親は枇杷の木について何も知らなかったが、昔からこの土地では子供のできない夫婦が枇杷の木に願うと懐妊するという話や、枇杷の木を庭に植えると流行病が増えるとも言われているらしい。