廃墟社宅・二階
腐ってぼろぼろになった枯葉を踏みながら、勇樹は氷雨と共に二階に上がった。
本当に、ここで自殺などあったのだろうか。それを確かめる術を勇樹は持っていない。だが、何とも言えない薄気味悪さだけは、不思議なほど肌を通じて感じることが出来るのだった。
階が変わっても、部屋の配置はまったく一緒だった。直線状に六つの部屋が並んでいて、端まで行けば階段がある。このアパートは三階建てなので、この階だけ上にも下にも階段が伸びていた。
「姉ちゃん、噂の部屋ってどれ」
「わからない。二階、としか聞いてないから」
氷雨は肩をすくめる。勇樹は物寂しく並んだドアに目をやって、自殺が起こったという部屋はどれだろうかと考える。それがわからないまま入っていくのが、急に嫌になった。早く帰りたい。その思いが強くなる。
「とりあえず手前から入っていくか?」
「なあ、どうせ二人で入ったって一緒だし、分担して見てこうぜ」
そうしたら早めに帰れるだろうと思っての発言だったが、氷雨はそれを聞いて少し驚いたような顔をした。
「構わないけれど……お前、勇気あるな」
「名前が勇樹で勇気なかったらそれこそ失笑もんだろ」
それもそうだなと氷雨は笑った。
「じゃあ私がこっちの三部屋を調べるから、残りは任せるよ」
「了解。お互い、おかしなことがあったらすぐに呼ぶってことで」
勇樹は氷雨にひらひらと手を振り、階段から数えて四つ目の部屋へと向かった。
ノブをひねる。そのまま手前に引くが、扉は動かない。押してみても、やはり動かなかった。壊れているのだろうか。何度か押したり引いたりして、懐中電灯を床に置き、壁に足を押しつけて両手で引っ張ってみたところで諦める。許可なく他人の建物に忍び込んだ上に壊したりしたら洒落にならない。
「まだ中入ってないのか?」
次の部屋に行こうと思った所で、既に一つ目の部屋の探索を終えた氷雨ががちゃりと戸を開けて出て来た。
「うっせえな。入れなかったんだから、しょうがねえだろ」
まるで恐がってなかなか入れずにいたようにも見えるので、勇樹はばつが悪くなる。わざと乱暴な口調で言い捨て、急いで階段から五つ目の部屋の前に立った。今度はあっさりと扉が動く。
天井に雨漏りの痕と思われる黒い染みがあること以外は、一階で見た部屋と大差ない様子だった。キッチンを覗いてみれば、流し台に茶碗が重なっている。かつての部屋の主が皿を洗っている幻影が見えたような気がした。
勇樹は居間の黒いしみを見上げ、そして見下ろす。そこだけフローリングが腐っていて、踏んだら床が抜けるのではないかと思った。勇樹はこの部屋が噂の出るという部屋なのかと辺りを観察するが、それらしき印象は受けない。物音もしないし、怪しい影もない。適当に歩きまわって、この部屋も出た。
次は、一番端の部屋だ。
勇樹は反対側の階段の側にあるその扉の前に立ち、中に入ろうと考えた所で、突然ここに入るのは嫌だなと思った。自分でも突然だと感じたので、勇樹は戸惑う。何故そう思ったのだろう。
勇樹は姉がいるはずの方向をちらと窺う。そして気付いた。恐らく姉も今頃は三つ目の部屋にいるはずだ。姉から何の音沙汰もないということは何も起こらなかったということで、つまりまだ調べていないこの部屋が例の部屋だという可能性が高いということだった。
ばかばかしい。勇樹は大きく息を吐く。何か起こるなんてそんなことあるわけがないじゃないか。
不安を振り切るようにして勇樹は最後の扉を勢いよく開き、ずんずん中に入っていった。
部屋に足を踏み入れた所で勇樹は拍子抜けする。びっくりするほど他の部屋と何も変わらなかったからだ。とはいっても、かつての住人の持ち物はそれぞれ全然別のものではあったが。少なくとも自殺を思わせるような痕跡は一切なかったのだ。
そうだ。あくまで噂にすぎないと、氷雨は言っていたではないか。やはり人が住まなくなった廃墟社宅を題材に、面白おかしく幽霊話を作り上げて噂を流した輩がいたのだろう。何だ、と勇樹は笑みをこぼす。
「結局幽霊なんて、嘘っぱちなんだな」
口に出すと、思った以上にほっとした。その理由は考えないことにして、安心しながらふと窓に目を向ける。
ガラスの向こう、床すれすれの場所から目が二つこっちを見ていた。
うわっと叫び声を上げて勇樹は懐中電灯を取り落とした。何だあれはと考えるのと同時に心臓の動きが早くなる。一瞬しか見えなかったが、あれは絶対に目だった。暗闇の中にぽつりと二つ光を放っていて、真ん中には黒い瞳孔もあった。だが、どうして、こんな人もいない部屋のベランダの、床近くに、目があるのだ?
勇樹は凍りついたまま、逃げることもできずにいた。動いたら、向こうも動くかもしれない。そう思うと指先一つ動かすのも躊躇われる。
だが、同時にあれが一体何なのか確かめたい、という期待もあった。本当に幽霊なのか。幽霊は、存在するのか。見間違いなのか。逃げ出したらわからずじまいになってしまう。幼いころ見たあの白い手と同じになってしまう。
勇樹はそろそろと屈み、懐中電灯に手を伸ばした。光の筋を暗闇に伸ばしているそれをゆっくり掴み上げ、窓の方へ忍び寄る。こつこつと靴が床を鳴らす。心臓がどきどきして破裂しそうだ。ぐっと息を止めて、光をぱっと目があった辺りに向ける。
勇樹は目を丸くした。
猫だった。
黒猫だったから目しか見えなかったのだ。光っていたのは猫の目の反射構造によるもので、一瞬しか見えなかったのは勇樹が懐中電灯を落としたことで反射する光がなくなったからだろう。
「やっぱ、幽霊とか嘘っぱちじゃん……」
ただの猫にびびっていた自分が非常に情けなくなって、誰かに言い訳でもするように、勇樹は独り呟いていた。