廃墟社宅・一階
「遅いぞ勇樹」
顔を合わせた途端、氷雨は眉を寄せて勇樹に文句を言った。
「仕方ないだろ。苦情ならまんまと騙してくれた神谷に言ってくれ」
「ああ神谷くんか。そういえば、同じ高校になったんだっけな」
お前たちはつくづく縁があるなと氷雨はにやにや笑う。
夏城氷雨は五つ上の実姉だった。小さい頃からどこか浮世離れしたような妙な存在感があり、悪く言えば少し変わっていた。その彼女が執心している趣味に付き合わされては、勇樹はよく寝不足になっている。
「また心霊スポット巡りですかオネエサマ」
「よくわかってるじゃないか。感心だな」
「姉ちゃんもよく飽きねえなあ……いつか本当に幽霊に遭っても知らないからな、絶対」
「幽霊だったらいいさ。もし生きてる人間がいたらそっちの方が困るだろう」
「そりゃそうだけど」
深夜にひと気のない廃墟に入り込む人間なんて、どんな輩かわかったものではない。もちろん、目の前にいる姉を除いてだが。
「こういうときの為に私は免許を取ったんだ。喜べ勇樹、私のそれなりに乗り心地のいい中古車に乗せてあげよう」
「はいはい感謝感激ですよ」
ノリが悪いぞと言ってむっとする姉を流し、そのそれなりに乗り心地のいい中古車に乗り込んだ。助手席に腰を落ち着かせひと段落した所で氷雨も運転席に座る。
「ま、とにかく出発だ出発」
ラジオのボリュームをひねって大きくすると、氷雨はうきうきした表情でアクセルを踏み込んだ。
二人が目指したのは家から一時間くらい車を飛ばしたところにある街中だった。信号で止まり、曲がる度にウインカーのカチカチなる音がしていたが、段々とそれさえもが子守唄に聞こえてくる。勇樹はあくびをした。そうしてうとうと眠ったり起きたりを繰り返していたが、車が動かなくなり、静かになったことでようやく身じろぎする。エンジン音がしなくなると途端に静かになり、周りから夏らしい虫の声が降ってきていた。
「あっ、あれだ、あれ! あそこ!」
氷雨が興奮した声音で片手をハンドルから軽く離し前を指差す。
「あの建物だよ。私が探してたのは」
勇樹は少し身を乗り出して、氷雨の指差す先にじっと目を凝らした。街灯の薄暗い明かりしかないとはいえ、何も見えない。だいたいここはどこなのだろう。狭い二車線の道の片側、塀の途切れた場所に鬱蒼と木が茂っている。
「建物なんかあんの?」
「さっき見えたじゃないか。間違いないよ」
そんなことで言い合っていても埒が明かないので、二人は車を降りた。そして塀の中に入れば案外目の前に目的地はあった。入口に植えられた木のせいで見えなかっただけだったのだ。
それはかなり古いコンクリート固めの三階建てアパートのようだった。ただ、むき出しのコンクリートに古くなった時特有の不気味な黒い汚れが浮いていて、人が住んでいそうな様子はない。窓は割れていているが、暗いせいで良く見えない。近所の人はこんなものがあって良く我慢できるなと思うが、このアパートの向かいは工場になっている。それにこれだけ木が覆い隠して見えなければ、有ってもなくても一緒程度の存在にはなるのかもしれない。
「これが目的の廃墟?」
見ているだけで帰りたくなってきた勇樹が興味の無い声で尋ねる。しかし、氷雨の興奮はそれくらいでは冷めたりはしない。
「そうとも! こりゃまた良い感じに風化しているな。よおし、早速行くぞ」
遠足に行く小学生のように、いそいそと懐中電灯を鞄から引っ張り出している姉の様子に呆れる。あーあと溜息をつきながら、自分も懐中電灯を受け取り姉に続こうとした。そのときだった。
「あ……」
氷雨が、急に立ち止まった。
「どうしたんだよ、姉ちゃん。行くんじゃなかったのか?」
訝しく思いながら隣に並ぶと、氷雨は存外に真面目な顔をしてゆっくりと勇樹の方に顔を向ける。
「何か……聞こえなかった?」
「え?」
何も聞こえてなどいない。強いて言えば葉の擦れる音がするが、それを指摘するのは今更すぎる。
「別に? 空耳じゃね?」
「うん……お前に聞こえなかったならそうかもしれないな」
引っかかる言い方だ。だが、氷雨いわく「私よりお前の方が霊感が強い」とのことだから仕方がない。とはいえ、勇樹は霊的な存在を信じているわけではなかった。
深夜の、ひと気がない廃墟を、小さな懐中電灯一つで進んでいけば、『あり得ないもの』を見聞きしても不思議ではないと思う。闇に対する恐怖、人間の住む世界ではない場所に招かれずして入り込んだことへの後ろめたさ、孤独に対する怯え。そうしたものが、五感を鋭くさせ、ちょっとした小さな物音さえ、恐怖に変えてしまう。ここは怖い場所なのだという先入観が、何でもない暗がりさえ不気味な闇に変えてしまう。
そうして結果的に『幽霊』というものを認識してしまうのだろう。
「行くぞ。入口はあそこだ」
「はいはい」
半分取れかかった扉を引いて、二人は中に入った。
それなりに有名な心霊スポットらしく、そこかしこにスプレーで落書きがしてある。今日、そういう連中と鉢合わせなくてよかった。仮にガラの悪い暴走族だったら、勇樹一人で氷雨を守りきれるとは思えない。
「足元、気をつけろよ。BB弾が落ちてる」
「うわ、ほんとだ」
氷雨が床を懐中電灯で照らすと、薄い茶色の弾がいくつも散らばっていた。心霊スポットは昼間においてはサバイバルゲームの穴場だと聞いたことは確かにあるが、もっと広い廃墟でやるものだと思っていた。うっかり踏んで転んでしまわないように気をつけながら、勇樹は奥へと足を進める。
扉が六個ほど並んでいて、右端には階段がある。茶色い土と落ち葉で、薄汚れていた。だが登るのに支障はないように見える。勇樹は隣に立つ氷雨の方に顔を向けた。
「とりあえず、下から見て行こうか」視線を受けて氷雨は言った。
中はめちゃくちゃだった。自分の懐中電灯で適当に減らせば、黄色く変色した紙が散乱していたり、割れた陶器の皿がいくつも転がったりしているのが目に入る。足元に転がっている不気味な色をした液体の入ったペットボトルの口に、タバコがいくつもねじ込んであった。
壁紙はとっくの昔にはがれてしまったらしく、黄ばんだ白い紙が壁際にぼろぼろ積み上がっている。柱の向こうに、別の部屋の荒れた様子が見えた。
「どうしてこんなに物があるか、気になるんじゃないか?」
「まあ、確かに……引っ越したなら、もっとすっからかんじゃないとおかしいよな」
氷雨は床の欠けた茶碗を足の先で転がしながら、勇樹の方を振り返る。
「このアパートな。本当はある小さな企業の社宅だったんだと」
そして、壁にかかった数年前のカレンダーを照らした。「まあ多分この会社だと思うけどな」
そう言われて目を向けると、どこかの会社の名前が下の方に入っていた。
「これはあくまで噂だけど、この会社の中で何か事故があったらしいんだな。それで会社自体ぐちゃぐちゃになってしまって、結局倒産した。それで社員はほぼ全員夜逃げしたそうだよ」
「ほぼ?」
その言葉が引っ掛かって勇樹は聞き返した。氷雨はすぐにはすぐには答えない。今までの呑気な態度とは打って変わって、無表情に重い口を開いた。
「……一人、自殺した」
その瞬間、周りの闇がぐっと迫ってくるような錯覚に襲われた。途端に息苦しいほどの圧迫感が勇樹を四方から取り囲む。
「というのは単なる噂に過ぎないけどな。嘘かほんとか私は確かめてない。だいたい、こういう廃墟にそういう噂の一つや二つ、ない方がおかしいくらいだし」
ただ、会社が倒産したのは本当だ、と氷雨は付け加える。部屋の様子からして、勇樹にもそれは納得できた。
「さて……一階の探索はこれくらいにして、二階に行こうか」
勇樹がろくに部屋を調べないで立ちつくしているうちに、一通り部屋を調べ終わった氷雨が、ドアノブを掴みながら勇樹に笑いかけた。
「ちなみに、その噂では自殺があった部屋は二階ということになっている」
それが氷雨の冗談なのかどうか、勇樹にはわからなかった。